第四話
志狼達が血眼で海華を探している頃、彼女の姿は江戸市中から離れた、ある山の麓にあった。
山、と言っても小高い丘に雑木がゴチャゴチャと生い茂った程度のもの。
それ故に普段より誰も気に留める事がない寂しい場所だ。
しかし、その雑木林の奥の奥に、遥か以前誰かが建てたのだろう小さな掘っ立て小屋がある。
山仕事用の作業小屋か、はたまた山菜採りの休憩小屋か……。
板張りの壁と屋根は一面に苔むして穴が開き、今日明日崩れ落ちてもおかしくはないあばら屋、その土間に、両足を冷たい鉄製の足枷で拘束され、鎖で柱に繋がれた海華の姿があった。
屋敷で志狼と同じ顔を持つ男、七之助とその仲間に襲われた気を失った彼女が意識を取り戻した時には、既に筵を敷いただけの土間に転がされ、傍には七之助のほか四、五人の男女……おそらく忍だろう連中に取り囲まれていたのだ。
逃げられぬよう着物は奪い去られ、襦袢一枚の彼女を七之助は気紛れか、それとも退屈しのぎかわからぬ理由で殴る蹴るを繰り返し、食事も一日おき、酷い時には水も欠けた湯呑に一杯程度しか与えられない日もある。
捕えらえた当初は七之助や仲間の忍を罵倒し、何とか足を拘束する足枷を外そうと試行錯誤を繰り返していた海華だが、肉体的、そして精神的に痛めつけられ、その瞳から光は失われていく。
何しろ、七之助は志狼に生き写し、彼にせせら笑われながら手酷く殴られ、耳を塞ぎたくなるほどの罵詈雑言を浴びせられる。
海華は志狼に殴られ罵倒されるのと同じ感覚に陥り、次第に海華は七之助が近付いてくるだけで啜り泣き、怯え震えるまでになっていた。
今日も彼女は蓆に横たわり、痩せた身体を胎児のように丸めて浅い呼吸を繰り返す。
そんな彼女を監視するように、室内には男が二人残り、荒れ果てた室内で安酒を啜っている。
と、彼女のちょうど頭側にある戸口が、ガタガタ鈍い響きを立てて開き出した。
「今戻った」
頭上から聞こえた男の声に、海華は閉じていた瞼を勢いよく弾き開けた。
「お帰りなさいまし」
室内で胡坐をかいていた中年の男が土間に足を踏み入れた七之助に軽く会釈し、隣にいた若い男と共に腰を上げる。
彼らに視線だけをチラと投げた七之助は、薬売りに変装し頭全体を覆うようにかぶっていた手拭りをいささか乱暴に取り外し、自身の足元でノロノロ身を起こす海華の腰を足で小突いてその場にしゃがみ込んだ。
「おい。今帰ったぜ義姉さん」
埃まみれボサボサになった海華の髪を鷲掴み、無理やり自分の方を向かせる七之助。
髪を引っ張られる痛みに顔を歪めて返事もできない海華は助けを求めるように彼の膝へ片手をかける。
しかし七之助はそんな小さな抵抗を鼻で笑い、勢いを付けて彼女を冷たく堅い土間へ顔から叩き付けたのだ。
「今なぁ、義姉さんの……いや、桐野様のお屋敷に行ってきた。ちょうど義姉さんの葬式をやってたところだったぜ?」
にやつきながら、そう口にした七之助。
彼の台詞に、顔を土で汚した海華は張り裂けんばかりに目を見開いて緩慢に身を起こす。
乱れた襦袢の胸元から覗く細い鎖骨が、深い影を生み出した。
「あたしの、お葬、式……!?」
「あぁ、そうだ。ついこの間、義姉さんによく似た風体の夜鷹をぶち殺して、髪を切って川にぶち捨ててきたのよ。人相もわからねぇように目も抉って顔も滅茶苦茶にしてきた。どうやら……志狼の奴は、ソレを義姉さんだと思ったらしいなぁ」
志狼と同じ顔を楽しげに歪め、冷たい笑みを見せる七之助を穴が開くほど凝視する海華の首が、無意識にゆっくり左右へ振られ始める。
「そんなの、嘘よ……志狼さんが、あたしと他の女を、間違えるはず、ないわ……、嘘、そんなの嘘よ、っっ!」
いくら身体つきが似ていても、髪型が同じでも、志狼が自分をわからないはずがない。
間違えるはずもない、七之助は嘘出鱈目を言っている。
そんな言葉がグルグル頭の中を巡り、心臓は激しく脈を刻み始める。
しかし、七之助はそんな彼女を馬鹿にするように笑い飛ばした。
「義姉さんも馬鹿だ。行方知れずの女房なんざ、死んだも同じなんだよ。桐野の旦那もあんたの兄貴も志狼も、もうあんたは死んだと思ってる。葬式が済んだら、義姉さんは志狼にとっちゃぁ『過去の女』なんだ。もう、必要ねぇ女なんだよ」
『過去の女』その言い方に、土間にいた男らが小さく吹き出す。
死んだも同じ、必要ない女……。
七之助が吐き出す言葉一つ一つが海華の心をズタズタに引き裂き、見えない血潮を噴き出していく。
「嘘、よぉっ! そんなの嘘! 志狼さんが、そんな……そんな、酷い事、ッ!」
「酷ぇもなにも、それが真実なんだよ。どうせそのうち、あんたより若くて可愛らしい後添いが来るんだろうぜ。あれだけ尽くした亭主に簡単に棄てられたんだ、あんたも可哀想な女だなぁ?」
腹を抱えてゲラゲラ笑い、その場から立ち上がった七之助は、もう一度海華の脇腹を蹴り飛ばし室内へと上がる。
鈍痛の走る脇腹と、投げ付けられた言葉の両方の痛みに耐えて低く呻く海華の目からは、次から次に堪えきれない涙が溢れ出し、乾いた土間へ吸い込まれていった。
目の前を通り過ぎる人々が陽炎の如く歪む。
人混みに紛れる小柄な女、特に赤い着物を纏う女全てが海華に思えて、その度に土埃に汚れた足を止める志狼の隣を足早に通り過ぎる野菜売りが、天秤棒が強かに彼の肩を打つ。
普段なら何て事はない衝撃、しかしこの数日、ほとんど飲まず食わずで海華を探し続けている志狼にとって、今は棍棒で殴り倒されたと同じだ。
ぐぅ、と息を詰まらせヨロヨロと道の脇へよろめいた志狼は、薄汚れた土塀に力なく凭れ掛かり、己の爪先へ視線を落とす。
どこを探しても海華は見付からない、それどころか手懸かり一つ掴む事ができなかった。
海華が拐われ、主である桐野は襲われ負傷し、未だ床に臥したまま。
自分にとって掛け替えのない存在が、一気に自分の前からいなくなってしまった。
足元の地面が崩れ落ちていくような感覚、身体中の水気が無くなる程に泣いて、声が枯れる程に泣き明かし、全てを投げ打って毎日海華を探しに街中を駆けずり廻り、帰ってからは桐野の看病に追われる。
まともに眠れもせず、食事も砂を噛むように味気無い。
世界も色を失った、賑やかなこの世間の中で自分だけが死んでいる。
この数日が数十年に感じるほどに彼は疲れきっていた。
今、彼の足を動かしているのは『海華が生きている』その小さな希望だ。
自分が探してやらなければ、誰が彼女を助けてやれるのか。
こんな所で挫けている場合ではない。
滲みそうになる涙を乱暴に拳で拭って、大きく一度息を吐いた志狼が再び歩みを進めようと顔を上げる。
と、その時だった。
「おじちゃん」
地面近くから聞こえる幼い舌足らずな呼び掛けに、志狼の動きがピタリと止まる。
視線を下へ向ければ、三つほどと思われる小さな女の子が指をしゃぶりながら、じっとこちらを見詰めていた。
「おじちゃん、これ」
唐突に少女は黄ばんだ紙切れを一枚志狼へ差し出す。
「これ……どうした?」
「おじちゃんにね、渡してって頼まれたの」
「頼まれたって、誰に?」
「そこにいたね、お花売りのおばちゃん」
そう言ってニコリと笑った少女から差し出された紙を受け取った志狼は、怪訝な顔でそれを開く。
黄ばみ薄汚れた紙切れには、指でなすりつけたと思われるどす黒い血の跡と共に、街から一里ばかり離れた山の中にある滝の名前、そして『明日、昼九ツ』と時刻が殴り書きされていたのだ。
「お、いッ!! これ、誰から渡され……!?」
志狼が慌てて紙面から顔を上げた時には、既に少女は遠くへ走り去った後だった。
この地は誰のものなのか、そして少女にこの紙切れを託したのは誰なのか?
様々な疑問が駆け巡り混乱する脳内、しかし志狼の足は無意識のうちに地面を蹴り、疾風の如くその場から走り出す。
紙切れを握り締め、脇目も振らずに走りに走り志狼が北町奉行所の裏門から中へ飛び込んだのを、土塀の陰から一人の女が見届けていたのを彼は知る由もなかった……。
小鳥の囀りが遠く聞こえる。
冷たい土間の上に身を投げ出し、すぅすぅと浅く弱弱しい呼吸を繰り返す海華。
顔の横を黒光りする南京虫が長い触角を揺らして通り過ぎても、彼女は少しの反応も示さない。
呼吸の音がなければ死んでいると思われてもおかしくないだろう状態の海華。
そんな彼女を見下ろす形で物が乱雑に放置された室内に集まる忍達。
表から入る陽光を反射し鋭い輝きを放つ忍刀を弄んでいた七之助は、自身の下座に座るふくよかな年増女をチラリと見遣った。
「志狼の様子はどうだった?」
「どうも何も、死人みたいな顔して街中をうろついてましたよ。言伝を掻いた紙を見た時の顔って言ったら……」
肉厚の唇をゆがめてフフフと笑う女に七之助は満足そうに頷き忍刀を素早くしまう。
「七之助様、これからどうするおつもりで?」
酒を満たした湯呑を七之助に差出、無精髭の中年男が顔を顰める。
彼の横に座した未だ幼さの残る顔付をした若い男も、落ち着きのない様子でチラチラと視線を土間に転がる海華へ向けた。
「あの女も、もう長くはないかと……。最近は飯もまともに食いやせん」
「別に死んだって構わねぇさ。所詮、あいつは志狼を苦しませる餌だ。どのみち明日には志狼と一緒にあの世行きなんだぜ。飯をやるだけ無駄ってもんだ」
唇を笑みの形に歪めたまま言った七之助に、小太りの女は軽く肩をそびやかし、無精髭の男は無表情のまま湯呑の酒を飲み下す。
黴臭さと埃臭さが充満する室内、頬に大きな黒子のある若い男は一瞬戸惑った様子でもう一度、海華に視線を投げた。
「妙な仏心起こすんじゃねぇぞ。明日は、必ずあの野郎の息の根を止める。文江の弔い合戦だ」
そう苦々しい声色で吐き捨てて、湯呑の酒を一息に飲み下した七之助の目は、ここにはいない志狼を睨み付けるように鋭く細められていった。
必死の形相で突然奉行所に駆け込んできた志狼に、都築や高橋は勿論、修一郎までもが驚愕の表情を見せて部屋から飛び出してくる。
何事か何の騒ぎだと次々駆け付けてくる侍達をなんとか誤魔化しその場から退散させて、修一郎は興奮状態の志狼を突き飛ばす勢いで自室へと入れた。
「お前どうしたのだ、裏から入ってくるのは構わんが、こんな大騒ぎをして……」
障子を閉めるなりそう小さく叫んだ修一郎に、先ほどの紙切れを突き付けた志狼は身体全体を使い荒い呼吸を整える。
「修一郎、さま……海華が、海華……」
「わかった、わかったから落ち着け。おい高橋、悪いが水を」
「しょ、承知いたしました、今すぐ!」
何が起こったのかわからずバタバタと部屋を後にする高橋、その姿を見送った都築は半ば強引に志狼を修一郎の前に座らせる。
修一郎と続き、そして廊下のあちこちに水をこぼしながら部屋に戻ってきた高橋は、志狼が持参した紙切れを確認するなり、サッと顔色を変えた。
「七之助の奴、ふざけた真似を……!」
紙切れを睨み付け歯噛みして悔しがる都築、その隣では何度も小首を傾げる高橋が眉根を顰める修一郎と、水をガブガブ飲み干す志狼を見遣っている。
「明日、この朧滝に七之助が……ということは、奴の隠れ家もこの周辺に? 」
「そうかもしれぬ。もしかすると、海華も……」
修一郎の厚い唇からこぼれた海華の名前に、志狼は思わず手にしていた湯呑を手から取り落とす。
「修一郎様、海華はまだ……まだ生きているのでしょうか?」
「それは、わからぬ。勿論生きていて欲しいのは山々だが……取り敢えず朱王と桐野にも知らせよう。話は、全員揃ってからだ。都筑、高橋すまぬが……」
「承知致しました、ただ今朱王に報せて参ります」
「では私は桐野様に」
修一郎の言葉を察したように、都筑は朱王の元へと走り、高橋は屋敷で療養している桐野の元へと向かう。
障子の向こうに消えていく二人の姿を見送る志狼の顔には未だ不安の色が消えていない。
「志狼、大丈夫だ。案ずるな、と言うのも酷な話だろうが……。ここで狼狽えていても始まらぬ」
『明日に備えよ』そう告げる修一郎の言葉が、なぜだか胸に染みる。
きっと彼や朱王がいなければ、とうの昔に自分はダメになっていただろう。
気をしっかり持たなければ、そして明日、必ず海華をこの手に取り戻す。
その決意を新たにし、真っ直ぐに修一郎を見詰めて大きく頷いた志狼。
その日の夜、修一郎の役宅は一晩中灯りがついたまま、決戦の日を迎えたのだ。
七之助が志狼を呼び出した滝、そこは朧滝と呼ばれる場所だ。
天空から落下する大量の水の帯が水面に衝突し轟音を立てて水飛沫が周囲に飛び散る、細かな細かな水の粒は春の月を覆う朧霞のように滝周辺を包み込み、どんな真夏でもヒンヤリと涼やかな空気が周囲に満ちる。
それ故に夏場は涼を求める人々でそれなりに賑わう場所だが、未だ春も半ばの今頃は訪れる人も殆ど無い、寂しい場所である。
だからこそ、七之助には好都合な場所なのだろう。
薄暗い雑木林の生い茂る山道を抜け、急に視界が開けたかと思うと、ゴォゴォと鼓膜を震わす轟音を立てて水飛沫を散らす滝が姿を現す。
開けた大地、天高く登った太陽が光の矢を受け、中に舞う飛沫が七色の帯を描く。
その向こうに、漆黒を纏った人影が揺れた。
「よく来たな」
木立の影から姿を表した黒装束の男、七之助が腕組みしながら言い放つ。
己と同じ顔を持つ彼を射抜く眼差しで睨み付け、志狼は昂る気持ちを押さえるように、一度大きく息を吐いた。
「海華は、どこだ?」
「まぁ、そう焦るな。久し振りに兄弟涙のご対面だ。そうカッカしねぇで……」
「戯言はいい! 海華はどこだッ!? 海華を返せッッ!」
怒髪天を突く勢いで怒鳴る志狼に、七之助の背後に立っていたあの小太りの女が黒い頭巾から唯一覗く目を細ませる。
「仕方ねぇな。兄さんは気が短くていけねぇや。おい! あの女連れてこい!」
半身を軽く後ろへと捻り、雑木林の奥に向かって声を張り上げる七之助。
その声に答えるようにガサガサと木の枝や下草が激しく揺れ、影を切り取ったような黒い人影が二つ現れる。
白く輝く日の光に影が消え去り、黒装束に襟首を掴まれ引き摺り出された小柄な人影を目にした刹那、志狼の目が、これ以上無いほどに大きく大きく見開かれた。
土埃で汚れた薄桃色の襦袢を纏った海華が、力なく地面へ崩れ落ちる。
髪も肌も艶を失いバサバサ、顔や剥き出しの腕はどす黒い痣や傷が飾り、足首はグルリと赤く充血していた。
光を失ってしまった瞳は漆黒の洞穴の如く地面の一点を見詰めている。
まるで幽鬼のように変わり果ててしまった彼女の姿に、さすがの志狼も言葉を失い、呆然と彼女を凝視した。
「丁重におもてなししてやったぜ。あの離れで喉首掻き斬ってやろうと思ってたが……それじゃぁ面白くねぇだろ?」
ニタリ、と凶悪な笑みを覗かせながら、七之助はつかつかと海華へ歩み寄りその髪を思い切り鷲掴んで垂れていた顔を無理矢理に志狼の方へと向かせる。
髪を引かれる痛みに歪む海華の顔を見た刹那、志狼の視界が赤く染まった。
「海華ッッ! 止めろッ! それ以上海華に……」
「手ぇ出すな、ってか? そいつぁ無理な話だな。こうするために、お前ぇを呼んだんだからよ!」
身体を震わす滝の振動に負けない大声を一つ張り上げた七之助の袖口から、緩やかな弧を描く鋭い刃が音もなく滑り出る。
極限まで研ぎ澄まされた切っ先が、海華の喉元に食い込み鮮血が白い喉元を濡らす。
『助けてぇ!』と微かな、しかし甲高い悲鳴が彼女の口から飛び出た瞬間、腹の底から怒号を張り上げた志狼の足が力一杯大地を蹴る。
そして、今しがた彼が通った山道を囲む雑木林
の間から、黒髪をたなびかせる長身の人影が勢いを付けて躍り出た。
志狼が隠し持っていた忍刀が、湿り気を帯びた空気を鋭い音を立てて切り裂く。
海華を隣に立つ黒装束へ向かって突き飛ばし、その一撃を軽々と受けた七之助は両目を見開き狂ったように耳障りな笑い声を上げた。
「やっぱりな! お仲間をゾロゾロ引き連れてきやがったか! ほらほら、早くしねぇと女房が死んじまうぜ!」
「黙れッ! 黙れ黙れ黙れ――ッッ!」
軽業師よろしく一回転宙返りを繰り出し、志狼の剣舞を次々にかわしていく七之助。
そんな彼に激昂し、滅茶苦茶に刃を振るう志狼の背後では、大刀を振りかざす朱王が七之助の仲間である黒装束ら二人を迎え撃っていた。
飛び散る水飛沫に舞い散る剣花、雑木林から我先にと飛び出てくる都筑に高橋の二人も、気合い一発刀を抜く。
『北町奉行所のものだ!』そう叫ぶ都筑の野太い声を鼻で笑ったのは、小太りの身体を漆黒の衣装で包んだあの女……くの一だ。
彼女は海華を担いだ若い男を先へと逃がし、自分は脇差し程の長さがある刃物を両手に握り締め、風の如くに侍二人へ斬りかかる。
壊れた人形のように動かず、男の肩に担がれ連れ去られていく海華に、志狼はここへ来て初めて焦りの色を見せた。
「海華――!」
「余所見をすんじゃねぇ! テメェの相手はここにいるんだよ!」
海華を追い掛けようとした志狼は、ほんの一瞬七之助から目を逸らす。
それを七之助が見逃すはずはなく、彼の硬く握った拳は志狼の右頬を強かに殴り飛ばした。
頭の天辺から突き抜ける衝撃、意識が白黒に明滅し、身体が宙を飛ぶ。
土煙を巻き上げ地面に叩き付けられた志狼の身体は二度、三度と跳ね返り、左腕を吊っていた三角巾はあっさりと外れ、風に乗って水面へ落ちる。
口の中一杯に広がる苦い鉄の味。
ぶれる視界と飛びそうな意識を必死で保ち、右腕一本を支えに起き上がろうともがく志狼。
そんな彼の眼前にストン、と飛び降りた七之助は、虫を踏み潰すように志狼の頭を強く踏み付けた後、ギリギリ右腕を踏みにじった。
「ぐ……ぁ、ぁぁ……っ」
「痛てぇのか? そりゃぁ痛てぇよなぁ。だが、文江は、もっともっと痛かっただろうよ」
刀の露と消えた妹の名前を呟く七之助の目は暗い怒りに燃えている。
早く体勢を立て直さなければ、そう焦る志狼の心を読むように、彼は再び志狼の頭を勢いを付けて踏み付けた。
「お前ぇも情けねぇ男だな? 腕一本ダメになっただけで、このザマだ。旦那も女房もロクに守れねぇ、この役立たずが」
「うる、せ……ぇ、っ! 手前ぇ、なんぞに……」
「手前ぇなんぞに、なんだ? 言ってみろよ甲斐性無し。あぁ、手前ぇにあの女房は勿体ねぇよな? あいつ、昼も夜も泣いてたぜ? 志狼さん助けて、ってな。でも、手前ぇは助けに来なかった。可哀想になぁ」
水が落ちる轟音、そして朱王や都筑らが剣を交える鋭い響きに混じって聞こえる七之助の嘲笑い。
聞きたくない、そう抗えど身動きが取れない志狼は、ただ歯を食い縛り耐えるだけだ。
「手前ぇみてぇな半端者に女房娶る資格なんてねぇよ。そうだ、海華は俺がもらってやるぜ。どうせ顔も何も一緒なんだ。今日からあいつは俺の女……」
ヘラヘラ笑いながら志狼のこめかみを踏みにじる七之助、しかし次の瞬間、彼は弾かれるようにその場から飛び退き漆黒の身体は猫のごとくに宙を飛ぶ。
そんな彼の黒装束の一部、ちょうど右の脇腹辺りを掠める銀色の軌跡は、薄い布地を鋭い音を立てて切り裂いていった。
「志狼ッ! しっかりしろっ!」
太刀を大きく横に払い、七之助を追い立てた朱王は、地面から身を起こそうともがく志狼を、片手で引き上げる。
土で汚れた顔を乱暴に拭い、無言で頷いた志狼はダラリと垂れた左腕もそのままに、取り落としていた忍刀を震える手で再び握った。
『志狼』そう何度も彼の背中に呼び掛けるも、答えはない。
彼の据わった目はただひたすらに七之助を捉え、 朱王の声など耳に届いてはいない。
フラフラと操り人形よろしく歩みを進める彼を面白そうに眺め、ペッ、と地面に唾を吐いた七之助の目は、志狼から朱王へと移された。
「こんな片輪を相手にしても面白くねぇや。なぁ、今度はあんたが相手をしろよ」
まるで遊び相手を選ぶよう口にする彼の声は、顔と同様、志狼にそっくり。
同じ人間が二人いる、改めてそんな奇妙な感覚に陥りながら、朱王は奥歯に力を込める。
足をふらつかせ、『殺してやる』と繰り返し低く呟く志狼の肩をおもむろに掴み、自分の方へと思い切り引き寄せた朱王は、目を血走らせる志狼の耳許で何かを小さく囁く。
それに対し、志狼は拒否するように激しく首を横に振った。
「嫌だ、あいつは、絶対に俺が……」
「今はそんな事を言っている場合じゃない、お前は、海華を」
七之助には聞き取れていないだろう小声、そして早口で告げながら、志狼を押し退けるよう前に出た朱王は、切っ先から鮮血を滴らす太刀を両手に構え直す。
ふと、志狼が背後を振り向くと、そこには先程まで朱王へ襲い掛かっていた黒装束の男が二人、一人は首を断ち斬られ、もう一人は腹から胸を袈裟懸けに斬られ、無惨な骸となって地面に転がっていた。
海華の仇は絶対に自らの手で討ちたい、しかし今は、そんな我儘を言っている場合ではないのだ。
ジリジリとその場から後退り始めた志狼は、『すまねぇ』と一言残し、クルリと踵を返す。
海華を追い掛け脱兎の如くその場から駆け出す志狼の背中を眺めながら、七之助は口角をつり上げる。
「せいぜい頑張って走るこったな! さて……。今度はあんたと遊んでやるよ!」
叫び声も高らかに、忍刀を振りかざす七之助
の足が大地を蹴り飛ばす。
鉄砲玉よろしく飛び掛かる七之助と、身を低くし太刀を構える朱王の視線が水の粒子が飛びかう空中でかち合い、目に見えぬ火花を散らせた。
急峻な山道を海華を肩に担ぎ上げた一人の黒装束が疾風の如く駆け抜ける。
時おり背後を振り返りつつ走る黒装束は、最早その顔を隠す漆黒の頭巾が脱げ落ちるのも構わず、ただひたすらに山道の先、朧滝の頂上を目指し、足場の悪いでこぼこ道を息を切らせて走るに走る。
その背後を、同じく嵐のように荒い息を吐きながら追い掛ける志狼。
彼の目には、男の背中にダラリと垂れ下がる海華の腕と、汚れてバサついた黒髪が激しく揺れる様だけがくっきりと焼き付いていく。
「ちく、しょう……っ! 止まれ、海華を、返せ――ッッ!!」
苦しい息の下から喉を破らんばかりの絶叫を張り上げて、前後に揺れる左腕を抱えて走る志狼の声に、海華はピクリと指先を跳ねさせ微かな反応を示すが、その顔は志狼へ向けられる事はなかった。
莫大な量の水が落下する轟音は次第に大きく強くなり、身体の芯を揺さぶる振動が志狼の鼓動と重なっていく。
やがて、黒装束の男は滝の頂上、目も眩むような崖っぷちで足を止め、抱えていた海華を乱暴に地面へと落とした。
「くるな……来るなぁ、ッ! これ以上近付けば、ッ!」
目を血走らせ口から唾を飛ばして喚く黒装束は、志狼よりも若いだろう、日に焼けた丸顔にどこか幼さを残す顔立ちだ。
肩を上下に揺らして呼吸を整える志狼の目の前で、男は海華の襟首を掴み取り、崖の方へと彼女の身体を強く突き出す。
志狼の全身から熱く煮えたぎる血潮が一気に引いていった。
「止めろ……! 頼む、止めてくれ、海華を返してくれ!」
男をこれ以上刺激せぬよう、志狼は声を押さえて彼に気付かれぬほどゆっくりと間合いを詰めていくが、男はすっかり狂乱状態で『来るな、寄るな』と喚き出す。
すっかり放心状態の海華は、目の前でドゥドゥと音を立て流れ落ちる水をボンヤリ眺めるだけだった。
目を剥き出し、空いた片手で懐から短刀を抜いて志狼へと突き付け始めた男の足が、滝から生まれる水気に塗れ青草を強く踏み締めた、その時だった。
黒い地下足袋を履いた足が、ズルリと音を立てて横滑りする。
ただでさえ足場の悪い崖の上、男の身体はあっという間に斜めに傾ぎ、轟く水音に引き込まれるように崖から落下していく。
悲鳴も上げられない、何が起こったのかもわからない、そんな面持ちを志狼に見せながら、男に襟首を掴まれた海華は、木の葉が舞い散るようにゆっくりと、男と共に崖の向こうへ消えていった……。




