第四話-2
「まさか、本当に来るとは思わなかった」
帝国に降り立って早々、帝都を行き交う人々を眺めながら、細川は隣に立つ零火を見て呟いた。
「一応言っておくが、俺は帝国公用語を知らない。ただ来ただけだ」
「え、異世界のご都合主義は?」
「あれは転生者の特典だ。俺たちのような旅行者には適用されない」
「今更そんなことを言われても……」
そもそも日本語と英語と帝国公用語を全て使いこなすことなど不可能だ。日本語と英語の文法形態が大きく違うように、第一世界空間の言語と第二世界空間の言語には大きな壁がある。細川に関しては、第二言語である英語すら危うい。「なんとなく」で英文を読み書きする彼は、度々単語の意味を取り違え、頓珍漢な訳が完成することもある。これについては彼の驚異的な直感力──通称主人公体質──の効果範囲外であるらしい。
ただ当然、あてがないわけではない。
「まあ通訳なら──」
「私が」
「ボクが」
「「………」」
細川の両肩を占有するラザムとライが同時に名乗りを上げ、細川は計算違いに、零火は意外な立候補に、それぞれぽかんとする。とくに細川にとって、共和国にいながら日本語を解したライはともかく、ラザムの自推が想定外に感じられたようだ。零火に関してはそもそも異世界の存在自体つい最近になって知ったことであるので、大天使と大精霊が通訳を買って出ること自体、不思議に思ったようだった。
「まあ、多い分には別にいいか……」
そう呟いて、細川はコートに仕込んだ魔道具に触れた。中級悪魔と戦って倒すための道具だ。こたつに始まり、細川の魔道具研究はそろそろ半年に渡る。実のところ、細川にはのんびりと旅行だけを楽しむような余裕はない。無論旅行というのはただの衣というわけではないが、彼には今回、ある任務が与えられていたのである。
先日の公安騒動の後、戦争を終えた後についてぼんやりとこぼし、ホンダ・S2000の車内でそれを聞き逃さなかった『白兎』が、それなら、と不気味なくらい上機嫌な笑みとともに手を叩いた結果なのである。「異世界一周旅行」という間の抜けた連語自体彼女の発案であり、つまりこれも、しっかり任務のうちであった。
ライ・零火の取り合わせと一時的に別れ、ラザムと並んで帝都を歩く。そもそもの話、異世界と言いつつ人間の姿がほとんど同じであるのが不思議だった。やはり進化の神は同じなのだろうと考えられるが、細川自身は神々から受ける仕打ち──主として運について──を思い出すと、とても感心などする気にもならない。「愚かな神々よ」というのがいつの間にか口癖になったことでもあり、「死んだら殴る、などと悠長なことは言わぬ。今すぐ呪う」という物騒なことを言い始めて既に半年は経過していた。最近幸運に感謝したのは、魔力使用者に選ばれたことくらいなものである。やれやれ、とため息のひとつもつきたくなり、彼は三秒後にそれを実行した。だいたいそのときだ、帝国公用語らしき言葉で喚く、女性の声が響いたのは。
「なんだ?」
「ひったくり、みたいなことが起きたみたいです。犯人はあの男性でしょうか……あ、捕まりました。保安省の職員がいたようですね」
細川の疑問に、ラザムが彼の腕にしがみついて背伸びをしつつ、通訳と実況と解説を同時にやってのる。気になったので現場に近づいてみると、ひったくりらしき男が両手足を金属製(のように見える)の枷で固められ、地面に転がされていた。継ぎ目が見えないところを見ると、職員が魔道具を使ったか、或いはより直接的に、魔術でも行使したのだろう。魔術大国の中枢なのだ、当然と言えば当然かもしれない。逮捕の判断も妥当というところだろう。
……男がそのまま、大人しく転がされていたのなら。この男は、初級の魔術魔法である銀魔力で枷を破壊し、ナイフを振り上げた。保安省の職員が動くが、男の方が僅かに早い。
彼は何かを喚くと同時、野次馬の最前列に出ていた細川──の横に立っていたラザムの華奢な身体を乱暴に掴みあげて、人質としてとったのだ。安っぽくも陳腐な手だが、古今東西有効な策ではある。しかし本当に、今回は相手の運がなかった。「愚かな神々よ」という台詞を、細川が伝授してやりたくなるほどに。
「チェックメイトだな。確かにヘイローがなければ、この子が天使だとは思うまいよ」
狼狽の気配もなく肩を竦め、瞑目して首を振った細川に、男はどうやら不審なものを察知したようだ。彼は恐る恐る、左腕に抱えたラザムを見下ろし──、
「ラザム」
細川の静かな声に、ぴくりと動きを止める。
「──五秒以内に制圧しろ」
次の瞬間、己の身に起きたことを、男は数分の一も理解できなかったことだろう。




