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野球少年 小学編  作者: 神瀬尋行
8/10

第十章 1週間

秋の大会が始まりました。


しかし、三連覇の重圧がかかる谷山くんの心象風景は、混迷を極め、あれこれといじいじしてしまいます。

そんなこんなを乗り越えて、阿部先輩いわくモンスターへと成長していったのです。


それでは、どうぞお楽しみください。



   第一章  フルチン先輩

   第二章  青空の彼方へ

   第三章  夢をつぐもの

   第四章  夏の陽射し

   第五章  岩松兄弟

   第六章  祭の日

   第七章  熱 戦

   第八章  夏のおわりに

   第九章  秋 風

   第十章  1週間(今回はここです)

   第十一章 死 闘

   第十二章 天高く




第十章 1週間


 大会の日程は、やはり厳しいものだった。

 なにしろ1ブロックで3試合も行われるのだから、朝8時に開会式があり、9時には第1試合が始まった。少年野球にナイターはない。遅くとも4時頃までには終わらないといけない。

 僕らは、Aブロックの第1試合だ。

 久しぶりに見る吉川小学校のメンバーは、より日焼けしていてたくましそうになっていたが、僕らとあたることに気後れしているようにも見えた。視線をベンチの後ろに移すと、そこに保護者会をはじめ、応援団が陣取っていた。恵ちゃんも、美咲ちゃんも来ていた。僕に気づくと二人とも笑顔で手を振った。僕は軽く会釈をした。


 いよいよ最後の大会が始まる。ここまできたら、僕に迷いはない。とにかく全力で戦う。


 その、つもりだった。


 先攻は僕らだ。

 1番のガンちゃんが打席に入った。別に緊張もせず、ふだんの様子だ。

内野はやや浅めの守備をしていた。吉川小のピッチャーは、1年前と同じ。ガンちゃんのセーフティバントからリズムを狂わせた経験もあり、今回はやや慎重のようだ。初球は内角高めをついてきた。ガンちゃんは冷静に見極めボールになったが、その球の速さは昨年以上だ。しかも、このピッチャーの球は重い。ガンちゃんは何かを考えるように一度打席を外して素振りをした。僕らが調子に乗れるかどうか、先頭打者のガンちゃんにかかっている。

「頼むぞー」と、補欠の田村が大声を上げていた。

 2球目。外角低めの球にガンちゃんは大きく空振りした。ややリズムを掴みかねているようだ。急ごしらえで打撃フォームの改造をしたのが、裏目に出たのかもしれない。

 3球目。今度は内角低めをズバッとついてきた。ガンちゃんは手が出ずに見送りストライク。これで2-1。それでも浅い守りに変更はなかった。

 4球目。外角低め。ガンちゃんは見送りボールになった。球が見えているかどうかはともかく、落ち着いているようだ。

 5球目。同じく外角低め。今度はストライクだったからガンちゃんはファールでカットした。

 6球目。また低めの、やや真ん中だったが、これも自打球を足にあてそうなファールになった。

試合開始早々、ガンちゃんも粘るが吉川小のピッチャーも負けてない。お互いに負けられない戦いだ。

 7球目。内角やや中ぎみの高めの速球が来た。ガンちゃんは、狙いすましたように、叩きつけるバッティングをやった。打球は大きくバウンドして三遊間の深いところに行った。ショートがボールを掴んだころには、ガンちゃんは1塁を駆け抜けていた。ベンチから歓声があがった。

 これだ。

 実はガンちゃんが「もう一段のレベルアップ」のために練習してきた『大根切り』だ。

 ガンちゃんのセーフティはもう各校に知られている。だからバントしにくい内角高めを攻められる。ならば、その球を叩きつけるように打ち返し高いバウンド球にする。相手が捕球するころにはガンちゃんは足を生かして1塁を駆け抜ける。内角高め攻めに苦しんでいたガンちゃんに監督が授けた秘策だった。初めて実戦で試す機会にうまくいったので、ガンちゃんもうれしかったのだろう。珍しく1塁上で笑顔を見せていた。


 続く2番のまっちゃんに、秘策はなかった。というより、もともと秘策のかたまりのような男だ。やはり何かを企んでいるようで、珍しく黙って打席に入った。そして、あたりまえのように送りバントの構えをした。相手投手はガンちゃんの足をかなり警戒しているようで、初球の前に、けん制球を送った。

 1球目。ガンちゃんはスタートのポーズをみせた。投球は外れてボールになった。

 2球目。またスタートのポーズと、バントの構えをやった。ピッチャーはまたボールを投げた。これで、0-2。

 3球目。本当に、ガンちゃんが走った。ガンちゃんはダッシュがうまいから警戒されていても、スライディングセーフだ。投球はランナーを刺すためにウェストしたからボールになった。相手ピッチャーは、すでに肩で息をしていた。4球目も外れて四球になった。


 ノーアウト1・2塁。僕らのベンチサイドは俄然盛り上がりを見せ、相手投手はいよいよ苦しそうに見えた。

 ここで登場する3番やまちゃんは「よっしゃー!」と吼えながら打席に入った。

 やまちゃんは、「いつも力みすぎだ」という監督の指摘を受けて、スタンスをわずかに短くし、上体を楽に、そして軸回転でのバッティングを練習していた。もともとやまちゃんにはパワーがあり当たれば飛ぶのでボールを呼び込むことのできるこのスタンスは、やまちゃんに向いているように思われた。あとは、結果が出せるかどうかだ。

 3番バッターとはいえ、少年野球なのだから、ここは送りバントのサインが出ることもある。でも鬼監督は僕らも不思議なくらい試合ではサインを出さない。いつもベンチ前面で腕組みをして仁王立ちしているだけだ。やまちゃんは念のためベンチを見ていたが、やはりサインはない。コーチがサインの真似をしているだけだ。

 相手投手は真っ赤に上気していたが、それでも気合いの入ったボールを投げてきた。やまちゃんは大きな空振りをした。「振りが大きいぞ」とコーチがどなった。やまちゃんは苦笑いした。そして打席を外し、一度大きな深呼吸をして打席に入りなおした。

 その時、あの特訓したフォームになった。

 相手投手は警戒したようで、外角に外してきた。やまちゃんは、ピクッと反応したが、バットは止まった。次の球も、内角低めへ外してきた。いつものやまちゃんなら空振りしそうな球だしかし、今日は手を出さなかった。これで1ー2。ネクストサークルにいる僕でさえ、次はカーブでストライクを取りにくるだろうと予測した。打席にいるやまちゃんは、どう考えたのだろう。とにかく、来たカーブをうまい具合に捉えセンター前ヒットとなった。

 ガンちゃんが、3塁をまわる!走塁コーチの右腕もぐるぐる回っていた!センターは捕球するとバックホームせず、2塁に投げた。僕らが1点先制だ。

 幸先よし!

 東原サイドから歓声があがった。

 1塁ランナーは2塁止まりになったが、ノーアウト1・2塁。

 ここで必要なのは、とにかく「1発決めること!」ではない。冷静につなぐことなんだ。監督は練習の時、口をすっぱくしてそう言う。


「チャンスの時は、1発狙いで三振かホームランかではなく、コンパクトに振って次につなぐこと。それが打線だ」


 僕らクリーンアップには徹底してその事を指導していた。僕は監督の言葉を全て理解しているわけではないけれど、打者が次々と連打することの大切さは今までの試合の中で感じていた。いつものように「よし、つなぐぞ!」と決めて、打席に入った。


 吉川の投手は投げにくそうだった。僕の春夏での4割近いアベレージを見れば当然かも知れない。敬遠気味の四球になった。四球でもOKだ。僕らの目標はチームが勝つことだ。


 ノーアウト満塁で5番の田中が打席に入った。僕らクリーンアップは他の打順とは違い、義務ではなかったが、バットを短く持って入った。投手はもう崩壊寸前だ。見ていて気の毒だったが、ここで畳みかける必要がある。


 初球。とにかくストライクをとりにきた甘い球を逃さずはじき返した。打球はセカンドの頭を越え、右中間に転がった。3塁ランナーが生還。2点目。2塁ランナーも生還。これで3点。そして僕も3塁を回ったが、走塁コーチに止められた。


 僕らのベンチサイドから大歓声が沸き起こった。3点とってなおもノーアウト1・3塁!

 特訓は正解だった。バントもなしに、こんなに一気に得点できるなんて。「もう1段のレベルアップ」を成し遂げた手応えがあった。


 その後、白石はセカンドゴロゲッツーに倒れたが、その間に僕が生還して4-0。

 続く新田も当たりそこないのサードゴロに倒れてチェンジとなった。

 4点もらえれば、もう大丈夫だ。1・2本打たれても、じゅうぶん勝てる。僕は気が楽になった。

「こんな時」

 監督は、練習の時に言った。

「こんな時大切なのは、味方への流れを投手が断ち切らないことだ。そのためにはチェンジ後の先頭打者を全力で討ちとること」

 だから僕とはるちゃんは、全力で決めるつもりだった。豪速球で、3球三振を狙う。

 第1球を、大きく振りかぶって投げた。

 その球はうなりをあげながら飛び、快音を発してはるちゃんのミットに収まった。初めて見る僕の豪速球に、吉川小の1番打者は言葉を失い、ベンチもどよめいた。

「これが、中島小を倒した速球か」という吉川小の選手もいた。東原サイドからは歓声があがり、ナインからは「ナイスピッチ!」という声があがった。

「そして、投手がリズムをつくれ」と監督は言う。

 沸きあがるこの歓声を味方に僕はリズムを掴んだ。

 1番は予定通り3球三振。

 2番は、いつも通り緩急の組み合わせでセカンドゴロ。

 3番も、同じく緩急でサードへのファールフライに討ちとった。

 リズムよく攻撃に移る僕らとは対照的に、吉川小サイドは暗かった。

「あんな球が小学生に打てるのか?」

「中島小が負けても不思議はない」

 そういう声が途切れ途切れに聞こえてきた。もちろん大部分は、「うちだって、西部リーグで優勝したんだ!みんながんばれ!」というような応援だった。


 しかし吉川小の動揺は収まらず、8番の橋本がショートのエラーで出塁した。エラーではあっても、たまにしか出塁しない橋本は、満面の笑顔で1塁上にいた。それに、ショート強襲の当たりだったから、相手もはじいたのだ。


 9番のはるちゃんが送りバントを決めると、吉川小は後手後手に回り、結局この回も僕らが1点とった。


 5回コールドまで、あと2点。


 吉川小が弱いのか、それとも僕らが強いのか。西部リーグは主に市内の旧市街を中心に形成していて、東部リーグのような新興の住宅地ではないため、伝統校が多く、その中で優勝した吉川小が弱いとは考えられない。僕らの特訓の成果に加え、やはり僕らとあたることで気後れした彼らの心理的な面が大きく作用しているようだ。


 3回に入ると、試合の展開はやや落ち着いたものになってきた。僕はふうちゃんのような打たせてとるピッチングが、すっかり板についてきていたし、吉川ナインも、試合に集中しはじめていた。そうなると優勝校らしく吉川ナインにもよく声が出て、あの機敏な動きも出始めた。僕らも追加点が取れずに、最終回までいった。しかし序盤の5点は大きく、おかげで気楽に戦えた僕らが結局5-0で勝った。


 最後の挨拶を終え、ベンチに戻った吉川小の選手たちは、みんな悔しそうで、泣いている選手もいた。2年も前から見知っている選手たちだ。他人事とは思えない。僕はその様子を遠くから見ていて、涙がこぼれそうになった。僕が涙もろいのは、父さんゆずりだと、お母さんが言ったことがある。ともかく、彼らの少年野球は、今終わったのだ。暑い日も寒い日も、僕らと同じように彼らもがんばってきたのだ。僕は、何回敵の涙を見てきたのだろう。

 心が押しつぶされそうだった。


 2回戦の練習が、午後2時から始まった。

 対戦相手は、やはり池上小だ。先に彼らが練習を始めたので、僕らは見学した。彼らは、いつものようにのびのびとプレイしていた。僕らも特に慌てることはない。いつもの通り、正々堂々戦うだけだ。


 プレイボールは2時半。

「ようやく始まるよ」と、まっちゃんが言った。その間の抜けたような言い方がおかしくて数人がクスッと笑った。僕らも落ち着いている。池上小に負けてない。


 僕らは、また先攻だった。

 マウンドには、あのニヤついた男が上がっていた。今日は最初からいくらしい。

 1番のガンちゃんが、高めに浮いた速球を大根切りし、三遊間を抜けるヒットを放った。

「いまのは捕ってくれよ!」と、ニヤついた男が笑いながらショートに言った。

「捕れるかあんなのが!おまえこそ打たれるなよ、ボケェ!」と、笑いながら言い返した。

 やれやれ、まったくこのチームは・・・。

 2番のまっちゃんが送りバントしようとしたが、高め速球を打ち上げ、ピッチャーへライナー性の小フライになった。ニヤついた男が「よっシャー!」とわめきながら脱兎のごとくマウンドを降りてきて捕球した。ガンちゃんは失敗などないと思い込んでダッシュしていたため、戻りきれずアウトになった。池上小の1塁手が「よおし!」と大声をあげ、内野手も声を合わせて、全員が両手を天に突き上げた。

「勝どきを上げているようだな」と、はるちゃんが言った。

「また、負けるとも知らずに」と、橋本がつぶやいた。

 ゲッツーにはなったが、橋本の一言が僕らを暗くさせなかった。たまには橋本の毒舌も役にたつ。


 3番やまちゃんは高めの速球にどうしても合わないようで簡単に三振してしまった。


 1回裏。

 あのニヤついた男が1番に入った。とにかく打てる可能性のある男を1番打席がまわるところに置いたのだ。僕らのチームでは考えられない。しかし彼らの自由な発想のもとでは当たり前なのかも知れない。チームメイトたちも嫌そうな顔をしている者は一人もいない。ただ冷やかしているだけだ。


 でも、僕は嫌だった。


 封印したはずの重たい不安が、急に甦り、僕の心を支配した。監督を見ると、黙って穏やかにうなづいた。「問題ない」と言っているようだった。


 投球練習を終え、はるちゃんが2塁へ送球練習した。まっちゃんは、そのボールを受け取って、タッチプレイの練習をすると、サードにボールを投げた。やまちゃんが捕球し、軽いステップで1塁に投げた。橋本は捕球してショートの田中にまわし、田中が僕にボールを返した。それを見届けて、はるちゃんが声をかけた。

「落ち着いていこう!」

 落ち着いてと、言われても…

 僕は、ニヤついた男にホームランを打たれる夢を見たことがある。彼の存在は僕にとってそれなりにプレッシャーなのだ。それが1番にいることは、はっきり言って恐怖だ。僕はマウンドに立って初めて恐いと思った。それは、いつも試合前に感じる怖さとは異質のものだった。


 初球。

 ストライクを取りにいった速球を軽々とレフト前へ運ばれた。僕は動揺した。


 続く2番打者に対して1-2となったところで、ニヤついた男が盗塁を決めた。カウントは1-3。

 5球目。送りバントを決められた。これで1アウトを取ったものの、続く3番は要注意の、あのショートだ。打順が変わっている。彼に低めは禁物だ。

 1球目。胸元への速球。ここは、やはり手が出ないようで、ストライクを取った。

 2球目。同じく胸元へ。しかし、当てられてファールになった。まいった。もうあわせてきている。どこに投げればいいのだろう。僕がそう思っていると、はるちゃんは外角高めのボール球を要求してきた。とりあえず、1球外すのだろう。はるちゃんの言うとおり投げた。3番打者は、冷静に見てボールになった。はるちゃんが、「オーライオーライ」と言いながら、返球してきた。カウントは2-1。

 その時、僕はランナーに対する警戒を怠っていた。ニヤついた男は、その隙を突いてきた。三盗だ。3番打者も驚いて、援護の空振りをした。はるちゃんが3塁へ送球した時には、ニヤついた男は3塁へ滑り込んでいた。セーフだ。池上小サイドから歓声があがった。僕はニヤついた男を見た。彼も真剣なまなざしで僕を見ていた。


 やまちゃんがタイムをとって、マウンドにボールを持ってきた。

「どうしたんだ。らしくねえぞ。落ち着いていけよ」

「わかっているよ」

「なら、いいけど。1・2点くらいすぐに取り返してやるから、楽にいけ」

 やまちゃんは、そう言って引き上げた。カンの鋭いやまちゃんに僕の隠しておきたい内面を見透かされたようで居心地の悪さを感じた。


 はるちゃんが立ち上がり「ツーダンツーダン!」と掛け声をかけた。

 4番には、あの熱血男が入った。

 料理しやすい相手であるはずなのに、その時僕の気持ちは負けていたのだと思う。高々と、レフトオーバーを打たれた。僕の心臓は止まりそうになった。打球のゆくえを見つめた。新田が懸命にバックしている。まっちゃんが、「捕ってくれー!」と叫んでいる。東原サイドからは悲鳴があがった。ニヤついた男はホームインしていた。ノリのよい池上小相手に先に得点を与えると、流れは一気に向こうに流れる。


 高々と上がった打球。

 新田が飛びついた。そして転んだ。

 僕らは息をのんだ。新田を見つめた。

 しかし、ボールは離してなかった。

 捕った!アウトだ!


「よっしゃー!」と、はるちゃんがガッツポーズした。東原サイドから歓声があがった。熱血男はヘルメットを叩きつけた。


 ベンチに戻ってくる新田は、心から笑っていた。みんなからハイタッチで迎えられた。

それでも、急に僕の動揺がおさまるはずはなかった。一度逃げた気持ちは、簡単には戻らない。打席でも三振で、マウンドにあがってもピリッとしない。四球でランナーをたびたび出したもののバックの堅い守りに支えられてなんとか得点は与えなかった。しかし、いつ気持ちが切れても不思議ではなかった。


 0-0のまま4回表の攻撃を迎えた。ベンチ前で円陣を組み、監督が言った。

「いいか。そろそろ谷山を楽にしてやれ。とんな形でも点をとるんだ」

 橋本がこっそり陰口を叩いた。

「そんなに楽じゃないつーの」

 監督に聞こえたかどうかは分からないが、監督は調子を変えず続けた。

「確かにあの投手の荒れ球には手を焼くだろう。しかし、そのためにこの1ヶ月特訓してきたのだ。それぞれが、指導されたことを思い出せ。力まず、球を呼び込んで、弾き返せ。以上だ」

 はるちゃんが掛け声をかけた。

「ひがしー」

 みんなが声を合わせた。

「ファイ!よおし!」

 打順は、1番からの好打順。

 ガンちゃんが打席に入った時、僕は監督に呼ばれた。

「きついか」と、監督は訊ねた。

 僕は、なんと言っていいか分からず黙っていた。

「ダブルヘッダーなのだし、無理もない」

 僕はうつむいた。

「でも、チームメイトはみんなおまえを信じている。おまえも、みんなを信じろ。しかし無理にとは言わん。どうしてもきついなら、いつでも交替させる」

 5年生エースの吉田が、ギョッとした顔でこっちを見た。

「どうだ、まだやれるか?」

 僕に疲れはなかった。気候も涼しくなっていたし体力的にはまだまだ余裕があった。でも、どうしても気持ちが入らない。今までに体験したことのない不思議な出来事だった。


 ガンちゃんがヒットを打った。


 歓声があがった。


 でも、それは僕には関係のない遠い場所の出来事のようだった。


 コーチが口を挟んだ。

「フォームはいつもと変わらないのにおかしいな。気持ちの問題か?」

 その通りだと思う。

 ニヤついた男が1番に入っただけだったのに、僕に潜在していた恐怖をたたき起こした。僕は、何も言わず、ただうつむいていた。

 監督が笑った。

「そうか。谷山も一人前のピッチャーになったということだ」

 僕は、意外な言葉に驚いて顔をあげた。

「いいか、谷山。怖いものを知ってはじめて一人前のピッチャーだ。怖いもの知らずで無鉄砲なだけでは一人前とは言えん。しかし、その怖さを抑え、乗り越えて初めて本物のピッチャーになれるものだ。では、どうすれば乗り越えられるか、知りたいか?」

 僕は、黙ったまま監督を見つめた。

「答えは、グランドにある」

 また、監督は分からないことを言った。

「ただしヒントはやろう。迷わず、恐れず、練習してきたことをマウンドでやればいい。それだけのことだ」


 その時、まっちゃんもヒットを打って、チャンスが広がった。応援団から、また歓声があがった。

「いいか、谷山。迷うな。練習してきたことを全力でやるだけだ。さあ、打席の準備をしろ」

 僕は監督に促されて、ヘルメットをかぶり、バットを持ってネクストサークルに向かった。

 もっと、わかりやすく言ってくれないと・・・

 僕は、そう思った。納得できなかった。ネクストサークルの中でしゃがんでいた僕は、どこか遠くを見るように、やまちゃんの打席を見ていた。


 やまちゃんが、レフト前ヒットを打って、ノーアウト満塁になった。

 ニヤついた男は、躍り上がるように投げてくる。その掛け声も、みんなの熱気も、もう、どうでもいい。

 

 こいつらを倒してまで勝ちたくない。もう涙はみたくない。僕は、僕は、こわい・・・


 気がつくと、見送り三振になっていた。東原サイドから悲鳴のようなため息があがった。僕がベンチに引き上げる時、打席に向かう田中がすれ違いざまに「ドンマイだ」と言った。


 結局、田中がショートゴロゲッツーに倒れ、僕らは絶好のチャンスをつぶしてしまった。


 その裏、先頭打者を出してしまった。

 鮮やかに右中間へ持っていかれた。

 ノーアウト2塁。

 はるちゃんが、タイムをとって、内野手がマウンドに集まってきた。

 やまちゃんが僕のむなぐらを掴んで叫んだ。

「ピリッとしろよ!どうしたんだ!勝ちたくないのか!」

 僕はムッとした。

 はるちゃんが、わって入ってなだめた。

「今日の谷山はおかしいよ」と田中が言った。

「化けの皮がはがれたってこと?」と言う橋本に、まっちゃんが、また裏拳を入れた。

「どにかく、ふざけるなよ。勝ちたくないなら、降りちまえ」と、やまちゃん。

「いいすぎだ」と、まっちゃん。

 はるちゃんは、どうしたものかと困った表情をしているだけだった。

「どこか悪いのか?」と田中が聞いてきた。

 僕は首を横に振った。

「じゃあ、ぼちぼちいこうや。慌てることはない」と、まっちゃん。

「これからは下位打線だから、なんとかするよ」と、はるちゃん。

 それを聞いて、守備に散ろうとした時、まっちゃんが僕の肩を軽く叩いて言った。

「俺たちがなんとかするから、気楽にいってくれ」

 まっちゃんは、笑っていた。僕は、その笑顔を正視することができなかった。

 7番バッターへの攻めは、低めの速球から入ってファールを誘い、高めでうちとろうとしたのだが、甘い高さに行ってしまい、猛烈なゴロが、セカンドへ飛んだ。


 しまった。抜ければ1点取られる。


 池上小サイドから歓声があがった。

 しかし、まっちゃんが飛びついて捕った。そしてすかさず起き上がりサードへ送球。

 タッチアウトだ。


 まっちゃんは、右手を高々とあげ、人差し指を突きたてた。ワンアウトの意味だ。


 東原サイドがわあっと沸いた。

 打球の球足が速かったからでもあるが、あの抜けそうな当たりを普通なら3塁アウトにできない。まっちゃんの機敏な動きのおかげだ。まっちゃんは、笑顔を見せた。


 続く8番もセカンドゴロとなり、ゲッツーを取った。


 ベンチの中で白石が「おまえは、おまえの仕事をしてくれ」と言って、打席に向かった。

 わかっているよ。そんなこと。


 吉田が僕のところに来て言った。

「先輩、頼みます。僕には無理です。僕のせいで負けたら僕はもう野球はできません」

 その顔は真顔だった。

 新田も言った。

「谷山君。フルチンを恨んでいるの?だったらあやまるよ。だから、お願いだよ。僕もがんばるから」

 やまちゃんが離れたところから叫んだ。

「しっかりしろよ!おまえは、エースで4番なんだ!」


 みんなは、なぜ僕にかまうのだろう?なぜほっといてくれないのだろう。僕のことなんか、ほっといてほしい。


「エースで4番は、チームにひとりしかいないんだぜ」と、まっちゃんが言った。

 何をあたりまえの事をと、僕が思った時、白石がホームランを打った。

 ベンチも応援団も、沸きあがった。

 やっと、得点できた。みんなベンチから飛び出して出迎えた。盛り上がるベンチとは対照的に、白石は淡々としていた。そして僕に言った。

「俺は、俺の仕事をする」

 そのホームランが、東原を勢いづけた。新田も粘りに粘って、8球目をライト前ヒット。

 橋本は送りバント成功。

 はるちゃんは冷静に四球を選んだ。

 そしてガンちゃんが2塁へ大根切りをお見舞いして、自分もセーフになった。

 1アウト満塁。

 ピンチのはずなのに、ニヤついた男はマウンドで笑っていた。

 なぜ、笑う?

 僕はそう思った。

 あきらめたのか?

 いや、そうじゃない。

 心が強いからだ。


「強くなれ。ふたりとも」


 遠い日、白石の親父さんは僕ら二人に言った。


 でも、親父さん。強くなった先にあったものは、「人の涙」なんです。その時の僕は、初めて感じた怖さと、心の動揺が混在していた。自分でもよく整理がつかないまま、気持ちが逃げていたことは確かだった。


 まっちゃんが、フォースプレイを恐れず果敢にスクイズを決めた。2点目を取った。2アウト2・3塁となり、打席にはやまちゃんが入った。やまちゃんの軸回転打法は思いのほかやまちゃんに合っていた。真ん中に入ってきた失投を逃さず、やまちゃんはホームランを打った。

 東原サイドは沸きに沸いた。

 ニヤついた男は、頭を抱えてマウンドにうずくまった。僕は、打席に入ってニヤついた男を見つめていた。

「打たれるな、ボケェ」と、例のショートが笑っていた。ニヤついた男は、起き上がり「しょーがねぇなあ」と言って笑った。


 なぜ笑える?

 僕には不思議だった。

 僕は三振し、チェンジとなった。

 5点もとられたのに僕を討ちとったからか、池上小ナインは明るくハイタッチしながらベンチへ引き上げた。どうして、こんなにやられているのに彼らはあんなに明るくできるのか。僕だったら泣きたくなるに違いない。


 その裏。

 先ずは9番バッターを討ちとった。

 はるちゃんが、「その調子」と声をかけてきた。


 1番は、あのニヤついた男だ。

 僕は投げにくくて、2球ボールが続いた。

「真剣にやれよ!」と、ニヤついた男がわめいた。僕は、ハッとした。この男は何を言っているのだろう?敵なのに?

「四球じゃあ、つまらんぞ!」

 僕は黙って彼の顔を見つめた。

「勝負しろ!勝負だ!」

 はるちゃんが、豪速球のサインを出した。

僕 はうなずいた。重い心とはまるで無関係のように自然と体が動いた。大きく振りかぶり、渾身の力で投げた。パーン!という快音とともに、ニヤついた男は崩れ落ちた。大きく空振りをして体勢をくずしたのだ。すぐに立ち上がり、そして、ニヤリと笑った。はるちゃんは、また豪速球のサインを出した。監督の指示もあるので、「いいのか?」と思った。しかし、さっきの豪速球がことのほか決まったこともあり、僕は首をたてに振った。

 2球目も豪速球を投げるとニヤついた男は、またも空振りした。しかもボールとバットが大きく離れていた。それでもニヤついた男は悔しがらず、目をらんらんと輝かせていた。

 3球目も豪速球を使って、ニヤついた男を空振り三振に斬ってとった。

 東原サイドから、大きな歓声があがった。

 ニヤついた男はニヤつきながらベンチに引き上げていった。

 2番バッターも豪速球で三振をとった。不思議なもので豪速球を投げている時だけ、僕の重い心が軽くなって無心で投げられた。

 東原のナインが、「ナイスピッチ!」と言いながら引き上げていく。

 その後の配球は豪速球中心に変わった。不思議なことに、池上小の選手は、歓声を上げながら討ちとられていく。みんな楽しそうに見えた。

 

 最終回。

 ニヤついた男に打席が回ったが、そのまま僕らが逃げ切って5-0で勝った。

 ニヤついた男は、今日は泣いていなかった。最後の挨拶のあと、彼は僕のところにやってきて言った。

「俺たちは、できるだけのことはやったから、今日は全く悔しくない。おまえたちは強いチームだよ。また優勝してくれ。それから中学の大会でまた会おう」

 その態度はさばさばして、まぶしいくらいさわやかだ。試合が終わっても、まだ心が晴れない僕とは極めて対照的だった。



「あんな苦しそうなゆうちゃんは初めて見たよ」と、恵ちゃんが言った。


 翌日の月曜日。投げ込みの時だ。

 僕はその話は無視して投げ込みを続けた。

「どうしたの?」

 恵ちゃんは真剣に聞いてくるが僕は答えず黙っていたから、恵ちゃんは話を続けた。

「春木くんに聞いたよ。あいつは昔からとんでもないファインプレイをするかと思うと、なんでもないエラーをすることもある。だから気にしないで。って」

 それはたぶん外野をやっていた頃の話だ。正面のフライが苦手だった。

「それに、時々練習をさぼったりしていたし、才能だけでやっているようなところがあるからって」

 恵ちゃんは何が言いたいのだろう。僕はだんだん腹がたってきた。

「でもね、才能なら誰にも負けないとも言っていたよ。僕にも、ふうちゃんにも、って」

 それは意外だった。あの二人の方が僕よりうまいと思っていた。

「ねえ、何とか言ってよ」

 恵ちゃんは声を荒げた。

 僕は投球をやめ、ちょっと考えてから、こう言った。

「勝ちたいと、思わなくなった」

 恵ちゃんには意外な答えだったようで目を丸くしていた。

「うそ。あんなに勝ちたいって言っていたでしょう。春木くんはこう言っていたよ。練習をさぼったりするけど妙なところが生真面目だったりするから、失敗した時のことを考えているじゃないかって。思い切っていけばいいのにって」

 僕は恵ちゃんとは顔をあわせず、プールの壁に向いたままだった。恵ちゃんは僕のそばにしゃがんで僕を見上げている。しばらく、沈黙の時間が流れた。やがて恵ちゃんがうつむいて言った。

「やっぱり強豪校同士の大会だから大変なんだね」

 僕は黙ったままだった。

「それって私のせい?私がこわくない?なんて聞いたから、ゆうちゃんにプレッシャーがかかったの?」

 僕はうつむいた。多少はあたっている。あの時、ちょっとは気になった。

「やっぱり。私のせいなんだ。私が余計なことを言ったから」

 僕は黙ったままだで、恵ちゃんも急に話さなくなった。ふと見ると、しゃがんだまま、恵ちゃん涙を拭いていた。

「ゆうちゃん、ごめんね。私が無責任に変なこと言ったから・・・」

 僕はどうしたらいいか分からなかった。ただ、心が痛い。

「私のせいなんだね。それで、ゆうちゃんがあんなに苦しそうだったんだね」

「違う。恵ちゃんのせいじゃない。本当に勝ちたいと思わなくなったんだ」

「違うよ。私のせいなんだよ」

「もう泣くなよ。恵ちゃんのせいじゃないって」

 僕はなんとかしようと思って、思いつくまま話した。

「恵ちゃんのせいじゃない。本当だよ。僕らが強くなりすぎたんだ。簡単に勝ちすぎるんだ。だから面白いって思わなくなった。だって相手のチームだってがんばってきたのに、僕らは必ず勝つんだよ。相手のチームがかわいそうだろ。僕らに負けて何人も泣いたんだよ。そんなの見ていたら、やっぱり・・・」

 恵ちゃんは、グスグスしながら言った。

「その話?だって同情は良くないって」

「ああ。そうだよ。同情は良くないんだよ。だから、だから、」

 僕は自分でおかしなことを言っているのに気づいていた。恵ちゃんが泣くとは思わなかったから、動転していたのだと思う。だから、何か他のものに責任をなすりつけようとした。その矛先が、その時握りしめていた奇跡の硬球に向いた。

「こいつのせいだ!」

 僕はそう叫んで奇跡の硬球を遠くに放り投げた。

「だめだよ!そんなことしちゃ」

 恵ちゃんはそう言って、ボールが飛んだ方へ駆け出した。外野フェンス下の生垣の辺りに飛んだはずだが、もう暗いので、よくわからない。

恵ちゃんは「見つからないよ」と言いながら一所懸命に捜していた。僕はふてくされて「探すなよ!」と怒鳴った。

「あれのせいなんだ。あれがなければ、こんなことにはならなかったんだ!」

「違うって。あれは神様のプレゼントなんだよ」

 恵ちゃんはそう叫ぶと、茂みの中に入っていった。

「勝手にしろ!」

 僕はそう言って家に帰った。

 もう、何もかも全てのことが腹立たしかった。どうにでもなれと思った。食事もとらずベッドにもぐりこんで、しばらくまどろんでいると、窓を叩く雨の音が聞こえてきた。布団から顔を出してその気配を確かめた。大粒の強い雨だった。時計を見ると9時を越えている。恵ちゃんのことが気になった。まさかまだ探しているのか?でも関係ない。布団を頭からかぶった。しばらくそのままにしていると、時計の針の音が異常に大きく響いた。いくら何でも、もう帰ったはずだ。そう思ったものの、どうしても気になった。

 僕はベッドから跳ね起きて傘もささずに家を飛び出した。雨の中、学校へと走った。どうしてこんなことになったのか、よくわからずに、ただ、悔しかった。

「恵ちゃん!いるのか?いたら返事してくれ!」

 僕はやみくもに叫んでまわった。

「恵ちゃんのせいじゃないし、あのボールがなくても僕は優勝するから、だから、もういいって」

 僕は下着までずぶ濡れになって、その姿を探していた。


 翌日、恵ちゃんは学校を休んだ。

 僕のせいだ。

 そうとしか、思えなかった。


 学校が終わると、すぐに恵ちゃんの家に行った。でも、中に入る勇気がなくて、家の周りをうろうろしていた。しばらくそうしていたが、やがて僕は覚悟を決めた。ドアホンを押そうとした時、後ろから声が聞こえた。

「ゆうちゃん?何をしているの?」

 後ろに、目を丸くした美咲ちゃんが立っていた。ふいうちを食らったようで僕はたじろいだ。

「あ、いや。その…」

 僕の気持ちなど無視するように、美咲ちゃんは僕にどんどん近づいてきた。

「お姉ちゃんに会いに来たの?」

「まあ、うん」

「だめだよ。お姉ちゃんは風邪ひているし、それに昨日何か泣いて帰ってきたし。ゆうちゃんとけんかしたんだろうってお父さんもお母さんも言っていたし」

「風邪はひどいの?」

「うん。熱もあるよ」

「会わせてもらえないか?」

「だから、だめだって。あんなひどい雨なのにお姉ちゃんほおっておくなんて許せないってお母さんも言っていたし」

「だから謝りたいんだ。ごめんって言いたいんだ。だから、頼むよ」

「だってお母さんに怒られるよ。だめだって」

 僕はうつむいた。何だか取り返しのつかないことをしてしまった。

「わかった。じゃあ、おだいじにって伝えて」

「うん」

「そして、ごめんねって伝えて」

 僕の声はかすれて言葉にならなかった。大切なものを失くしたような気がした。

 僕はダッシュして帰り、久しぶりに練習をサボった。


 お母さんには適当に言い訳して僕は布団にもぐりこんでいた。心に大きな穴が開いたような痛みを感じた。意味のない時間が過ぎて行き、それは、とても長い時間だった。


 練習が終わった頃の時間に、白石が訪ねてきた。

「またサボりなんだろ?」

 部屋に入るなり白石は笑いながら言った。僕は白石にそっぽを向いたまま答えなかった。

「俺はそう思ったから心配していないけど、チームのみんなは心配してるぜ」

 僕は黙ったままだ。

「とにかく、新田もガンちゃんも田中も、まっちゃんも、みんなオロオロしていたぞ。5年の吉田なんか死にそうな顔していたぞ。とにかく、おまえはエースなんだから、しっかりしろよ。昔みたいに好き勝手するなよ」

「だったら、もうエースはやめる」

「またそんなことを。いったい何があったんだ?」

「白石にはわからないよ」

「そうか。それならもう聞かないから。でも、明日からは練習にこいよ」

「いかない」

 白石は怒った。

「ばか言うな!最後の試合まで、あと1週間もないんだぞ」

「関係ない」

「おまえ、本気で言っているのか?」

 僕は黙った。

 やがて、白石は気を取り直して言った。

「あのな、谷山。おまえは天才だ。俺の親父がそう言っていた。天才には天才なりの悩みも苦労もあるから、俺がおまえを支えろって言っていた。だから俺は何があってもおまえを支える。明日の練習にも、おまえを連れて行く」

 勝手な事を。僕はそう思った。

「野球をずっと続けていけば、壁は何度もやってくる。それを乗り越える勇気が必要だと親父は言っていた。幸い俺には壁らしいものはまだないけど、天才のおまえには壁らしきものが見えているんじゃないか?」

 僕には壁とかそんなものは理解できなかった。しかし、もとはといえば、「打たれて負けて僕のせいで三連覇できなかったらどうしよう」という漠然とした不安はあった。

「親父はな」と、白石が続けた。

「壁にあたったら逃げちゃだめだ。とにかく真っ直ぐ突き進めといっていたぞ。必死になって夢中で突き進むうちにいつの間にか壁なんか越えているってね。だから、おまえにもいろいろあるだろう。怖いと思うこともあるだろう。それは外野で見ていてもわかる。何しろ強敵が寄ってたかって俺たちをマークしているんだから。でも言い訳したり、サボったりしても突き進むことはできないと思うから、とにかく明日から練習に来てくれ。頼む」

 僕は答えず、布団をかぶりなおした。

「あのな、谷山。実は俺も怖いんだ。俺が最後のバッターになって、三振して負けたり、エラーしたらどうしようなんて思っているし、それは、みんなも同じだと思うぞ。やまちゃんだけだろうな。そんなことこれっぽっちも考えていないのは」

 白石がちょっとおどけて言ったので、僕もつい口をはさんだ。

「あと、橋本」

「わはは。そうかもな。あいつは自分が悪いなんて考えない奴だから」


 よく分からない難しい話だった。壁って何だろう。でも、みんな本当は怖いんだと思うと心の中の重荷がひとつ消えたような気がして、ちょっとは楽になった。帰り際、白石が何気なく聞いてきた。

「おまえの投球フォーム、最近うちの親父に似てきたぞ。何か教えてもらったのか?」

 特別教えてもらった訳ではない。ただ、小さかった頃、今投げ込みをしているプール横の壁で、たまに見せてくれた、あの全力投球のイメージが強烈に残っているだけだ。

「そうか。イメージか。じゃ、とにかく明日から頼むぜ」

 僕は返事をしなかった。

 今日の白石は、いつになくおしゃべりだった。


 翌朝。

 いつもの走り込みの時間に、目は覚めていた。しかし、気分が重くてベッドの中から起き出せないでいた。明るくなっていく外の光が、ゆっくりと室内を照らしはじめていた。僕は何度も寝返りをうちながら、落ち着かない気分を紛らわしていた。

 今日は、学校にも行かないと決めた。

 お母さんは「おとといずぶ濡れになって帰って来たからね。風邪でもひいたのかしら」と言ってたいして気にしていないようだった。言い訳に困っていた僕は、拍子抜けするほど簡単に休むことが出来た。

 いつも何かと忙しくしている僕には、不思議な時間だった。ベッドの上から天井を見つめていると、いろいろなことが頭の中を駆けめぐる。

 野球のこと。

 チームのみんな。

 ふうちゃん。

 白石の親父さん。

 そう言えば岩松兄弟は今どうしているんだろう。無邪気に甲子園を約束したことが、もうずいぶん昔のことのように感じる。

 恵ちゃん。

 僕はこの前の事、ちゃんと謝らないといけない。そのことだけが頭の中を支配し始めた。

 恵ちゃんの泣き顔は、もう見たくない。

 やがて僕はうたた寝をしていたようで、気がつくと黄金色の夕日が部屋の中に差し込んでいた。ベッドから起きだして窓をあけた。冷たいが、さわやかな風が吹き込んできた。


 僕には、やらないといけないことがたくさんある。

 白石、俺は逃げないよ。

 そう、思った。


 翌朝、僕は登校した。足取りは重くなかった。やらなきゃならない事を、ひとつひとつ片づけるつもりだった。だから、昼休み、迷わず恵ちゃんの教室に行った。友達とおしゃべりしていた恵ちゃんを見つけて僕は声をかけた。

「恵ちゃん、ちょっといい?」

 恵ちゃんは、きょとんとした顔で僕を見た。僕が笑顔を見せて手を振ると、恵ちゃんは、うつむきながら小走りに駆けてきた。僕は階段の踊り場に連れて行った。

「この前は、ごめん」

 僕は大きな声で謝り、深々と頭をさげた。

 恵ちゃんは黙っていた。

「あの後、風邪をひいたそうだね。雨なのにほったらかして僕だけ帰ったりして悪かった」

 恵ちゃんはやはり黙ったままで僕を見つめていた。その意外なリアクションに、僕は慌てた。てっきりすぐに笑ってくれると思っていた。しかし現実に気まずい空気が流れている。僕はおしゃべりを重ねた。

「許して欲しいと思うよ。でも、どうしても許せないなら許さなくてもかまわない」

 恵ちゃんは、うつむいた。

 しばらく時間が流れた。

「僕の調子が悪かった事、あれは絶対恵ちゃんのせいじゃない。僕が迷っていただけなんだ。でも、もう迷わない。三連覇する。心配かけてごめん」

 恵ちゃんの意外な反応に驚き、とまどい、その場に居づらくて、僕はそう言うと、自分の教室に駆けて帰った。

 もう昔の二人には戻れないのかも知れない。


 さて放課後。

 野球部のみんなは温かく迎えてくれると思ったのに、どちらかというとチャカされた。それでも反応があるだけ、まだましだった。

 部では、いつもの様に練習した。恵ちゃんのことは気になるけれど、野球に夢中の時だけ気が紛れていい。今は、とにかく投球のことだけ考える事にした。

 その夜。練習後の投げ込み。

 いつもより何かおかしくて、いつもの感じじゃなかった。2日も練習をサボったせいなのか?肩は軽いのだが、どうしても手首の抑えが効かず球にキレがない。今日の練習ではるちゃんに指摘された。2時間くらい投げ込みしたが、どうしても納得いかなかった。何故なのかわからないまま、その夜は切り上げた。

 恵ちゃんも、とうとう来なかった。


 翌、木曜日。

 一度だけ廊下で恵ちゃんとすれ違ったけれど、僕に気づくと目を伏せて行った。それって、ドラマとかで言う「破局」ってヤツなのか?心が、どうしても重かった。


 そして、放課後。練習だ。

 他のみんなは気合いが入っていて、それぞれ前回試した新しい技に磨きをかけているようだった。しかし僕は、どうしてもキレが戻らず、うんざりしていた。そのままの気分で投げ込みをしたせいか、本当にどうしたらいいかわからなくなってきた。試合が近いのに、一体どうしたんだろう。たった2日休んだだけなのに、こんなにおかしくなるものだろうか。せっかく気持ちは前向きになったのに、ボールは言う事をきいてくれない。投球といい、恵ちゃんといい、うまくいかないなあ。


 翌、金曜日。

 学校で見るチームメイトたちは、落ち着いていた。三連覇がかかっているというのに、いつもと変わらず、雑談したりしていた。あと2日後には勝つか負けるか決まるのに、みんな怖くないのかと思いつつも、僕も表面は落ち着いているふりをしていた。

 とにかく問題は、キレを戻すことだ。

 うすうす、奇跡の硬球がないと、あのキレは戻らないと気づき始めていた。でも、それを言っても仕方がないから、他の方法がないものか考えあぐねていた。

「キレはなくても、低めをきっちりつけば、問題ないから」

 はるちゃんはそう言うけれど、そんなに甘い敵ではないことぐらい僕にもわかっている。煮え切らない気分のまま戦いが始まりそうだ。


 夜。

 僕は投げ込みの途中で、もう、やけを起こした。どうにでもなれ!そんなすてばちな気分になった。ボールを投げ捨て、グラブを叩きつけ、大の字になって寝転んだ。しばらく夜空を眺めていると、オリオン座が出ているのに気づいた。夜風が冷たいことに気づいた。

 僕は何をやっているのだろう。

 天才だとかエースだとかほめられて、調子にのってここまできたけれど、僕の力なんてこんなものだったんだ。奇跡の硬球がないだけで、何ひとつできなかったんだ。ごめんよ、みんな。ふうちゃん。僕は約束を守れないかもしれない。そう思うと不覚にも涙があふれてきた。ぽろぽろと、こぼれ落ちた。誰もいないからかまわない。泣くだけ泣いてやれ。


 その時、「ゆうちゃん、どうしたの?」という恵ちゃんの声が聞こえた。

 僕は上半身を起こし、慌てて声とは反対の方を向いた。

「ねえ、どうしたの?大丈夫?」

 僕の顔を覗き込もうとする気配を感じて、僕はさらに反対方向に向いた。

「何でもないよ。目にゴミが入って、ちょっと一休みしていただけだよ」

「そう」

「で、恵ちゃんこそどうしたの?」

 やっと、涙を拭き終えて、恵ちゃんの方を向くことができた。

「わたしはね、」

 恵ちゃんは気恥ずかしそうにしていた。

「わたしもね、謝らなきゃって思ってきたの」

「何で?恵ちゃんは悪くはないよ」

 僕がそう言うと、恵ちゃんはちょっとはにかんだように笑った。

「はい、これ」

 恵ちゃんは後ろ手に持っていた奇跡の硬球を差し出した。

「あ!」

 僕は思わず叫んでいた。どうしても見つけたかったボールだ。

「ありがとう。どこにあったの?これ」

「外野フェンス下の茂みの中だって。お父さんが見つけてくれたの」

「おじさんが?」

「うん。あの日ね、私はとうとう見つけられなくて、泣いて帰って、家中が大騒ぎになったんだけど、お父さんが散歩の帰りに、見つけたよ、これだろう?って何気なく拾ってきてくれたの」

「おじさんが。でもあの日は雨だったよ。散歩?」

「お母さんは何か怒っていたし、わたしはボールが見つからないって泣き叫んでいたし、なんとなく足が向いたんだろうね」

 美咲ちゃんも、そんな感じで言っていた。

「お父さんが言っていたよ。ボールを見つけて帰ろうとしていた時に、何やらどこかの男の子が、すごい剣幕で走ってきて、恵ちゃんは悪くないからって叫んでまわっていたぞって」

 僕のことだ。

 恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

「お父さんはね、おまえからこのボールをちゃんと返して仲直りしなさいって」

 僕は恥ずかしさが抜けず、頭をぼりぼり掻きつづけていた。

「ごめんね、ゆうちゃん。わたしは何か意地を張ってて、素直になれなくて」

「いや、まあ」

「でも、春木くんから聞いたの。ゆうちゃんがおかしいって。球にキレがなくて悩んでいるって。だから、早くこのボールを返さなきゃって思ってたんだけど、どうしても」

「うん」

「だから、今日は本当に勇気がいったんだよ」

「うん」

「うん。じゃなくって、」

「ありがとう。このボール、ないと困るなあって本当に思っていたんだ。もう二度と捨てたりしないから」

「それだけ?」

恵ちゃんは笑いながらそう言った。

「それだけって?」

「見つけてくれたお父さんと、勇気を出して持ってきた私にお返しは?」

 時々、恵ちゃんはそういう言い方をする。恵ちゃんのお母さんゆずりだ。

 さて、答えは何だろうと考えた。

「あ、優勝するから」

 僕は気がついて、そう答えた。

 恵ちゃんはにこっと笑った。

「五十点だね」

「え?五十点?」

「そうだよ。でも、まあいいか。あとの五十点は、そのうちね」

 恵ちゃんは明るく笑った。

 やっと恵ちゃんらしくなった。

 正解は分からなかったが、僕も笑った。とにかく、仲直りもできた。奇跡の硬球も戻った。万全の体制で戦える。


 それはそうと何やら波の激しい1週間だった。でも結局元に戻った。


 本当に迷うな。

 自分に言い聞かせた。


完読御礼!

いつも遅い時間にアップしていますが、熱心に読んでいただいている皆さまに感謝です!


小学編もあとわずか。

最後までどうぞよろしくお願いいたします。

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