第六話-9
──ふと、目を覚ました。どれくらい眠っただろう。ふと、寝る前にトイレに行くことを忘れていたと思い出した。これは問題だ。下手をすれば惨事になる。
「寒い……仮想空間って、気温下がるのね」
たしか、今の仮想空間は通常世界の対応地点と気温がリンクするようになっていると、今朝の細川が言っていた気がする。この気温で毛布もかけず、空調設備すら使わずに眠るなど、本当に今日の自分はどうしたのだろう。
鞄に入れていた懐中時計を取り出し、時刻を確認すると、まだ一一時三〇分。二時間も寝ていないようだ。この短時間で寝返りでも打ったのか、服が少しだけ乱れている。
「そろそろ先輩も寝たのかな。とりあえず、トイレに……」
行こうとして、ふと気づいた。──どうして、暗闇の中、針の発光しない時計が見られたのか? 遅すぎる疑問と、当たり前のように起きている現象に気付き、零火は震えた。
「え──」
光があった。どぎつい、青の光だ。
明るさは常に増減するが、時計が見れる程度の明るさは保っている。この光は、何か?
定番のパターンは、屋敷に住み着いた亡霊というものだが。
「いや……ちょっと待って、なんでこっちに来るの? やめて、来ないで……!」
一度可能性に行き着くと、もうそれにしか見えなくなってくる現象が起こる。これが何なのか冷静に考えているような余裕はない。じりじりと近づいてくる光から逃げるように、床に座り込んだまま、零火は後退する。彼女は、心霊現象が苦手なタイプだ。
「来ないで……来ないでよ……、なんでこっち来るの!?」
涙目になりながらさらに後退し、ついに零火はドアに背中をぶつけた。そして意を決して立ち上がるとドアを開け放ち、外へ飛び出す。
助けを求めて喚き、一〇メートルほど走ったところで、
「騒ぐな」
という冷静すぎる一声とともに、何かにぶつかって再び尻もちをついた。
──いや、正確には捕まったと言うべきか。何か、というのが何かわからず、零火は身を強ばらせる。
「俺だ。零火、一体何を怯えている?」
「先輩……?」
声の主が細川であることを確認し、彼女は恐る恐る顔を上げた。そしていつもの呆れた風な顔を見ると、急にどこか安心した気がして泣き始め、尻もちをついたまま、思い切りしがみついた。電車が分岐を通過しようとスケートリンクで片足立ちをしていようと、バランスを崩さなかった細川が、つい体をふらつかせる。
「ふと目を覚ましたら、青い光がふわふわ飛んでるんですよ。もう直感的に亡霊だと思って、それがこっち来るから……」
「いないじゃないか」
「でも、部屋にはいたんですよ!」
「一体、普段どれだけ行いが悪いとそんな夢を見るんだ?」
「先輩も知っての通りで……」
「普段の行いが悪いのは否定しないのか」
いつもなら否定して斬りかかっているところだ。
どうやら雪女であることも忘れた様子、余程怖い思いをしたのだろうと、泣きながらしがみついてくる零火を、細川は優しく頭を撫でてやる。
そして、ふと泣き止んだ。当然、細川は不審の思いで眉を寄せる。
「トイレ……」
「は?」
ぽそりと、小さな声で零火は呟いた。
「トイレ行こうとしてたんだった……先輩、ちょっと付き合ってください」




