第八章 夏のおわりに 第九章 秋 風
さぁ、野球少年らしくなくなってきました!
今回は勇太と恵ちゃんの恋物語で、アットホームなお話です。
小悪魔美咲ちゃんも初登場です。
天才肌で気分屋である勇太くんの心は、本来傷つきやすくちょっとふらふらしてしまいます。
それが、秋の大会に向けてどう影響していくのか、どう自分を形成していくのか、その導入部分です。
ごゆるりとお楽しみください。
第一章 フルチン先輩
第二章 青空の彼方へ
第三章 夢をつぐもの
第四章 夏の陽射し
第五章 岩松兄弟
第六章 祭の日
第七章 熱 戦
第八章 夏のおわりに (今回はここと、)
第九章 秋 風 (ここです)
第十章 1週間
第十一章 死 闘
第十二章 天高く
第八章 夏のおわりに
翌日は月曜日だった。
夏休みだから曜日は関係ないけれど、残すところおよそ2週間。その間、野球部は休みになった。
監督から「谷山、おまえは特にちゃんと休養をとるように」と言われた。そして「これから2週間の休みで、みんなそれぞれ夏休みの宿題をちゃんとやっておくように。そして、6年生は小学校最後の夏休みなのだから、思い残さないように精一杯遊んでよろしい」とも言われた。みんなから歓声があがった。初めて監督が「遊んでいい」などと言ったからだ。コーチが隣で「よく学び、よく遊べだ」と言って笑った。
それにしても2週間もの休みは、僕らにとって思いがけないボーナスのようなものだ。誰かが「市民プールに行こう」と言った。別の者は「おばあちゃんとこに行こう」と言った。「花火花火」と言う者もいた。みんな海に行ったり山に行ったりしたいのを我慢してきた。夏の溶けそうな暑さの中、黙々と野球をやってきたのだ。このご褒美は、ことのほかみんなを喜ばせた。
橋本がこっそり「鬼の目にも涙」とつぶやき、周りにいた数人が、こっそり笑った。
夕方。
僕はいつもの投げ込みのため学校に行った。そして先ず下駄箱から高浜さんの日記を抜き取った。「優勝おめでとう」と大きなイラスト入りで書いてあった。
「父さんもすごいチームだって感心していたよ。相手も、うちもね。両校とも小学生のレベルを超えているって。そして、あの暑い中で、しかも1点差の厳しい展開で、気持ちを切らずによくがんばったって、谷山くんをほめていたよ。お母さんは野球は知らないらしいけど、谷山くんが打って点をとって、谷山くんが投げて1点もやらなかったことは分かったようで、はしゃいでいたよ。妹はカッコイイって言っていたし」
僕はその時、みっともないくらい表情がゆるんでいたのではないかと思う。ほめすぎじゃないかとも思ったが、やっぱりここは素直にうれしかった。僕の家では、父さんがビールで祝杯をあげたけど、「4回のあの守備の乱れは何だ」と、結局しかられた。お母さんはにこにこして「よくがんばったんだから」と言ってくれたが、父さんからは「まだまだだな」と言われた。
それにしても、この日記からは、うれしさに躍動した高浜さんの気持ちが感じられる。
僕は、日記じゃ嫌だと思った。
会って話しがしたいと思った。
思えば、これが本当の恋の始まりなのだろうが、当時の僕にはそんな整理がついている筈もなく、ただなんとなくそう思っていたにすぎなかった。その抑えがたい思いを胸にしまって、僕は投げ込みをしようと、プールの壁に向かった。
プールの壁の前には、はるちゃんがいた。
珍しい客だなと思った。大体いつもここにいるのは白石兄妹か、高浜さんなのだ。僕はどうした?と声をかけた。
「いや、とりあえずおまえと祝杯でもあげようかと思って」
はるちゃんはそう言うと、紙袋の中からサイダーを2本取り出した。栓を抜き僕らは乾杯した。
「僕がここにいるってよくわかったね」
「みんな知ってるよ」
僕は苦笑いした。
「で、何かあったの?」
「とりあえず、優勝したよって、ふうちゃんに手紙書いておいたから」
「うん」
「で、合宿の時、フルチンして悪かったね」
僕は笑った。
「何だあのことか。気にするなよ。あれは恨みっこなしのゲームだろ?それにみんな真剣に僕を憎んでいるわけじゃないし」
「うん。今はみんなそうだけど、あの時は田中とやまちゃんが本気だったから」
「田中はともかく、やまちゃんが?いつも2~3人のガールフレンドがいるって話なのに?」
「やまちゃんの本命は高浜さんだったらしい」
僕には意外だった。
「谷山を便所に呼びつけて殴るって騒いでいたし、だから、とにかくフルチンにしようって話になったんだ」
僕の知らない舞台裏でそんな恐ろしい話になっていたのだと思って、呆然とした。
「裏で橋本が糸を引いていたしな」
やはり、橋本か。
「でも、今はやまちゃんも、グチグチ言うのは男らしくない。おまえに譲るって言っているし、気を悪くしないでくれ」
譲るも何も、高浜さんは高浜さんだし、そんな問題かなあと思った。それにしても、やまちゃんといい、橋本といい、鉄壁に見えた僕らのチームにもいろいろあったんだ。
「まあ、橋本ははじめからあんな奴だしね。でもあいつなりに野球はがんばっているし、もうみんなわだかまりはないから、これからも頼むね。みんな谷山を頼りにしてるんだから」
僕は笑って答えた。
「だから、僕は初めから気にしてないよ。それに事情もわかったし、もうじゅうぶんだよ」
はるちゃんも笑った。
「よかった。これで心の重荷がとれた」
はるちゃんは、はるちゃんなりに悩んでいたのだろう。
「あ、それから」と、はるちゃんは話題を変えた。
はるちゃんの話では、やはり、秋の大会はシステムが変わって、両リーグのベスト16校を選抜して行われることに決まったらしいと言うことだ。強豪だけの戦いとなる。1回戦から気が抜けない。三連覇のためには、そいつらをまとめてなぎ倒す覚悟が必要のようだ。
次の日記を受けとった時、
「明日、私の試合があるから応援にきてほしいな」と書いてあった。
「私のチームは弱小だから恥ずかしくて、応援に来てと言うかどうか迷ったんだけど、最後の試合だと思うし、後悔しないようがんばるつもりだから、応援にきてね」
僕は、迷わず行こうと思った。いつも高浜さんは応援してくれている。それは僕にとって大きな励みになっている。
今度は僕の番だ。
翌日、会場の市民体育館につくと、結構多くの車やバイクがとめてあって、僕はチャリンコを止める場所を探すのに苦労した。
参加校は市内全体で20校くらいらしいのだが、市民体育館がおんぼろで狭いので、人の密度が高かった。おまけにクーラーも入っていないか、そうでなければ壊れている。だから、館内は蒸し風呂のようだった。炎天下のグランドとはまた違った暑さとの戦いがある。
アリーナを4面に区切ってあって、各チームの試合が行われていた。
東原小は、Bブロックの第2試合なので、そろそろ選手が入場してくるはずだ。そう思って、2階席で待っていると、5分もたたないうちに、両校の選手が入場してきた。その中に、高浜さんがいた。
「高浜さーん!がんばれー!」
僕は立ち上がって叫んだ。
それに気づいて、高浜さんは僕を見上げた。そして、ちょっとはにかんだ笑顔で手を振った。僕は、こぶしを突き出し、ガッツポーズした。高浜さんは、まわりのチームメイトから冷やかされていた。ちょっと、恥ずかしかったかもしれないな。でも、大声を出さないと聞こえないだろうし、ガッツポーズは僕ら野球部伝統の気合いの入れ方だ。
練習が始まったので、僕が席に座ると、「よう谷山」という、やまちゃんの声が聞こえた。
「あ、やまちゃんも応援に来たの?」
「ああ。今日は美樹の応援だ」
やまちゃんは、僕の隣に座った。
「美樹って誰?」
「4組の早川だよ。知っているだろ?」
僕はちょっと考えた。
「あ、3・4年の時同じクラスだった早川美樹さん?」
「ああ」
僕と、やまちゃんと早川さんは、3・4年の時同じクラスだった。こいつらできていたのかと思った。早川さんも結構かわいい女の子だ。でも性格がちょっときつい。
「美樹は、フォワードで、スタメンだ」
「あ、そうなの。でも、ポジションとか僕わからないよ」
「まあ、点をとる係だな」
「ふーん」
「ふーんって、本当に知らないようだな。ちなみに高浜はガードだよ」
「ガードって何?」
「まあ、守備係だな。司令塔の場合もある」
「じゃあ、はるちゃんみたいなもの?」
「そうかもな」
「うわ、大変なポジションだ」
その時「谷山くん?」という高浜さんに似た声が聞こえた。
ふり向くと、そこに髪の長いきれいな感じの女の子が、友達らしい二人とともに立っていた。
「はい?」
「やっぱり、谷山くんね。私、高浜です。妹です」
「ああ、高浜さんの」と、僕が言うと、後ろにいた友達らしい女の子たちが騒いだ。
「やっぱり野球部の谷山さんと、山村さんだ!」
「隣に座っていいですか?一緒に応援していいですか?」
やまちゃんが、「ああ。いいよ」と言った。
女の子たちは席に座るなり、
「私たち、春も夏も応援に行きました。優勝おめでとうございます」
「ああ。ありがとう」
「で、谷山さんは高浜さんの応援ですか?」
「うん。そうだよ」
「やっぱりー。残念だな。噂は本当だったんだ。谷山さんは今一番人気なんですよ」
やまちゃんがムッとしていた。
「山村さんは?」
別の一人がそう言ったので、やまちゃんは機嫌を直して答えた。
「いや、俺はこいつのつきあいだ」
やまちゃんは、すげぇ。よくもまあしゃあしゃあと。
「よかったー、山村さんもファンの子多いですから」
しかし女の子はよくそんな話をできるものだと思った。僕には恥ずかしくて無理だ。妹さんは、二人の話には加わらず黙っていた。4年生のはずなのに、他の子のように「さん」とつけず、「くん」と呼んでいたし、それに落ち着いているというか、冷めているというか、どこか遠くを見ているような不思議な雰囲気の子だ。
さて、試合が始まった。
高浜さんはベンチスタートだ。
よく分からないが、相手チームのボールになった。ボールを持った相手選手は見事なドリブルでディフェンスをかわし、鋭いカットインで内側に入りこみシュートを決めた。ものの6秒くらいでもう2点だ。野球ならプレイボールホームランでも1点なのにと思っているうちに味方がボールをスティールされ、また2点とられた。あっという間に4点だ。
僕もスポーツ選手だからバスケは知らなくても、のっぴきならない実力差が両チームの間にあるということは分かった。相手選手につめ寄るクイックネスとスピード。正確なパスが回せる確信を持ったポジションどり。東原の選手が浮き足だっている間に、前へ前へとプレッシャーをかけてくる。
やまちゃんは、「ダメだな」と言って、女の子たちをがっかりさせていた。「もっと腰を落とさないと」という解説もしていた。僕は、そんなこまかな技術は知らない。でも高浜さんが日記に書いていたように、彼女たちにとって最後の夏なのだから、先ず「勝ちたい」と思うほうが先だと思った。気持ちが負けると、本当にそこで終わってしまう。
思わず席を立ち上がり「勝て!東原!」と叫んでいた。
やがて前半が終了した。スコアは22ー8。やまちゃんによるともう絶望的な点差だそうだ。
休憩時間に、やまちゃんはみんなの飲み物を買いに行った。やまちゃんは女の子には優しいようだ。うそもつけばカッコつけて解説もする。しかし、こういうこともよく気がつく奴だ。
後半が始まった。
開始早々あっという間に8点とられた。
これで、30-8。
僕は、悔しくなった。どうしても手の届かないもどかしさがあった。なんとかしろよと思った時、選手交代があった。3人交代した。その中に高浜さんがいた。
妹が言った。
「お姉ちゃんが出るなんて、もう試合をあきらめたのかな」
確かに常識的にはそうだ。6年生最後の試合なのだから。でも僕は、ちょっと笑って言い返した。
「そんなことはないよ。高浜さんはがんばってきたんだ。きっとなんとかしてくれるよ」
そして席を立って叫んだ。
「かんばれ!高浜さん!」
高浜さんはゲームに集中していた。相手のインサイドへのパスをカットし、すかさずフロントコートに送った。走っていた早川さんがパスを受け取り、ドリブルで強引に突っ込んでシュート。ようやく後半の得点が入った。やまちゃんも「よっしゃー!カウンターだ!」と、野球の試合中のように吼えた。東原の選手は、ハイタッチしていた。ベンチも盛り上がってきた。さらに、疲れの見えてきた相手選手のボールを東原の選手がスティールし、そのままパスをつないで得点した。東原にがぜん勢いがきた。そして、相手のシュートミスを高浜さんが拾い、味方にパスした。パスを回して早川さんが決めた。3連続得点だ。これで30-14。時間は、まだある。
やまちゃんが、「いける」と言った。
僕もそれを信じて応援の声を張り上げた。4年生の女の子たちも、大きな声援を送った。高浜さんも早川さんも、みんながんばった。必死になって追い上げた。
そして、あと4点というところで、残念ながら試合終了となった。そのブザーを聞きながら、僕らはスタンドで立ち尽くし「あ~」とため息をついた。
ベンチに引き上げた高浜さんは、汗をふくようにタオルを使っていたが、その目は真っ赤になっていた。僕も何だか、涙が出てきそうで、ちょっと困った。でも、どうしても言いたくて「いい試合だったー」と叫んだ。
高浜さんの小学校最後の試合は終わった。
「私はもう引退したからヒマなんだ。谷山くん。ちょっとつきあわない?」
あの後の日記に高浜さんが、そう書いてきた。なんだろうと思って読むと、
「夏休み最後の日曜日、家族で海に行ってバーベキューしようと計画しているけど家族全員一致で谷山くんも招待することに決まりました」
僕は「うそ」と思った。
何で高浜家のレクレーションに僕が参加するのだろう。
「谷山くんも、夏休みの間、野球部の練習はないでしょう?だからおいでよ。断ったら絶交だよ」
僕は何とかうまい言い訳を考えようとした。親戚が一人か二人亡くなったことにするとか、お母さんが病気とか。でも、バレバレだろうなあ。ぜんぜんうまくない。しかし、遠出するとなると親に言わないといけないし、ガールフレンドなんて話をしたら、お母さんは絶対怒るし、宿題も残っているし。宿題はなんとかなるとして、やはり問題は親だよなあ。ちょっと恥ずかしいけど、ここは男同士、父さんに話してみるか。父さんは高浜さんのこと知っているし。
その夜、僕は投げ込みから帰るとさっさと夕食を済ませ、居間でテレビを見ているふりをして、父さんが帰ってくるのを待った。父さんが晩酌を始めて、ほろ酔いかげんの時が、たぶんチャンスだ。僕はそう見ていた。
やがて父さんが帰ってきた。よし。勝負はこれからだ。焦らずタイミングを見極めよう。
いつもならすぐ晩酌を始めるが、その日はいきなり「風呂が先だ」と言って、風呂に入ってしまった。これで、あと三十分は作戦延期だ。お母さんの台所作業が終わってしまわないか、それが不安の種だった。なかなかうまくいかないなあと思っていると、お母さんが父さんの食事の支度を整え、居間にやってきて、僕と一緒にテレビを見始めた。よし!今始まった番組はお母さんの好きなドラマだ。いける。
やがて父さんが風呂から上がってきて「ビールだ」と言った。お母さんは「自分でやってください」と言った。僕はチャンス到来とばかり、「僕がついであげるよ」と言って冷蔵庫を開けた。
「なんだ、珍しいこともあるんだな。おまえもやるか?」と父さんが言った。
「冗談はやめてください」とお母さんは言ったが、食卓にやってくる気配はない。
僕は「まあまあ、先ずは一杯どうぞ」と父さんに酌をした。父さんは訝しんで「こづかいならやらんぞ」と言いながら一気飲みした。うまそうに飲み干したあと、「さあ、どうぞどうぞ」と僕は2杯目を注いだ。父さんは上機嫌で、「あと何年したら、おまえとさしで飲めるかなあ」とか言っていた。僕はニコニコしていたが、今はそんなことどうでもいい。早く酔っ払えと思った。
頃合を見て切り出した。
「父さん、相談があるんだ」
「やっぱりそうか。で、どうした?」
「あのね。今度の日曜日、海でバーベキューするからおいでって高浜さんから招待されたんだ」
「たかはま・・・。ああ、あの交換日記のガールフレンドか」
「どうしよう」
「それは、向こうのご両親と一緒なのか?」
「そうだよ」
「いいよ。行ってこい。向こうのご両親には俺からご挨拶しておくから」
「お母さんには?」
「言わない方がいいだろ。ガールフレンドなんてまだ早いって怒るから」
僕はニヤッと笑った。
「やっぱり、父さんもそう思う?」
「ああ。間違いない」
「じゃあ、あとで高浜さんとこの電話番号教えるからお願いだよ」
「ああ。男と男の約束だ」
父さんも、なんか嬉しそうにビールを飲もうとした。その時、いきなりビールを噴き出した。父さんの目線の先にはお母さんがいた。
「あら、二人で何か楽しそうね」
「あ、いや、まあ・・・」
父さんはしどろもどろだった。
「ガールフレンドがどうしたって?」
「あ、いや、その」
「聞いたわよ。人様から招待されて母親が知らない訳にはいかないでしょう」
「そうだな」
父さんは、力なく笑った。
「とにかく、ガールフレンドうんぬんなんて、まだ早すぎます」
やぶへびだ。余計お母さんを怒らせたようだ。
「でも、おまえ・・・」と、父さんが言ったが、「とにかく早すぎます!」と、お母さんに一喝されてしまった。
「でも、向こうのご両親が一緒だから、今回は特別に許可します」
僕はホッとした。
「明日にでも私からご挨拶しておくから、あとで電話番号を教えなさい」
「うん」
「何かお礼も考えないといけないね。そうだ。十月は勇太の誕生日だから、誕生会に招待しましょう」
「それがいい」すかさず父さんがよいしょした。
僕には話がややこしくなった。でも、最悪の結果にはならなかったから、よしとしよう。
「まったくもう、男二人で、本当に・・・」
などと捨て台詞を残してお母さんは居間に戻り、僕と父さんは顔を見あわせて笑った。
バーベキューの日。
僕は高浜さんの家に行った。玄関に行こうとすると、車庫から親父さんが出てきた。
「ああ。谷山君。今日はよろしくな」
唐突な出現だったので僕は驚いたが、お母さんに教えられた通りに挨拶した。
「はじめまして。谷山勇太です。今日はよろしくお願いします」
親父さんはうなづきながら、
「今日がはじめてじゃないよ。試合で君の活躍は見ているし、君も何度かおじぎをしてくれただろう」
お母さんはその事情を知らない。しまったと思って顔が赤くなった。親父さんは家の中に向かって声をかけた。
「おーい、谷山君が来たぞ。早く出てきなさい」
すると、玄関から高浜さんのお母さんが出てきた。
「あら。谷山君。こんにちは。今日はよろしくね。娘たちも楽しみにしているから」
「はじめまして。谷山勇太です。今日はよろしくお願いします」
僕はまたそう言ってしまって、恥ずかしさもあって深々と頭をさげた。
「あら、お母さんのしつけがいいのね」
そう言うと、おばさんは上品に笑った。高浜さん姉妹はこのお母さん似なのだと思った。それに、親父さんもけっこう二枚目だ。しかも昼間見ると大きな家だった。うちとは大違いだ。うちには自家用車もないし。高浜家は裕福な家なのだなと思った。
高浜さんが出てきた。白いポロシャツに、ジーンズ姿。
「谷山くん。こんにちは」
「今日はよろしく」
やっと、ふつうのあいさつができた。よし。この調子だ。
「美咲!早くしなさい」と、親父さんが言った。
家の奥から「はーい」という返事が聞こえ、やがて、妹が出てきた。白いワンピース姿で、長い髪にマッチしていた。まるで人形のような美少女だ。先日は標準服姿だったが、今回はまるでイメージが違うので僕は驚いた。女の子って不思議だ。
「谷山くん。よろしくね」
「あ、ああ。よろしく」
「美咲、谷山さんか谷山先輩と言いなさい」
親父さんがそう言うと妹がちょっとむくれた。
「いいじゃないですか、お父さん。お姉ちゃんの真似をしているのですよ」
「そうよ。お父さんは古いんだから」
「まいったなあ。まあいいか。それより出発だ」
僕らを乗せた車は快調に走っていた。大きなセダンで、どっかの社長でも乗っていそうな車だった。
子供3人は、後席に乗り、僕が真ん中だった。車内で、お互いの呼び名を決めた。僕以外全員「高浜さん」だからだ。それじゃ不便でしょうからと、おばさんが言い出した。
親父さんはお父さん。
おばさんはお母さん。
高浜さんは恵ちゃん。
妹は美咲ちゃん。
僕は勇太の名前から「ゆうちゃん」と呼ばれることになった。
「なんか、家族になったみたいだね」と高浜さん、いや、恵ちゃんは笑っていた。
「でも、ゆうちゃんはグランドに立っている時とまるで印象が違うわね」
お母さんがそう言った。
「そうですか?」
「そうよ。グランドではものすごくたくましく見えて堂々としているのに、今日は普通の小学生だもの」
「ああ。それは父さんも思うな」
「でもね、ちょっと安心したのよ。もしかして乱暴な子だったら困るから」
「もーお母さん、そんなんじゃないってば」
「あー、乱暴っていうのはちょっと違うかな。グランドでも冷静に自分を抑えているようだから。たぶん自信の表れなんだよ」
お父さんはそう言った。確かに自信はある。大人はそんなところまで見ているのか。
「いいなあ。私もそんな選手になりたかったな」と、恵ちゃんが言った。
「でも、恵ちゃんは、いい動きしていたと思うよ。あの怒涛の追走劇も、もともと恵ちゃんのパスカットからなんだし」
「へへ、そうかな」
「お姉ちゃん、どうするの?中学ではやらないの?」
「実はちょっと迷っているんだ」
「続けようよ。僕も野球はやめないし」
「ゆうちゃんは、続けるの?」
「当然だよ。僕は甲子園に行くんだ」
「甲子園!?」みんなから驚きの声があがった。
「でも大変だよ。なんでそこまでするの?」
僕はつい調子に乗って、野球が面白くて仕方ないことや、白石の親父さんの話、おまけに岩松兄弟との約束まで話した。
「熱血だね」
「いいわね。若い人は夢があって」
「ゆうちゃん、がんばれ」
「よし。じゃあ父さんも応援するかな」
海に着いた。
青い空にあおい海。
天気に恵まれたこともあって、まさに絵に描いたような海岸風景だ。
駐車場から浜まで、僕とお父さんで重い荷物を運んだ。お父さんはコンロを組み立て、その中の炭に器用に点火した。僕がうちわで風をおくって火をまわす係になった。お父さんはテーブルや椅子を並べ、そして紅白チェック柄のテーブルクロスを広げた。僕には初めての体験だったので、全部が目新しく面白かった。女性陣は、食材の準備をしていた。あらかじめ準備してあったので、手早かった。
そして火にかける。やがてじゅうじゅうと音がして、いいにおいがしてきた。僕はもう腹ペコで、待ち遠しかった。
「よし。もういいだろう」と、お父さんが言ったので始めることにした。
お父さんと僕ら子供はジュース。
お母さんだけビールだった。
それぞれグラスを持った。
「じゃあ、恵の十二歳と、谷山君の優勝を祝して、かんぱーい!」と、お父さんが言った。
僕らも「かんぱーい!」と復唱してバーベキューが始まった。
屋外でのバーベキューなんて、当時は珍しく、僕は初めての体験だった。「あちぃ」とか「うまいうまい」などとはしゃいでいた。
「たくさん食べてね。いっぱいあるから」と、お母さんが言っていた。
その食材も残り少なくなった頃、僕はおなかいっぱいになった。
「やっぱり男の子はよく食べるわね」と、お母さんが目を細めて言った。
「ね、ゆうちゃん、海に入らない?」と、恵ちゃんが聞いてきた。
「よし。いこう」
「あ、私も行く」と、美咲ちゃん。
「じゃあ、水着とってくるからお父さん、車の鍵かして」
「ああ、はい。これだ」
鍵を受けとると、僕らは車に行った。水着を取り出して、更衣室に行った。僕の着替えなんて早かったので、二人より先に浜辺に戻った。お父さんとお母さんが何か楽しそうに話していた。僕に気づくと、お母さんが「あ、ゆうちゃん早かったわね。こっちにおいで」と言ったので席に着いた。
「ねえ、ゆうちゃんは知っているの?」
「何をですか?」
「恵はね、4年の頃からあなたのこと好きだったみたいよ」
僕はちょっと赤くなった。
「うちでも、よく壁に向かって黙々とボールを投げる練習をしている男の子のことを話していたし。それが、ゆうちゃんね」
「はい。たぶん」
「でね、5年になる時、最後のクラス替えがあったでしょう。その時一緒になれますようにって祈っていたのよ」
僕は真っ赤になりすぎたのでうつむいた。
「でも、結局一緒になれなくて、あの子泣いていたもの」
そうなんだ。僕にとって「好きだ」というのは突然だったけど、恵ちゃんには、長い時間があったんだ。お父さんは笑いながら聞いていた。
「初めてあなたからの手紙の返事をもらった時のあの子のはしゃぎようは、そりゃ大変だったわよ」
僕はいよいよ顔を上げられなくなった。
「で、どうなの?あなたは好き?」
「おまえ、ちょっと酔っているぞ」と、お父さんがたしなめた。
「あら、娘の幸せを願っちゃいけないの?」
「幸せとか・・・」
「で、どうなのゆうちゃん。白状しなさい」
僕はうつむいたままだった。
「ゆうちゃん!」
「はい。あの。好きです」
「それだけ?」
お母さんはふだんは上品で優しいけど、お酒が入ると恐そうだ。
「それだけ?」と、つめ寄られた。
「はい。あ、その、大好きです。恵ちゃんにも言いました」
「よろしい」
「あのでも、僕らはまだ小学生で、まだ早くないですか・・・」
「あら、人を好きになるのは素敵なことよ。早いも遅いもないわ。ゆうちゃんは真面目なんだね」
お母さんは笑った。
恵ちゃんと同じことをいう。まったく。
「谷山君すまんな。気を悪くしないでくれ」
「はい。悪くなんかなってないんです」僕は動転していて、よくわからない日本語で答えた。
「どうしたの?みんな」と、恵ちゃんがやってきた。
「いや、ちょっとお母さんが酔ってるみたいだから。さ、海に行ってきなさい」
お母さんは酔いつぶれていた。
「うん。でも、お母さん大丈夫?」
「大丈夫だよ。心配しないでいいから。この時期は、くらげが多いから沖には行くなよ。波打ち際を注意して泳ぐんだぞ」
「はーい」
「じゃあ、ゆうちゃん、行こう」
穏やかな風が、海から吹いていた。
波は定期的なリズムで、優しいサウンドを奏でていた。
「潮の香りって、いいね」と、恵ちゃんが言った。
「塩?」と、僕は聞き返した。
「そう。潮の香り」
「うん。でも塩に香りなんてあるの?」
「だって、今・・・」
「あ、ゆうちゃん、しお違いだよ」と、美咲ちゃんが言った。
「え?」
「お姉ちゃんが言っているのは、海の潮のことで、ゆうちゃんが言っているのは、食卓の塩のことだよ」
僕は『潮』という字を知らなかったし、その意味も知らなかった。
「塩って海からつくるんじゃないの?」
恵ちゃんと、美咲ちゃんは顔を見あわせて笑った。
「あのね。ゆうちゃん。潮っていうのはこう書くの」恵ちゃんはそう言って、砂浜に『潮』の字を書いた。
「でね、食卓の塩は、こう書くの」
美咲ちゃんが『塩』と書いた。
「あ、違う」と、僕は正直に言った。
「海水のことを潮って言うの」と恵ちゃん。
「だからね、潮の香りは、海の臭いってことなの」と、美咲ちゃん。
「だめだね。6年にもなって」と、恵ちゃん。
「だめだね」と、美咲ちゃん。
そう言われても不思議と僕は腹が立たなかった。それよりも二人のコンビプレイがなんともおかしくて大きな声で笑った。二人も笑い出した。
「よーし、泳ぐぞ」と、僕は言って、着ていたTシャツを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。二人も、肩にかけていたバスタオルを浜に置いて、海に飛び込んできた。僕は二人を待ち構えていて、やってくるなり、バシャバシャと思いっきり海水をかけてやった。みんなキャッキャ言いながら海水の掛け合いになった。
小一時間ほど経った頃、僕と恵ちゃんは浜で一休みした。美咲ちゃんは日焼けが痛いからと、日焼け止めをとりに行った。
「恵ちゃんは、日焼け止めはいいの?」
「うん。美咲が持ってきたらちょっとわけてもらう」
「鼻の頭が赤くなってるよ」
「えー、本当?ショックだなー」
「トナカイさんだ」
「もう、そんなこと」
「ごめんごめん」
二人で笑った。
「でもまぁ、今日は、二人が初めて海に来た記念日だね」
記念日?そんな大げさなことかなぁ。と思いながらも相槌だけはうっていた。
「大きくなったら、二人でこようね」
「うん」
「うん、うんって、ちゃんと聞いてる?」
「うん」
「ほら、また」
「うん、あ、ごめん」
「まあ、いいや。でも約束だよ」
「うん。いや、はい。わかりました」
恵ちゃんは、笑った。
第九章 秋 風
9月になると、めっきり冷え込んできた。
夏休みが終わって、新学期が始まり、クラスメイトたちと久々の対面をした。みんな日に焼けて真っ黒だった。僕はもともと日焼けで真っ黒だったので「この痛み、わかんねぇだろうなあ」と一人が言った。
そうそう。始業式の最後に、僕らの表彰式があった。表彰状をはるちゃんが受け取り、僕が優勝旗。トロフィーは、背番号4のまっちゃんが受けとったので橋本が悔しがっていた。1塁手だから、かなり期待していたそうだ。しかもファンレターがやまちゃんをはじめみんなに来ていたのに、やはり橋本には1通もなかったらしい。僕はなるべく橋本と出会わないようにした。
さて、練習の方は、6年生中心のものに変わった。秋季大会が、選抜大会になるからだ。強豪ひしめく中で勝ち抜くためには特訓も仕方ない。でも、僕らはいつも特訓だから、いまさら何をと思っていると、打撃中心の練習にするという。いつもは、平日にはフリーバッティングをしないが、9月から3班に分かれて徹底的に練習した。
上位打線にはコーチがピッチャーをした。下位打線には5年生エースが投げた。僕らクリーンアップがふつうのホームベースを使った。その他の打順は両翼の奥の方に打席を仮設し、間に4・5年生が散らばって守備をした。事故がないよう見張り係も立った。小学校の部活は時間が短いし日が落ちるのも早くなってきているから、こういう分散した形になった。
監督は、「客観的に見て、うちは他の強豪校より打撃が弱い。だから、その弱点を補強する」と言った。
そんなに弱いかなあ?でも確かにあれだけ対中島用の変化球対策をしたにもかかわらず、打点をあげたのは結局僕だけだったから、そんなに強くはないのかもしれない。もともと監督の方針は守備重視だったし、これは仕方のないところだ。でも仕方ないと放置していても前には進めない。それに、バントに足をからめる僕らのスタイルは、もうどこの学校にも知れわたっているはずだ。
たしかに監督の言う「もう一段のレベルアップ」を果たさないといけない。
「この頃、野球部の練習は気合入っているね」と、恵ちゃんが言った。
恵ちゃんは、引退したので時間があるらしく、僕の投げ込みに毎日つきあうようになった。僕と恵ちゃんは、両親『公認』の『お友達』だから、別に怒られない。その代わり帰りは必ず僕が恵ちゃんを家まで送っていく。
「何で?」
「だって、目つきが違うよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。山村君とか恐い感じ」
「ああ、やまちゃんはもともと気が強いから」
野球部ナンバーワンプレイボーイのやまちゃんもかたなしだ。元本命の人から「恐い」と言われている。
「新田君もそうだよ」
「新田が?」
「うん」
「そうかな。離れて練習しているから僕はわからないけど」
「最後の大会だもんね」
「うん。恵ちゃんはどうだった?」
「そりゃあもう、気合入っていたよ。みんな」
「だから、あんなすごい追走劇ができたんじゃないかな」
「あの時は無我夢中だったからよく憶えてないの。でも、何とか勝ちたいって思ってた」
「うん」
「そうだ、あの時ゆうちゃんは、勝て!東原!なんて言っていたでしょう?」
「聞こえていないのかと思ってた」
「聞こえているよ。でも不思議だね。あんなにうるさい中で、知り合いの声は聞こえるんだもの」
「それは僕も思う。あの県営球場の広いところでも恵ちゃんの声はわかるよ」
「そうなんだ」
恵ちゃんは笑った。
僕は投げながら話をしているけど、こうしてふたりでいることが最近自然に感じられるようになった。そして投げ込みが終わり、恵ちゃんを家に送り届けると、急にポツンと一人になって、むしょうに寂しくなる。秋風が、とても冷たく感じられるようになるのだ。
僕は、外灯の照らす道をダッシュして帰る。
ある朝。
ちょっと早めに朝の日課である走り込みに出かけた。その日はなぜか、いつもより早く目が覚めたので、まだ暗い時間だったが、ぶらぶらしていても退屈だったし、「朝なら補導されないだろう」と思い出かけた。
僕は、6年になってから毎朝4キロランニングしている。日曜日は父さんと遠投をしているのでちょっと減らして2キロだ。決して楽ではない、というか、本当は泣き出したいくらいつらいのだが、なんとか続いている。
秋の朝は、寒いと言うより、もう冷たかった。川沿いの土手道を走っている時、新聞屋さんのチャリンコが僕を追い抜いていった。やがて、キーというブレーキの音をたて、遠方で止まった。振り返って僕を見ている。「誰だろう」と思ったが、暗くてよく見えない。ランニングを続けて近づくと、それは白石だった。
「よう、谷山何やってんだ」
「おまえこそ、何やってんだよ」
「新聞配達だ」
「いいのか?小学生なのに?」
「いいわけないだろ。内緒だぜ。おまえはうちの事情を知っているだろ」
僕はまずい時に出会ってしまったと思った。白石の家は、親父さんの治療費がかさみ、たくさんの借金をしている。保険のきかない高い薬もずいぶん使ったらしい。
僕は「ごめん」と言った。
「同情なんてするなよ」と、白石が言った。
「わかっているよ」
「とにかく、俺は俺の仕事をする。この後は牛乳配達にも行くぞ」
「おまえ、すごいな」と、僕はポツリとこぼした。
「おまえはランニングか?」
「うん。毎朝だよ」
「それにしては初めて会ったな。俺はこの道毎朝通っているぞ」
「うん。いつもは、もっと遅い時間だから」
「そうか。おまえはおまえの仕事をしているんだな」と白石は笑った。
「とにかく俺は野球を続けたいんだ。だから部費くらいは自分で稼ぐ」
部費は、確かに安くはなかった。でも、その心配を僕はしたことはない。
「おまえ、えらいな」と僕はうつむいて言った。
「おまえだって、えらいじゃないか。藤井がいなくなって、正直みんな優勝なんて無理だと思ったぞ。おまえのおかげなんだ」
そんなこと、白石の現実の前には小さな小石だ。僕はうつむいたままだった。
「だから、同情なんてするな。うちだって、母さんが新聞配達なんかするな、それくらい、私が残業するからって言うのを俺が押し切ったんだ。俺は俺の仕事をする。だから、おまえはおまえの仕事をしてくれ。秋の大会も頼んだぞ」
そう言うと、時間がないからと白石は走り去っていった。
僕は、白石の事情を他の誰よりも知っている。
親父さんが元気だった頃。
日に焼けたたくましい親父さんがいて、優しいおばさんが笑っていた。なおちゃんはまだ小さくてあどけなく、夏の夜には、僕らはみんなでスイカを食べた。僕と白石が種のとばしあいをやった。花火もやった。線香花火の火花が顔に飛び散って、なおちゃんが泣き出した。
あの頃。
たった4年前なのに、もう二度と手が届かない。
だから、むしょうに涙がこぼれた。
ボロボロボロボロとあふれてきた。
感情の起伏が激しい僕に監督は「その感情を抑えろ」というが、そんなこと、本当に僕にできるのか?辺りが暗いのが幸いだった。僕の顔は、涙と鼻水でくしゃくしゃになっていた。秋風が僕のほほを伝うたびに、急激に熱を奪い取っていった。
どうして秋風ってこんなに冷たいのだろう。
昼休み。
はるちゃんが組み合わせ抽選の結果を教えてくれた。近くにいた数人がその話の輪に加わった。
両リーグから8校ずつ選抜され、合計16校の戦いになる。1回戦が西部リーグで夏に優勝した吉川小学校。1年前は楽勝だったが、かなり実力をつけてきたらしい。2回戦が、あの池上小学校。夏の復讐に燃えているのは間違いない。3回戦。これは準決勝になるが白峰台。決勝戦は、また中島小になるのだ。もちろん、西部リーグのことを知らないので、順当にいけばの話だ。想像以上に厳しい組み合わせだ。しかも、1・2回戦は市民球場でのダブルヘッダー。準決勝と決勝は、県営球場でのダブルヘッダーだ。いくら涼しくなっても、「ちょっときついなー」というのがみんなの感想だ。
「でも、これで優勝すれば、初代王者だよな」と、プロレス好きのまっちゃんが言った。
「そうだね。西と東に分かれてから初めてなのだし、初の市内王者だね」と、はるちゃん。
「王者か」そう僕がつぶやいた。いい響きだ。
「でも、何で急に選抜大会になったのかな?」と、田中。
「その方が面白いからだろ?強豪校だけでのバトルロイヤルだ!」と、まっちゃん。
はるちゃんは、ちょっと顔をしかめたが、コーチである父親から聞いた話をしてくれた。
実は、参加校の多い野球大会を維持するには大変なお金がかかるらしかった。それは、市の助成金や、各チームからの参加費で賄われている。その負担に対して、強いチームは不満はないが、1回戦で終わるようなチームには「1回戦しか出ないのに大金を払いたくない」という不平不満が多かったらしい。それに、選手を支える保護者会の活動も、強いチームと弱いチームでは雲泥の差があって、弱いチームは、はっきり言ってやる気がないそうだ。そんな中、年3回も大会を開催する必要があるのかという話になって、「それなら選抜大会という形で意欲のあるチームだけで大会を開催すればいい」「しかも、あまり費用をかけずに」という結論になったという。だから日程もぎりぎりなのだ。えらい大人たちは、「一石二鳥いや三鳥の名案」と喜んで話がまとまったという。
「みんなには内緒だよ。父さんから口止めされているから」と、はるちゃんが最後につけ加えた。僕には、そんな話は大人の世界の出来事のようで、なんだかよく分からなかった。でも今朝の白石のこともあり、「また金の話か」という憎たらしい気分になった。
僕らは野球が好きだから、やりたいだけなのに。
ともあれ、決まったからには全力で戦う。
十月の第1と第2日曜日に開催されるから、あと十日。僕らが3年もやってきたことの全てをぶつける最後の大舞台だ。
恵ちゃんの言う通り、僕らの練習には気合いが入っていた。秋の大会が終わると僕らは引退だ。あと十日で全てが終わる。悔いは残したくない。徹底した打撃練習も身についてきた。クリーンアップ以外は全員バットを短く持って柔らかく打ち返すようにと指導を受けた。これなら、どんな球でも食いついていける。何も大きいのを狙う必要はない。内野の頭を越えれば充分だ。監督が弱点と言った打撃にも、みんな自信をつけ始めていた。
それを試す日は、どんどん近づいている。
「いよいよだね」と、恵ちゃんが言った。投げ込みの時だ。
「ゆうちゃんは、怖くない?」
僕は、ちょっと考えた。カッコ悪いかもしれないけれど、正直に答えた。
「こわいよ」
「うそ。ゆうちゃんでも怖いの?」
「うん」
「ちょっと意外だなあ」
「本当だよ。マウンドに立って、試合が始まるまでは、怖くてしょうがない」
「ふーん。試合が始まったら?」
「試合に集中しているから。でも夢中になりすぎて、気づいたら打たれていたことは、あるよ」
「はは。何それ。でもね、私は補欠だったけど怖くてしかたなかった」
「ふーん」
「でね、私、ゆちゃんに謝らないといけないかなあって思っていたことがあるの」
「何?」
「ほら、私、いつもいつも無責任にがんばれがんばれって言っていたでしょう。あれって、ゆうちゃんの負担になったんじゃないかなあって」
「はあ?」
「私ね、友達に誘われてバスケ部に入ったの。でも、ちっともうまくならなくて、みんなに置いていかれて、だから、やめたいやめたいって思っていて、でも、親からは、とにかくがんばれとしか言われなくて」
「でも、他に励ましようがないよ」
「そうなのよね。それは頭では分かっているけど、でも実際にやらない人が無責任なこと言うなって思ってた」
恵ちゃんは意外なことを言った。恵ちゃんは、いつも明るくて前向きな女の子だと思っていたからだ。
「でも、結局最後までがんばったんじゃないか」
「だから、それはゆうちゃんのおかげだって。初めて見たとき、居残りさせられているような人でさえがんばっているんだからって思えたもん」
「ああ。そうだったね」
「でもほんとうに、人に言うときは、どんなに伝えたいことがあっても、かんばれっていうありふれたことしかいえないんだね」
「だから、僕のことは気にしないで。少なくとも僕は、恵ちゃんにがんばれって言われてうれしかったよ」
「ほんとう?」
「本当だよ。目指せ!三連覇って言われるより、恵ちゃんにがんばれって言われる方が気合いが入るから」
その時口から出た言葉は僕の本心だった。実は、「がんばれ」よりも、「三連覇」の方が重荷になっていた。僕の球が打たれて三連覇できなかったらどうしようという怖さが日に日に大きくなってきていた。みんなから「豪速球さえあれば」とはやしたてられても、現に、中島小のクリーンアップや、ニヤついた男は、僕の球を打てる男たちだ。でも、そんな具体的な恐怖を誰にも話すわけにはいかない。もちろん、恵ちゃんにもだ。
その時、ふたりの間を風が吹き抜けた。
秋風は、相変わらず冷たかった。
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