第五話
空気を震わす絶叫をあげて、男は滝壺へ真っ逆さまに落ちていく。
突然目の前から人が二人消えた。
その事が信じられなくて、目の前で起こっている事を認めたくなくて、ただ驚愕の表情で立ち尽くす志狼の足が、ガクガク瘧に掛かったように震え出す。
「ぁ、あ……! 海華、ッ! 」
何度も崩れ落ちそうになりながら、よろめき躓き、志狼は今しがた海華が立っていた崖っぷちへと向かう。
水飛沫に濡れる青草や、周辺に生い茂る木々の根があちこちに隆起し飛び出ている脆い土で出来た崖には、二人分の足跡が微かに付いているだけだった。
「海華……! おい海華ッッ!! 海華ぁぁぁ――ッッ!」
崖の上に腹這いとなり、胸辺りまでを絶壁の上から突き出して崖下へ向かい、声を張り上げ海華の名を何度も何度も叫ぶ。
しかし、眼下の下には大きく深い渦を巻く滝壺が激しい飛沫を上げるだけ、ここから真っ逆さまに転落すれば、滝壺にのまれて命はないだろう。
いや、水の渦に巻かれて二度と浮かび上がらないかもしれない。
「海華……ぁ」
渇ききった唇から、漏れる掠れた涙声。
崖下を覗いたまま、ダランと下がる志狼の右手。
頬を撫でる青草の中に顔を埋めて、小刻みに肩を震わせる志狼の頭上に半円形の虹が浮かぶ。
結局、助けてやれなかった。
今、この瞬間まで目の前にいたのに、手を伸ばせば届く位置にいたのに、死なせてしまったのだ。
認めたくない、海華が死んだなんて絶対に認めたくない。
雑草を握り締め、嗚咽を漏らす志狼。
そんな彼の耳が、滝の轟音に混じる微かな啜り泣きをとらえる。
その瞬間、志狼は涙と泥に汚れる顔を跳ね上げた。
「……ろ、さ……! 志狼、さ、んっ!」
「み、はな……! 海華、どこだ!? どこにいる!?」
裏返った声を上げながら再び崖の下を覗き込み目を皿のようにして周囲を見回せば、ちょうど自身の右下、なんとか手が伸ばせる辺りに、泥塗れの小さな手が見える。
グネグネうねる木の根の一本に必死でしがみつく手、その間から志狼と同じく涙と泥にまみれた海華の顔が覗く。
「海華ッッ!」
「志狼さん……!」
「待ってろ、今助けてやる!」
互いの視線がぶつかった刹那、ほぼ同時に伸びた手が互いの手首辺りをしっかりと、血が止まるのではないかと思うほど強く強く握り締める。
志狼の顔に浮かぶ一瞬の歓喜、だが、それはすぐに苦痛の表情に変わっていく。
志狼は左腕に申し訳程度にしか力が入らない。
そして、海華の足元には足を掛けて体重を支えられるものもない。
つまり、志狼は腕一本で彼女の体重を引き上げ崖から落ちぬよう上体にも最大限力を込めねばならぬのだ。
全身の筋肉がミシミシ軋む。
顔は一気に紅潮し、歯を食い縛るのが精一杯で海華に声を掛けるのも困難だ。
腕に青い血管と筋を浮かせ小刻みに震えつつ、わずかに動く左腕を傍らの木の幹へ必死になって絡める志狼を前に、海華もなんとか崖を這い上がろうと何も履いていない足を蠢かす。
しかし、脆い土は爪先をかける度にボロボロ崩れ落ち、その振動がかえって志狼の腕に負担が掛かる形となった。
今にも外れてしまいそうな右肩、無理矢理木の根に絡めた左腕は痺れてわずかに感じるはずの痛みすらわからない。
顔中に脂汗を滲ませ呻く志狼は、両目にいっぱいの涙をためてこちらを見上げる海華へ口元だけを歪ませたぎこちない笑みを送った。
「海華……い、じょ……ぶ、だから、必ず、助ける、から……」
極限の状況、それでも彼女だけは助けたい。
死んでもこの手は離さない、体を貫く痛みと苦しさに苛まれながらも固く心に誓う志狼をじっと見詰める海華の目尻から、すぅ、と透明な雫が流れ落ちる。
彼女の口元に、微かな微かな笑みが浮かんだ。
「志狼さん、もういいよ……」
「え……?」
「もういいから、手、離して? 」
血の気の失せた唇からこぼれた思いもよらぬ台詞に、志狼の呼吸が一瞬止まる。
自身の手首を掴む彼女の手から次第に力が抜けていくのを感じて、志狼は指が砕けんばかりに細い手首を握り締めた。
「海華!? なに言ってんだ、止めろ……! 海華っ!」
「いいから! もういいの、このままじゃ二人とも助からない! 志狼さん、お願いだから、死なないで……あたし、志狼さんが来てくれて、本当に嬉しかった」
ほろほろと涙を流しながらそう言った海華の唇が『さよなら』を形作る。
痺れた手の中から滑り落ちていく彼女の手、遥か彼方に見える水の渦が、今彼女を飲み込もうと大きく口を開く。
その瞬間、志狼の口から獣の咆哮を思わせる低く重たい絶叫が滝周辺に響き渡った。
志狼の左手が木の根から滑るように外れる。
目にも止まらぬ速さで崖下へと伸びた彼の左手は、今、この瞬間志狼の右手から外れようとする海華の手を握り潰さんばかりの力で掴み上げた。
「う、ぐ……ッッ! うあぁぁぁぁぁぁっっ!」
悲鳴か、それとも気合いかわからぬ叫びを上げて、海華の腕を掴んだ両手を渾身の力で引き上げる志狼のこめかみには、くっきりと青筋が浮かび上がり、噛み締めた歯は今にも砕けてしまいそうにギシギシ軋む。
脆い土肌を引き摺られる身体、あちこち裂けて泥まみれになる襦袢と、肌を傷付ける石や木の根に小さな悲鳴を上げる海華の視界が大きく反転し、次の瞬間、全身が柔らかく熱い何かに包み込まれる。
気が付いた時、海華は志狼の胸にきつくきつく抱き留められていた。
「海華っ! おい……おい海華、大丈夫か!? こっち見ろ、おいっっ!」
彼女の頬を両手で包み、強引に自分の方を向かせて必死の形相で声を掛ける志狼。
そんな彼を半ば茫然とした面持ちで見詰めていた海華の震える手が、彼の肩口へ強く指をめり込ませる。
「しろ……さ……ん、っ! 志狼さ……志狼さぁぁぁんッッ!」
泥で汚れた顔をくしゃくしゃに歪め、うわぁぁぁぁっっ!と子供の用に泣きじゃくり抱き付いてくる海華を、骨も折れんばかりに力強く抱き締める志狼は、ここでやっと自身の身に起きた異変に気付く。
「腕……動く、ぞ……」
「え? あ……ぁ! 志狼さんっ!」
海華んからわずかに身を離し、己の左手を信じられないものを見るような眼差しで凝視する志狼は、恐る恐る左手を握っては開きを繰り返す。
まだ、上手く力は入らない、どこか違和感もあり、微かな痺れも感じる。
しかし、彼の左手は今までとは比べ物にならないほど自由に動いているのだ。
「動く……! 動くぞッ!! 腕も上がる!」
乾いた涙の後が付いた顔を興奮に紅潮させ、高らかに左腕を掲げて見せる志狼に、海華は喜びに言葉を詰まらせた様子で口元を両手で覆い、ポロポロと喜びの涙を流す。
まさか、まさかここで腕が動くようになるとは。
志狼にとって最大の悩みであったこの左腕が、海華の命を救うことになるとは……。
彼女が無事だった、そして腕が動く、この二つの喜びにどっぷり浸っていた志狼だったが、彼はすぐに彼女を抱き上げその場から立ち上がる。
そう、これで全てが終わったわけではないのだ。
「海華、歩けるか? 下に朱王さんが……俺の代わりに七之助と……」
「兄様が!? わかった、あたしなら大丈夫だから。行きましょう」
先ほどまでの虚ろな表情は何処へ行ったのだろう、力強い眼差しで志狼を見詰めて歩みを進めようとする海華だったが、ここ数日のまず食わずの身だった彼女の足は急な動きについてはいけない。
一歩足を踏み出した途端にふらつく彼女を支えおもむろに横抱きに抱き上げて、志狼はクルリと踵を返す。
「志狼さん、大丈夫だから……」
「いいから! 下に着くまで大人しくしてろ!」
そう言うが早いか、彼女を抱き上げたままの志狼は先ほど駆け上がった山道を逆戻り、転がるような速さで下って行く。
自分の周囲を飛び去っていく風景に身を固まらせる海華を抱えて疾走する志狼の耳が、木立の向こうから微かに聞こえる金属同士がかち合う鋭い響きを捉える。
朱王か、はたまた、くの一と激闘を繰り広げている都築達か……。
はやる気持ちを抑え、山道から飛び出した志狼と海華の目に飛び込んできたのは、川縁ギリギリで激しい鍔迫り合いを交わす朱王と七之助の姿だった。
「兄様っ!」
志狼に抱えられたまま、兄の姿を見つけた海華が甲高い叫びを上げる。
彼女の声を聴いた途端、朱王の手から一瞬力が抜けたのを七之助は見逃さなかった。
迫り合いの状態のまま、七之助は力いっぱい朱王の足を横へと払う。
突然の出来事に身構えることもできず、朱王は土煙を上げて七之助の足元へと転がった。
「なにを気ぃ散らせてやがる。手前ぇの相手は目の前にいるだろうが」
朱王の鼻先に忍刀をギリギリ近付け、そう嘯く七之助だが、彼もまた黒装束のあちこちが切り裂かれ、頬や肩にできた切り傷からは鮮血が滲んでいる。
悔しげに顔を顰めて息をのんだまま、刀の切っ先と七之助の顔へ交互に視線を遣る朱王。
そんな彼に七之助はもう一度嫌な笑みを投げ掛け、やおら忍刀の切っ先を降ろしてしまう。
「立てよ。こんなんじゃ面白くもなんともねぇ。せっかく助かった妹にゃ悪いが、手前ぇら三人、ここで仲良く三途の川を渡ってもらうぜ」
頬から流れる糸の如き血潮を拳で拭いつつ言った七之助の視線は、朱王から外れて志狼、そして海華へと向けられた。
ジリジリと七之助から後退った朱王は、太刀を握り締めたまま地面からゆっくり立ち上がる。
七之助同様、彼も身体のあちこちを切り傷や突き傷で飾り、手の甲には既に乾いてしまった血糊がこびりついていた。
汗で汚れる顔、乾いた口許を手の甲で拭う彼を前に、志狼は抱えていたままだった海華を地面へと下ろす。
「少し待っていてくれ。巻き添え食わねぇように、どっかへ隠れてろ」
「でも……! 」
「心配すんな、絶対ぇに朱王さんは死なせねぇから」
そう言うなり、その場からかけだした 志狼は地面に転がっていた己の忍刀を素早く拾い上げ、朱王の元へと駆け付ける。
「待たせてすまねぇ。朱王さん、ありがとうな」
「気にするな。……志狼、お前、手が……」
しっかりと握られた志狼の左手を前に、驚愕の表情を見せる朱王へ、彼は小さく頷き何度か手首を動かして見せた。
「へぇ、片輪が元に戻ったか。こりゃなかなか面白くなったじゃねぇか!」
両眼をギラつかせ、そう一声叫んだ七之助が忍刀を振りかざし、一直線に二人へ向かい突進してきた七之助は、鈍色に光る刃を朱王の喉元を狙って突き付ける。
軽やかな身のこなしでそれを避けた朱王の太刀は七之助の首へ、そして彼の隣から飛び出した志狼の忍刀は七之助の胸をそれぞれ狙う。
研ぎ澄まされた刃が空気を切り裂く鋭い音を立てて各自の命を狙い唸りを上げる。
朱王と志狼の一撃を刃で打ち返し、地面をバン!と蹴り上げた七之助の身体が曲芸師よろしく空中で一回転する。
その刹那、朱王の頬に強烈な蹴りが一発、炸裂した。
『ぐぅ』と短く呻き、横へと大きく倒れ込む朱王の身体へ咄嗟に手を伸ばし、七之助を視界に捉えたまま、志狼は素早く右手を振り上げて、忍刀を彼へと投げる。
銀色の閃光と化して空を飛ぶそれは、七之助を討ち倒すという目的を果たす事なく、虚しくも彼の顔の横を飛び去って行った。
「俺も随分ナメられたもんだなぁ!? そっちがそうなら、今度はこっちから行くぜ!!」
そう一言叫ぶ七之助の指の間から、日の光を反射する何かが小さく光る。
大きく振り上げられる腕、その瞬間、地面に倒れ伏していたままの朱王が張り裂けんばかりに両の目を見開いた。
「志狼、危ないッッ!」
腹の底から張り上げられる絶叫、それを合図としたかのように志狼は瞬時にその場に屈み込み、地面に右手をつく。
大雑把に束ねられたままの彼の癖毛、その毛先を掠めるように七之助の手から放たれた苦無が志狼へと襲い掛かる。
ギュン!と鼓膜を震わす響きを連れて頭、肩、胴体ギリギリを掠める凶器に小さく舌打ちした志狼は、屈んだ状態のままで地を蹴り、七之助の足元近くへ飛び寄った。
武器も持たない丸腰の状態で敵の懐に飛び込んだ志狼を止める間もなく、太刀を握り締めた朱王は彼の背中を凝視するしかできない。
七之助が刀を振り下ろせば志狼の首は確実に飛ぶだろう、それくらい間近まで飛んだ彼の右手、力を込めて握られていた右手が振りかざされ、七之助の顔面めがけて小石を含んだ土がぶちまけられる。
顔を襲う細かな土と硬い石に、さすがの七之助も一瞬怯んで左手で顔を覆う。
その瞬間、まさに電光石火の速さで志狼の手が忍刀を握る七之助の手首を渾身の力を込めて打ち付けたのだ。
「この……野郎、ッ!」
口に入る土を吐き出し、低く罵りの声を上げた七之助だが時すでに遅し、彼の手から落ちた忍刀は志狼の手に渡り、下から蛙よろしく飛び上がる志狼は七之助の喉元に刀の切っ先を突き付けた。
「まだ、やるか……?」
額に脂汗を滲ませ、乱れた息を吐く志狼が呟く。
同じ顔、同じ眼光を持つ男同士の睨み合い、その場に響く滝の轟きも一瞬消え去ったような錯覚を与える緊迫の時。
志狼の左手が七之助の胸倉を掴み上げ、さらに強く凶器の切っ先が喉へ食い込もうとした途端、七之助は血の滲む唇にうっすらと笑みを浮かべる。
同じ血が流れる者同士、語らずともわかったのだろうか。
にやにやと不気味な笑みを湛えたままの七之助は力なくその場に崩れ落ち、志狼はそんな彼を刀を突き付けた状態で睨み付ける。
『終わった』全てを見届けていた朱王がそう確信した刹那、彼の背中を大波のような人のざわめきと、荒く慌ただしい数多の足音が包み込んだ。
「朱王ッ! 志狼、無事かっ!?」
ざわめきの向こうから響く太めの声、振り向けば、山道を上がってきた黒羽織の一団が目に飛び込んでくる。
その中に、漆黒の羽織を泥と埃で飾った侍が二人、よたつきながら歩いてくるのが見えた。
「都筑様! 高橋様!」
「おぉ! 生きていたか! よかった!」
髷を乱れさせ、満身創痍の都筑は 朱王、そして志狼の姿を確かめるなり顔を輝かせ、小走りにこちらへと向かってくる。
そして、志狼が捕らえた七之助を一瞥するなり、口の中で文句なのか悪たれなのかわからぬ何事かを小さく呟く。
「都筑様、ご無事でしたか?」
「うむ、俺も高橋もなんとか、な。忠五郎が南町奉行所の奴等を呼んできた。もう安心だ」
そう言いながら周囲を見渡す都筑。
彼につられて朱王も顔を上げれば、そこにいる侍達は皆、一度も見たことがない顔触ればかり。
今回の事件を管轄するのは南町奉行所、下手に北町奉行所の同心を呼んでは、また一悶着あるだろう、そう忠五郎は判断し、追い返されるのを覚悟で南町奉行所へ駆け込んだのだ。
志狼と七之助、二人揃っているところを始めて見たであろう同心らは、生き写しの彼らに驚き、興味津々で遠巻きから眺めているだけ。
しかし、今捕らえられているのが一連の殺しの下手人であると忠五郎から耳打ちされるやいなや、黒羽織はさしずめ烏の群れのように二人に群がり、七之助へ縄を掛けていく。
たいした抵抗もなく、縄でがんじがらめにされていく七之助の口許には、相変わらず暗い笑みが浮かんだままだ。
ニヤ、と嫌らしいその笑みに一抹の不安を抱きながらも、忍刀を収めた志狼は手荒く引き立てられようとする七之助を厳しい眼差しで見詰める。
黒羽織に囲まれる彼の背中へ視線を向けていた志狼、しかし彼は何かを思い出したかのようにハッとした表情となり、朱王と都筑の方へと振り返る。
「そうだ、海華は!?」
「案ずるな、高橋と一緒だ。向こうにいるから、ここは俺に任せて早く行ってやれ」
分厚い唇からニヤッ、と白い歯を覗かせて都筑は親指で今来た方角、ちょうど山道の入り口辺り、大きな樫の木が生えている場所を差す。
彼の仕草を見た二人は互いに顔を見合わせるなり、脱兎の如くその樫の木へ向かって駆け出した。
「海華っ!」
「おい海華! 無事だったか!?」
ほぼ同時に木へと到着し、大木の裏へ顔を突き出す二人。
そこでは、襦袢の上から黒羽織を纏った海華が、地面に座り込み顔をしかめる高橋の腕に引き裂いた手拭いを巻き付けていた。
「あ、兄様。志狼さん!」
「朱王! 志狼も、怪我はないか?」
痛みに顔をしかめつつ、よろよろ立ち上がる高橋。
手拭いに滲む赤に女を奪われながらも、朱王は海華へ駆け寄りその両肩へ手を掛ける。
「よかった……生きてたんだな」
「うん、心配かけてごめんなさい……」
じっと自分を見詰めてくる朱王を見上げ、声を詰まらせる海華の目尻に新たな涙が滲む。
小さくしゃくり上げながら朱王へ抱き付く海華と、彼女を力一杯抱き締める朱王。
『よかった』そう噛み締めるように何度も呟く朱王の横で、志狼は高橋の怪我を気遣いながらも、先ほど七之助らが消えていった山道の向こうへ視線を投げた。
「高橋様、あのくの一は?」
「南町の奴らが引き立てて行った。都筑の一撃が見事に決まった」
そう言った高橋は、右手を握り拳を作って己の下顎辺りにピタリとくっつける。
侍らしからぬ拳の一撃。
だが、結果が吉と出た以上、誰も彼を責められないし、責める必要もないのだ。
「とにかく、皆の命が無事で何よりだ。志狼、海華殿も念のため小石川に……」
「承知致しました。では高橋様もご一緒に。傷が膿んでは大事ですので」
腕に巻かれた手拭いに目を遣りつつそう言う志狼へ、高橋はどこかバツが悪そうに微笑み頬を指先で掻く。
その後、山を降りた一同はそのまま小石川療養所へと傷の手当てへ向かったのだ。
小石川に付いた一同は清蘭から傷の手当てを受け、その場で解散することとなった。
勿論、後程、番屋に出向いて事情聴取をされる予定だが、今はそれよりやらねばならぬ事がある。
腕に真新しい包帯を巻き直した高橋は、『霧桐野様によろしく伝えてくれ』そう一言言い残して都筑と共に奉行所へと帰っていった。
さぁ、そこから三人は八丁堀へと走る。
屋敷で療養している桐野に、早く事が終わったのを報告したい、その一心から足を急がせ屋敷の裏口から中へ飛び込んだ三人、磨き上げられた廊下を音を立てて走る海華の前に、ひょっこりと本当にひょっこりと薄炭色の着流しを纏った桐野が桐野が自室から姿を表したのだ。
「旦那様……ッ!」
「海、華っ! 」
突然現れた海華達に桐野の方も驚いたのだろう、普段の彼らしくない驚愕の叫びを上げた桐野のは、わずかに体をよろめかせながら海華へと近付く。
そして、泥で汚れた黒羽織を纏う彼女を力一杯その胸に掻き抱いたのだ。
「よかった……! 生きて、いた……生きていたのだな……!」
声を震わせ呻くように呟く桐野。
朱王や志狼と同じ力強い抱擁に思わず息を詰まらせる海華は、鼻の奥がツンと痛むのを感じつつ、小刻みに首を振って頷く。
やっと戻ってきた、やっと『いつもの日常』に戻ってこられた。
まだ、ここに自分の居場所はあったのだ。
改めてそれを実感したのだろう、小刻みに肩を震わせ『ただいま戻りました』と蚊の鳴くような声で呟いた彼女の手が、桐野の着流しをきつく握り締める。
嬉し涙を流す二人を見遣りながら、朱王は軽く微笑み、志狼は動くようになった左腕を軽く擦る。
この日の夜、屋敷には海華の生還を祝う人々が
次から次へと訪れ、志狼と海華が自室へ引っ込めたのは月がだいぶ西へ傾いた頃となったのだ。
「……あぁ、疲れた、ぁ……」
部屋へ一歩足を踏み入れるなり、海華は弱々しく呟き、畳へとへたり込む。
「大丈夫か? 布団敷いてくるから、少し待ってろ」
海華の隣を抜けて枕屏風へと向かう志狼は、その裏から布団を引っ張り出して青畳へ敷いていく。
大量の血潮が飛び散った畳、そして襖は全て真新しい物へ換えられ、あの惨劇が嘘のように室内は整頓されていた。
「…… 良かったわ」
布団を敷く志狼を目で追いつつ海華が呟く。
頭側へポンと枕を放った彼はその場にしゃがんだまま、彼女へと顔を向ける。
「何がだ?」
「志狼さんの腕が動くようになって。本当に、よかった」
ふにゃりと笑ってそう言った海華は、畳に両手をついて立ち上がり、志狼の隣へ再び腰を下ろす。
彼女と向かい合うよう座り直し、志狼は微かに震える手で痩せてしまった白い手を握った。
「俺は、お前が帰ってきてくれて……生きて帰ってきてくれて、本当にありがたいと思ってるぜ」
にや、と白い歯を覗かせて、志狼は彼女の腰に腕を廻してやんわり抱き寄せる。
素直に彼の胸へ納まった海華は、心地よさげに目を閉じて志狼の肩へ甘えるように頬を摺り寄せる。
「また、志狼さんと一緒に暮らせるのね……。志狼さんと、旦那様と一緒に、ここで……」
「あぁ、これからずっと一緒だ。もう、あんな怖えぇ思いはさせねぇ。絶対だ」
七之助は、お縄になった。
たとえこれから伊賀や甲賀の連中が再び自分達を襲おうとも、必ず海華は、そして桐野は自分の手で守り抜いてみせる。
この左腕が、力を取り戻したのだから。
海華も、七之助から聞かされていた事がすべて嘘偽りだとわかった今、恐れるものなど何もない。
ただ、志狼を信じついて行くだけだ。
今夜はゆっくり休もう、そう言って灯りを吹き消し共に一つの布団へ転がり込んで、二度と離れぬと言いたげにきつく抱き合い互いの肌の感触を確かめ合って、長い、しかし一瞬に過ぎていく夜の海を共に渡る。
冷えた夜気に歓喜の吐息を混じらせて、穏やかに流れる闇は離れを一杯に満たしていった。




