第2節 不自由な活動家のやり方
『私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることをできないと拒みはしない』
J.S.バッハのBWV668「汝の御座の前に 我はいま進み出で」が流れる店内で、織部は目を閉じ胸に手を当ててそう言った。
「ん、またどっかの詩人の言葉?」
「いや、今回は詩人ではないよ。そうだな、ヒントを出すから当ててみて」
「ということは僕でも知ってるような人なのか」
「多分ね。いくら君でもこの人くらいは知ってるはずさ」
“いくら君でも”って、さらっとバカにされてるよな……。「かかってこい」と心の中で念じながら織部の質問を待った。
「ヒント1 彼女の出身地はアメリカ合衆国のアラバマ州だ」
“彼女”ってことは女性だな。アラバマ州?どこだよそれ。……てか、こいつまったく当てさせる気ないな。
「ヒント2 彼女は1歳9ヶ月の時にとある病気に罹患している」
ずいぶん具体的な数字だな。子供の頃病気になるのって珍しくことではないし、わざわざ挙げるってことはそれだけ大事なことってことか。
「ヒント3 彼女が6歳のとき、彼女の両親は彼女のことでアレクサンダー・ベルに相談をしたことがある。ちなみに彼は電話の発明者だが、今回はそれは関係ない。電話とは別に、彼の知識や立場に助けを求めたわけだ」
やばい……、全然分かんない。6歳?そんなに若い、というか幼い頃から何かの専門家に頼らないといけなかったということか。わざわざ電話の例を挙げたってことは、これがなにかのヒントになるのか?電話……遠くの人の声を聞くための道具。さっぱりわからない。
「もうちょっと分かりやすいヒントにしようか。ヒント4 彼女が『すべてのモノには名前がある』と知ったのは、7歳になってからだった。ちなみに、そのきっかけとなったのは“water”だ。この単語の意味はわかるよね?」
さすがにそれくらいは分かるよ!
water=水だよな。7歳で初めて『モノには名前がある』ことを知った?普通はもっと前に知ってるもんだよな。親とかに教えられるはずだし。いろんなものを見たり聞いたりすりゃ、嫌でもモノの名前くらい覚えるだろ。
……いや、覚えられなかったのか?見たり、聞いたりができなかったから?
「さて、ヒントはあと2つだ。そろそろ分かってくれよ?ヒント5 ヒント3で出てきたアレクサンダー・ベルは電話を開発した科学者という顔の他に、聾教育者という顔を持っている」
聾教育者か。ということは“彼女”は耳が聞こえなかったんだ。……幼い頃の病気、耳が聞こえない、初めて意識したモノの名前はwater=水。
うん、なんとなく聞いたことある話になってきたな。
「おや、もう大体分かったみたいだね。それじゃあ、最後のヒントにしておこうか。ヒント6 彼女の職業は教育者であり著作家であり社会福祉活動家である。」
やっぱりそうだ。と、いうか“社会福祉活動家”であり、僕でも知ってるような偉人ってこの人くらいだ。
表情に出ていたのだろうか、織部がニヤリと笑みを浮かべながら僕に声をかけた。
「分かったかな?さすがに君でも知ってる人だろ?」
「あぁ、この人くらいは知ってるし、最後のヒントで確信が持てたよ」
「それはよかった。それじゃあ答えをどうぞ!」
クイズ番組の司会者のようなテンションで解答を促された。僕もそのテンションに引っ張られて、ついつい自信満々であるかのように答えてしまう。
「答えはヘレン・ケラーだろ?視覚も聴覚も不自由な社会福祉活動家ヘレン・ケラーだ」
「ご名答、その通りだよ。幼い頃に髄膜炎に罹患し視覚聴覚とあと言葉を話す能力を失ったが、アレクサンダー・ベルの紹介で盲学校に通い、アン・サリバンと出会って言葉を教わった。その後点字の書籍で知識を吸収し、自身の努力により言葉を話すこともできるようになったらしいね。婦人参政権を求めたり、避妊具の使用主張。若年労働者や死刑などの問題に向き合った活動家だ」
……やり手の政治家みたいなことしてるな、ヘレン・ケラー。僕が知ってるのはせいぜい視覚も聴覚が不自由ってこととアン・サリバンという教師の存在と社会福祉活動家だったことぐらいだ。正直彼女が何した人なのかは全然知らなかった。
僕の微かな戸惑いは気にしないというような様子で、織部は本題へと入っていく。
「さて、そんな彼女の言葉がこれだ」
『私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることをできないと拒みはしない』
「さっきまでの前振りも踏まえると、見えない聞こえないっていう状態で、なにもかもできるわけではないけど、何かはできるってことかな」
「そう、見えない聞こえないっていう状態の人を見ると『あぁ、目も耳もだめなんだったら何もできないじゃん』って思う人もいるけど、そんなことはなくて、できることはできるし、決して無力なだけの人間ではないということだ」
「じゃあ、後半部分は?『できることを拒みはしない』ってどういうこと?できるんだから拒むわけないじゃん」
「果たしてそうかな?では、少々極端な話で考えてみようか」
織部は顎に人差し指を当てて少し考えるような仕草をとってから、いたずらを仕掛けようとする子どものように笑った。
「極端な話?」
「例えばだ、ある日突然僕の手足がなくなってしまったとしよう。そんなとき、もし僕が君に日常生活の世話をお願いしたらどうする?」
「もちろん、助けるよ。日常生活の世話ぐらいだったら僕にもできるし、拒む理由はないね」
「それはよかった。それじゃあ、僕はいつ五体不満足になっても安心だね。だって、君がお世話をしてくれるんだから。どこに行くにも君が車イスを押してくれるんだ、食事も用意してくれる、服だって着替えさせてくれるんだろうね。君に体を見られるのは少々恥ずかしいけど仕方ない。お風呂に入るときはしっかり体を洗ってくれよ?あ、そうそうトイレのときもついてきてくれないとね、排泄後に拭いてくれないと不衛生だし。ついでに来るべき時には僕の性欲の発散も手伝ってもらおうか。僕ももう思春期だからね、定期的にお願いしないと」
「お、おい!ちょっと待てよ!そんなことまでするのか?」
僕が慌てて口を挟むと、織部はニヤリと口角をあげた。きっと織部は僕が慌てることを期待してたんだろう。そのために排泄後の処理や性欲の発散なんて例を持ち出したんだ。
いたずらが上手くいって満足したのか、織部はいつもの表情に戻ってこう続けた。
「それが『できることを拒む』ってことだよ。今はお互いをよく知っている僕らでの想定だったけど、それが見知らぬ他人だったらどうだい?きっと、今みたいな戸惑いじゃすまないだろうさ」
確かに、今織部が挙げたことは“できること”だ。不可能なことではない。でも、それをやれって言われたときに素直にできるかと言われれば怪しい。いや、“怪しい”なんてもんじゃないな。きっと僕は拒むんだろう。
「分かってくれたかい?今のは極端な例ではあるけどこれが『できることを拒まずやる』ことの難しさだよ。ヘレン・ケラーが真に言いたかったのはこういうことじゃないかな。彼女の革新的な反戦・政治思想は保守派の人々から批判されたり、FBIからは要調査人物にされたり、来日した際には特高警察からも監視対象にされたんだよ。でも、彼女は最後まで活動を止めなかったのさ。なぜならそれは彼女にとっては“できること”だったからね」
「それは……なんというか、強いな。僕にはできそうもない……」
いくら人のためとはいえ国を相手取るみたいなマネは僕には出来ない。
「ヘレン・ケラーはこんなことも言っている」
『私たちにとっての敵は、「ためらい」です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかにれないのです』
織部がこの言葉を持ち出してきたのは、僕がヘレン・ケラーを「強い人」と断じ、どこか自分とは関係のないものという位置付けをしたからだろう。それを察知してヘレン・ケラーを僕と近いものだと思わせようとしたんだろう。
「...そうだな。やる前から諦めてたらなにもできないよな」
「うん、その通り」
『諦めずにいれば、あなたが望む、どんなことでもできるのです』
「これもヘレン・ケラーの言葉だよ。確かにできることを拒まずやるのは難しいように思えるけど、でも逆に言えば僕らはできることさえやればいいんだよ。何もかもをやる必要はなくて、一人の人間としてできることをやればいいのさ。そう考えるとちょっと気が楽にならないかな」
「うん、できることだけでいいんだよな」
「そうそう、難しく背負う必要はない。僕らの手が届く範囲でもやれることはいっぱいあるし、それだけで世界はちょっといい方に変わるはずさ」
そう言って、織部は喫茶店から出ていこうとする。
いつも背筋を伸ばして、まっすぐ前をむいて歩くその姿は、まるで自分にできることはやりきったというような誇らしさを感じさせるものだった。
さて、自分にできることか……。ふと僕は店内を見回してみる。すると、さっきまでいた机に織部が飲んだコーヒーのカップが残されているのが目に入った。僕はそのカップを手にとってカウンターの方を見る。
「マスター、このカップ僕が洗ってもいいですか?」
自己満足かもしれないけど、手の届くところにあることはやってみようと思ったのだ。