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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十九章 奇跡と災厄は突然に
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第三話

 痛いほどに尖った鋏の先端が小さな脈を打つ首筋に突き付けられる。

日に焼けた肌をチクリと刺すそれに苦笑しながら、志狼は視線を下げた。


 「おい海華、何の冗談だ?」


 「アンタなんかに名前で呼ばれる筋合いなんて、無いわ」


 「亭主の顔、もう忘れたか?」


 「アンタは志狼さんじゃない……!」


 怒りに燃える目で志狼……志狼に生き写しの男を睨み付けた海華。

鋏を握る手に筋を浮かべる彼女は、三角巾で吊られた左腕をもう一度軽く撫でる。


 「志狼さんの腕は、こんなに太くない。それに……そんな冷たい目で、あたしを見たりしないわ」


 「へぇ……そうかい。亭主の身体は女房が一番よく知ってる、ってか?」


 乾いた嘲笑を漏らし、ボリボリと頭を掻く男に、海華は柳眉を逆立て歯を食い縛る。


 「ふざけんじゃないわ! アンタがやったのね!? 志狼さんに罪を着せて……ッ! 許せ……!?」


 『許せない』その台詞が口から放たれようとした瞬間、海華の首筋にヒヤリと冷たい何かが押し付けられる。

氷のように冷たく、そして平たいその感触に海華はそれが刃物なのだとすぐにわかった。


 「悪ぃが、少し静かにしてもらおうか? あまり騒ぐと、二度と声も出せねぇようにしてやるぜ」


 ヒタヒタと凶器で首筋を叩き、男は暗い笑みを浮かべる。

背骨を貫く恐怖と悪寒を必死で耐え、汗ばむ手で鋏を握り締める海華。

早く、早く志狼や桐野が帰ってきてくれないだろうか……。

祈りと焦りの入り交じった気持ちを見透かしたように、男はぐっと顔を近付け口許から白い歯を覗かせる。


 「旦那は遅せぇな? 大事な女房放っておいて、どこをほっつき歩いてるんだか」


 「うる、さいっ! もう少しよ、志狼さんや旦那様が帰ってきたら、アンタ一人なんて……」


 「へぇ、俺が一人だって? そりゃあ、ちょいとした勘違いだぜ」


 長めの前髪から覗く鋭い眼差し。

彼の言葉が何を意味するか理解する間もなく、海華の全身を凄まじい衝撃が貫く。


 一瞬で止まる息と暗転する視界、何が何だがわからぬまま、海華の意識はブツリと途切れる。

握り締めた手から滑り落ちる糸切り鋏、そして

ドン! と重たい音を立てて畳に崩れ落ちた海華を、目の前に立つ男、そして彼女の背後にいつのまにか、音もなく立っていた細身の男は、揃ってニヤニヤと嫌らしい笑みを作り、ぐったりと身を投げ出す彼女を見下ろしていた。






 「海華! おい海華!」


 人気のない桐野邸の玄関から、海華の名前を呼ぶ男の声が何度も響く。

しかし、屋敷から答えは返らなかった。


 「おかしいな、留守にするなど聞いていなかったが……」


 怪訝そうな顔で小首を傾げる桐野と志狼の横では、朱王が申し訳なさそうに背中を丸めて顔を俯かせている。


 「申し訳ありません、海華の奴、一体何をしているのか……」


 ペコペコと桐野に向かって頭を下げる朱王に、桐野は軽く首を振って答える。


 「いや、よいのだ。きっと……そうだ、志狼に何か美味いものをと思って買い物にでも出掛けているのだろう。どれ、先に入って待っていよう」


 そう言って中へと上がる桐野を追い掛けるよう、足早に中へ入った志狼は、海華の名前を呼びながら脱兎の如く離れの方へと走っていく。

その後ろ姿を見ていた桐野と朱王は、思わず顔を見合わせ苦笑いをこぼして彼の後を追った。


 「海華! 海華、いねぇのか!? 今帰ったぞ!」


 一刻も早く海華に会いたい、そう物語る背中、彼女の名前を呼ぶ声は真っ直ぐに廊下を走る。

母屋と離れを繋ぐ渡り廊下、その突き当たりにある襖を志狼が勢いよく開け放った、その瞬間だった。


雷に撃ち抜かれたように、志狼の身体が小さな痙攣を起こし、彼はその場に立ち尽くす。

襖に手を掛けたまま棒のように固まってしまった彼を見て、桐野と朱王は再び顔を見合わせる。


 「志狼? 志狼、どうかしたのか?」


 「志狼さん、海華はいたのか?」


 桐野の問い掛けにも彼は何も答えない。

ただ、張り裂けんばかりに目を見開いて室内を凝視するだけ。

そんな彼の肩を、朱王はポンと叩きつつ、彼の背後から室内を覗き込んだ。


 志狼の身体越しに見えたもの、それは部屋にぶちまけられた鮮血。

畳を染める真っ赤な血の海だった。


 志狼のすぐ足元には赤い水溜まりが一つ、そして押し入れの襖は派手な血飛沫で鮮やかに彩られている。


 そして、粘りつく鮮血にまみれた畳には海華が絞めていた柿色の帯がズタズタに切り裂かれ、打ち捨てられていた……。


 「なん、だ……なんだコレ、ッッ! 何なんだ、何なんだよッッ!」


 今までにないほど狼狽え、鼓膜を破らんばかりの絶叫を上げて切り裂かれた帯へ飛び付いた志狼。

その足元に広がる血溜まりから、吐き気がするほどの生臭さが立ち上る。

鮮血に彩られた凄惨な室内、それを目の当たりにした朱王、そして桐野はただただ唖然茫然と、血潮で滑る畳に崩れ落ちる志狼の背中を眺めていた。


 悲痛な声色で海華の名前を呼び、帯を胸に抱いた志狼。

と、畳に膝をついた彼、その膝頭にパラパラと乾いた音を立てて何かがこぼれ落ちる。

身体を戦慄かせ、軋む動きで畳に落ちた『ソレ』を見た志狼の口が、金魚よろしくパクパク動く。


 帯に包まれていたのだろうソレは、根本から切り取られた女の指だった。


 「う、わ……うわぁぁぁぁッッ! 海華ぁぁぁッ!」


 身も世もなく泣き叫び、震える手で必死に指を花卉集める志狼の姿を目にした刹那、部屋の前に立ち竦んでいた二人は弾かれるように室内へ、そして志狼へと駆け寄った。


 「志狼さんッ! 志狼さ……しっかりしろっ!」


 「離せ……! 離してくれッッ! 海華……どこ行ったんだ!? なぁ朱王さ……海華どこ行ったんだよ――っ!」


 全身を冷たくドス黒い血潮で染めながら、悲痛な絶叫を張り上げ志狼は朱王の胸ぐらへ掴み掛かる。

吐き気がする空気の中で激しく揉み合う二人を前に、桐野は『人を呼ぶ』そう一言叫んで部屋を飛び出した。


 背後から追い掛けてくる志狼の悲鳴じみた叫びに胸を抉られる思いに駆られつつ、下駄を突っ掛け表へと走り出る。

土煙を上げて正門を抜けた彼の目の前に、いつぞやの屑屋の姿があった。


 「おや、旦那。こりゃまた随分とお急ぎで」


 土壁に背を凭れさせていた男は、被っていた手拭いをちょいと引き上げ桐野へ顔を向ける。

薄汚れ、あちこちほつれた手拭い、その下からから現れた顔は……。


 「旦那、お久し振りです」


  志狼と同じ顔を持つ男の口からそんな台詞がこぼれたと同時、桐野の肩口を灼熱の衝撃と激痛が突き抜ける。

悲鳴すら上げられない、グゥッと息を詰めたまま、その場に崩れ落ちるように膝をつく桐野の視界に、鮮血の花が散った。


 「ダメだねぇ旦那様、隙が多すぎだぜ?」


 ニタニタと重たい笑みを見せながらこちらに近寄ってくる男は、道にうずくまり激痛に呻く桐野を見下ろす。


 「おの、れ……ッ! 貴様、七之、助……!」


 「嬉しいねぇ、覚えていてくださったかい」


 口許には笑みを、そして両眼からは凍り付くように冷たい視線を桐野へ注ぎ、道に流れる鮮血に足先を汚す男、七之助が言った。


 「貴様、海華……海華、を、どうし……」


 「あぁ、『義姉さん』か? 遠路遥々(はるばる)義弟が訪ねて来たってのによぉ、顔合わせた途端にどこかへ隠れっちまったぜ。そうだ、これ、兄貴に返しておいてくれ」


 そう言いながら懐をまさぐり、平べったいモノを桐野の目の前にポンと放り投げる。

それは、黄ばんだ生皮と黒々とした髪の毛がこびりついた『人間の耳』だった。


 「義姉さんの落とし物だ。―― 兄貴も泣いて喜ぶだろうぜ。仲良き事は美しきかな、だからなぁ」


 ハハハッ、と耳障りな嘲笑を残して、七之助は踵を返す。

全身を駆け抜ける痛みに歯を食い縛り、何とか立ち上がろうともがく桐野だが、哀れ、彼の身体は自らが作り上げた血溜まりの中へ勢いをつけて倒れ込んだ。


 次第に小さくなる七之助の背中と霞む視界。

どこか遠くで、誰かが自分の名前を大声で叫んでいる。

返事をしなければ、七之助を追わなければ……。

そんな思いも空しく、彼の意識は漆黒の闇へと飲み込まれていった……。







 『なんとむごい……』そう一言呟いたきり、都筑は青い顔をして唇を噛み締める。

乾きかけた血潮で染められた離れには、北町奉行所の同心である都筑と高橋、そして目明かしである忠五郎と下っ引きの留吉が駆け付けていた。


 「七之助の奴め、まさかここまで非道な真似をするとは……」


 「しかも桐野様のお命まで狙うなんざぁ絶対ぇに許さねぇ……!」


 表情を引き攣らせる高橋と忠五郎の台詞に、今にも泣き出しそうな顔で血溜まり、そしてその傍らに落ちている人の小指を凝視する留吉が、ガクガクと首を縦に振る。


 海華が連れ去られ、桐野が斬り付けられた。

着流しを血潮で汚した朱王が半狂乱で番屋に飛び込んだのは、今から数刻前の事。

肩を前面から袈裟懸けに斬られ、門の外で倒れている桐野を発見したのもまた、彼だった。


 何か大きな音がした、その事が気になり慌てて表へと出た朱王が見たもの、それは鮮血の中に倒れ、意識を失っている桐野であった。


 海華の帯、そして切り取られた指を握り締め泣き叫ぶ志狼もそのままに、これ以上出ないくらいの大声で助けを乞うた朱王は、桐野が医者の元へ運ばれるのを確認し、番屋へと走ったのだ。


 彼の報せを受けて屋敷へと駆け付けた都筑達が目の当たりにしたのは、この地獄のような光景と、部屋の真ん中に呆けたように座り込み帯を握ってブツブツ独り言を呟く志狼の姿だった。



 「志狼は今、どこにいる?」


 室内をグルリと見渡し都筑が訊ねる。


 「向こうで休ませております。まだ……話が聞ける状態ではありません。ですが、桐野様が運ばれる直前に『七之助』と一言呻くように。きっと奴で間違いないかと」


手に付いた桐野の血潮もそのままに、朱王は疲れきった様子で視線を母屋へと投げた後、都筑へと顔を向ける。


 医者の元へ運ばれる際、桐野は苦しい息の下でで七之助の名前を口にしていたのだ。


 「そうか……。ならば、早速奴の手配を。それから朱王、お前にはすまぬが今夜は志狼と一緒にいてくれぬか? 」


 都筑の台詞に黙ったまま頷く朱王。

あんな状態の志狼を一人置いて帰れるはずもなく、言われなくても今日はそうするつもりだった。


 「朱王さん、大ぇ丈夫かい? 何だったら、俺も一緒に……」


 「ありがとう親分。でも……大丈夫です」


 疲れた笑みを見せながら丁重に断った朱王は、そこにいる者達の目を避けるようにフラフラと部屋から出ていく。

が、誰も彼を止めなかった。


 「朱王さん……辛ぇだろうなぁ」


 グス、と鼻を啜りながら口にする留吉に、高橋は小さく頷く。

彼だって、泣き叫び取り乱してもおかしくない状態なのだ。

それをひたすら我慢しているのがここにいる四人には痛いほどわかる。


 『海華は無事なのか』『海華を助けてくれ』そう朱王は一言も訴えなかった。

彼はわかっているのだ、部屋にある夥しい血痕の量からして、もはや彼女が絶命している可能性が高い、という事を。


 それから四人は部屋の隅々を目を皿のようにして探し回ったが、見付かったものは血溜まりの中に浮かんでいた獣らしき毛が数本のみ。

これ以上ここにいても何も手懸かりは出てこないだろう。

そう判断した四人は朱王と志狼の事を案じつつ屋敷を後にして行った。






 春霞に包まれた満月が眠たげな光を放って世界を包み込む。


 離れの縁側に腰掛け、柱に身を凭れさせる朱王の隣では、表情を失ってしまった志狼が破れ、血に染まった海華の帯を何度も何度も撫でていた。

汚れた着物もそのまま、いくら促せどここから離れようとしない彼に根負けし、共に縁側に佇むようになってから、どのくらいの時が過ぎただろうか。


 「―― 海華、遅せぇなぁ……」


 闇に沈む中庭に虚ろな眼差しを向けて志狼が呟く。

弱々しく響く彼の台詞に、朱王は信じられないものを見るような目で彼を凝視した。


 「もうすぐ旦那様もお戻りになるのに……どこ行っちまったんだ」


 手にしていた帯を力なく取り落とし、志狼は何かに操られるようにフラフラと立ち上がる。


 「俺、探しに行ってくる……」


 よたつきながらその場を離れようとする志狼。

慌てて立ち上がった朱王は、瞬時に彼の右手を強く掴んで引き留めた。


 「志狼さん、止めろ……」


 「何でだ? あいつ、どこかで道に迷ったのかもしんねぇ。俺が行ってやんなきゃ……」


 「もういい! 止めろッ! 」


 遂に耐え切れなくなった朱王の口から悲鳴に近い叫びが迸る。


 「海華は、帰ってこない……。もう帰って来ないんだッッ!」


 切り取られた指に剥ぎ取られた耳、そして何より全身の血を全てぶちまけたかと思われるほどの大量の血痕……。

これだけの物を突き付けられて、無事生きていると思う方がどうかしている。


 嵐の如く胸の中を吹き荒れる悲しみと怒りが渦を巻き、朱王を責め苛む。

『あいつは死んだんだ』と、掠れた台詞が朱王の口からこぼれた刹那、志狼は渾身の力を込めて朱王の横っ面を張り飛ばした。


 バンッ! と何かが激しく破裂したような音が闇に響き、朱王の長身が大きく傾ぐ。

眉を逆立て、身体全体を使って息をつく志狼の虚ろだった目には、今、激しい怒りの焔が燃え盛っていた。


 「ふざけんなよ……ふざけんなッッ! 海華が死ぬもんか……絶対ぇどこかで生きてんだ。あいつは、あいつは絶対ぇに生きてるんだッッ!」


 血を吐くような志狼の絶叫。

しかし朱王も負けてはいなかった。


 「俺だってそう思いたい、だがな! ……お前だってあの部屋を見ただろう? あの指も、あの耳だって! それでもお前は…… 」


 「生きてる! 生きてるんだっ! あいつが、俺のこと置いて死ぬもんかッッ!」


 道理もへったくれもありはしない。

ただ、駄々っ子よろしく地団駄を踏み鳴らし、ギラギラ光る目から涙の粒を飛ばして怒鳴り散らす志狼を睨み付ける朱王の目尻からも、音もなく透明な雫が次々と流れ落ちる。


 生きている可能性は露ほどもない、しかしどんな形であれ生きていて欲しい……。

だが、そんな二人の願いは空しく天に消える。

翌日の朝早、大川の橋の下で手の指を全て切り落とされ、両耳を削がれ、両目も無惨にくり抜かれた状態となった女の死骸が見付かったと、留吉が報せに来たのだ。


 朝早くに裏口から駆け込んできた留吉の顔は、全力で駆けてきたにも関わらず紙のように真っ白だ。

昨夜、桐野邸に泊まり込んでいた朱王と志狼は一睡もできていない、窶れ疲れきった顔で彼を出迎えたが、その様子を一目見るなり、そして彼の話を耳にするなり表情を固まらせる。


 「骸って……本当に海華なのか!? 間違いないんですか!?」


 ボサボサに乱れた黒髪、口許は志狼に張られたせいだろう、小さく切れ、微かににじんだ血を黒い瘡蓋としてこびりつかせた朱王ご目をひん剥いて叫ぶ。

胸ぐらを鷲掴まれ、前後に激しく揺さぶられる留吉はその剣幕にヒィ、と掠れた悲鳴をあげて己を掴む朱王の手首を握り締めた。


 「まっ、まだはっきりとはわかんねぇ! でも……でも、髪はおかっぱだし、小柄で海華ちゃんにそっくりなんだ! だから、高橋様が念のために二人を呼べ……うわぁっ!?」


 朱王の隣にいた志狼は、彼や留吉に身体を思い切りぶつけ、素足のままで脱兎の如く表へと飛び出していく。

背後から響く朱王の叫びにも振り向く事なく、彼は一目散に留吉が口にしていた大川に掛かる橋へと走った。


 その橋は人通りの割合多い、街の中心部に掛かる橋である。

足の裏から血がにじむのもお構い無し、走りに走って辿り着いた橋の下には、既にたくさんの黒羽織を纏う同心らがおり、橋の上には黒山の人だかりが出来上がっていた。


 こんな人目の多い場所にうち棄てるなど、晒し者にするのと同じだ。

転がるように川原へ向かい、驚きの表情を向ける侍らを押し退ける志狼の目に、川っぷちに広げられたボロボロのむしろが飛び込んでくる。


 「あ、志狼!」


 筵の脇に立つ侍、高橋が息を切らせて立ち尽くす志狼を見るなり声を上げる。

しかし、それに答える事なく、彼の目は筵の端からニュウ、と伸びた真っ白な足に釘付けとなっていた。


 「海華……海華――ッッ!」


 「あっ!? コラ志狼っ!」


 張り裂けんばかりに目を見開き、猫の素早さで筵に飛び付いた志狼は、高橋の隣にいた都筑の静止も聞かず、勢いを付けて筵を撥ね飛ばす。

その途端、橋の上から下を覗いていた野次馬達から甲高い悲鳴が次々と上がった。


 筵の下に横たわっていたのは、見るも無惨な女の全裸死体だ。

切り揃えられた黒髪は乾いた血潮と埃にまみれ、抉り取られた目玉があっただろう眼窩はポッカリと赤黒い孔を曝し、両耳は頬の皮膚ごと大きく切り取られている。


 そして、力なく投げ出された両手の指は、その全てが根元から断ち切られていた。


 筵を握り締めたまま、呆然とその骸を見下ろしていた志狼。

最愛なる妻のこんな無惨な姿を見せたくなかった。

そう心の中で呟きながら顔を背ける高橋と、拳を握り締め小さく鼻を啜る都筑。


 頭上から聞こえるざわめきに反比例し、川原は重たい沈黙が支配する。


 「ちが、う……」


 志狼の色を失った唇からこぼれた台詞。

それは誰の耳にも入ることなく、川原を吹き抜ける風に紛れて消えた。


 「違う……! こいつは海華じゃない、っ!」


 甲高い叫びと共に血の気が失せ、血とゴミにまみれた骸を軽々と抱き上げた志狼は、そのまま骸をうつ伏せに返し、右の腰から尻辺りのゴミや汚れを手で拭い去る。

突然の彼の行動に一番驚いたのは、側にいた同心達、そして都筑と高橋だった。


 「おい、コラ志狼ッ! 」


 「何をしているのだ志狼! 止めろ、止めぬか!」


 骸に屈み込み一心不乱に尻を擦る彼を慌てて引き剥がそうとした都筑と高橋。

しかし志狼はそんな二人の手を跳ね除け、隈の浮かんだ顔を振り上げて真剣な眼差しを彼らへと向ける。


 「都筑様、高橋様、この女は海華じゃない。顔形も体つきも海華にそっくりだ。でも……黒子がねぇ。だから海華じゃありません!」


 腹の底から張り上げた志狼の主張に、二人はもとより周囲を囲む侍らは怪訝な顔で彼を見下ろす。

そんな視線に物怖じする事なく、志狼は骸の腰、そして右の尻を指差した。


 「あいつは、海華は腰に豆粒くらいの黒子があるんです。右の尻には昔ついた小さな古傷も……。でも、この女にはそれがない。間違いねぇ、こいつは海華じゃありません!」


 必死に訴える彼に、都筑はどこか困ったような顔でこめかみ辺りを指先で掻く。

自分の話が本気にされていない、そう思ったのだろう志狼は、苛立たしげに顔を歪めてその場から立ち上がり、高橋へと詰め寄った。


 「高橋様、俺は……自分の女房の身体ぁ見間違えるほど間抜けな男じゃありません。この骸は絶対に海華じゃねぇ。お願いします、もう一度お調べください! お願いします、お願いしますっ!」


 『あいつは必ず生きているんだ!』自分を凝視し、そう絞り出すように叫んだ志狼の肩を、高橋は無意識のうちにガシリと掴み、無言のままに大きく頷いていた。


 「そうか、骸は海華ではなかったか」


 緩慢な動作で布団から身を起こした桐野は、朱王が背中から掛けてくれた羽織を前へと引き寄せホッと安堵の溜め息をついた。

ここは小石川療養所。

肩を袈裟懸けに斬られた桐野は、最初は屋敷近くの医者の元へと運ばれ、血止めの手当てを受けてから、改めてここへと運ばれ手当てを受けたのだ。


 幸いにも命に別状はなかったが、思ったより傷が深く、しばらく絶対安静に、と清蘭よりきつく言い渡されている。

川原で女の骸が見付かった翌日、朱王は修一郎に連れられて桐野の見舞い、そして今までの経過報告へ訪れていた。


 療養所の一室、六条一間の部屋にしかれた布団に横たわっていた桐野は、いつも精悍な顔に隈を作り、あれだけの怪我と出血があったからだろうが、一回り老けてしまったかのように感じられた。


 「志狼は? 今どうしておる?」


 「海華を探すと申しまして、一日中街に。毎日帰ってくるのは夜も更けた頃だと」


 ろくに食事も摂らず、足を傷だらけにして海華を探し回る志狼。

日に日に痩せ細り、目のギラつきだけが強くなっていく彼を見るたび、朱王は胸が締め付けられる思いとなる。


 あの指と耳は、骸となった女の物だと判明した。

海華に似せ、わざと髪を短く切り取られた身元不明の躯。

海華が生きている可能性が出てきた訳だが、それでも離れにあった血の量を考えると、手放しで喜ぶ事もできなかった。


 「しかしお前が斬り付けられるとは、俺も心臓が止まるかと思ったぞ」


 包帯姿も痛々しい親友に、修一郎はくしゃりと顔を歪めてぎこちなく笑う。

『不覚だった』 そう一言呟いて頭を掻いた桐野は真っ白な包帯で包まれた右肩へそっと手を置いた。


 「まさか、あの屑屋が七之助だったとは。あ奴、以前から屋敷を偵察いていたに違いない。もう少し早く、その事に気が付いていれば、海華も……」


 「なに、お前のせいではないわ。それより怪我を治すのが先だ。この件は、俺達に任せておけ」


 弱々しい面持ちで項垂れる桐野にそう声を掛けた修一郎は、何かを言いたげにチラと視線を朱王へ投げる。

それに気付いた朱王は桐野に一礼し、修一郎より先に部屋から出た。


 「朱王よ、志狼の事なのだが、お前、しばらく桐野の屋敷に……」


 「あ……いえ、私は一昨日からずっとお屋敷に。志狼さんもあんな状態です、独りではとても置いておけませんので」


 「おぉ、そうかそうか。それならばよい。それならば……。いつ、海華が帰ってきてもいいようにしていてくれ」


 大きな体躯を小さく小さく縮めて、力なく修一郎が呟く。

彼も、自分よりもっとずっと、海華の身を案じている。

今の台詞が全てを物語っているのだ、そう朱王は心中で思った。


 「修一郎様、海華の行方はまだ? 今のところ何一つ手懸かりがないのでしょうか?」


 「うむ、都筑らも草の根を分けて探しているようだが、未だに何も。だが、俺はあ奴……七之助が、これから何らかの動きを見せると思うておる。あ奴の目的は、志狼を苦しめる事だ。きっと、血眼で海華を探している志狼を眺めてほくそ笑んでいるに違いない」


  苦虫を噛み潰す表情て腕組みする修一郎。

彼の言うことは間違っていないだろう。


 「わざわざ海華に似せた女の骸を棄てたりしたのも、志狼が泣き叫ぶところを見ていたのでしょうか? もし、海華がまだ生きているならば……」


 「何を言うか、海華はまだ生きている。必ず、絶対に生きている!」


 太い眉毛をつり上げ一瞬怒りの面持ちとなった修一郎に慌てて一礼し、朱王は小さな咳払いをする。

そうだ、家族である自分が海華の生存を否定してはならない。

必ず生きている、それならば一刻も早く七之助のもとから助け出さなければ。


 「きっと近いうちに七之助は何らかの動きを見せるだろう。それからが勝負だ」


 そう呟き顎の下を指先で擦る修一郎。

斜めに降り注ぐ日の光で半身を影で染める彼を前に、朱王は両手を力一杯握り締めた。

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