第三話-3
たかだか一分程度の時間だったはずだ。その間、一切の気配なく忍び寄り、大天使のラザムに抵抗すらさせず、彼女を連れ去ることが、果たして可能なのか。
否、可能か不可能か、ではない。起きている事実が全てなのだ。つまり、そのような現象は起こす術があるということに他ならない。
細川は、自分の顔から血の気が引いていくのを自覚した。周囲を確認する。人が隠れられる障害物はない。その見通しの利く砂浜に、人の姿もほとんどない。僅かに数名いる海水浴客も、少女一人誘拐して逃走するような素振りはない。ラザムの姿を隠すことができるような大荷物を抱えた者もなく、本当に忽然と、ラザムが姿を消したのだ。
「天使の子、どこ行ったんだ?」
立花が問いかけてくるが、そんなことは細川の方が知りたい。自発的に姿を消したのならば、まだいい。その場合、ラザムが無事である可能性は充分にある。問題は、何らかの外的要因により、意図せず姿を消した場合である。波に呑まれた訳ではないだろう。それならば相応に高い波がテントの傍まで迫っていたはずだ。ということは、何者かがラザムを連れ去った可能性の方が有力である。
「だが、大天使ともあろう身が、そう易々と攫われるものだろうか」
確かに大天使は、飛行と転移魔術以外は魔力使用者の指示なく使わないということになっている。だが逆を言えば、飛行と転移魔術に関しては、特に魔力使用者が何も言わなくても使うことができるはずなのだ。その二つがあってなお、簡単に大天使を捕獲することができるだろうか。それも、細川が目を離した一分の隙で。一切の気配も悟らせず。
「俺たちの方に全く気配を悟らせない、結界みたいなものが張られていた可能性はないか?」
「はっきり言って、俺には分からん。言い訳ではないが、俺が魔力使用者になって一ヶ月程度しか経っていない。魔法のことは、まだ分からないことだらけだ。そんな便利な結界が存在するのか、ラザムに確かめたこともないからな」
立花が挙げた可能性は、無意味ではないものの、検証はできないものだった。細川の知らない魔法が使われたとなると、存在そのものにすら気付けない可能性の方が高い。手の打ちようがないのだ。
「他にラザムを連れ去った存在として容疑をかけるならば、あれくらいしか思いつかないが……」
魔力使用者になった初日、ラザムに訊いた話である。確かこんな会話をしたはずだ。
「そういえば、魔力使用者は死んで入れ替わるんだろう? 前任はどんな奴だった?」
「ロシア連邦出身の男性でした。一ヶ月ほど前、アメリカ合衆国で死亡しています。ただ、私たちでも詳しい死因は分かっていません。彼の傍付きだった大天使フローツェルも再起不能で、未だに事情を入手できていなくて……」
「そいつはまた、変なものに巻き込まれたらしいな、俺は」
細川の前の魔力使用者が、祖国ロシアを離れ、アメリカで何をしていたのかは不明だ。しかし、彼が死亡すると同時に、傍付きの大天使フローツェルまで再起不能の状態に陥っている。これが別件であるはずがない。
フローツェルからしか情報が得られないのに、彼女からは情報を得られない状況なのだ、前任のロシア人男性は何者かに殺害され、フローツェルはそれに巻き込まれた、と考えるのが筋だろう。あるいは逆に、フローツェルを狙って攻撃を加えたが、先にロシア人男性の魔力使用者の方が死亡した、という見方もできる。
そういう経緯があったのなら、その魔力使用者を殺害し、フローツェルを再起不能にした存在が、細川がそばを離れ、目を離した一分の隙にラザムを攫ったという推測も、立てることができる。その場合、問題は細川が、敵を制圧する能力を持っていない可能性が高いということである。
大天使を無抵抗で誘拐できる技術の持ち主に、彼は一体、どこまで抗うことができるだろうか。そもそもラザム不在では魔力を使用できない彼に、一体何ができるというのだろうか。




