第6話「第5夜」
――歌が聞こえる
――7Days 『 第 5 夜 』 ――
「ご迷惑、お掛けしてしまい、申し訳ございません――、」
「……」
背中から聞こえてくるフィーの控えめな声に、俺は何も答えることが出来なかった。
『気にするなよ』
『こんなの迷惑でもなんでもない』
『フィーが俺に迷惑をかけるのなんていつもの事だろ?』
返すべき言葉は、いくつも浮かべど、堅く閉ざされた俺の口は何も声を発することができないでいた。
俺の沈黙を誤解したのか、
「まだ……痛みますか?」
躊躇いがちな彼女の声が、また背中から聞こえ、俺はなんとか首だけでそれを否定する。
「そう、ですか。良かったぁ」
対するフィーの安心したような声に、
――何が良いものか!!
俺は叫びたくなった。
良い事なんか何一つなかったじゃないか。
苦渋の末の選択だったというのに、得られた結果は改めて絶望を突き付けられただけだ。
こんなのはあんまりだ。
こんなのは酷すぎる。
不平が、不満が、怨嗟が、喉の奥まで迫り上げるそれは一度口を開けば飛び出してしまいそうな程、沸々と滾り、
だから、俺はじっと口を閉ざしたまま。
『このままだと、恐らく一か月と持たないだろうな。』
父より突きつけられたそれは、余りにも酷な現実だった。
ある日、フィーが突然の高熱を出した。
彼女の発熱は、一向に下がる気配を見せず、それどころか様態は日を追う毎に酷くなっていった。
フィーの耳は俺達のそれとは異なり、長く尖っている。普段は髪の中に隠しているその器官は、彼女が異世界からの来訪者である事の証明だ。
そう、こんな事態になるまで意識しなかったが、俺と彼女とでは種族が異なるのだ。いや、この場合は、俺達と言うべきか。
彼女らエルフが彼女らの世界でどのような進化を辿り自分に似た姿へと至ったのかは分からない。だが、臓器や骨格、そういったものが根本的にフィーと俺達とでは異なっている可能性もある。
つまりは、彼女を、医者に診せる事が出来ないのだと、俺はこのような事態になってようやく気付いたのだ。
医者に診せたとて正しい診療結果が得られるとも限らない。
それどころか何かのサンプルや実験動物のような扱いを受けないとも限らないのだ。
だから、俺は自宅で寝込むフィーの看病するしかなく、
だが、自宅で看病をつづける事3日目。
彼女の様態は回復するどころか悪化の一途を辿り、俺はひとつの決断した。
決めるが早いか、弱る彼女の手を握り、時に背におぶり俺。電車とバスを乗り継く事二時間、俺は自分が知りうる中で最も信頼の置ける病院へと向かった。
例え彼女がどうであれ、決して口外しないであろう、医師のもとに。
信頼に足る医師。
それは、田舎で診療所を開設している俺の親父だ。
皮肉な話だが、医学会から干されている彼ならば、いかにフィーの事を報告しようとも、堕ちた人間の妄想と一笑の元、切り捨てられてしまうだろう。
事情は何も聞かないでくれ。
彼女が何者かも話せない。
お金も今すぐには無理だ。
急な俺の帰省に面食らった母と、相変わらず不機嫌そうな面、眉すら動かさない親父を前に、俺は無茶苦茶な要求を頭を地に擦りつけ押し通した。
日ごと弱るフィーの為に、出来る事は何でもしてあげたかった。
自宅で療養していた間、俺は結局のところ何もできず、ただただ無力で、忌々しいほどに歯がゆかった。
だから、もう帰らないつもりでいた実家への帰省も、親父への土下座も、その自責の念に比べれば何の苦でもなかった。
久しぶりに顔を見せた息子の土下座が利いたのか、それとも医者の端くれ、辛そうなフィーの表情に予断がない事を感じたのか、あっさりと俺の申し出を承諾した親父は可能な限りの診察を彼女の為に行ってくれた。
診察、聴診、レントゲン検査――
十分とはいえない田舎の診療所の機材をフルに使い、やがて親父が出した結論が、冒頭の言葉。
『このままだと、恐らく一か月と持たないだろうな』
だった。
――ふざけるなっ!!
俺は親父に噛み付いた。
声を荒げ、俺は彼の言葉を否定した。
否定できるだけの要因は十分だ。
ここは田舎の診療所だ。
設備も不十分で、技師と呼べるスタッフもおらずレントゲンを撮るのも親父と母親。
加えて厳密な意味で医師と呼べる親父は一人で、その親父はと来たら呑んべでヤニ中だ。
中学の頃ならともかく、今ではすっかり追い抜いた身長。
俺は親父の襟首を両手で掴むと、何度も乱暴に揺さぶった。
俺を背後から抱き、必死止めようとするフィーが何か叫んではいるが、その時の俺には届かなかった。
『自分が医者になっていれば――』
嘗胆の念すらあった。それらをすべて我慢して俺は頼ったのだ。この親父に。
だというのに、
――がすっ、
という嫌な音と共に、俺の視界がもの凄いスピードで流れた。
壁に激しく打ち付けられ、それで俺はようやく、親父に殴られたのだと理解した。
今まで何度も怒られた事はある。
診療所内で遊んでいたときなどは、容赦なく頭を殴られたものだ。
けれども、これ程までに強く、殴り飛ばされたのは初めてだった。
呆けたように見上げた親父の顔。
そこにあったのは、怒りでも、憎悪でもなく――親父は言った。
正直、俺にも生きているのが不思議としか言いようがねぇ。
厳密な検査など受けさせるつもりはないのだろう?
だったら出せる診断は、それ以外にねぇ。
いいか?
この子の体には正常な部分が殆どねぇ。
癌細胞の巣窟のようなもんなんだよ、この子の体は。
いや、癌細胞を蝕むように、正常な細胞が『生まれてきている』ようにすら感じる。
こんな病例は見たことがねぇ。見たことがねぇというより、あり得ないんだ。
俺が信用できないなら他の医者をあたって見るがいい、なんなら信頼できる医者を紹介してやっても良い。
けれども、どこに行っても同じ診断を下されるだろうな。
診察室の中だというのに、構わず火をつけたタバコを口に、俺に向けられたはずの言葉のはずなのに、診察室に吐き捨てるように放たれたそれに、俺はもう返せる言葉などなかった。
親父の瞳を見てしまったから。
彼の瞳は、雄弁に語っていた。
――自分にこの子は救えない
親父の瞳に映るのは、ただ自分の無力である事への悔恨が。
それは、親父を頼るしかなかった自分もきっと同様で。
『……』
そんな表情を見てしまったら、もう俺は何もいう事ができない。
気がついたときには、俺はフィーの手を握り、その現実から目を背けるよう診療所を飛び出していた。
バスに乗り、電車を乗り継ぎ。
俺達は今朝来た道を戻る。
収穫は無し。むしろ手に入ったのは、想像以上の絶望のみだ。
「びっくりしちゃいましたね」
「……」
まるで他人事のように、フィーが言った。
けれども、その声から感じたのは、見たくない現実を否定したい、というよりも、どこか他人事、あるいは達観したような感を思わせた。
「……落ち着いてるな」
時間にして15時ごろ。
そんな時間に、小柄な女性――見方によれば少女――を背負い、慣れたボロアパートを目指す俺達は、それなりに人の目を集めてしまう。
心配げな目、奇異の目、一瞥をくれるだけで、厄介事は御免だと逸らされる目。
それら全てを無視して、一度大きく息を吸って心を落ち着かせた。
あの時と同じよう、触れたところから流れ込んでくる彼女の温もりは、自虐であれ絶望であれ、ネガティブな俺の心に安息をくれる。
「空気が合わないなら……、こういう可能性もあるなって、考えてましたから」
排ガスの事か?
なら、さっきの俺の実家のある田舎はどうだ?
フィーが望むなら、大学などやめて帰ってもいい。
親父や母親からは、またこぴっどく言われそうだが、それだって我慢できる。
そういう意味ではない事を分かっているにも関わらず口にせずにはいられない俺の言葉を、彼女は静かに否定した。
「……私の世界に比べて、こちらの世界は、魔素が希薄なんですよね。
それは、目が覚めた頃から気がついてましたから」
魔素、というのは、魔力の源のようなもの。
どうやら彼女の世界には多く存在し、空気中、地中、そして人、動物、植物の中に、均等に含まれている物質なのだ、と彼女は言う。
「私たちの魔法は使用する都度、体の中の魔力を消費します。
そして、消費された魔力の補充は、空気中や周囲の動植物の中に存在する魔素からゆっくりと時間をかけて行われるのです」
本当は、あまりしゃべらすのも良くないのかもしれない。
けれども、彼女の話す内容に、少しでも状況を改善させる為の可能性が隠れているかもしれないと、俺は押し黙って耳をすませた。
「それに気付いたのは、10日程前。
私の体の魔素の密度が、減っている感じがしたんです」
それはちょうど、俺が図書館で本読み係をさせられていた頃だろうか。
「最初は、気のせいかな、って思ってたんですけど、
その日も、次の日も私の中の魔素は、どんどんと薄くなっていきました」
あの頃の彼女は笑っていた、と俺は記憶している。
己の心の弱さを発露させ、それに苦しむ俺を、温かな両手で包み、救い出してくれたりもした。
「それで、気付いたんです、私。
魔素というのは、空にも土の中にも、勿論、動物、人にも『均等』に含まれているもの。
そして、この世界の魔素は極めて薄く、」
あの頃から、己の身に起こった異変を、ずっと隠してきたというのか?
あの頃から、死ぬかもしれないという恐怖を、あの笑顔の下に押し留めてきたのだろうか?
俺は、気付けなかったのか?
「魔素は、均等に世界を満たすものです。
そもそも、30日近くも、私の中に滞在している事のほうが、おかしかったんですよね」
そこまで言うと、何がおかしいのか、今度は背中から、小さなフィーの笑い声が聞こえた。
「……死ぬのか?」
思考を巡らせ、いい言葉が思いつかなかった為、極めて端的に問うた。
魔素の話までは理解できた。
けれども、それが彼女の体から、無くなったところで、俺には、それが『死』と結びつくイメージが沸かない。
それに、今の話が正しければ、俺やこの世界の住人達は、ずっと希薄な魔素の元で生活してきているのだから。
「……」
背中から、帰ってくる答えは無かった。
その無言が、俺の問いを肯定しているのか、それとも、彼女自身にも分からないと言っているのか。
俺に出来るのは、後者である事を祈る事のみ。
だが背中の彼女が見せる衰弱は、俺の希望的観測を否定していた。
答えのないまま俺は歩く。
自分で歩けますよ、と苦笑交じりに言う彼女を無理やりに背負い、俺は、後悔の焦点すら絞れずに居た。
もしも、俺に学力があり、医大進んで居たとすれば、果たして彼女を救えたのかもしれない。
――だが、その代償は、フィーと出会えぬ今が待っているのならば、
もしも、俺が彼女が元の世界へ帰る方法を見つけ出していたならば。
――彼女自身が言った。元の世界に帰る方法を知らない、と。
それを魔法一つ使えぬ自分が、どのようにして何を探せばよかったのか?
もしも、俺がフィーを助けていなければ。
――替わりに誰かが彼女を受け止めていたのだろうか?
そいつとフィーは暮らすこととなる?
そんなのは死んでも嫌だった。
所詮は自分はエゴイストでしかない。
俺はフィーと居たい。
生きているフィーと、ずっと一緒に居るのは、自分でありたいのだ。
彼女に抱きしめられたあの日、心の奥底に隠し切ったはずの彼女への感情に再び火を灯るのを感じた。
けれども、それは、あの時のように、荒々しく俺の心を乱すことは無かった。
何故なら、俺の心の中は、既にボロボロで、
――フィーが死ぬ
――フィーが消える
――フィーが居なくなってしまう
吹き荒れる嵐が、耳元を抜けるたびに、現実を俺に叩きつけていたからだ。
と、背中のフィーが大きく身じろぎした。
反動で、彼女の体がズレ落ちそうになり、慌てて抱え直そうと体を動かすが、
「あ、下ろしてください……。
歩きます。歩きたいんです」
仰ぎ見た、歩く道の先にはもう僅か数十メートルの距離に俺達のボロアパート。
俺は、慎重に彼女を地面まで下ろすと、彼女はゆっくりと俺の前に回り込み、そして笑った。
今も彼女を襲っているはずの倦怠感や苦痛。それを微塵も感じさせないような笑顔で、彼女は言う。
「鉄郎様。
裏山、行きませんか……?」
長い長い石段を、金髪の妖精が踊るように軽やかに登る――のは、数週間前に見た俺の幻影。
そろそろ青くなり始めた西の空を仰ぎ、出来る事なら、早く家に帰り、少しでも暖かい場所で休ませてあげたい、と少し焦る。
寒空から視線を戻し、差し出した左手に握られたフィーの白い手。
その先、俺に手を引かれる格好で、一段一段、必死に石段を踏みつけ山頂の公園を目指すフィーの表情が青いのは、何もこの寒気のせいだけではない。
「……何処まで行くんだ?」
大よそ答えの分かっている質問を投げる。
当然、答えは「山頂の公園まで、」
「以前、来たとき、何も無かったのは確認しただろう?」
それに、今日はもう時間も遅いし、
溜息と共に、彼女の気変わりを促すも、俺を見上げた瞳には、頑なな意思の光。
「なぁ、戻って今日は安静にしておこうぜ」
見下ろす瞳の色は変わらない。
「疲れただろ?
帰る手段探しは、また明日からでもいいじゃないか?」
フィーの首が静かに横に振られた。
彼女は俺から手を離すと、その手で石段の横に設置された手すり、それをしっかりと掴んだ。
そして、一歩。
また一歩。
その場から動けずに居る俺の隣を、ゆっくりとした動作で彼女は登っていこうとする。
「――なんでなんだよっ!!」
気がつけば、俺の叫び声が響いていた。
「親父の診断聞いたんだろ!」
憤り隠すことなく、ぶつけた自分の気持ち。
――今日は、かえって安静にしよう。
けれども、フィーの足は止まらない。
決して前に進む足を止めず、俺の隣を通り過ぎる瞬間、彼女の小さな声が聞こえた。
「……明日には、来れなくなってるかも知れないから」
「――っ!!」
――くそっ
――くそっ
――くそっ!
こんなのあんまりじゃないか!
彼女と過ごすようになって、彼女と暮らすようになって、俺は実に多くの未来の可能性を模索した。
無事に、自分の世界に帰り、周囲の笑顔と共に過ごすフィー。
取り残された俺は、それでも思い出を糧にしてつまらない日常を生きて行く。そんな未来。
帰ることの出来なかったフィーは、結局この世界に永住する事となる。
俺は替わらず彼女の隣にいつも居て、せめて彼女の瞳が悲しみで曇らぬようにと毎日面白いイベントを考える。そんな未来。
俺が描く未来には、フィーの死など含まれて居なかった。
あまりにも唐突すぎる。
けれど、フィーは言った。
『10日程前から――』
彼女の変化に気付けなかったのは他でもない、俺だ。
――くそっ
――くそっ
――くそぉっ!
苛立ちだけが募る。
どうしようもない現実。
否定したいが、しようもない事実。
どうすりゃいいんだよ!
答えは出ない。
俺に何ができるんだよっ!
拳を握り締め、青く変わってゆく空を見上げた。
不衛生に伸ばされた爪が、俺の手の平に食い込むが、この程度の痛みじゃ、贖罪にすらならない。
一歩、一歩。
小さな遠ざかる足音。
フィーが懸命に階段を昇る音。
冬の澄んだ空気、街の道行く自動車の騒音届かぬ山の中。
それだけが、俺の耳に聞こえ――
「くそぉっ!!」
叫んだ。
振り返り、フィーとの間に出来た距離を一気に駆け上がると、俺を振り返ったフィーをそのまま、両手ですくうように抱え上げた。
腕の中、フィーの戸惑う小さな悲鳴が聞こえてが、俺は構わず頭上を見上げた。
そこには、まだまだ先の長い石段が、山頂の公園まで続いており――
「山頂に行けばいいんだな?」
「ぇ……あ、はい……」
「だったら――」
だったら俺が君を連れて行く。
闇雲、混乱、困惑。すべてを振り払い、俺は石段を蹴った。
右足、左足、また右足。
休む暇なしに、俺は只管に階段を駆け上った。
腕の中、激しく揺れるフィーの体。彼女はそれを俺の首に両手を回し、振り落とされないよう耐えていた。
――畜生、
――畜生っ
――畜生っ!
胸中を渦巻くやるせなさは、彼女の温もりに触れても、無くなろうとはしなかった。
けれどもそれでいい。
それすら力に変え、俺は1秒でも早く、階段を昇ってやる。
理由はわからない。
本当は、早く帰って布団に入るほうが良いことは明白の利。
けれども、これが君の、フィーの望んだ事なのならば――
フィーは、後どれくらい生きていられるのだろうか?
フィーは、後どれくらいで死んでしまうのだろうか?
そんな事はどうでも良い事だ。
己の無力は、十分すぎる程に知った。
だから、せめて、それでも、俺はフィーの喜ぶ事をしてあげたかった。
足が悲鳴を上げようと構わない。
心が砕けてしまっても構わない。
今は、ただ彼女の為。
俺の愛した女性の願いを、一つでも叶えてあげる為に――
その時の俺に出来た事は、ただ、階段を駆け上る事くらいだった。
*****************************************
――歌が聞こえる
誰かの歌声が聞こえた。
誰かが俺の髪を撫でていた。
誰かが笑っていた。
誰かが俺の名前を呼んでいた。
まどろみの中、
誰かが歌っていた。
その歌は、聞いた事のない歌詞だったが、
それが、愛を詠んだ歌である事は、何故かぼんやりと理解できた。
まどろみの向こう側で
誰かが確かに歌っていた。