第7話「第6夜」
歌声に導かれるように俺は目を覚ました。
寝ぼけ眼を擦りつつ、カーテンの向こうから射す光に、今が朝だということを知る。
そのカーテンが揺れていた。
とたん、身を切るような寒さが俺を襲った。
どうやら窓が開いているらしい。
けれど、何故、と、悩むまでも無かった。
俺の対面の壁、もたれ掛る様に眠るフィーの姿が無かったから。
歌声が聞こえた。
それは、風に揺れるカーテンの隙間をぬって差し込む朝日と共に、部屋の中に流れきていた。
フィーが歌っているのか?
聞こえてくる歌詞は、聞き取れない異界の言葉。
意味は理解できなかったが、響く音階は耳の奥に心地よく、
「……フィー?」
まだまだ光に慣れぬ俺の瞳。
目を細め、カーテンの隙間より身を覗かせた俺が目にしたものは、
「あ、鉄郎様。
おはようございます」
翡翠色の瞳に、光を映し、今日の始まりを喜んでいるフィーの姿で、
「ぉ、ああ、おは……よう」
「あ、今、ご飯をつぎますので、少し待っていてくださいね?」
心地良い微笑を俺に一度送り、俺の前を通り抜け台所へとフィーが歩いていく。
カーテンの外、俺が一人残された。
これは、……夢、なのか?
その自問は応えてくれるものなどいない。
一体、なんなんだ?
得体も知れぬ気持ち悪さを感じた。
冬の寒さに背を押され、再び戻った部屋の中。
ちょうど、フィーがいつもの焦げた野菜炒めをテーブルの上まで運ぶところで、
「ぇ、えーと、また少し失敗しちゃいました」
どこか引きつったように微笑む彼女の笑顔は、穏やかだった日々に幾度と無く見た彼女の表情。
『……これが、ちょっと?』
以前の俺なら、そう答えたであろう言葉が脳裏を過ぎるが、俺の困惑がそれを口から出す事を拒んだ。
酷く歪だった。
彼女が元の世界に帰るまで、今日を含め後2日。
フィーが笑い、フィーと話し、取り留めない談笑を交わしあう。
こんな日が戻ってくるなど、
あり得るはずが無かったから――
炊飯器から漂ってくるご飯の炊けた香りが、吐き気を促した。
――7Days 『 第 6 夜 』 ――
口の中、咀嚼するかつて野菜だったものはしゃりしゃりと、苦い味で口の中を充満させていく。
今までなら、それに対する苦情や文句の応報も、ありふれた日常の一ページだったのだが、今はそれはない。
「……、」
口の中の苦さを少しでも紛らわすよう、俺はご飯を詰め込んだ。
そうしなら、上目遣いで見た、正面に座るフィーの表情。
「……?
私の顔に何か付いてますか?」
その視線を、ご飯でも付いている、とでも勘違いしたのか、フィーが慌てた様子で自身の手で口周りに伸ばした。
「もー、何も付いてないじゃないですか」
そして、恥ずかしそうに怒る。
「鉄郎様のいぢわるっ」
すぐ目の前で、フィーが子供っぽく頬を膨らませて見せるが、俺は構わず皿に乗っかったものを口の中へと放り込むと、ご飯で流し込んだ。
「はい、どうぞ」
見極めたようなタイミングで差し出されたお茶を、感謝の言葉無く受け取る。
「おかわりします?」
その問いだけには首を横に振って答え
「そうですか。
あ、食器は私が片付けますので、そのままで大丈夫ですよ」
食器を手に、席を立とうとした俺にかかるフィーの言葉。
俺は手早く自分の食器を積み重ねると、流し台へと席を立った。
なんなんだこれは。
酷く歪だった。
まるで俺だけがこの時間に取り残されたかのよう。
フィーだけがあの時間、俺が罪を犯す前の時間へと遡てしまったかのようで。
得体のしれない恐怖を感じた。
食器を洗い、この5日間、定位置としてきた壁の側に腰を下ろした。
今までとは違う意味でフィーの方をまともに見る事が出来なかった。
それでもなんとか視界の隅で覗き見た彼女はまだ食事中。
ときおり、自分の作った野菜炒めの苦さに耐えかね、お茶で流し込みながら。
と、俺の視線に気付いたフィーが、笑顔で言った。
「鉄郎様。
今日は、何処へ行きましょうか?」
――、
「……行かない、
何処へも――」
彼女の笑顔から目を反らし、なんとか絞りだした俺の答え。
「そう、ですか」
フィーは俺の回答に少し寂しそうな色を声に乗せ返し、
「じゃあ、今日は、一日、部屋でのんびりしてましょうか!」
続けて、元気な声でそう言った。
それはそれできっと楽しい、そう言わんがような彼女の声。
今日『も』だよ、
心の中、そう訂正しながらも、俺は今日も己が膝に顔を埋めた。
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自分達はいったい何をしているのだろうか?
親父に助からないと宣告を受けた夜に、少しでも体を休めておいた方が良いであろうフィーを腕の中抱きかかえ。
夜の裏山。
山頂の公園を目指し、俺は石段を駆け上る。
「てつ……ろう様っ
あ、あぶないっですよ」
腕の中、振動が激しいのか、切れ切れになんとか言葉を紡ぐフィー。
「――黙ってろ」
だが、まだ半分以上残る山頂までの石段。
すでに根を上げかけている俺の体、荒い呼吸の合間を縫って、俺はぶっきらぼうな言葉で彼女を制した。
「で、でも――っ」
尚もごねようとするフィーに感じた微かな苛立ちすら原動力に、俺はまた一段階段を蹴った。
高校時代に根を詰めていたサッカー。その時に鍛えていた俺の筋力は、明らかに鈍っていた。
一段登るたび、確実に重くなっていく俺の脚。
けれども、止まる事は許されない。
苦しいのをひたすらに我慢し、俺は上がらぬ足をそれでも前へと送り出す。
理屈ではない感情。
身体が限界を訴える都度、名状しがたいその感情が俺の足を動かした。
ただ前へ、
ただ上へ、
どれくらいそんな事を繰り返したのか、
いつしか、見上げた先、山頂は迫っていた。
「あと、少しです――っ」
俺の腕より逃れる事を諦めたフィーが、応援の言葉を送ってくれた。
「おお――っ!!」
ゴールが見えなければ、そのラスト20段は、果てしなく遠かったのだろう。
俺は全ての力を使い、残された階段を駆け上った。
そして
「……ま、前の、時より……疲れたぁ、」
それを辞世の句にする勢いで、山頂で倒れこむ俺。
倒れる前に地面に降ろしておいたフィーが、俺の側にかがみ込むと、
「自分で登りますって言ったのに」
ふくれっ面を見せながらも、浮かべた苦笑。
彼女は、ありがとうございます、と続け俺の名前を口にした。
吐く息はぜーぜーと、返事を返す余裕のまだない俺へと伸ばされたフィーの手が、優しく俺の頭を撫でる。
「……俺は、
どっかのガキかよ」
愚痴る。切れ切れに、それだけを。
それでも、案外心地良かったそれを、俺は止めようとは思わなかった。
冬の風が心地良いほどに火照っていた俺の体。
けれども、それはフィーの体には良くないはずだ。まだ荒い呼吸を強引に抑え込み、俺は彼女の真意を問う。
「で、ここには何が?」
以前、この場所を調べた時には何も見つけることはできなかった。
今日、帰ろうと言う俺の意を押しのけ、ここまで彼女が来なければならなかった理由とは何なのだろうか。
『……明日には、来れなくなってるかも知れないから』
階段を登る途中、フィーの言った言葉。
そんな言葉ではなく、俺は別の理由が知りたかった。
けれども、フィーはあっけらかんとした感じで答えた。
「何もありませんよ?」
「……はぁ?」
溜まらず声が荒くなった。
「強いて言えば、ブラントとすべり台と砂場があります」
まるで観光名所を案内するバスガイドのような仕草で、公園にある遊具を指差すフィー。
どうでもいいが、『ブラント』ではなく『ブランコ』である。
とりあえず程度に一応訂正だけは入れると、
「あれ? 私、間違えて覚えてたんですね」
そう言って能天気そうに頭をかき、笑うフィー。
けれども、彼女は俺の最初の問いには答えては居ない。
いや、あの答えが全てなら、やはり、家に帰り暖かくしている方が随分と良いに違いないと思えた。
「フィー、あのなぁ……」
憤りをそのままにフィーに歩み寄る。
認めたくは無いが、既に彼女自身が感じている自身の最期。短すぎる残された時間。
こんな寒空の下、なおさらに、自身の命の灯を縮めるような行為を俺は見過ごすわけにはいかない。
今からでも遅くはない。俺は無理やりにでも彼女を連れ帰ろうと、ブランコの方を眺めているフィーの小さな肩に手を伸ばし――
触れたその肩が震えていた。
それは、外気の寒さだけが原因ではない事は、容易に理解できた。
触れた彼女の肩から流れ込んでくる、その小さな体に今まで懸命に封じ込めていた恐怖や不安。
錯覚かもしれないが、俺の手は、確かに彼女の心の不安に今触れている、と感じていた。
「……」
言葉を失った。
考えるまでもなくそれは当然だ。
死を恐れぬ者などいない。
それは、異なる世界の彼女にしても同じだ。
フィーは、本当はずっと怖かったんだ
だというのに、彼女は今日まで俺の前では笑顔であり続けた。
残された時間を、楽しかった想い出で埋め尽くす為だったのか、それとも、認めたくない現実から眼を反らす為だったのかまでは俺には分からない。
けれども、親父の診断を受け、俺にそれを知られ、フィーは、その偽りの仮面を被る必要が無くなった。
今まで張り詰めていた彼女の琴線が、遂に切れようとしているのだ。
「――」
何か言わなければいけない。
「鉄郎様、」
話題が無くても無理やりにでも抉じ開けようとした俺の口、その先をとってフィーが俺の名前を呼んだ。
合わせた様なタイミング、一瞬、言葉を失った俺だが、慌ててなんとか「おう?」と努めて平常な返事を返す。
「もう一つありました」
「ぇ?」
「ここに来た理由」
そう言いフィーが見上げた上空。
つられる様に見上げた俺の視界には、既に日は沈み、西の空に僅かな朱を残すばかり――
冬の澄んだ空気、無数の星達が輝いていた。
「こっちの世界って、私の世界に比べて、あんまり夜に星が見えないじゃないですか?
でも、ここなら、ほら、こんなに一杯――」
夜、いくら静まれど、完全に眠る事のない街。
今、両手を広げ空を仰ぐフィーと俺の頭上には、そんな街の光に遮られ眼にする事の出来ない小さな星達も懸命に輝いていた。
ああ、そうか、
最初、フィーが目覚めた時、街の灯かりに心底驚いていた事を思い出す。
だから、恐らく彼女の世界では、夜は街も眠るのだろう。俺の田舎と同じように。
街の光に邪魔されて、星の輝きが見えない。
そんな常識も、そもそも異世界のフィーには理解できない事。
だから、彼女にとっては、この場所こそが、世界一、星が美しく見える場所。
フィーがこの世界に『生まれ落ちて』僅か一ヶ月と少し。
彼女はものすごい速度で多くのこの世界の事を学んできた。
テレビの中に人が居ない事を納得した。
信号機の青の意味、黄色の意味、赤の意味を知った。
ああ、あの時は黄色の点滅信号に首をかしげていたっけか。
電子レンジのチンという音にも悲鳴をあげなくなった。
まるでテスト直前の詰め込み勉強のようだ、彼女のこの世界の常識は。
常識と常識を繋ぐラインは欠損し、必要な事象の起因と結末だけそういうものだと、ただ漠然と知っている。
そんな彼女が、不憫に思えた。
世界を知れど、上辺だけ。
理解できず、ただ知り。
分からない部分は己の知識で補完し、足りない部分には目を瞑り、たとえそれが間違っていても気付けない彼女が。
フィーはまだまだこれから多くの事を知っていく。
だから、まだ駄目なんだ。
まだ、死んでは駄目なのに――、
「鉄郎……様!?」
気がつけば俺はフィーを後ろから抱きしめていた。
「……」
言葉はない。
ただ、少しでも彼女から零れ出る魔素が、少なくなるように、そんな願いを込め俺は抱きしめる腕に力を込めた。
抵抗されたら、素直に離すつもりだった俺の腕をフィーは跳ねのけなかった。
それどこそか、彼女の首の前で組まれた俺の手に、フィーは彼女の両手でそっと触れると――
「ブランコ、
あれの名前は、ブランコで良いんですよね?」
フィーの視線の先には、誰もこぐことのないブランコが一基。
彼女の問いに、俺は無言で肯定を返した。
「そうですか、
……よかった。私、危ないところでしたよ」
腕の中、フィーの声は明るく、けれど、彼女の肩の震えは収まらず、
「あっ、あのままっ、私っ……
元の…世界に帰ったら……間違えて……鉄郎様から教えて頂いた事をっ間違えてっ……」
肩の震えは収まらず、やがてそれは彼女の声にまで感染していく。
抱きしめたフィーの体。触れ合った場所より流れてくる痛いくらいの彼女の気持ち。
俺は、溜まらず彼女の肩に顔を埋め――
「私っ――帰る事もできません……でした。
このっ世界に……留まる事も……できませんでした……、」
フィーは泣いていた。
泣きながら、笑顔の仮面を脱ぎ捨てたフィーが叫ぶ。
「嫌ですっ、いや――、私、まだ、死にたくないっ
消えたくないですよっ!
鉄郎様――!!」
ぼきり――
俺の耳だけに聞こえた歪な破砕音。
その音には聞き覚えがあった。
過去にも一度だけ耳にした事のある音だった。
それが何なのかを、俺は知っている。
今、まるで少女の様に、泣き叫び、死の恐怖に怯えているフィー。
それは、彼女の心の鉄芯が折れた音だ。
俺が過去に折ってしまったもの。
フィーだけが未だ持っていてくれたモノ。
それが、今、彼女の中からも消え失せてしまったのだと、俺は理解した。
腕の中、誰かが泣いていた――
これは誰なのだろうか、と思う。
肩に埋めた俺の顔、彼女の心地よい香りが鼻腔をくすぐった――
あんなにも自分が憧れていたものは、なくなってしまったのだろうか?
腕の中の彼女は、とても小さく、そして暖かかった――
もう腕の中のこれは、抜け殻なのだろうか?
腕の中の暖かい彼女は、今は深い悲しみに囚われていた――
この少女に、もう鉄芯はない。
俺の腕の中の、温もりを返す彼女は――
これは誰だ?
これはフィーだ――
俺の、俺が無くしてしまったものを持つ少女だ。
彼女の中の鉄芯はもう無いのに?
そんなもの関係ない――
あんなにも焦がれた俺の無くしたもの。
怠惰な日常に溺れながらも、焦がれ、求め、出来る事ならもう一度取り戻したかった俺の信念。
全ての情熱を注いだものを諦め、ただ、両親から逃れるために今の場所を望んだ。
だが、俺はずっと探していた。
あの時、無くした鉄芯を、俺はずっと探していた。
そして、俺は再びそれを見つけた。
それは、『私は必ず帰ります』と、過去の俺が持っていたものとは形は違えど、根底は同じ、揺ぎ無き頑なな彼女の意思で。
失って気付いた。
抜け殻のようになってしまった自分。
それが、どれほどまでに大切だったかを。
だから、俺はフィーを求めていた。
それを今さら否定はすまい。だが、
ならば、尚の事、腕の中のそれは用のない抜け殻だ。
それは違う――
違うと、思う。
彼女と過ごしたこの一ヶ月と少し。
俺は本当に楽しかった。
それはなにも、彼女が俺の無くしていたものを持っていたからではない。
時には、その彼女の強き意思を恨んだ事もあったじゃないか?
彼女が『帰る』事を諦めれば、そう願っていた黒き感情は、どこから湧き出たものだ?
彼女の鉄芯は折れてしまった。
己が死を目の前にして、叶わぬ願いを諦めてしまった。
だからこそ、
そんな今だからこそ、俺は彼女に言わなければいけない。
多くの無償の温もりで、俺を包んでくれた彼女だからこそ。
「フィー、君に聞いて欲しい事がある――」
俺は彼女の体を解き放ち、両肩に手を乗せ、ゆっくりと振り返らせた。
彼女の顔は、酷く涙で汚れていたが、俺にはそれすら美しく思えた。
いつしか、落ち着いていた俺の心臓が再びバグバグと脈打ちだす。
はやる心を無理やりに落ち着かせ、俺は一度大きく息を吸い込むと、
折れた鉄ならば、もう一度打ち直せば良い。
鉄溶かす熱ならば、今、俺の胸に熱く滾っている。
「フィー、
俺は、君の事が――」
――不意に、空を見上げた。
大切な、大切な言葉の途中だというのに、
どうして俺は、その言葉を投げ出してまでも、空を見上げているのだろうか?
既視感を感じた。
いや、それは既視感ではない。
これは、以前、そう、フィーと俺が出会った日にも体験した――
これは何だ?
寒気すら誘う異質な雰囲気。
慌てて戻したフィーへの視線。けれども、俺の視界の先、フィーもただただ上空を眺めていて――
彼女は呟く。
「来……た」
何が?
そう問う暇もなかった。
激しい光の奔流が空より降ってきたのだ。
音は何一つなく、それでも、体にまとわり付くこの奇妙な光。
光の奔流により俺の体は地面へと叩きつけられた。まるで滝行のように重いその光の波が、俺の体を打っていた。
だが、この質量を感じているのは俺だけなのか、見上げる先には立ったままのフィー。
倒れた俺に気付かないのか、未だ、この光の先、はるか上空を眺めているフィーの姿で。
声が聞こえた。
『――見つけました。
健在ですか、フィー?』
男の声がした。
その声に、全身から鳥肌が立った。
嫌な予感がした。
「――はいっ!
私です。フィーです!」
弾かれたように、フィーが声をあげる。
『そうですか、無事なようで安心しました。
本来ならば、そちらの状況を確認すべきところなのですが、
生憎、この魔法では余り時間は取れないのです』
光の向こう側からの声は、淡々と言葉を紡ぐ。
『そこで要点だけを簡潔に伝えます。よろしいですね?』
「はいっ」
誰だ、と声にならず呻く。
何だ、と心がざわつく。
意味も分からず嫌な予感だけが大きくなっていく。
そんな俺の心中に構わず、その声は続けた。
『今日より7日後、今度は儀式魔法で今回よりも大きな穴でそちらの世界とこちらの世界を繋ぎます。
時間的には、そちらの時間で日が変わる瞬間になります。
その時間にもう一度、貴女はその場所に訪れる事は可能ですか?』
「は、はいっ!」
弾かれようにフィーの返事が光の向こうの誰かに返される。
身を起こす事すら叶わぬ光の渦の中、フィーと誰かが、『フィーが元の世界に帰る算段』をしているのは明らかで。
帰るのか……
『帰れるのか』ではない、俺は、その時『帰るのか』と思った。
心の中に、ぽっかりと穴が開いた気がした。
けれども、それは耐えなければいけないもの、と俺は奥歯を噛み締め耐えた。
あの日の誓いは、まだ俺の中で生きていたから。
己の命が長くない可能性に気付きながらも、その悲しみに耐え、この一週間彼女が俺に微笑みかけてくれていたように、俺には笑顔で最後の日まで彼女を見送る義務がある。
そうさ、それが一番良い事なんだっ
拳を握り締め耐えた。
そう思えば、このタイミングで良かったのかもしれない。
異世界の誰かが彼女に連絡を取る為に使ったこの魔法、この光が後一瞬遅かったならば、俺は彼女に想いを告げていた。
そうなれば俺はもう止まれなかっただろう。
帰ろうとするフィーを、見送れるほど、本当の俺は強くないのだから。
俺はせめて最後に、自らの世界に戻れることを喜んでいるであろうフィーの顔を少しでも心の中に留めておこうと、
彼女を見上げ――
「ありがとう、エドリック……、
本当に、助かりました。」
『なに、フィアンセとして、当然の事をしたまでだよ』
……
…………
………………
……………………
……、……?
「……ァンセ?」
一瞬で全てが吹き飛んだ。
清清しいほどに、さっぱりと。
「――っ!!」
エドリックと呼ばれた男の言葉を繰り返した俺。
その声に気付いたフィーが、凄まじい速さで俺を振り返ったのが――笑えた。
彼女の顔が、驚愕に歪んでいた。
それもまた――笑えた。
視界が歪むのを、俺は堪えきれず、俺は地に頭を擦り付けた。
『それでは、7日後――』
俺の囁きは、向こうまで届かなかったのか、それとも、俺の声は元から届かないような魔法なのか。
一瞬で消え去った光。
俺の身を拘束していた得体の知れない圧力も、それと同時に無くなった。
冬夜の公園が戻ってくる。
虫の音一つなく。
人影もない。
星空は綺麗なのだろうが、今の俺には見えない。
互いに言葉を発しないまま、どれくらいそうやって居たのだろうか。
先に動いたのは俺だった。
「よっこいしょ」
等と、おどけた調子で立ち上がると、フィーを振り返り「そろそろ、帰ろうか。」微笑みかけた。
俺の声を受け、フィーもようやく笑顔で答えた。
「え、ええ」
「よかったな。
一週間なら、きっと全然間に合うよ」
口よりも、時に言葉を多く語る彼女の瞳。
そこに一瞬過ぎる悲しみは、恐らくは、この世界との別れを、少しなりとも惜しんでいるからなのだろう。
けれど、安心していいよ、フィー。
忘れさせたりなんかしないから。
俺が刻み付けてあげるよ、深い深い想い出を。
フィー。
君は俺を持って帰るんだ。
一生掛けても、忘れ切れない、そんな想い出を。
俺は仮面をつけた。
仮面したから俺の笑い声が響く。
けれども、その仮面の下にあったのは、果たしてどのような表情だったのだろうか?
そして、あの夜が起こった。
あの日あの時に起こった事は、思惑通りフィーの心を深く傷つけた筈だった。
けれども、今、フィーは俺の前で笑っている。
「――それで、あの時は、絶対、次こそ美味しい料理を食べさせてやるーってですね。
聞いてます、鉄郎様?」
笑いながら一方的に、俺とこの世界で過ごした思い出を話すフィー。
俺は、聞いていない、という意思表示代わりに、顔を膝に埋めて見せたが、
「そう、あの時は、まだガスコンロの使い方なんか知らないわけじゃないですかー?」
膝の向こうから聞こえてくるフィーの元気な声は止むことを知れず
「いかにこの世界の科学が素晴らしくてもですね、使いこなせないと意味ないというか不要不急の長物というんですか――」
元気な声が一つ、狭い部屋にずっとずっと響いていた。