第5話「第4夜」
目が回ってきた。
絶食四日目。
人は空腹が進むと目が回るというが、どうやらあれは偽りではないという事を、俺は身を持って知る。
立ち上がり、突如襲ってきたその感覚に、しばし壁によりかかり耐える。
と、視界の隅に、くすんだ緑色の瞳が映った。
未だふらつく体を壁に預け、久々に視線を合わせた翡翠色の瞳。
以前は、その奥を覗き込むだけで理解出来た口ほどに雄弁に語る彼女の瞳。だが、今そこから俺に届く声は一言たりともない。
かわり、というわけではないのだろうが、彼女は口を開いた。
「……ご飯くらい、食べたらどうですか?」
久しぶりに聞いた気がするフィーの声。
一度、息を大きく吸い込む頃には、もう眩暈は治まっていた。
俺は、彼女の声に逆らうように、無言で再び床へと腰を下ろし、
「死んじゃ居ますよ?」
――願ったりだ
心の中だけで、自虐的にほくそ笑む。
「お前こそ、……飯、喰えば?」
俺よりも線の細いフィー。
それは、男と女という差だけに留まらず、人と彼女の種族――エルフ――としての特徴らしいのだが、どう見ても、飢えには明らかに俺よりも弱そうに見える。
そう思うと、フィーの体調が一瞬気がかりになったが、俺は構わず、再び、己の膝を抱え込み丸くなった。
何も食べたくなど無かった。
あんなにも五月蝿く響いたいた俺の胃袋も、ようやく諦めたのか今は気付けばいつからか無音。
狭い部屋、車の交通量の減る夜になれば、聞こえてきていたフィーの腹の音色も、気が付けば聞こえなくなくなっている。
人間、飲まず喰わずでも一週間は持つ、って言うが……
実際に、自分が試したわけでなし、そんな保証はなかったが、今の俺には死んでも構わないという思いがどこかあった。
いや、正直、死にたいとすら思っていた。
このままの状態が続けば、自分は死ぬのだろうか?
死ねるのだろうか?
血糖値の足りていない頭で考える。
そうだ、いっそ消えてしまおうじゃないか。
フィーの前からも、この世からも。
そうなった方が、より強くフィーの中に残れるに違いないのだから。
馬鹿な事を考えている自覚はあった。
でも、その時の俺にはそれが最良の手段のように思え、俺は――
――7Days 『 第 4 夜 』 ――
「……消えちゃダメですよ?」
俺はフィーに恋をしている。
今までも事あるごとに何度も頭をもたげては自制していたこの感情に、今日初めて名前を付けてしまった。
だが、
『自分の世界に帰る』
強い、強い彼女の意思に比べれば、俺のそんな感情など、吹いて飛ぶようなものだ。
結局はこうやって我慢できてしまう程度の俺の想いなど、やはりちっぽけで一時的なものでしかないのだ。
だから、あの日、あの時、あの場所で、俺の心を貫いた激しい衝撃は、恐らく、生涯一度きりのもの。
沈んでいく太陽。
全てが朱色に染まる時間。
これは、そんな中でのひとこまだ。
「収穫なしか――、」
フィーの帰る手段を探し二人して訪れていたのは、私立図書館。
机の上に積みあがった10冊を超える本の山の上に今しがた読み終えた最後の一冊を積み重ね、俺は独りごちた。
どうやら『呪い』とやらは口語は通訳してくれども、文字までは翻訳してくれないらしい。
そういうわけでフィーの目として、本日一日存分に活躍させられた俺は、久々の読書、疲労を訴える眼球を瞼の上から強く抑えた。
読み漁っていたのは可能な限り古そうなファンタジー小説であったり、後はうさん臭さが満載のモンスターやフィー達のような人ならざる者達を図解した辞典のようなもの。
覚悟はしていた事だが、それらの中からはフィーを元の世界に戻す方法のような記載は見つからなかった。
「でも、凄いですね。これだけの本が、『市』でしたっけ? 各都市単位に存在しているなんて、」
俺の言葉を落胆と取って気を使ったのか、はたまた言葉の通り純粋に感動してか、隣からのフィーの声は、徒労に終わったにもかかわらず元気なもの。
先日買ってやった服は洗濯中の為、今日は俺の黒のパーカーを羽織っているフィー。例にちなんで長すぎるその袖を掴むように、フィーはガッツポーズを取りながら俺に笑顔を向けた。
「『市』で、あってるよ。少し遠いけど県立図書館まで行けば、もっと沢山の本があると思うけどね」
図書館という規模では恐らくここはそこまで大きい方ではない。
市役所の一角のスペースといった感じで存在しているこの図書館は、児童書の類が充実していた。おそらくは子供の為に絵本を借りに来る母親に向けての意味合いが強いのだろう。
「やっぱり、この世界は豊かですねぇ」
さて、読み終えた本を本棚に戻してそろそろ帰りますか、と、卓上の本を両手に抱え、持ち切れなかった数冊をフィーが手にしたところで、感慨深げに彼女がそう言った。
――永住しないか?
言ってはいけない言葉をかみ殺し、そう言えば俺はフィーが元居た世界の事を殆ど知らない事に、今更ながらに気づいた。
まだ彼女が来た当初は、食事の度に交し合っていた互いの世界の話。最近では、俺が一方的にこの世界の事を話す事が多くなっていた。
それは、極力フィーに元居た世界の事を思い出さないで居て欲しいという俺の打算的な思いもあっての事だが、
「そういうフィーの世界はどうなんだ?」
図書館が空ぶった事による安堵もあったのだろう。ふと口をついて出たその言葉。振り返り見た俺の目に飛び込んできたのは少し驚いたフィーの表情で、
「……」
「どうした?」
何かあったのか? と周囲を伺う俺に、フィーは単に俺が彼女の世界の事を聞くのが珍しかったから、と返した。
「……正直、気を使って頂いているか、
それとも、貴方の世界で言うファンタジックな私の世界の事が、嫌いなのかと思ってました。」
嫌いな事、あるわけがなかった。だが俺が聞くことができなかった理由は先の通りだ。だが、本当の理由を彼女に伝えるわけにはいかない。
咄嗟に答えの見つけられなかった俺は「さぁな」と曖昧に返す。
「……そうですね。平和で穏やかな世界、だと思いますよ」
やや間をおいて、フィーがぽつりと続けた。
思い出すのは少し辛いのだろうか、横目で見たフィーはやや俯き物憂げな表情。やはりこの話を切り上げるべきか、と迫られた決断に答えを見出すより早く、俺のその視線に気づいたフィーが笑みを返す。まるで大丈夫ですよと言うその瞳に俺は口を閉じ、続く彼女の言葉を待った。
「いくつかの本を見させていただいた感想として言うなら、この世界の方が想像している異世界とは少し異なるかもしれません」
「というと?」
「例えばですね、魔王とかモンスターとか、そういったものは存在しません」
そうか、存在しないのか、と
「残念でしたぁ?」
折角の魔法の存在するファンタジーな世界なのである。そこの住人であるフィーやその他の住まう人々に申し訳ないが、魔王はともかくモンスターが居たりそれと戦う冒険者たちが居たり、とそういう妄想を抱いてしまうのも仕方がない事ではないだろうか。
少しばかりの落胆を隠し――たつもりだったのだが、俺の視界ににょっきりと横から飛び込んできたのは一変して意地悪そうなフィーの笑い顔。
なので俺は極力平静を装うと、別に、と返す。
それにフィーがいずれ帰る世界だ。魔王やモンスターなんて物騒なものは居ない方が良いに越している。
でも――とフィーは前を向き直ると続けた。
「冒険者といった方はいるようです、ね?
主に、古代の遺跡なんかから宝石や色んな宝物を探して生計を立てられている方」
トレジャーハンターと言い変えるなら、本当に一握りだがこの世界にだっている。以前、バミューダ海域で大航海時代に沈んだ船をソナーで探索しサルベージして生活している人達の番組を見たことがあった。ともあれ、そういった連中はフィーの世界でもよほど稀なのだろう。自分は見たことはないが、と注釈の付きそうな言い回しに、俺も自分の知識と照らし合わせて頷いた。
「もちろんそういった方は本当に一部の方で、大半の方々は、畑を耕したり、町や村で働いたり。
狩りで生計を立てたり、農作物を育てたり、それを地方の村で買い付けて街でさばく行商人がいて」
俺にも分かりやすいように、フィーはこちらの世界にも存在する職業や流通の共通点を上手に織り交ぜて、自分の世界のあり様と話してくれた。
「紙や本もありますよ、かなり高価ですけど」
と、
「移動手段はバスとは段違いに遅いですけど、馬車ですね」
と、
「あ、通貨は金貨や銀貨が主流で、紙のお金というのはこちらに来て初めて見ましたよ」
と。
そして
「平和なんです――今は、」
最後にゆっくりと棘を刺した。
「……」
「長かった戦争もやっと終わって、諍いや、小競り合いはまだまだ残っていますけど、
でもみんな、もう十分なはずなんです。きっとそんな事はもうしたくないはずなんです。
……でも、どうしても、それは無くなってくれなくて」
フィーは、語る。
俺の横、並び俺の家への帰路に共につきながら。
けれども、その瞳には俺とは違う何かを確かに映して。
フィーの語る言葉は穏やかで丁寧だ。
だから、俺なんかでは分からない。
その言葉の裏側に、彼女のどれほどの苦しみや悲しみが隠れているかなど。
きっと彼女の居た世界に比べれば、この世界、特に日本というこの国は随分と恵まれているのだろう。
少なくとも、戦争を語る事の出来ない俺には、とてもじゃないが今、自分の世界の様を語る彼女に、何もかける言葉を持てない。
俺が住んでいるこの街は、地方都市と呼ぶにはいささかか小さい規模のものだ。
駅前のオフィス街を抜けると、次にあるのは、今は多くの店が畳んでしまった寂しいアーケード街。
周囲を取り巻くように庭付きの一戸建ての民家や、その合間を縫うように幾つかの小綺麗なアパート群。
北の方角には山々が広がっており、東の麻雀屋敷や俺の住むアパートなんかもこちらの方角になる。
そして山とは反対側へと車で少し行くとどこまでも田園風景が広がる俺の田舎を思い出す景色が広がってる。
そんな小さい街だったが周囲に大学が3つもあるせいか、インフラや娯楽施設だけは整っている。
交通手段も、水も、電気も、コンビニも、寝る場所も、住む場所も、十分に満ち足りた俺の世界。
そんな場所で、無為な日々を過ごす事を決め込んでいた俺にかけられる言葉などあるはずがなかった。
だから、
「あのさ、明日はちょっとだけ大学の講義に出てくるつもりんなんだ」
俺に出来る事と言えば、この話は終わり、と話を逸らす事だけ。
大学とはどのようなものか、自分がそこに通う学生であるという事は既に説明済み。
「あ、そうなんですかー」
先程までの重かった空気はどこかへ、それでも少しばかり残念そうな気配の感じられるフィーの返答が返ってきた。
続き、じゃあ私は家の近所を勝手に見て回ってますね、と、俺が気にしないようにと笑顔で見送ってくれるおまけつき。
「でも、こちらの世界の方は本当に勤勉ですね」
「いや、別に勤勉ってワケでもないと思うけど」
勉強がしたくて大学に行っている連中には悪いが、少なくとも俺の周囲ではそうじゃない面子の方が多く揃っていた。
高校の延長、就職の先延ばし、遊ぶ時間欲しさ。
そして、俺のようなただの逃げ先。
これを勤勉と称するのは本当に勤勉な人達に失礼だ。
「それが分かったの割と最近なんだけどよ」
だから俺はそういう前置きを入れてから続けた。
「誰かと同じってのは案外、ほっとするモンなんだよな」
「……?」
急に何の話か、フィーが少しきょとんとした表情で首を傾げた。
「集団の中に居て、その集団が全員が右に歩いてるのに、俺だけ左に歩くってのはきついんだよ。
それならいっそ自分の目的なんて捨てて、周りに合わせて右に歩いてく方が、楽なんだ」
こんな弱いところを彼女に見せたら幻滅されるだろうか。ましてやあんなヘビーな話を聞いた直後だ。
けれども、ここで何も言わなければフィーに誤解されたままになってしまうのが嫌で、滑り出した口、もうどうにでもなれと言葉を続ける。
「皆が高校に行くから自分も行って、
皆が大学に行くから、自分も行って、な。
俺もそうだよ」
自分はそんな人間で、君から決して褒められたりするような人間ではないだ、と。
――お前には、鉄芯が通っている、
祖父に言われ続けた言葉。
これだと決めた事は決して譲らぬ、頑なな男になれ、という願いを込められた俺の名前。
だが、その鉄芯はもう三年も昔に折れてしまった。
今の俺はただ周囲に流されるだけのどこにでもいる人間で、そんな大層な想いには応えられない。
ただ講義に出席し、単位を取って、大学を卒業して、きっと普通か普通よりちょっと下の会社に入って、
――お前には、鉄芯が通っている、
この頃やけに祖父の言葉を思い出す。
なぜだろう、と悩む必要すらなかった。
フィーだ。
祖父の言葉を思い出すようになったのはフィーと出会ってからだ。
祖父は、頑固で堅物な人物だった。
もしかすると高校時代の俺がそのまま年を重ねていたらああなっていたのかもしれない。
同時に、俺の唯一の理解者でもあった。
中学の頃、クラスの中でいじめがあった事を知り、その元凶であるいじめっ子と取っ組み合いの喧嘩をしてしまった時、学校に呼び出された俺は教師と親父の双方からの集中砲火を受けたが、その際も俺の言い分を理解し、謝ることはないと言ってくれたのは祖父だった。
サッカーというスポーツに出会い、惚れこみ、庭で夜遅くまで練習に明け暮れていた時も、縁側に腰かけただただじっと見守ってくれていたのは祖父だ。
だが、その祖父も俺が高校へ上がる頃には、この世を去っていた。
そして、その時から俺の味方は周囲に誰一人と居なくなった。
スポーツよりも勉学を。それが教育方針だった俺の両親は、俺に勉強しろと日がな煩く言った。
確かに、将来を見ればスポーツで生計を立てれるなど一握りの人間だ。自分自身あのままサッカーを続けていてもその一握りの人間になれていたなどとは思わない。
だが、俺の両親が俺に勉強を強いた理由が、それだけではない事を、当時の俺も知っていた。
俺の生家は、個人経営の診療所を営んでいる。
親父が医者で、母親は専業主婦の傍ら看護婦のような事もしている。
そんな二人きりで病院が回るくらいの田舎が俺の故郷だ。
なので、『医者』と聞いて金持ちを想像するかもしれないが、決してそうではない。
『医者』には二種類の人間がいるのだ。『成功者』と『落伍者』が。
生前、祖父から聞いた話。親父はなんでも昔は、大学病院に勤めていたらしい。
だが、派閥争いに敗れ、生まれ故郷のこの田舎へ送られてきたのだという。
それを自らの恥のように語った祖父の本心は今となっては分からない。
ただ、親父は今でもその事を悔やんでいるのか、託そうとしたのだ。自らが果たせなかったリベンジを、俺に。
――医学部を受験しろ
サッカーが好きだった。
小さいころから身体を動かすのが大好きで、
――大学へ行って、医者になれ
夜遅くまで一人で練習して、
祖父もそんな俺に付き合ってくれて。
勉強する事は嫌いではなかった。努力すれば結果が返ってくるそれはむしろ自分の得意な所でもあった。
両親の言いなりになるのは腹立たしかったが、生家を継ぐくらいのつもりでは居た。
だから医大へ行くという選択肢には抵抗はなかった。
だが勉強の傍らで、サッカーだけはずっと続けていた。
――多くの者に認められる、医師に
だが、高校生活も折り返しを過ぎた頃、そろそろ進路を決めて行かなければならない時分。
両親からの圧が原因だったのか、
部室の扉の向こうから聞こえてきた部活メンバーの俺への不満を耳にしたのが原因か、
俺は、ある日突然、自分の中の鉄芯が折れる音を聞いた。
ただ、逃げ出したいと思った。
自分に自らの理想を重ねる親の元から。
努力もせず愚痴だけは一人前な部活メンバーの元から。
あんなにも好きだったサッカー部にも退部届を提出した。
そして俺は進路希望の用紙に、今の大学の名前を書いたのだった。
――そんな俺が、勤勉なんてわけがない。
いつしか立ち止まっていた俺の足。
それに気づいたフィーが不思議そうに振り返った。
その拍子に、彼女の長い髪がふわりと宙を舞った。
『どうしたの?』
と、語らずとも、彼女の瞳に浮かぶのは心配げな声。
翡翠色に見える俺への気遣いの感情に、俺はそれでもその先にあるものをどうしても見てしまう。
『――絶対に、帰ります』
屈せぬ願い。
鋼の意思。
それは、まさにあの時、俺が無くしてしまった、心の鉄芯だ。
自分が酷く小さく感じた。
どのように自己弁護をしようとも、逃げ出したという事実は変わらない。
少し歩き、手を伸ばしさえすれば届くはずの俺とフィーとの距離は、とてつもなく遠い。
逃げ出してしまった自分に、もう彼女に触れる資格など無いのだ。
そう、だから俺に彼女を好きになる資格なんてない。
確証のない確信めいたものが俺の中に生まれ、心をざわめかした。
言いたい言葉があった。
伝えたい気持ちがあった。
けれどもそれは、帰る事を諦めない彼女へは、贈ってはいけない言葉だ。
ならば、彼女がその夢に屈した時、俺は初めて彼女に、この言葉を伝えれるのだろうか?
帰ることを諦め、この世界に根を下ろし、
そしたら彼女はきっと笑わなくなる。
そうした彼女はきっと俺の元を去っていく。
そんなものは、俺の望むものじゃない。
俺が望んでいるのは、今のままの彼女なんだ。
どんなにその道が困難でも、己が選んだ選択を、迷い挫折しながらも、諦める事だけは決してなく、ただ突き進める鉄の芯を心の中に持っている彼女だから――
彼女の願いは、彼女の世界へ帰る事。
俺の願いは、彼女の願いを叶えてあげる事。
彼女の未来は、水道の蛇口やガスコンロのない世界で生きていく事。
じゃあ、俺の未来は?
――ただいま。
外から帰ってきても、誰も居ない灯かりの落とされた部屋。
――いただきます。
黙々と食べる野菜炒め。
いい加減、別のものが食べたい、なんて愚痴は聞こえない。
――行ってきます。
一体、その言葉を誰に言えば良いのだ?
――おやすみなさい。
布団にくるまりながら帰ってこない声を俺は待つ。
どくん――っ
俺の耳に響く、大きな己の心音。
ずっと目を背けていた疑念が、いよいよ言葉になり俺の中から溢れてくるのを感じた。
その想いが、静かに俺の中に響く。
そう、俺は、『フィーの帰る手段がない事を望んでいる』のだ、と
吐き気がした、自分の薄汚さに。
あれほどまで真剣に、元の世界に帰ることを望み、俺に信頼を置いてくれている彼女を、俺は協力的な態度を表では取りながら、今日のように繰り返される失敗を、ほくそ笑み、望んでいる。
最低だ
認めたくは無かった。
けれども日毎に増してゆく彼女へと想いがそれを許さない。
それを光とするならば、フィーは眩いばかりの輝き。
そしてそれに映し出される俺の影も、色濃く映り、
もう、これ以上、それから目を逸らす事など出来なかった。
――俺はフィーを裏切っている。
自覚したその想いに、心臓が締め付けられる。
泣きたい程に、情けなかった。
自分の弱さが。
自分の意思が。
フィーの願いを叶えてあげたいと想った。その気持ちに偽りは無かったと信じている。
俺の無くしたもの。
彼女の瞳に奥に、それを垣間見た時、俺自身、再びそれに熱が灯った気がした。
だから、彼女を無事元の世界へ送り返すことだけに全力を注ごうと、自分自身に誓ったはずだった。
けれども、その誓いを俺は果たせない。
まだ、何も彼女の帰る手段など見つかっていないというのに、
俺の鉄芯は折れてしまった。
俺の鉄芯はとっくの昔に折れてしまっていた。
折れた鉄芯に熱は無く、むしろそれは逆に酷く冷たく、俺の中から熱を奪い去っていく。
「あの……鉄郎様?
どこか具合が悪いのですか?」
葛藤の余り、気付かなかった。
いつの間にか、俺の側まで戻って来ていたフィー。
気遣う言葉をかけながら、そっと俺の額へと伸びてくる彼女の白い手。
俺はそれを――
「――っ!?」
払いのけた。
手と手がぶつかり、響いた大きな音。
はっとして、見下ろしたフィーの顔に浮かぶのは、酷く傷ついた表情で、その瞬間、俺は、何かが終わった予感を感じた。
たかが差し出された手を、振り払っただけなのかもしれない。
けれども、それは互いに、時に近づき、時に遠ざかり。そうやって築き上げてきた二人の時間の拒絶に等しい、その時の俺には思えた。
彼女と共に過ごしてきた、この一ヶ月と少しに及ぶ楽しかった毎日も、こうやって、見えぬ目標を目指し二人で街を探索する日常も、口に出せぬこの感情に戸惑うこの瞬間すら、今、終わりが来てしまったのだと、俺はそう確信した。
「――っ」
言うべき言葉が見つからない。
あやまらないと。
今のは違うんだ。
誤解なんだ。
とっさに、頭に浮かんだ言い訳は、どれも言葉通り言い訳がましいもので、思いついた瞬間に、消えたい程の自己嫌悪が再び俺を襲ってきた。
でも、
何か言わないと――
焦りだけが、募る。
互いに無言の空虚な空気。
俺の腕に巻かれた腕時計の秒針が、一つ進むたび、俺はフィーとの関係が崩れていくような感覚。
俺はこの時完全に自分を見失っていたのだろう。
と、次の瞬間、終わったと思っていた俺の想像を、彼女は飛び越えてきた。
とん、という胸に感じた軽い衝撃。
柔らかな温もりを胸に感じた。
目の前に居たはずのフィーの姿は消え、替わりに視界の下側に、金色の柔らかそうな髪の毛が見えた。
俺の背中に回された両手は、優しく、それでいてしっかりと俺を掴んでいて。
フィーに抱きしめられていた。
突然の事、裏返った声で彼女の名前を呼ぶが、俺の胸に顔を埋める彼女の表情は見えず、見えぬ緑色の瞳からは、今の彼女の真意を探る事は出来ない。
強引に引き離せば、所詮は男と女の力の差。
可能なのだろうが、そんな事はできない。
いよいよ混乱がピークに差し掛かる俺に、フィーがそのままの状態で、懇願するようにこう言った。
「……消えちゃダメですよ?」
狂おしい程の自己嫌悪に狂っていた俺の心、一瞬それが読まれたのかと思った。
けれども、続く彼女の言葉から、それは誤解だったと知る。
「何を苦しんでいるのか私には分かりません。
けれど――」
絶対に離さない。
誤解かもしれないが、俺を抱くフィーの腕に力が――そんな意志が込められた気がした。
俺はささやかな抵抗をやめ、見下ろした彼女の顔。それに気づいたのか、フィーも俺の胸より顔だけを離し、翡翠色の瞳が俺の瞳を真正面から捕らえた。
その強い意思を秘めた瞳が言う。
「どうか、ご自身を責めないでください。
口伝では、そういった方々が、世界から『落ちていく』んですから――」
「……」
あながち『誤解』でもなかったのかもしれない。
考え全てとは言わず、それでもあの一瞬で、彼女は俺の葛藤、苦しみを察してくれたのか。
今、俺の胸に感じる温もりは、彼女が俺を必要としてくれている事を再認識させてくれるには十分で。
愛で無くとも構わない。
そう思った。
心の鉄芯を失った俺は、すごぶる弱い。
けれども、今は、フィーが側に居てくれる。
いつかは行ってしまう彼女だけれど、彼女が側にいる間だけでも、俺は、過去、この鉄芯が折れる前の俺のように、一途な強さを取り戻すことが出来る。
だから、それでいいじゃないか。
叶えよう。
諦めずいよう。
願っていこう。
彼女の願いが叶うように――
胸より伝わるフィーの温もりは、みるみる間に俺の中の影をかき消していく。
俺は、再び取り戻した理性に二つの誓いを立てた。
一つは、彼女の願いが叶うよう、できる限りの助力をする事、と、
もう一つ。
この俺の想いを、今までよりももっと心の奥底にしまってしまう事。
だから、今だけは――
俺は、今目の前にある、未だ折れぬ鉄芯を、そっと両手で抱きしめた。
そんな俺を、フィーは突き放す事は無く、俺達は夕日が沈むまで、ずっと抱き合っていた。
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……?
どのくらい寝ていたのか。
ふと、鼻腔をくすぐる何かが焦げた匂いに、俺は目を覚ました。
目ヤニのこべりついた目を擦り、大きく欠伸。
また座ったまま寝ていたらしい俺は、立つのも億劫で、そのまま腕だけを広げ軽くノビをした。
と、視界の隅に何かが進入してくるのが見えた。
フィーだ。
この四日間。
俺も彼女も、ろくに動く事無くこの薄暗い部屋の中、死んだように過ごしていた。
だから、動く彼女の姿を、俺は幻でも見ているかのような感覚で見上げた。
一目でそれが幻ではない事に気づいた。
白に少しウェーブのかかった金髪。陶磁器を思わせる白い肌に、そして、くすんだ緑色の瞳。
俺が彼女に刻んだ傷跡。
あれが幻なら、その瞳には、きっと強い意思の光を宿し翡翠色に輝いているはずなのだから。
「……」
何をしてるんだ?
そんな言葉を発する事すら億劫だった。
と、見上げる俺に気づいたのか、そのくすんだ瞳の彼女は、手に持っていたお皿をテーブルの上に置いた。
どうやら、それがこの匂いの原因らしかった。
のろのろ、という動作で、彼女は俺から一番離れたテーブルの横へと腰掛けた。
流石に、空腹のままでいる事が辛くなったのだろう。
また、いつもの野菜炒めを作ろうとして失敗したらしかった。
と、空腹ならさっさと食べればいいものを、フィーはテーブルに腰掛けたまま、それを手にしようとはしなかった。
くすんだ瞳が、じっと俺を見つめていた。
くすんだ瞳が言った。
「……ごはんです。貴方が食べない限り、私も食べませんから」
「……」
ややあって折れたのは俺だった。
久々に口に運ぶ食事。
焦げて臭くじゃりじゃりと、口の中はたまらなく苦かった。
泣きたくなる感情を堪え思う。
結局、フィーは最後まで、料理を覚える事は無かった。