第六話
「どうだ、海華。少しは落ち着いたか?」
酒精に頬をほんのり染めて、にこやかな笑みを浮かべた修一郎は空になった猪口を海華へ差し出す。
『はい』と一言答えて彼へ酌をする海華の隣には、同じく桐野に酌をする志狼、そして彼が用意した酒の肴をつつく朱王の姿がある。
七之助がお縄になってから早くも五日が経ち、この日は勤めを終えた修一郎が桐野の邸宅を朱王をお供に訪れ……勿論、海華の顔を見に訪れていた。
「そうか、それはよかった。時に桐野、お主の傷はその後どうだ?」
「まだ痛むことは痛む。だが、思ったより治りが早いようだ。後数日で包帯も取れるだろうと言われたよ」
肩辺りを撫でながら言った桐野は、猪口に残っていた酒を飲み干し口許を綻ばせる。
『そうか』と返して何度か頷いた修一郎は、やおら、桐野の隣にいた志狼を手招き彼の耳元へ顔を寄せて何やら耳打ちする。
「―― 悪いが、頼むぞ」
「承知致しました。おい海華!」
「はい」
「台所手伝ってくれ。酒も新しいのを用意するから」
「わかりました、修一郎様、失礼します」
ちょこんと軽い会釈をして、空になった徳利や汚れた皿を山とお盆に乗せた海華は志狼に連れられ部屋を後にする。
二人分の足音が遠ざかるのを待って、修一郎はコホンと一つ咳払いをした。
「すまぬな、海華にはあまり聞かせたくない話だ。桐野、お主後から志狼に……」
「わかっておる。ここでの話死を志狼に伝えればよいのだろう?」
行灯が放つ光の加減か、顔半分を薄い影で塗り潰した桐野が軽く口角をつり上げる。
「海華に聞かせたくない話しとは、七之助の事だな?」
「そうだ。今朝方早く、南町奉行から文が届いた。勿論七之助の事でだ。調べの内容を秘密裏に報せて欲しい、と内々に頼んでいたのだ」
残り少なくなった徳利を猪口の上で逆さまに返し、何度か上下に振った修一郎は、すっかり空となってしまったそれを放るようにお膳に置き、猪口を唇に当てる。
彼につられるように猪口を手にした朱王、しかし彼は思うところがあったのか、それを再びお膳へと置いて膝の上に手を戻した。
「奴の事だ、どうせふてぶてしい態度を貫いて、調べもノラクラかわしているのだろうと思っていたのだが、実際のところは違うらしい」
「ほぅ、違うとなると? 涙ながらに懺悔して己の罪を悔い改めている、とでもいうのか?」
鼻で笑って吐き捨てる桐野に苦笑いを一つ送り、首の後ろをボリボリ掻いて修一郎は緩く首を振る。
悔い改める、何とも七之助に似合わぬ台詞だ、と朱王は心中で思った。
「いくらなんでもそこまではいかぬ。だが、調べにはおとなしく応じておるらしいぞ。手荒な拷問も必要ない、聞けば素直に話をすると。女郎屋で騒ぎを起こしたのも、夜鷹殺しも全て志狼に濡れ衣を着せるつもりで自分がやった、桐野、お主と……」
桐野を斬りつけ、海華を拐ったのも全て自分のやった事、離れにはあらかじめ用意しておいた兎の喉を切り裂き血をぶちまけ、前から目を付けていた川原乞食の女を殺して指を切り取り部屋へ置いた、彼女の骸は海華と同じく髪を切り、裸に剥いて川へ棄てた……。
この数日で七之助は、事件のほぼ全てを認めたようだ。
「そうか、部屋に落ちていた獣の毛は、兎の……」
「おぉ、そうだそうだ。奴め、死にそうな顔をして川原へ飛んできたお前と志狼を野次馬に紛れて眺めていたと言っておる。どこまでも残忍な男よ」
眉間に微かなシワを寄せて呟く朱王は、納得するように何度か頷く。
そんな彼へ顔を向け、修一郎は胸の前で丸太に
よく似た腕を組んだ。
「だが、志狼は骸を見るなり海華ではないと断言したと聞いた。目は抉られて耳も削がれて傷みも酷い骸を、よく一瞬で海華でないと見分けられたものだな」
「はい、何やら黒子が……」
頬を擦る髪を掻き上げてそう言った刹那、朱王は『しまった』と言わんばかりに片手で口を覆う。
しかし、時既に遅かった。
「なに、黒子? どこの黒子だ? ……おい朱王、どうしたその顔は? 俺は、どこの黒子かと聞いておるのだぞ?」
「あ、はい……その……腰、だと。海華の腰には豆粒くらいの黒子があって、右の尻には小さな古傷が……いえ、私もそんな黒子や傷があるなど全く……」
「腰の黒子に尻の古傷か……。確かに亭主以外は拝めんモノだ」
しどろもどろ、ひどくバツが悪そうに俯きつつ頭を掻く朱王を前に、修一郎は真ん丸に目を見開いたままその場に固まる。
気まずい空気に包まれた二人を交互に見遣りつつ、一人桐野は皿に一枚残っていた漬け物を口へと放り込み、ニヤリと意味深な笑みを浮かべていた。
「―― なんだか、急に静かになったわねぇ?」
台所の入り口から顔を突き出し、不思議そうに海華が首を傾げる。
鍋に張った湯の中に徳利を並べていた志狼は、無言のままに小さく笑い、濡れわ
「大事なお話をなさってるんだろう。それよりお前、腹減らねぇか?」
「うん、まだ大丈夫。志狼さんは? 手、平気なの?」
湯気の立つ湯の中からひょいひょいと徳利を摘まみ出していく志狼の後ろ姿を見ながら、海華が尋ねる。
左手を握り、そしてまた開きを何度か繰り返して、彼は振り返り様に軽く破顔した。
「平気だ。今まで動かなかったのが嘘みてぇだな。―― おい、ちょっとこっち来い」
唐突に自分を手招きする彼へ小首を傾げて見せながらも、海華は素直に歩み寄る。
電光石火の早さで彼女の体身体へ絡む二本の腕。
志狼の胸の中へすっぽり抱き竦められた海華は、きょとんとした面持ちで目を瞬かせつつ彼を見上げる。
「志狼さん? どうしたの?」
「うん……やっぱり、こっちの方がずっといいな」
一人で納得したように何度か頷いた志狼は、海華を抱く手へ更に力を入れ髪の毛へ鼻先を埋めた。
「やだわ、もうどうしちゃったのよ?」
「だから、片腕でこうするよりも両手の方がずっといい、って事だよ。俺、腕がダメになっちまった時に思ったんだ。こうなる前に、もっとお前の事を抱き締めておきゃぁよかった、ってな」
あの頃は、もう後の祭りだと泣かば諦めかけていた。
だが、今こうして彼女を強く抱き締める事ができる。
幸せとは、こういうモノなのだと志狼は改めて感じているのだ。
その台詞を黙って聞いていた海華は、彼の胸へ頬を寄せ、そっと目を閉じる。
微かに笑みを浮かべた唇がゆっくり開かれた。
「そういうだったの……。あたしも嬉しいわ。また、こうして抱き締めてもらえて。
―― これからは、ずっとこうしてくれるの?」
「当たり前ぇじゃねぇか。これからも、ずっとずっと一緒だ」
片腕でも守り通してきた愛おしい存在だ。
両腕が揃った今でも全身全霊で彼女を守り抜く気持ちに変わりはない。
白い湯気を噴き上げてぐらぐら煮立つ鍋を背に甘い一時を堪能する二人。
だが、こんな時には必ずと言っていいほど邪魔者が現れるのが、世の常である。
「おい海華! 志狼、お前達いつまで……」
怪訝そうな声を上げて台所を覗いた長身の人影へ、二人は弾かれんばかりの勢いで顔を向けた。
「にぃ……様、ッ」
「すお……さん!? 」
志狼と海華、そして二人を唖然とした面持ちで凝視する朱王。
三人の間に一瞬で立ち込める気不味く、どこか張り詰めた雰囲気の中で、竈で燃える薪がパチンと爆ぜる。
「…… あぁ、こういう事、か。邪魔したな」
ひどく乾いた眼差しを一つ投げ、朱王はさっさと顔を引っ込めてしまう。
慌てて彼の後を追い掛けようとした二人、しかし廊下の奥からは『海華はまだかっ!?』と酒に酔った修一郎の無慈悲な声が飛んできた。
「おぉい、朱王! 海華は、どうしたぁ!?」
「どうやら取り込み中のようですのです。修一郎様、一度ご自分の目でお確かめになられては……」
「ヤダッ! なによ、兄様の意地悪っ! 修一郎様! 今……今すぐまいりますから!!」
力いっぱい志狼の胸に手を突き彼の身体を押し遣って、こけつまろびつ海華は台所から走り去っていく。
「なんでぇ……。人の邪魔ばっかりしやがって」
朱王にか、はたまた修一郎に対してかわからぬ恨み節が唇からこぼれる。
一瞬で消えた彼女の後ろ姿に、志狼はガクリと肩を落として小さく舌打ちをしていた。
一騒動起きかけた酒宴も無事に終わり、各自が各自、住まいに戻って泥のような眠りについた翌日の事だった。
まだ太陽も昇って間もない辰の刻、(朝七時頃)部屋の戸を激しく叩く音と何やら男の叫び声で、朱王は目を覚ます。
今だ残る酒精に澱んだ思考のまま布団から緩慢に身を起こした朱王は、よろつきながら土間へと降りて戸口を引き開ける。
わずかに開いた戸の隙間から転がるように部屋へ入ってきたのは、解れた髪をこめかみに張り付かせ、脂汗に顔を汚した高橋だった。
「高橋様!? どうなさいました?」
声も出せないくらいに激しく息を切らし、土間にしゃがみ込もうとする高橋を慌てて支え部屋に引き上げると、彼は金魚よろしく口をパクつかせて畳へ両手をつき、四つん這いの体勢で何度か咳き込む。
「すお、朱王、殿……。奴が、奴が……っ!」
「奴? 奴とは、まさか七之助の事ですか?」
ガクガクと壊れんばかりの勢いで首を縦に降る高橋を前に、朱王の顔色が変わる。
確か、七之助は南町奉行所の牢に繋がれていたはず、何があったのかはわからぬが、彼が逃げ出したとなれば志狼や海華にまた危害が加えられる可能性がある。
朱王の足は無意識に動き、畳にへたる高橋を残して部屋から飛び出した。
背後から聞こえる、悲鳴じみた高橋の叫びも、もはや彼の耳には入らない。
朱王が目指すは八丁堀、そう、志狼と海華の
所だった。
考え付く限りの近道を走り抜け、裏木戸から桐野の邸宅に駆け込んだ朱王。
そんな彼を屋敷の中で待っていたのは、深刻そうに眉間に皺を刻ませた桐野と、不安げな表情を隠さずに志狼と寄り添う海華の姿があった。
「朱王、来てくれたか」
「はい、たった今、高橋様が長屋にいらっしゃいました。七之助が逃げたと言うのは本当でしょうか?」
「うむ、間違いない。今朝がた、頭をかち割られた牢屋番が二人発見されてな。慌てて牢屋を見たのだが、七之助の姿はどこにもなかったと。それに、共に捕らえていたくの一の姿も消えたと連絡があった」
彼の自室に通され、事の次第を聞いた朱王の顔が桐野と同じく難しげに歪む。
牢屋が殺められていた、という事は七之助らを救出するために外から何者かが押し入った、という事だ。
「やはり、七之助の仲間が?」
「きっとそうだろう。海華にはしばらく表を出歩くなと伝えてある。当たり前だが、かなり怯えているようだ。朱王、少し海華を慰めてやってくれぬか?」
そう言いながら廊下に面した障子へチラと視線を投げる桐野。
『承知いたしました』と一言答えてその場を後にした朱王は、先ほど海華が向かった台所へと向かう。
あと少しで台所、という時に、突然目の前に一つの影が姿を現し、思わず朱王はその場によろけるように足を止めた。
「おっと! あ……朱王さん」
志狼も驚いたのは同じようで、奥二重の目を大きく見開き朱王を見る。
「旦那様とのお話、終わったのか?」
「あぁ。何があったのかはわかったよ。海華を慰めてやってくれ、と言われてな。あいつ、どうしてる?」
「台所にいる。しばらくは外に出られないわ、って言っててよ。朱王さん、すまねぇがしばらくは俺が……」
「お前もあまりウロウロするな。俺の事なら大丈夫だ。ひと月ふた月放っておかれても死にはしないさ。海華にもちゃんと話しておく」
そう言って軽く笑った朱王は、志狼をその場に残して台所へと向かう。
いつも綺麗に整頓された広い台所、ちょうど竈の真ん前で、ボンヤリと窓の外を眺めている海華の姿が見えた。
「海華……! おい、海華!」
「え!? あぁ、兄様、ごめんなさい」
ビクリと身体を跳ねさせて、弾かれるようにこちらを振り向いた海華は、ぎこちない微笑みをみせる。
「ごめんなさいね、気が付かなかったわ」
「いや、いいんだ。それよりお前、大丈夫か?」
前掛けを外して自分の方へ歩いてくる海華にそう声を掛けると、彼女は困ったような笑みを見せて小さく頷いた。
「うん、ちょっとだけ不安だけど。怖がってばかりいても仕方ないわ。旦那様も志狼さんもいるしね、きっと……大丈夫よ」
『大丈夫』そう自分に言い聞かせるよう、いつもより早口で言い切った海華。
多少の痩せ我慢はあるのだろう彼女の台詞に『そうか』とだけ答えて頷く。
と、その時だった。
勝手口の方で何やらカタコトと小さな物音が聞こえ、『ごめんくださいまし!』とガラガラ濁った男の声が台所、そして廊下全体に響き渡った。
「ごめんくださいまし! どなたかいらっしゃいますか?」
「あら、あの声は……?」
二度目に響いた声に、海華は小首を傾げて勝手口に向かおうとする。
そんな彼女の腕を咄嗟に朱王が掴み上げ、その場に留めた。
「痛い! 兄様、なに?」
「七之助かもしれないだろう? 俺が行くから、お前は志狼を呼んでこい」
いささか険しい顔付きで言った朱王は海華をその場に残して勝手口へと向かう。
あまり日当たりのよくないそこには、あちこちほつれた手拭いをすっぽりと頭から被った一人の中年男が立っていた。
「すいやせん、こちらのお屋敷の方で?」
「そうですが、なにか?」
自分よりもずっと背の高い男に見下ろされ、一瞬戸惑いの表情を除かせた男は、無意識だろう無精髭の生えた顎を指先で掻いて、懐をまさぐり始める。
思わず身構えた朱王の目の前に、男は懐から小さく折り畳んだ紙を突き出した。
「さっき、そこの裏口で、ここで働いてる旦那に声掛けられやして、コレを女房に渡して欲しいってぇ頼まれたんでさぁ」
『ここで働いている旦那』とは、志狼を指すに間違いない。
その時、朱王の横から海華とともに、志狼が姿を現した。
「あ、れっ? ありゃ、旦那……?」
「あぁ、アンタか。朱王さん、この人はいつも世話になっている屑屋の親父だ。……どうした? 俺の顔になんかついてるか?」
軽く首を傾げながら男を見下ろす志狼を、男は目を真ん丸に見開き、ついでにポカンと口も半開きにさせる。
「いや、旦那さんさっき裏口にいたでしょう? いつ屋敷に入ったんで? 俺、旦那さんに頼まれた物を届けに……」
そう言って朱王に渡した紙切れを指さした男。
その瞬間、志狼の顔色がサッと変わり、立ち尽くす男を力を込めて押し退けると、素足のまま勝手口から表へ飛び出していく。
朱王も海華も彼を止める暇はなかった。
「待って! 待ってよ志狼……」
慌てて志狼の後を追い掛けようとした海華を一喝し、朱王は志狼と同じく素足で土間に下り、唖然とした様子で勝手口から外を眺める男の肩を掴み、己の方へと強引に向かせる。
「行くな! お前はここで待っていろ! おい屑屋さん、アンタが見たのは、確かに今の男だったのか!? 間違いないんだな!?」
「間違いねぇ!! あの人だよぅ!! 顔だって見間違えるもんか!」
胸倉を掴み上げんばかりの勢いで声を張り上げる朱王に肝を冷やした男は、首が撮れんばかりの勢いで頷き目を白黒させたのだ……。
「―― 畜生、バカにしやがって……」
低く吐き捨てるように呟き、徳利を持つ志狼の手が小刻みに震える。
ゆっくり傾く徳利、しかしその中から酒がこぼれる直前に、横から伸びた小さな手が彼の手からサッと徳利を奪い去っていった。
「ちょっと、いい加減にしてよ」
「何でぇ、こんな時くれぇよ、飲んだっていい……」
「飲むな、なんて言ってないわ。あまりこぼしちゃ勿体無いでしょ?」
隣に座る海華を酒精で濁った目で睨み付ける志狼。
そんな彼の猪口へ静かに酒を注ぎ、志狼の前に座る朱王へ酒を注いだ海華は、空になった徳利数本を盆に乗せて土間へと向かう。
その背中を目で追いながら猪口を口に当てた朱王は、 自分の前でガクリと頭を垂れる志狼に小さな溜め息をついた。
「そう荒れるなよ。あんな物、いつまでも気にしていたって仕方あるまい」
どこか呆れを含ませた声色で言った朱王に無言を貫いたまま頭を上げた志狼は、やおら懐に手を突っ込み、シワだらけになった紙切れを一枚引っ張り出す。
「また! いつまでもそんな物を出さないの!」
「あぁ、わかったよ。……でもよ、ふざけてんじゃねぇか。」
土間から戻った海華に眉をひそめられ、志狼は口の中で何かブツブツ言いながら紙切れを畳へと放り投げた。
くしゃくしゃになり、あちこち破れかけているそれは、数日前、屋敷を訪れた屑屋が『志狼』に頼まれたと持ってきたものだ。
棄てられた雑紙を引きちぎったような紙切れに書かれていたのは『またいずれ』と、殴り書きの一言だった。
「何が、またいずれだ。バカにしやがって……」
そう呟いて猪口の酒を一息に飲み干す志狼の肩をポンと軽く叩いて、海華は彼の隣に足を崩して座る。
紙切れの送り主、それは間違いなく脱獄しただろう七之助だ。
またいずれ、それは彼がこれからも彼が志狼、そして彼に関係する人達を狙うという宣戦布告のようなものだ。
そしてこの日の午後、七之助と共に脱獄したくの一らしき二人連れが日本橋を渡り江戸市中から出ていく姿が目撃されている。
修一郎、そして桐野は既に彼らは江戸を離れて隠れ里へでも戻ったのだろうと話していた。
それが事実ならば、近々に志狼らの命が狙われる可能性は少なくなった、と言えるだろう。
しかし、一度はお縄にできた相手にまんまと逃げられ、再びいつ彼らが江戸に訪れ、命を狙われるのか案じる日々に逆戻りだ。
最初の一日、二日は表で微かな物音がしただけでもビクつき、庭に出るのもおっかなびっくりだった海華だが、ここに来てだいぶ落ち着いたようだ。
今日は『少しは気晴らしをしてこい』と、ありがたい一言を桐野から賜り、二人は朱王の長屋を訪れている。
「今夜は気晴らしに、って旦那様も仰ってたじゃない。コレはもうしまって、でなきゃ竈で灰にするわよ」
ジロと横目で睨む海華にバツが悪そうな面持ちを見せた志狼は、無言でそれを懐へと捩じ込んだ。
「だがな、俺は少しだけ嬉しい……いや、安心しているんだ」
猪口を傾けながらこぼれた朱王の一言に志狼と海華は、ほぼ同時に彼へと顔を向ける。
「嬉しいって、何がだ?」
「あいつが江戸から出て行ったこと?」
「いや、違う。志狼の手が動くようになった事がだ。とんでもない目に遭ったのは確かだが、それでも手が治って良かったと思う」
どこかしんみりとした口調の彼を見詰め、志狼と海華は互いの顔を見合わせる。
「そう、か……。いや、そう言ってもらえるのはありがてぇよ」
「本当よね。兄様にもたくさん心配かけちゃったから……」
「なに、お前に心配かけられるのは慣れっこだ」
『寿命がまた、三年は縮んだ』微かに笑いながら言った朱王に、海華は頬を膨らませつつ徳利を差し出す。
「また、あいつがあたし達を狙うンだったら、今度はあたし達から、あいつの所へ乗り込んで行けばいいのよ」
ぐっと胸を張って口角を上げる海華。
彼女の隣にいる志狼は軽くむせ込み、朱王はガクリと肩を落とす。
「おい、あんまり物騒な事言うんじゃねぇよ」
「どれだけ俺の寿命を縮ませれば気が済むんだ? 頼むから、もう少し大人しくしていろ」
嫁いでもなお変わらない妹の気性にほとほと困り果てた様子の朱王に、思わず海華は腹を抱えて大笑いだ。
「やだ、もう冗談に決まってるじゃないの。勝手な事はしないから、安心して」
これ以上朱王達に迷惑や心配は掛けられないし、もしそんな事をしたならば桐野や修一郎が黙ってはいない。
一通り笑い終えた彼女は空になった皿や湯呑を盆に乗せて土間へと向かう。
「全くお前は……。ところで志狼、桐野様のお加減はどうだ?」
胡坐をかいていた足を組み直し、ふと思い出したように尋ねてきた朱王に、志狼は小さく頷きながら唇を笑みの形に変える。
「すっかり傷も塞がったって先生が仰っていた。大きな傷も残らねぇと。本当、一安心だぜ。朱王さんにもよろしくと言付けがあった」
志狼の台詞に、朱王も嬉しそうに微笑み小さく頷く。
土間から聞こえる軽やかな包丁の音色、久し振りに訪れた穏やかな時間、何気ない日常の素晴らしさと愛おしさを改めて噛み締める三人の顔からは、始終笑みが絶えることはない。
日常を狂乱と混沌に陥れた嵐は過ぎ去った。
しかし訪れた平安は永遠ではない。
一抹の不安を各自の胸に抱きながらも、確実に時は過ぎていく。
七之助が言う『いつか』は何時訪れるのかは誰もわからない。
幸せの裏側に不安と怖れを抱いたまま、三人の新たなる生活が今ここに、始まりを告げるのだ。
終




