最終話「夜明け」
雪の降る道を俺は走っていた。
もうすぐ今年が終わる、こんな時間だというのに、いや、だからなのか、往来を行く人は多い。
皆が皆、幸せそうに笑っていた。
過行く一年の楽しい思い出を振り返り、新しく来る年に希望を寄せ。
だが、俺はそれを過去の思い出にするつもりはなかった。
後、今年という時間がどれほど残っているのかは分からなかったが、それでも俺はアスファルトを蹴った。
他都市に繋がる太い県道を外れ、目指すは裏山の、そしてその山頂へと繋がる細い砂利道。長い長い石の階段。
急ぐあまり腕時計やスマホすら忘れていた事に今さらながら気づいたが、今さら取りに戻るような時間はもう無い。
急げ――
急げ――
急げ――
既に俺の身体は限界を訴えていた。
胸は苦しく、前へ出す足に力は無く、何度もよろけそうになる。
心だけが前へ前へとはやるばかりで、まともな食事を取っていなかったこの数日。それが仇となって、俺を襲っていた。
ほんの小さな段差に何度も足を取られ、都度俺は地面へと転がった。
口の中、靴の中、服の中へ雪交じりの水がしみ込んできた。
けれども、構わず俺は走り続けた。
変に転んだ際に怪我をしたのだろうか、口の中から鉄の味がした。
それでも、構わず俺は走り続けた。
「イスト――
イスト――
イスト――!」
砂利路に入ると、途端になくなった人の気配。それをいい事に繰り返すのはあの時フィーが俺に教えてくれた魔法。
『勇気の出る魔法』
やがて俺の視界には山頂までの長い階段が飛び込んできた。
見上げるその先に、7日前に見たあの重圧を伴った光は見られなかった。
――間に合ったか!
そんな俺の安堵を嘲笑うかのよう、激しい閃光が俺の視界を覆う。
一瞬の盲目を振り払い、再び仰ぎ見た視界さの先にあったのは、あの時よりも尚も太き光の柱。
裏山の山頂から一本の太い光の柱が生えていた。
きっともう間に合わない。
そんな弱い考えを無理やりに心の奥にねじ伏せ、俺は動かぬ足に、全てを託し階段を駆けた。
――7Days 『 夜 明 け 』 ――
全ての感情が、俺を突き動かしていた。
もはや、山頂より天へ伸びる光の柱は細く、対する俺は今はまだ石段の中腹。
『間に合わなかった』
そう心の中で繰り返すナニかに背を向けて、それでも俺は階段を駆け上っていた。
俺はフィーが好きだ
心の中、彼女の背中を追っているはずの俺に、何かが追いすがってくるのを感じていた。
それが、時間なのか、間に合わなかったという事実なのかは分からない。
けれども俺は走り続けた。
俺はフィーが好きだ!
もはや叫ぶ気力もなく、荒れた息では、あの呪文も唱えることは出来ない。
だから、その呪文の変わりに俺は、自らの想いを叫んでいた。
俺はフィーが好きだ!
どんなに彼女を傷つけたのだろう。
どんなに彼女に辛い思いをさせたのだろうか。
最後の思い出すら、笑顔で彩れなかった俺は、どんなにも愚かだったのだろうか。
追いかけてくるのは後悔の念か、急き立てられるように俺は走り続けた。
やがて、見上げた上空、俺の視界には、階段ではなく星空が広がり――
――ぇ、さっきまでの雪、は?
「フィー!!」
咄嗟に俺は叫んでいた。
呼吸する事も忘れ、即座にむせ返り、大地にうずくまる事となってしまったが、それでも――
今も雪はしんしんと降り続いていた。
雪雲は頭上の空の一面を覆いつくし、そして、今俺のいるこの山頂の真上にだけ、ぽっかりと雲に開いた穴からは、星空が見えていた。
こんな事を出来る奴を俺は他に知らなかったから。
「――鉄郎様!?
どうしてここに!」
その声に安堵した。
その声は、俺が一週間の間、逃げ込んでいた過去のものとは違うクリアなもの。
俺は、間に合ったんだ!!
震える腕を支えに、俺はなんとか上半身だけでもと、身体を起こした。
夜の公園。
子供すら遊びに来ない山頂の公園を照らす電灯は一つ。
見上げた雲間にぽっかりと明いた星の光と、それだけが今の俺の視界を照らす光。
その中央。
フィーが居た。
いつぞやの俺が贈った黒いセーターとスカートに身を包んで、そして、その傍に、寄り添う様に立つ青髪の美丈夫。
写真くらいでしか見たことがない中東風の衣服を派手にしたような色合いの衣に身を包み、胸元には高価そうな赤いルビーを携え。
「――っ!」
荒々しい呼吸。
ようやく脳まで辿り着いた酸素が、彼がフィーのフィアンセである事を示唆する。
異世界色かくやとばかりの深い青色をした髪の毛を肩程の長さで切り揃え、どこか冷めた瞳でこちらを見る彼は、俺の想像と違える事は無いのだろう。
「……っ」
彼の視線に、どこか見下されているような嫌悪感を覚え、安っぽいプライドからか、なんとか二本の足で立ちあがる。
本当は、フィーの事だけを見ていたかったのだが、込み上げる怒りに俺は青髪の男から目を離せないで居た。
焦燥にも似た苛立ち。
俺の送る視線の先、彼もその無機質な青灰色の瞳に俺を映していた。
この苛立ちは、単なる俺の独り身勝手な嫉妬なのだろう、と俺は分かっていた。
俺とは違い美しい容姿を携え、そしてこれからの時間をフィーと過ごす事の出来るソイツを。
――だったら、
戻らないとフィーは死んでしまう。
俺に出来るのは見送ることしかない。
何よりこれは彼女が望み、目指し、辿り着いた最良の結末ではないか。
だから俺は、去ってしまう彼女にたった一つの言葉を贈るが為にここまで来たのではなかったのか?
必死に言い聞かせ、奥歯を噛み締め、俺はその怒りに耐えた。
花畑の中、笑うフィーの姿。その横で、同じように微笑むソイツ――その想像に耐えた。
夜毎、番となった二人、迎える夜。腕の中のフィーに、それに圧し掛かるソイツ――その想像に耐えた。
俺は言葉を贈りに来たのだ
と。
冷静になれ。
何度も何度も、自分に言い聞かせた。
けれども、どうしただろう。
俺の中の苛立ちは、その都度大きくなっていった。
けれども、
――俺ではフィーは救えないんだよ!
その言葉を必死に繰り返す。
情けなくて涙が出た。
立ち上がった時に使ったプライドでは、溢れ出るそれを抑えるには不十分だった。
「ど、どこか痛むのですか、
鉄郎様!」
再びのフィーの声に、俺はようやくソイツから目を逸らすことに成功する。
けれども、涙でぼろぼろになっているだろう、こんな情けない俺の顔をフィーに見せてもいいのだろうか?
軽い葛藤は、フィーを少しでも目に刻んでおきたい。
そんな欲に押し殺され、俺は結局、
「……大丈夫、
どうってことない……」
情けないことこの上ない。
笑顔で見送る事は、やはり俺には出来そうもない。
途切れ途切れに、ようやくそれだけの事を口にしたとき、
「――っ!」
視界の端で、アイツの頬が嘲笑に歪むのが見えた。
それで、押し殺していた俺の怒りは爆発した。
「――何がおかしいっ!!」
反射的にソイツを睨み叫んでいた俺。
フィーも、ソイツの方を振り返っていた。
けれども、ソイツは、尚も楽しげに己の口へと手を当て、薄く微笑むことを辞めなかった。
「エドっ! 彼が先程話したこの世界での私の協力者です。
その笑みを鎮め、非礼を詫びなさい!」
今まで聞いた事もないくらいに激しいフィーの叱咤の声が響く。だが、それでもソイツ――エドは笑う事を辞めようとはしなかった。
挙句、
「いや、失敬失敬。彼がその、余りにも無様だったもので」
「エド、あなたは――」
「――さて、そろそろお時間です」
フィーの声を遮り、天へと伸ばされた彼の手。
そこより発せられた光が、一筋、ちょうど円形に開いた雲の間まで伸びたかと思うと、
「――っ!!」
あの時と同じような光が、再び天より落ちてきた。
音を伴わぬ、けれども身体に纏わり付く重い光。
思えば一度目の光はエドをこの世界に降ろすためのもの、そして今度のこの光こそがフィーを元の世界に連れ戻す光なのだろう。
だが、まだ
俺は、言葉を届けていないっ!
咄嗟に駆け出そうとした俺の体は、しかしその意志に反して降り注ぐ光によって地面へと叩きつけられる。
「フィー!!」
それでも何とか絞り出せた俺の声。
届く距離でもないというのに自然とフィーの方へと手が伸びた。
視界の隅で、フィーがこちらへと走りだそうするのが見え、そしてそれより早くフィーの前に立ち彼女の動きを制したエド。
文字通り見下した口調で彼は言う。
「王女の名を呼び捨てとは無礼にも程があるぞ、ニンゲン」
じょう…おう?
叩きつけられたのは、俺の体だけではなかった。
一ヵ月以上も寝食を共にしてきた俺に、また知らない彼女の素顔があったという事実が心を打った。
呼吸するのすら困難な光の中、俺はどうにか視線をフィーの方へと送ると、理解した。
その視線より逃れるよう逸らされた彼女の瞳。その瞳には、フィアンセの存在を俺に知られた時と同じ色が伺え、俺は直感的にエドの言葉が真実である事を知る。
「まぁ、異界のしかも下賤なニンゲン風情に理解しろと言っても、無理な話か、」
言葉の節々に嘲りが付いて回るエドの声。
最初は自分の嫉妬が彼を歪ませて見せているのだろうと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
視界に映るのをフィーよりエドに移し、力の限り睨み付けたソイツ。
その先、やはり先刻と同様、俺を見下すソイツの笑みがあり――
「フィー様は、次のエルフの女王となられるお方。
そして、私は現ハイエルフが長。
貴様ら蛮族には理解しがたき事かも知らぬが、本来ならばその視線一つ、掛けた声一つで死罪に値する重罪ぞ」
言うが早いか、光を呼ぶ為に掲げられている彼の右手。その反対側、左手に青白い光が集約していくのが見えた。
それが何か、おぼろげながら俺にも理解できた。
あれが――攻撃魔法
俺を殺す為の、ただの純粋な力。
背筋が凍りつくような感触。
いつかフィーに聞いた、誰かを傷つける事だけに特化した魔法の力。
けれど、その力が俺に向かって放たれることはなかった。
「やめなさいっ エドっ!!
もう一度言います。彼は私の恩人であり、友人です。
その彼を討つような真似は決して許しません!」
フィーの厳しい声にエドの左手に集約していた青い光が霧散する。
肩を竦め「仕方のない人ですね」とため息をつきながら、それでも彼に俺に対する殺意はもうないらしい。
それを見て、胸を撫で下ろしたフィーは、降り注ぐ光の中、ゆっくりと俺の方へと歩いてきた。
本当は、俺の方から歩み寄りたかったのだが、この体に纏わり付く光が、それを妨げていた。
せめて上半身だけでもと、身体を起こした所で、ちょうど俺の側までたどり着いたフィー。
スカートが雪交じりの泥水で汚れる事など意にも止めないで、俺の顔の高さまでその身を屈めた彼女の懐かしい笑顔がそこにあった。
「お別れの言葉を……伝えに来てくれたのですね、鉄郎様?」
「……ああ、」
この光の中、上半身を起こしているだけでもきつかった。
俺の様を見てそれが分かったのかフィーは、そっと俺の腕の下に頭をくぐらせ自由にならない体を支えてくれた。
ここに来るまでに散々に泥でまみれた俺の服の汚れが、彼女の服を汚した。
「ごめん……、服汚れちまったな」
「給仕のものに、また洗濯させますから――」
給仕のモノ――その言葉がより一層彼女と自分との距離を開いたような気がした。エドの言葉に偽りはないのだと、
それが顔に出ていたのか、
「ごめんなさい、黙っていて……」
俯き謝罪するフィー。
「い、いや。実際、そんな事、最初に言われても信じれなかっただろうし、
ほら、お陰でなんだ……気さくに話せたし、」
最後にするような会話じゃない事は分かっていた。
俺には言わなければならない言葉があるのに、
伝えなければいけない言葉があるのに――
こんな時だというのに、また空回りする俺の口は旨く話題を切り出せない。
駄目だ。
何かを言わないといけないのに、
言うべき言葉を用意してきたと思っていたのに。
俺はまた――
――何も言えない。
自分の不甲斐なさに失望し、俺は目を伏せ――
それを別れの挨拶だと取ったのだろうか。
「それでは、
さようなら――」
不意に俺より離れるフィーの温もり。
それに気づき、はっとして上げた俺の視線。その向こう。
既にエドの姿は見えなくなっていた。恐らくは公園のど真ん中にそそり立つ光の柱の中心へと身を進めたのだろう。
一番色濃く輝く光の中に、ぼんやりとその影だけを映していた。
ゆっくりと遠ざかっていくフィーの背中。
ゆっくりとフィーの姿が光の柱の中へと消えていく。
後一歩。
追いつけたと思っていた彼女の背中に、手が届くまで、何かが足りなかった。
その何かが、一体何なのか、俺は分からぬまま、もう一度目を伏せ、じっと己が手を――
――これは、『勇気の出る魔法』ですよ
「イスト――!!」
弾かれようにその呪文を叫んでいた。
光の中へ今まさに身を躍らせようとしていたフィーが、驚きの表情と共に、こちらを振り返った。
俺に足りなかったのは勇気だ。
今生の別れだの、一生別れだなんて関係ない。
俺に足りなかったのは、気持ちを伝える勇気だ。
左手に宿る緑色の熱い光。
それが、折れたはずの俺の鉄芯をも溶かし、より強固なものへと変えてゆく。
「イスト!!」
今一度叫んだ。
座ったままでは情けないと、俺は光に逆らい立ち上がる。
ここまでの道のりで酷使しきっていた俺の足がもう一度俺の想いに応えてくれた。
「イスト!! イスト!!」
何度も叫んだ。
これはフィーが俺に残してくれるもの。
俺が好きだったフィーが居た証。
未来から自分を閉ざしていた俺に、もう一度、踏み出せる為に彼女が与えてくれた、たった一つの魔法。
光の中、こちらを見るフィーの瞳が涙で潤んでいた。
けれども、それは悲しみの為ではない事は、俺にも十分に伝わっていた。
だから、俺はこの言葉を以って、最後の言葉にしようと口を開いた。
「フィー!
俺にも魔法が使えたんだ!
俺は、これからもっと頑張って生きていく!!
だから、フィーも、向こうで――笑っててくれ!!」
都合のいい言葉だ。
けれども、最後を飾るのに相応しい言葉だと思えた。
彼女の声は聞こえない。
けれども、光の中、しきりに頷いて見せる彼女に、俺は最期の一言伝えようと大きく息を吸い込み――
「聞いてくれ、フィー!!
俺はお前のことが、ずっと――」
――好きだった
報われない告白。それでも俺が望む彼女の本当に持って帰って欲しかった俺の想い。
だが、その言葉を、俺は、また口にすることが出来なかった。
つぷり――
嫌な音した。
理解できなかった。
ソレが何なのか。
俺には理解できなかった。
微かに視界に入ってきたものだけを冷静に分析しようと、俺は必死に一瞬で思考停止に陥った脳みそを再稼働させる。
光の中、フィーが居た。
光の中、フィーが俺の方を振り返り笑顔を涙で染めていた。
光の中、フィーは俺の言葉に何度も頷いていた。
光の中、フィーの背後に、一人の男が立っていた。
光の中、その一人の男は嘲笑を浮かべ立っていた。
光の中、フィーの背後に立つ男の名前はエド。フルネームは忘れたけれど、確か、フィーのフィアンセだった男だ。
そいつの左手は、ちょうどフィーの背中に隠れるよう、彼女の背後に伸ばされていた。
俺はもう一度、フィーを見た。
彼女の翡翠色の瞳は、満開の喜びを映し、まっすぐに俺へと向けられていた。
彼女の瞳には、おそらくソレは写っていないのだろう。
けれども、彼女を正面から見つめる俺は違う。
俺の瞳には、はっきりとソレが写っていた。
けれども、理解できない。
理解できない。
理解したくない。
俺が必死に理解しないようにしているモノ。
それは――フィーの胸部から突き出た、青い青い、禍々しい光。
どうっ
という音が聞こえた。
その音と共に、笑顔のままでフィーが地面に崩れ落ちた。
彼女の周りに花が咲く。
赤い赤い花が、ゆっくりと広がっていく。
アレはなんなのだろうか。
――どくんっ という大きな己の鼓動音と共に、俺は理解したくないそれを理解した。
エドが、フィーを殺したという事実を。
「お前――っ!!」
俺は光の中を駆けた。
あれだけも重く俺に圧し掛かっていた光は、何故か今は気にもならなかった。
倒れたフィーの横を駆け抜け、一瞬で辿り着いたエドの真正面。
怒り任せに、振り上げた俺の拳。
何の手加減もなしに、エドのその未だ嘲笑浮かべる顔面目掛け叩きおろす。
だが、その拳はすばやく俺から距離をとった彼に当たることなく宙を斬った。
構わず俺は叫んだ。
「一体、何を――っ!
くそっ、フィーしっかりしろっ!!」
加えられなかった一撃を悔やむより早く、駆け寄ったフィーの元。
抱き起こし必死に呼びかけるも、彼女の胸より流れ出る赤い血は、勢いを増すばかり。
「お前――
何で――っ」
耐えたのに。
たった一言を伝えることが出来たなら、それで自分は我慢していけると思ったのに。
フィーを失う苦しみに耐えていけると、そう誓ったのに。
それは全て、彼女が元居た世界で笑っていられるからで、こんな、こんな結末は――
必死に揺り動かす彼女の瞳は、閉じられたまま。
微かに開かれた口からは、もう小さな呼吸音すら聞こえなくなっていた。
「フィー!!
頼む、頼むよっ! 目を――」
動かぬフィーを腕の中に、必死にフィーの名を呼ぶ俺の右手が一瞬淡く輝いた。
それは、先ほど幾度となく唱えたイスト、勇気の出る魔法の輝き。
「イストは愛の魔法」
俺の頭上よりエドの声がした。
弾かれるように顔を上げると、そこには相変わらずの嘲笑、エドが心底愉快そうな笑みを浮かべ立っていて、
不意に視界が真っ白に染まった――
――気づいた時には目の前に俺が立っていた。
鏡でも見ているかのような錯覚に一瞬かられたが、違う。
目の前の俺は、達観したかのような表情で、諦めの言葉を吐く。
「流石にあれは無理だよ。」
白一色だった周囲の景色に色が付いた。
見覚えのあるその場所は、いつかフィーと行ったことのあるボーリング場だった。
『俺』の口が勝手に開いた。
「……諦めるんですね?」
口から零れた声は『俺』のものではなかった。
フィー?
戸惑う『俺』をそのままに俺と『俺』の会話は続いていく。
ややあってスペア狙いを敢行すると決めた俺の手にそっと重ねられた『俺』の手。
穏やかな声で、ささやかな願いを込め、『俺』は紡ぐ。
――イスト、と。
瞬間、また視界が白で染まる。
次に気が付くと、目の前には焼け落ちた荒野が広がっていた。
所々からはまだ燻り白い煙を上げており、至る所に転がっているのは、人間の死体だ。
人間というと語弊があるかもしれない。
人や耳の長さから察するにフィーのようなエルフや、他にも獣のような耳をした種族なども見られた。
それらは一様に地に伏せ、息絶えていた。
『俺』はそれを少し離れた高台の上より眺めていた。
無言で、頬を流れる涙をそのままに。
このような事は、二度と起こさせまいと、心に誓いながら。
また場所が変わった。
今度は木漏れ日の差す森の中だった。
『俺』の周りには沢山の子供。エルフの子供達に取り囲まれるように『俺』が腰掛けていた。
子供達は、期待に満ちた瞳で『俺』に乞う。
「ねぇねぇ、ねーちゃん」
「いつもの御伽噺を聞かせてよー」
いつもの話とは、『俺』の大好きなヘンリエッタの冒険の事だ。
公務の間を抜って作ったこの時間、身分を隠し、この場所で子供達に御伽噺を聞かせるのが『俺』の日課だ。
彼、彼女らは一様に先の大戦で両親を亡くした戦災孤児だ。
自身の立場上、出自や境遇で誰かを優遇することなど許されないと分かってはいるのだが、知ってしまった以上、もう放っておくことなどできなかった。
だから『俺』は、決まってこの時間になるとお城を抜け出しては彼らと約束した秘密の場所へ。
「じゃあ、お話を始めるね?」
――ヘンリエッタの冒険、
場所が変わる、かと思ったが、どうやら同じ場所のようだ。
ただ、時間だけは流れたよう。
『俺』の周りには、少しばかり成長した子供達が笑顔で集まっていた。
「ねぇねぇ、ねーちゃん」
「魔法教えてよ、魔法」
子供達は口を揃えて言う。
どんな魔法が知りたいのかと問うと、
「僕は暖炉に火を灯す魔法が良い。せんせーが最近、毎朝魔法を使うのが辛そうなんだ」
せんせーとは彼ら孤児を預かる孤児院に勤める方の事だ。
『俺』が知る頃より年を召された方だった記憶がある。
出来れば、誰か新しい後任者を選定できれば良いのだが……
「僕は遠話の魔法が良い。大きくなったら衛兵になってみんなを守るんだ」
遠話の魔法は、可視範囲の者同士であれば距離を無視して話す事の出来る魔法だ。
その為、城や砦で高台に登る者同士がいち早く連携を取るために利用することが多い。
少しばかり難易度が高いわよ、と笑って返すと、一瞬たじろいだが少年はそれでも頑張ると元気に応えて見せた。
「私は……」
次に口を開いたのは三つ編みをした少女だった。
少女は、少し躊躇った後、はにかみながら続けた。
「イストの魔法が良い」
胸が痛くなった。
イストは、愛の魔法だと人は言う。
また、他の魔法が自分たちエルフによって生み出され多く他種族に伝えられたという背景を持つ中、唯一、ニンゲンが作り出した魔法だとも伝えられている。
それ故か、その魔法の発動条件には他の魔法と異なる様々なヒトの想いが必要となる。
『俺』が産まれるよりもはるか昔に起こった大戦。
死地に夫を送り出す妻が、夫が無事生還できるようにと、そんな願いの元、生まれたのがイストという魔法。
互いが互いを愛する事で初めて発動することのできるこの魔法は、その実、実質的な効果はなにもないとされていた。
「ごめんね、おねぇちゃんもその魔法は使ったことがないんだ」
そしてその特殊な発動条件からか実際に使う者は殆どいない。
理由は簡単だ。
互いが互いを愛していないと発動しない魔法など、誰も怖くて使えないからだ。
だが、恋に恋をするような年頃。思春期の少女にはそういった怖さはまだ分からない。
そういった少女達の中には実際に使ってみたことがある者もいるのだろう愛の魔法。だがその魔法が失敗したとき、自分の発音が悪かったのか、自分が愛されていないかの区別もつかないのだ。
だから結局はこれは御伽噺や昔の伝記物、物語の中でしか使われることがない魔法なのだ。
そして、『俺』自身も使う機会などこの生涯に於いて一度となく、
「だから発音も正しいかどうかもわからないの」
心苦しかったが『俺』は素直に答える事にした。
『俺』のその答えに、少女は一度目を丸くし、すぐさま残念そうな表情を見せたが、「じゃあ仕方ないね」と納得してくれた。
そして、
「まぁでも確かに、おねーちゃんモテなさそうだもんな」
「きょーぼーだしねー」
声を揃えて言う生意気な子供達に熱いお灸を据えたのであった。
今度こそ場所が変わった。
ここは城の中、その会議室か。
映画の中でしか見たことのない石畳の壁に四方を囲まれた部屋の中、周囲にはしかめっ面をした大人達が一様に席に付いていた。
薄暗い部屋の中、誰かが言う。
「まずい事になった」
誰かが言う。
「このままではまた戦争になるぞ」
誰かが言う。
「やはりヒトに魔法を伝えたのは間違いだったのではないか」
誰かが言う。
「だが、本諍いを起こそうとしているのは過去に袂を分かれたとはいえ、我々の同胞ぞ」
誰かが言う。
「どうにか鎮めなければ。
まだ諸国の先の大戦の傷は深い」
誰かが言う。
「このままではあ奴の思うがままぞ」
誰かが言う。
「誰かが、止めねばならぬ」
誰かが言う。
「誰かが」
誰かが言う。
「誰かが」
『俺』が言った。
「――私が嫁ぎ、彼の者の考えを改めさせましょう」
エルフ族の王女とハイエルフ族の豪族との結婚が近々行われると、周辺国へ通達が届いたのは、それからしばらくしてからの事だった。
鼻をつく強烈な鉄の香りと共に俺は意識を取り戻した。
今は夜、ここは裏山山頂にある公園で、
俺は、腕の中、微動だにしないフィーを両手で抱きしめて。
「フィー! フィー!
しっかりしてくれっ!!」
先程見た映像が何だったのか、そんな疑問は消し飛び、俺は彼女の名前を幾度となく叫んだ。
だが、それに対する返答は腕の中、頭を垂らした彼女からはなく、代わりにその胸部より溢れだした真っ赤な血液が俺の腕を濡らしていく。
このままじゃいけない。
どうにかしないと、どうにかしてフィーを助けないと。
気ばかりが急ぐ。
今しないといけない事は、俺に出来る事は――
「――っ!」
視界の隅に伸びてきた手に、俺はフィーを抱きかかえたまま後ろに飛びのいた。
絡みつく光のせいで未だ体は重く、動けたのは僅かに数十センチではあったが、辛うじて再び転がりそうになった体を立て直し、零れ落ちそうになったフィーの体を抱きしめ直す。
「――逃げるなよ、ニンゲン。」
伸ばされた手の先、エドは愉悦の表情を浮かべな続ける。
「さて、そろそろ本気で彼女を返してもらいましょうか?」
自分でフィーをこのような目に合わせておきながら、こいつは果たして何を言っているんだ。
いや、今はこんな男の戯言に構っている時間はない。
胸を貫かれたフィーは確かに致命傷かもしれない。
だが、まだ死んだと断定するには早い。
そうだ、あの時彼女の左胸を貫いた魔法は、幸いにも重要な器官の隙間を潜り抜け、彼女を絶命たらしめていないかもしれないのだ。
「俺は、フィーを……助け、」
「はて、この世界には死者を蘇らせる技法でもあるのですか、ね?」
俺に重圧を与える光の奔流の中、跳ねるような動作で距離を詰めたエド。
逃げる暇なく今度こそ詰められた距離。
エドは俺の腕の中、頭を深く落としたフィーの頭へと手を伸ばすと、彼女の髪を鷲掴み俺に向けて掲げて続けた。
「――ね、
死んでるでしょ?」
と。
俺の顔の真っ正面、僅か数センチの距離にフィーの顔があった。
未だかつでこれ程までに近い距離で彼女の顔を見つめたことがあっただろうか、などと見当違いの思いが脳裏を掠め、
俺を見つめるフィーの瞳孔が開いていた。
口からは呼吸音もなく、
開きっぱなしの瞳は決して瞬きをしようともせず、
そう、それは紛うことなく、死だ。
「あああああああ――っ!!」
「我が妃に貞淑たらぬ者など、不要――」
エドはそう言い放つと、フィーの頭を掴んだまま彼女を投げ捨てた。
雪と解けた水交じりの泥水の中へフィーの体が放り出される。
2回、3回と転がり、ようやくにして転がる事を止めた彼女の顔がこちらを向いていた。
瞳孔の開いたままの片目を俺の方へ、残る片目は雪交じりの泥水の中。だというのに彼女の瞼は開かれたままで。
死んでしまった。
本当は分かっていた。
どう足掻こうとも、左胸に大きく空いた孔。
致命以外の何物でもないと。
けれども、けれども、けれども、
どうして諦める事ができようか。
俺に事あるごとに『諦めるな』といい続けてくれた彼女。
そんな彼女の命を、この俺が、どうして諦めることができるというんだ!
――でも、もう手遅れだった。
本当に、もう、どうしようもない程に、手遅れだった。
「フィー、
……フィー」
何度も彼女の名前を呼ぶ。
返事など返ってくるはずがないという理屈など到底受け入れる事が出来なかった。
光の中、より一層増す重圧に、俺はそれでも彼女へと這い寄ろうともがいた。
距離にして1メートルも無い。
歩み寄れば、ほんの数歩の距離がこの重圧の中、果てしなく遠く感じた。
伸ばした指先が、光に押し負け、地へと張り付く。
「だめだ……
キミは死ンじゃダメだ、
キミは――」
瞬間、激しくむせた。
胸部のより鈍い異音が聞こえ、同時に鈍痛が胸を穿った。
痛みの都度、肋骨からきしむ音が聞こえた。
今や俺を包む光の重圧は、それほどまでに強く激しくなっていた。
聞いた事のない異音に、恐怖、絶望、後悔、様々な感情が俺の中で渦巻くが、それでも俺は諦めきれなかった。
まだ――!
胸の奥、熱く滾る鉄芯だけが、今の俺を支えていた。
その叫びに、後押しされるよう、俺は地を這った。
迫るフィーの体。
あと30センチ程の距離。
奥歯をかみ締め、胸の痛みに耐える。
そして、俺の指先が、フィーの柔らかい金髪へと触れたその時――
「そこまでだ、ニンゲン」
目の前の、フィーの体がふわりと持ち上がった。
視線だけでそれを追い、彼女がエドの腕に抱きかかえられたという事を確認する。
「……、」
霞み始める視界。
口の中に込み上げてくる血液に邪魔されて、俺は何一つ言葉を口にすることが出来ない。
そんな俺を知ってか、エドは続けた。
「心配しなくても、この程度の傷ならば我が一族に伝わる家宝で癒す事も困難ではない」
――希望はあった。
同時に俺は自分の死期を感じていた。
今、背に感じている重量が、どれ程のものかは分からない。
けれども、先ほどの胸の異音に続き、今や体の全所から、その異音を聞くことが出来た。
おそらく、この光に押しつぶされる瞬間は、そう遠くはないだろう。
そう悟っていた。
だから、この際、どんな救いでも良かった。
彼女が助かるなら、
フィーが生きていられるなら、
例え、それがこんな男の力であっても、俺は甘んじて受け入れよう。
そうまで思えるようになっていたのに
「まぁ、肉体は癒されど、死した心までは戻らんがね」
「――っ、」
エドは空を仰ぎ見ると続けた。
「ふひっ。ああ、そうしよう。
――ストーリーはこうだ。
遥か異世界に墜ちてしまったエルフの王女。
ハイエルフの次期統領たる私が助けに来た時には時すでに遅し、
無残にもニンゲンの手によって殺されてしまっていた」
「……」
「その死体すら凌辱せんとす卑しきニンゲンの手より王女を救い出した私は、
王女を奪還し、帰還。
家宝を使い蘇生を試みるも心までは蘇らず、だが、至誠たる私は生前の約束を違えず彼女のと婚姻の義を執り行う」
「……」
「元老院の強い要望で進められたこの不本意な調停の為の婚姻が、
まさかこんな役に立つとは、驚愕だ!
これで、袂分かたれたハイエルフとエルフは私という偉大な王の元で結束し、
卑しいニンゲンと獣人どもの駆逐に赴けるというもの。」
「……」
「感謝するぞ、ニンゲン。
ふひっ、ふはははは――」
エドの笑い声が夜の公園に響く。
霞む意識の中、遠くエドの妄言を耳に、俺は別の事を思い出していた。
フィーは、きっと逃げ出したかったんだ。
思い出していたのは、いつかフィーが教えてくれた彼女の愛した御伽噺。
ヘンリエッタの冒険。
世界からおっこちたヘンリエッタは、朝起きが苦手。
母親に毎朝毎朝起こされるのが嫌で、その嫌が積もって世界から落ちてしまった。
フィーもきっと同じだったんだ。
気丈に振舞えど、戦争を止める為に、自らの意志でその身を差し出したのだとしても。
ましてやこのような相手。
誰にも打ち明けず、
誰にも秘密で、もしかすると自分すらその本心に気付いて居なかったのかもしれないけど。
彼女もずっと逃げ出したかったのだ。
だから――
「さて、ではそろそろまずはこの舞台に幕を降ろそうじゃないか」
今ここでフィーをこの男の手に渡してしまうと、身を、心を挺した彼女の想いすらすべて無駄になってしまう。
だから――
――鉄郎様は私のカムイさんですね――
「――イ、スト」
「……ぁ?」
俺は唱えた。
彼女が残してくれた魔法を。
「――イスト」
「……」
拳に淡い光が灯り、ほんの少しだが光の奔流から来る重圧が和らいだ気がした。
「イストッ!」
「きっ、ばっ……」
そして、俺が立ち上がるには、それだけあれば十分だった。
全身が激しく軋み、至る所から激痛が走ったが今はそれは捨てて置く。
気色ばむエドを真っ正面に見据え、俺はフィーとエドとの間に割って立つ。
「お前に、フィーは連れて行かさせない!」
「蛮族風情が――っ!」
吼えた。
全力で地を蹴り詰めた間合い。
俺は淡く輝く拳振り上げエドの横っ面へとめがけ――
「――テザーランス」
エドが叫ぶ聞いた事のない呪文。
構う事はなかった。それがどんな魔法であれまずは一発。この糞野郎の頬へこの拳を叩き込む事が出来ればそれで良かった。
だが、距離も速度も問題なかったはずの俺の拳は宙を切った。
否、
振り抜いた体制の俺の視界の隅で、俺の拳が宙を舞っていた。
くるくると、まるで放り投げた棒が回転しながら放物線を描くように、
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――っ!!」
俺の右腕がない、激しい痛みが俺を襲うよりも早く、俺は再度エドとの距離を詰めた。
腕がなくとも戦える。
人間の足の筋肉はおよそ3倍。
腰を捻り狙い澄ますのはエドの細い首筋。
へし折るつもりで俺は全力の蹴りを――
「アイシクルブレイズ」
またもエドの魔法に阻まれる。
地中より突如隆起してきた氷柱。
それは、微かに俺の一撃よりも早く、俺の体を宙へと跳ね上げた。
風に戯ぶゴミ屑のように高く空へと舞い上げられた俺の体は、遠く階段の側まで吹き飛ばされ、それでも、
まだ終わりじゃない!
幾度の激痛に歯を食いしばり、なおも立ち上がろうとする俺の体が――倒れた。
それでも俺は、体をもう一度起き上がらせようとあがき、また倒れた。
尚も上半身を起こし、そして、大地を踏みしめる足に力を込め――その違和感に気づいた。
熱に侵された脳で、それを理解するのには少々時間を要した。
その違和感を目で追った俺が、見やった自分の体からは、右足の膝より下が喪失していた。
笑った。
豪快に口を広げ、笑った。
何故か、その行為を無作法に思え、右手で口を覆おうとして思い出す。
そういえば右腕もなくしていた事に。
笑うより他なかった。
これでは俺は動くことすらままならない。
今度こそ終わったのだ。
そう、結局俺は、フィーの望む、物語のヒーローなどにはなる事はできず、それが可笑しかった。
どんな苦痛に耐えようとも、どんな恐怖に立ち向かえども、尚、どうにもならぬ現実がある。
それがコレだ。
命を賭しても、身を犠牲にしても、尚、届かぬ想いがある。
それがこれだ。
そしてその癖に、その想いはきっちりと代償だけは持っていくのだ。
俺の命という。
片足で立つ俺の足首から血が流れ出る感触がした。
肘の下からがない俺の右腕から命が零れていくのが分かった。
今度こそ、本当に、もう終わり。
けれども、その『終わり』が『諦め』に繋がるわけではない。
――そうだよな、フィー?
顔を上げれば、フィーを両手で抱いたエドがゆっくりとこちらへと歩いてきているのが見えた。
その顔には、嘲笑ではなく、今は俺が行った抵抗への激高を浮かべて。
ややあって俺の前に立つエド。こんな体でありながら諦めの意思を表に浮かべない俺にエドが叫ぶ。
「ニンゲン風情が!!」
たいした力も込められていない。そんな前蹴りが俺の腹部を撃った。
だがそれだけでバランスの悪い俺の体はもんどりうち、階段の間際まで転がった。
「……、」
左手一本、もう起き上がるには不十分な力。俺はどうにか体の向きだけを正し、公園の中央――エドの方へと向き直ると、彼はもう俺の側にいた。
エドは、一度だけ俺の背後、遥か階段の下を一瞥すると、顔に浮かぶ感情を憤怒から嘲笑へと変えながら告げる。
「死ね、下郎が――」
再び繰り出された彼の前蹴りが、俺の顎に突き刺さる。
弓なりに俺の体が、ゆっくりと階段の方へと倒れていく。
まるでスローモーションのようだった。
一度、俺の視界に星空が飛び込んだかと思うと、次には階段の遥か下部、暗闇の中に街灯の光に浮かび上がる階段の登り口が見えた。
そこは、恐らくこれから俺が行き着く先で、あの場所で、自分は死ぬのだろうと覚悟する。
ゆっくりと回転する俺の体。
階段の登り口が視界下方へと流れて行く。次に目の前に広がるのは石段。
それすらやり過ごし、徐々に開けてくる俺の視界。
一回転を終えた俺の目の前に、片足を蹴り上げたままの状態で、恍惚とした表情のエドの姿があった。
そこが俺に残された最後のチャンスであることを、俺は瞬時に理解した。
血だらけの口。
開けば零れるのは俺の命ばかりで。
それを全て呑み込むと俺は――
フィーは言った。
俺に魔法が使えないのは発音の問題だと。
フィーは言った。
魔法を使う条件は満たしているのだと。
だが、俺は魔法を使う事が出来なかった。
だから発音の問題だと読み違えた。
魔法の発動にはフィーにも知らない必須の条件があったのだ。
異世界の人間である事。
人である事。
魔法をアニメや空想の世界の産物であると思っていた事。
様々な要因から、俺は自分に魔法が使えない可能性があると考えていた。
それが、それこそが魔法を使えなかった要因。
魔法の発動条件は、魔法を信じる事。
フィーの言葉を信じる事。
残された左手をエドの方へと差し向け、叫ぶ。
「――テザーランス、」
赤黒い光の槍が俺の左手より生じ狙いしました目標――エドの喉元へと迫る。
自分の魔法で、死ね!
嘲笑を塗りつぶし、エドの顔に浮かんだ驚愕の表情。
だがもう遅い。
先に殴り掛かった俺の拳よりも早くこの身を切り裂いた魔法だ。
今度こそ確実に捉えたと――
「――っ!」
結果として、エドに対処する術はなかったのだろう。
本来ならば俺の放った魔法は確実に彼の喉を掻き切り、それですべてが終わっていたはずだった。
だが、どこまで俺の想いは阻まれれば良いのだろうか。
まるで運命という名の見えない敵が、俺の想いを挫いてはどこかで笑っているそんな気すらする。
俺の放った魔法がエドの喉に届くかそのタイミングで、彼の胸元に止められていた深紅のルビーが淡い光を放ち、爆ぜた。
それによってかき消される俺の魔法。
――分かった。
運命が俺を想いを妨げるなら、俺は運命が音を上げるまで魔法を唱え続けるだけ――
俺は、再び、その魔法を今一度唱えようとしたが、
ごっ
という異音。
頭に感じた強い衝撃に、視界が闇に閉ざされた。
立て続けに体中に、激しい痛みを覚えた。
そんな中、微かに感じた浮遊感は、自分の体が階段を転がり落ちているのだという事を暗に伝えてくれた。
転がって、跳ねて、また転がって。
今度こそ、本当に終わりが来た。
全てが闇に閉ざされる直前。
遠ざかる山頂の公園に、俺が見たものは、まるで俺に恐怖し、逃げ帰るようなエドの背中。
今度こそ、本当に終わりが来た。
血を吐いた。
我ながらまだ生きているのかと、笑えた。
地を這った。
我ながらこの無様な様に苦笑しか浮かばなかった。
一歩歩いては、転げ。
一段上っては、倒れ。
それでも俺は生きていた。
それでも俺はまだ死んでいなかった。
だから、俺は階段を上っていた。
既に、山頂の公園から見える光は微弱。
あの糞野郎は既にフィーを連れ帰ってしまっている。
もう間に合わない。
そんな事は分かりきっていた。
それでも、俺は諦めることが出来なかった。
胸中の鉄芯が疼くのだ。
――進め、
――進め、と
だから、俺は階段をまた一段上った。
失った右足。
失った右腕。
残った左足と左腕の力だけで、よじ登った。
フィーが好きだった。
本当に本当に、大好きだった。
だから想う。
こんなにも強く熱く。
あの物語のカムイもそうだったのではないだろうか?
彼はヘンリエッタが何者でも恐らく良かったのだ。
彼は、ただ彼女に恋をした。
故に、世界に楯突くことすら厭わなかったのだ。
だったら俺は――
今こそ世界へと牙を剥こう。
フィーの居ないこの世界。
フィーの存在を許さなかったこの世界。
伸ばしても届かなかった俺の手。
彼女の命を奪ったのはエドか?
いや、違う――
心の中の鉄芯が熱く滾っていた。
どれほどの時間がかかったのか。
俺は絶命する前に山頂へと辿り着くことに成功する。
けれども、そこにはもう、体に纏わり付く光もなければ、フィーの姿もあるわけが無く。
それでも俺は構わなかった。
残りの命を全て賭け、たった一つの呪いを口にする。
――嫌いだ
――嫌いだ
――嫌いだ
「――俺は、この世界が嫌いだ!
俺は、フィーを守れなかった自分が嫌いだ!!
俺は俺を否定する。
だから――っ!!」
限界が来た。
今度こそ本当に最後だ。
急速に意識が遠ざかり、そんな中、俺はこの感情が逆恨みでしかないと自覚する。
けれども、それでも良かった。
この逆恨みこそ、フィーの願いへと繋がる。
決して諦めない。
彼女の想いを無駄にせぬ為に必要な、
そう、
これは
この世界より零れ落ちる為の儀式――
新緑の魔女、リィベル=クランツォの朝は早い。
央都ベルキュナンテの都と同じ大陸にありながらも、
遥か西の大陸イル=サ=ディールよりもまだ遠い。
そんな所に、彼女の住まう森はあった。
周囲の者が、誰しもが忌み嫌い『冥緑の森』と呼ばれるその地。
彼女がそんな場所に居を構えるのには、幾つかの理由があった。
やはり人が敬遠し寄り付かないというのも大きな理由の一つではあったが
この森にはそれだけではない何かがあった。
新緑の魔女リィベル=クランツォはハイエルフである。
彼女は、ハイエルフにしては珍しく、先の大戦において
ハイエルフ側の陣営として加わらなかった数少ない人物でもある。
かといって彼女は、対する陣営の味方と言う訳でもなかった。
正直、彼女にはどちらの種が栄えようと、その逆に滅びようと大きな問題ではないのだ。
極端な話、その戦争の結果、世界が滅びたとしても構わないと思ってすらいた。
ただ、そうなってくると、世界を滅ぼした方法、に関しては非常に興味深い事案となるが。
「さて――『早起きは三文の得』と言うらしいが、」
まだ夜露の残る時間。
数少ない研究の成果を口にしながら、彼女は日々の日課である早朝の森の散策を行っていた。
この時間の散策は、彼女の研究にとって非常に有意義で、必要不可欠なものでもあった。
獰猛な獣が出没する事も多々あるこの森に於いて、紺のローブ一枚と手にした樫の杖。
そのような軽装備では、命に関わるやもしらぬというのに、彼女は平然とより森の深みへと目指し突き進んでいく。
ややあって、森の奥で彼女は目的のものと遭遇する。
「……」
いや、果たしてソレは自分の求めるモノなのか、とそれを足元に、彼女は思索。
厄介ごとであるならば捨てていくつもりであった。
そうすればもうじき目を覚ますこの森に住まう獣たちが綺麗さっぱり掃除をしてくれるであろう。
地面に転がるソレを、彼女は足の爪先で二、三度突く、と。
「……っ」
それが、微かに身じろいだ。
それを目にし、彼女の瞳に爛々とした輝きがともる。
どうやらそれは彼女の求めるモノの様だった。
そうと決まれば、彼女の朝の散策は、これにて打ち切りである。
彼女は、その小さな手で、ソレの毛むくじゃらな部分を鷲掴みにすると、
彼女の体躯よりも明らかなに大きなソレ。
ずるずると引きずりながら帰路に着いたのだった。
その日、新緑の魔女リィベル=クランツォが見つけ出したもの。
異世界のイキモノ。
一匹。
この世界に於いては非常に稀な、黒髪、黒い瞳をした若者。
其の名を、天野 鉄郎という――