第2話「第1夜」
遮光カーテンで締め切られた部屋は薄暗い。
それでも、表の車道を行き交うエンジンの音、
窓の向こうから聞こえてくる子供達の声から、
俺は、今が日中である事を知る。
随分と時間が流れた気がした。
そんなに時間が流れていない気もした。
膝を抱え、暗い部屋。
テレビもつけぬまま、部屋の隅。
俺はあれからずっとこの場所にいた。
何をする気力も沸かなかった。
何を言えば良いのかも分からなかった。
何をどうすれば良いのか、何をすべきなのか。
何一つ分からなかった。
俺は、何も出来ないまま、ずっとそうやっていた。
ぼぅっと見つめる視線の先には、対面の壁があった。
その壁の裾、フィーが座っていた。
俺と同じように膝を抱え、唯一違うのは、その膝に顔を埋め。
彼女も今朝からずっとその場所で、何もしないでうずくまっていた。
12月24日。
今日はクリスマスイブだ。
以前から、二人で楽しみにしていたその日は、恐らく何もせぬままで終わりを迎えるのだろう。
それは当然だと思った。
昨晩、自分が犯してしまった過ちを思えば、それはあたりまえの事だ。
だが、同時にその事を思い出すと、下腹部が疼いた。
酷く冷め切った心と体。それに反するが様に、そこだけが熱く滾り――俺は咄嗟に、泣きたい思いで壁を殴りつけた。
その音に、びくり、と震えるようにフィーが顔を上げた。
彼女の瞳は、相変わらずの怯えと、恐怖と、驚きとが浮かんでは消え、
俺は溜まらず席を立った。
それだけで、彼女の体が縮くまるのが見えたが、構わず、俺はトイレへと逃げ込んだ。
フィーが俺に怯えていた。
当然の結果だ。むしろそうあるように仕向けたのは、あの時の自分のはずだ。
だから、これは俺が選んだ結果だというのに、
だというのに、
どうしてこんなにも辛く悲しい気持ちになるのだろうか?
二人きりの狭い六畳間。
逃げ込んだトイレ。
泣き声は出ず、ただ、涙だけが溢れていた。
――7Days 『 第 1 夜 』 ――
「いぶんかこうりゅうですっ!」
フィーと共に暮らすようになって数日後が過ぎた。
その間にも俺達の間には色々な発見があった。
例えば彼女が映画やアニメなんかでお馴染みのエルフという人間とは少し異なる種族だと知って驚いたり、その証明とばかりに髪の中に隠れていた長い耳を見せられてみたり、その耳の長さが人間との差異であるという自分らの認識するエルフの特徴と合致することから、もしかしたら過去にもフィーと同じような境遇に陥ったエルフがいたのではないかと考察してみたり。
埒があかずインターネットに頼ってみたところ卑猥なサイトに繋がり顔を真っ赤にしたフィーに大顰蹙を食らってみたり、と。
彼女の、元の世界に帰る、という目的については新しい進展もないままではあったが、それなりに楽しい毎日を過ごしていた。
というよりも、充実した日常を過ごせている、と感じることが出来るのは、きっと彼女が、自身の目標の進捗はそれとして、こちらで体験する異文化交流を愉しんでくれているからなんだろうが。
そんあわけで、今日も今日とて、大学の講義はさぼることに確定。
今日こそ、彼女を元の世界に返す方法の手がかりを、せめてその足掛かりをどうにか見つけてみせると決心したところで、フィーの元気な声が部屋に響いたのであった。
「いぶんかこうりゅうですっ!」
2度言ったのはよほど大事なことだから。
「と、いいますと?」
フィーの突飛もない思い付きで、俺の日常がかき乱されるのにはそろそろ慣れてきた。
というよりも自分もそれを望んでいる。そうやって毎日彼女と騒いでいると日々新しい自分が見つけられるようで正直楽しい。
俺は今日も今日とてフィーがどのような提案をしてくれるのか心待ちに続きを促した。
と、言っておきながらでなんだが、今日に限っては返事を返した時点で、彼女の姿格好を見れば何を企んでいるのかが一目瞭然だった。
今日のフィーは、いつもの見慣れた若草色のワンピースの上から淡いブルーのエプロンを羽織り、白いシャツの袖を腕まくり、両手を腰にふんすとふんぞり返り。
つか、そのエプロン、確か俺が一人暮らしを開始するにあたり実家から持ってきたもので、結局は自炊をしなかったんでいつの間にかロストしていや奴だよな、いったいどこから見つけてきたのやら。
ともあれ、そんなエプロン姿のフィーは俺をビシッと指さして続けた。
「鉄郎様は乱れていますっ!」
「いやいやいやいや、これでも我慢するのに必死だ」
どーん、という擬音語と共に高らかに宣言する彼女に俺は真顔で即答する。
結局、俺の部屋に居つくことになったフィー。
今さらながらに俺の部屋の間取りの説明をすると、1Kの貧乏学生向けのワンルームである。
フィーの為に割り振れる部屋もない為、彼女はベッド、俺はソファーという初日同様の状態が続いている。
まぁそれは良いのだが、しかしながらフィーは女性だ。しかも、すごぶる可愛らしいと来ている。
そんな女の子と、ただ同室で何もせず寝るだけの日々は、正直、苦痛である。
もちろん、いろんな部分が。
有体に言うと、男の部分がっ!!
まぁ、我慢するしかないんだけどさ。
「言い直します。鉄郎様の食生活は、乱れてます!!」
「お、誤魔化した」
俺のきわどいボケをさらりとかわし、再び、どーんという擬音語と共に、俺を指差し宣言するフィー。
しかしながら、その発言はいささかショックだった。
何故なら、彼女が来て以来、俺はインスタント一色だった生活を改め、眠っていた炊飯器を叩き起こし、料理を作ってきていたからだ。
昨日は野菜炒めを作った。栄養バランスは完璧だった。
一昨日は野菜炒めを作った。非常にヘルシーでダイエット効果も抜群だ。
更に一日前は野菜炒めを作った。
――そう、今まで自炊をしていなかった俺には、料理といえば作れるものは野菜を切って炒めるだけの野菜炒めしか存在しなかかったのだ。
「そこで、今日よりこの私、不詳フィーめが、この家の家事を一任させて頂くこととなりましたっ!」
「解任します」
「はぅ――っ! 僅か数秒で解雇宣言ぇぇ?!」
とりあえずフィーの戯言を一蹴した。
いや、本来であれば、俺の足りないところを補ってくれようとする彼女の提案は、非常にありがたい申し出に違いない。加えて美少女の手料理とあれば、値千金、喉から手が出てもおかしくない程に魅力的なものだ。
が、この期に及んでいえば、やはり彼女のそれの提案は戯言と称されても仕方ない、と思う。
そう、料理、こと家事に関していうのであれば、彼女の言葉は。
俺の足元に崩れ落ちるフィー。
その彼女の向こう側、俺の視線は部屋から玄関へと向かう1本きりの廊下へと向けられた。
そこには明日のごみの回収日に向けて準備された市指定のごみ袋が、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と。
廊下に積み上げられたごみ袋の山に目をやり、俺は収まっていた頭痛がぶり返するのを感じていた。
廊下に積み上げられている半透明のゴミ袋の中身の目録はこうだ。
俺が高校時代から愛用してきた目覚まし時計(フィーが壊した)
真っ二つの折れてしまった蛍光灯(フィーが叩き折った)
割れたガラスコップ(フィーが粉砕した)
まだ焦げた匂いが若干残る俺の数少ない衣類(フィーがアイロンで焦がした)
などなど
共同生活を開始してわずか数日。
家事と称して行われた彼女の破壊活動の見事なまでの業務成果が、そこにはあった。
尚、炎上防止の為、ちゃんとゴミ袋は仕訳している旨をここに明記しておこう。
まぁ、幸いにして蛍光灯は元の部屋主が使っていたもののリユースだったし、目覚まし時計に関しては携帯がある。コップにしても二人分だけを考えればまだ不足とは言わないし、服にしてもそんなに多くを持っているわけではないが、すべて駄目にされてしまったわけではない。
とはいえ、その実績。ごみ袋の山という彼女の家事の成果を前に、俺はフィーの家事全般へのスペックの低さを認識せざるを得ない。
俺のそんな視線を追うかのよう、振り返ったフィーが石膏のように固まったのが分かった。
俺の考えていることが伝わったのだろう。ギギギ、と音がなりそうな仕草で引きつった笑み、もう一度こちら振り返った彼女。
迷惑をかけている、という自覚はあるのだろう。
ならばこれ以上彼女を責めるのは酷というものだ。
それに今のご時世、これは差別ともいわれるかもしれないが、フィーとて女性。家事ができないと明言されるのは辛辣なのかもしれない。
一応、フォローしておくか、
悪きがあっての事ではないのだ。きっと。
俺は、フィーの肩にそっと手を添えると口を開く。
「家事 イズ パワー」
「どういう意味っ?!」
ともあれ、俺の言葉が癇に障ったのかフィー。頭に来ましたよー、と前につけてから
「そりゃ、私は、ちょっと掃除やお洗濯は苦手ですが、料理だけはスゴイんですから!」
と腕まくって見せる彼女。しかし、
――ご、ごみ袋4袋を
ちょっと、だと!?
激しいざわめきを心に覚えた俺は思わず後ろずさり、それをフィーはどうとらえたのかは知らないが、対する彼女は立ち上がって不敵に笑う。
「だいたい、今まで私が失敗をしていたのは。こちら側での文化、文明、科学を使ったアプローチをしていたからにすぎません。
こちら側での言葉を使うなら、ほら――あれです、あれ、『郷に入れは、ゴートゥヘル』」
「送るなー、地獄に送るなー」
「ともあれ、今日は私達の世界のやり方で、見事料理を作り上げて御覧に入れますよ!」
「……」
なんかもう既にダメくせぇ、いろいろと。
俺のそんな心中のツッコミは当然だが彼女に届かず、フィーは突き上げたその拳から1本ずつ指を伸ばしながら、相変わらず俺には聞き取りづらい――呪文――を口にした。
「おいで、《シルフ》、《ブラウニー》、《サラマンダー》」
伸ばされた指は3本。次々に彼女と俺の間に順に姿を現しす緑、黒、赤い光の塊。
フィーが呼び出したそれらは、いわゆる精霊というものらしく、彼女らの世界では、ごく慣れ親しんだ存在でもあるらしい。
呪文により具現化させたそれらに術者はお願いをする事で、様々な恩恵を得られるのだと、無論これはフィーからの受け売り。
更に続けると、『魔法』と『精霊魔法』とでは、なにやら違いがあるらしいのだが、これはまた今度聞いてみる事にしよう。
そうこうしていると、彼女に呼び出された3体の精霊達が光の弧を描きながら宙を高速で移動し始めた。
出会った初日にも観た光景ではあったが、何度見ても心奪われるその幻想的な景色に
「おおおおっ!
こ、これなら――」
本当に期待しても良いのかもしれないっ!
否が応にも高まる俺の期待。
精霊の発する淡い光の向こう側で尚も不敵に微笑むフィー。
きっと精霊魔法の余波なのだろう、室内だというのに正面からの吹く風に美しい金色の髪を戯ばせ――彼女は、俺をビシッと指差すと、
「見ててください。
私が、鉄郎様に最高に美味しい料理をご馳走して差し上げますっ!」
そう高らかに宣言したのであった。
そして――
「ぇぅ、あうぅ――」
はい、期待通りでしたー。
俺はガスコンロの前、フライパンの中身の野菜たちが焦げ付かぬよう手首のスナップでその具を転がしながら、その背後には、
割れた皿と焦げた何かが床に広範囲にぶちまけられ、更にその中央、『私は耳が長いだけの萌えないゴミです。』と表記されたフィリップを首からぶらさげた半泣き状態のフィーの姿があった。
あの宣言より、僅か10分後の今。
呼び出された精霊は、実はこっちが本当の目的だったのではないかと思うくらいに今はてきぱきと床に散乱した野菜だったものや、おかずになるはずだった燃えカスを自らの光の中に取り込んでは消去する――掃除の真っ最中だった。
しかし、これはこれで便利だな、終わったら玄関に置いてある大量のごみ袋もお願いしよう、等と思いながら改めてこの惨事の元凶――フィーへと視線を戻した。
彼女は未だにゴミの中央に腰を下ろしたままさめざめと涙を流し、まぁ本気で反省自体はしてるんだよな……悪意あっての事でもなし、俺も諦めムード。
何より俺の為に何かしてくれようとする彼女を責めることなど俺にはできようはずがない。
俺はコンロの火を消すとフライパンを戻し、彼女の顔が正面に見えるようにその前にかがみこむと、努めて笑顔。
まず最初にフィーを指さし、次にせっせと掃除を今もしている精霊たちを指さすと穏やかな声で言った。
「郷に入れは、ゴートゥヘル?」
「捨てないでぇええ?!」
ともあれ、かくしてもう何連続目かもわからない料理、野菜炒めも完成した。
俺は、手早にバーベキューなどで使う紙皿を取り出すと、その上に野菜炒めを盛りつけた。
ちなみに、コップはまだ在庫はあるが、普通のお皿は先ほど彼女が割ったものでいよいよ品切れとなりましたとさ。
「怒ってないから。ほら、飯にするぞ?」
すっかりしょげ返ったフィーをどうにか立たせるとまだ破壊されていない数少ない家具、二人掛けの座テーブルの上へと野菜炒めを並べた。
「……」
フィーは食事が始まってからも、ずっとそのまま落ち込んだ様子だった。流石に今回は応えたのかとも思ったが、元の世界へ帰る手段が無くとも帰ってみせる、と宣言するポジティブシングな彼女にしてはそれは珍しい。その方法が上手く行く行かないに関わらず――というかほぼうまく行った試しはないのだが――彼女は落ち込む暇があるなら打開策、改善策を講じるタイプだったはずだ。
今までも失敗して落ち込んでも、すぐに、次はこうやってみます、と元気な声を響かせて、俺が即座に、やめてくれと駄目出しする。
今回もてっきりそのパターンに落ち着くと思っていたんだが。
「どうしたんだ? らしくない」
僅か数日繰り返されただけの、騒がしい食卓。どうやら俺はそれにすっかりと毒されてしまったらしい。
黙々と二人で突付く野菜炒めには、塩味とコショウの調味料だけでは足りないものがある。
「ん、ちょっと、考え事。」
「ふーん?」
少し間をおいて、帰ってきた答えを俺は深くは突付かない。
「普通、こういう時って、何考えてたのとか聞かないですか?」
視線を野菜炒めから声の方へと向けると今度は少し拗ねたような表情。
だが、そういうのは苦手なんだよ――と返すより早く、
「でも、鉄郎様はそういうの苦手なんですよね、私も少し分かってきました」
などと言い彼女はようやくにして少し嬉しそうに笑った。一体何が面白いんだと思いながらも少しむっとしたような表情を返すと、彼女はそれも可笑しかったのかまた少し笑って、
「私って、料理一つ、満足に出来ないんだなぁって」
そう言い、彼女は一呼吸置くと、今度は突っ込みたそうな俺の視線に気づいたんだろう。
拗ねたような表情を見せると、料理もお掃除も、と訂正した。
「フィーは、両親と一緒に住んでたんだろ?」
先程の失敗がよほど応えたのか、未だに引きずっていたフィーに俺は、勘だより想像を口にした。
「ぇ? はい、でも、どうして?」
どうやら俺の読みはビンゴだったようだ。
どうして分かったのか?と首をかしげる彼女に、俺も自分も同じだったからだと笑う。
「俺も掃除も洗濯も料理もまるでダメ。
なんとか作れるのは野菜炒めくらいでさ」
だから、これくらいの失敗気にするな、と、その唯一できる野菜炒めも、あまり美味しくないよな、と続けて俺も苦笑い。
双方共に笑いあった所で今日のドタバタに対しての言及、お咎めは無しだ。
「でも、やっぱり悔しいですよ。
鉄郎様はそれでも一つのお料理を作れるというのに、
私も、鉄郎様に何か食べて欲しかったなぁ……」
後半は独り言ちるように、再び視線を落とすフィー。その仕草、言動に俺の心臓が一瞬高鳴った。
不意打ちだ。
咄嗟に、意識してはいけない、と俺はすぐさま心にブレーキを掛け、話を
「まぁ、アレだ」
話を逸らす。
窓の外へ目をやり、一呼吸。
それだけじゃ足りず、熱いお茶で喉を潤してから続けた。
「フィーは元の世界に帰るんだよな?」
「――はい、」
俺の俺への戒めも込めた再確認に、元気がまだ若干ないが、まっすぐな答えが帰ってきた。
視界の端で、フィーがあの瞳を俺へと向けている事を感じていた。
決して折れない、鉄のように固い信念。
そうさ、こう言えば、どんな状態であれ、彼女は元気を取り戻すのだ。
だから、
「だったらさ。
戻れたら向こうで、母親からでも料理の事、いろいろ教えてもらうといいよ。
んで、もし良かったら――」
――上手に出来るようになったら、その時は、もう一度、この世界に来て、俺にそいつを喰わせてくれ。
正面へと向き直り、苦笑と共に、そんな冗談を言う。
俺の言葉を受け、最初、きょとんとしていた彼女であったが、やがてそれが冗談だと理解すると、破顔。
「ですが、多分、私の母親も料理はダメだと思うので、給じ――お友達にでも教わって覚えます。
そして――」
そう前置きを据えるとフィーは、大きく一呼吸。
再び強い意志の輝きを取り戻した、翡翠色の瞳を俺に向け――
「その時は必ずっ!!」
――俺達は、あり得ない約束を交わした。
*****************************************
もう、あの約束が果たされる事などはないのだろう。
長いトイレを終え、ようやく部屋へと戻ってきた俺を、濁った緑色の瞳がずっと眺めていた。
その眼差しは、責めるわけでなく、咎めるわけでなく、ただただ俺に絡み付いてくる。
俺は、それを無視すると、先刻と同じ、彼女の反対側の壁へと背を預けた。
そのまま滑り落ちるように、ずるずると地面までずり落ちると、ごろんと宙を仰いだ。
フィーの二つの瞳が、ずっとこちらを眺めていた。
けれども、あの瞳には、もう一緒に笑いあった俺は映ってない――
結局、この日は、一度もフィーと言葉を交わす事は無かった。
互いの空腹を告げる腹の音だけが、ごろごろと鳴り、それでもそれをはしたないだなんて笑い合うような真似もなく。
俺に、俺達に残された時間は、あと6日となった。