第二話
「一昨日、私が吉原に? いえ、私はそんなところへは行っておりません」
「そうですよ! 一昨日の夜は志狼さん、寝るまで私とずっと一緒にいました! それに、志狼さんが女の人殴り飛ばして大暴れするなんて、考えられません!」
桐野から聞かされた話に戸惑った笑いを見せる志狼の横では、海華が眉を逆立てて膨れっ面となる。
「旦那様、幸吉さん達の見間違いです。本当に志狼さんは私と一緒に……ほら、大宮の奥様頂いた桜餅、一緒に食べた日の事じゃない?」
「あぁ、そうだった。お前が、昼間に八百屋へ買い物に行って……いや、そんな事はどうでもいい、旦那様、もしその吉原で暴れたのが私だと疑われているのなら、明日、その女郎屋に行ってきます」
疑いは自ら晴らさねばならない。
膝の上に置いた右手を強く握り、そうきっぱりと言い切る志狼を見て、桐野は内心ほっとした。
真っ直ぐこちらへ向けられる視線、その態度から彼が嘘をついているなどと思えない。
「うむ、わかった。念のためだ、儂も一緒に行こう。なに、お前が申した通り幸吉や周りの見間違いだ。海華、お前も心配するな」
『妙なことを聞いてすまなかった』そう告げて頭を下げる桐野に慌てて首を振り、軽く唇を綻ばせる志狼と海華。
桐野の部屋から下がった二人は、そのまま自室である離れへと向かう。
「本当に失礼な話よね、志狼さんが疑われるなんて」
部屋へ入るなり布団を敷き始める海華は、苦笑混じりに言う。
うん、とどこか冴えない顔で文机の前に腰を下ろす志狼は、己の顎先を軽く擦りつつ上目使いで海華を見遣る。
「なぁ海華、ちょっといいか?」
「えぇ、なぁに?」
枕の用意をしていた海華が、キョトンとした面持ちで彼へと振り返る。
コホ、と一度咳払いをした志狼は無言のままで彼女を手招き自らの前へと座らせた。
「あのな、これだけは信じてほしいんだが、俺、『あの後』から女郎屋にも遊廓にも出入りなんかしてねぇぜ?」
深刻そうな顔でそう言った志狼に、思わず海華は吹き出してしまう。
「バカねぇ、そんなことわかってるわよ。志狼さん、夜に出掛ける事なんて、あまりないじゃない。あるとすれば……たまに飲みに行くだけだもの」
「いや、そうだけどよ。飲みに行くと嘘ついて……」
「前にあんな事があったのよ? 同じ事を繰り返すほど、あたしの旦那様は馬鹿じゃないわ。それとも……あたしって、体よく騙されてる間抜けな女房なのかしら?」
含み笑いを漏らしながら小首を傾げる海華。
そんな彼女の台詞を全否定するように首を左右に振りしだいた志狼は、思わず右手を伸ばして海華の手を強く握った。
「そんな事ねぇ。お前は俺にゃ勿体ねぇくらいの女房だ」
「あら、ありがとう。でも、志狼さんに間違われる人ってどんな人なのかしらね、一度見てみたいもんだわ」
彼の手を軽く握り返してそう言った海華に、志狼も小さく頷く。
しかし翌日、二人はこんな呑気な会話を交わしていた事を酷く後悔する事となったのだ。
シトシトと小雨の降る、少し肌寒い朝。
鼻先まで引き上げた布団の中で心地よい微睡みの世界に浸っていた朱王は、遠くから響く慌ただしい足音に微かに眉根を寄せた。
春眠暁を覚えず、ただでさえ眠気が増す季節だ。
朝くらい静かにしろ、もう少しゆっくり寝かせてくれ。
そう胸中で毒づきつつ、朱王が布団を頭から被った瞬間、突然戸口がドンッ!! と弾き飛ばされんばかりに叩き開けられる。
驚く間もなかった。
反射的に布団から飛び起きた朱王の視界には全身を雨で濡らし、髪を振り乱して部屋へ駆け込んでくる海華の姿があった。
「みは……海華ッッ!?」
「兄様……! 志狼さんが……」
「志狼!? それより、お前はどうしたんだ!?」
紙のように真っ白な顔をして布団の横へ崩れるようにへたり込む海華は、鼻先から涙だか雨だかわからない水滴を滴らせ、くしゃくしゃに顔を歪めてしゃくり上げ始める。
そんな彼女の二の腕辺りを強く掴み、朱王は彼女の身体を強く前後に揺さぶった。
「志狼が? 志狼がどうした!? おい、しっかりしろっ!」
思わず大声を上げる朱王にビクリと肩を竦めた海華は、ぐぅ、と一度声を詰まらせ朱王を穴が開くほどに凝視する。
「志狼さんが、番屋に……夕べ、新川で夜鷹を殺したって……っ!」
喉から絞り出すように掠れた叫びを上げた海華は、耐えきれなくなったように朱王の胸へと飛び込み、隣近所に聞こえるのも構わず声を張り上げ泣きじゃくり始めた。
『志狼が人を殺した』寝起きにそう聞かされて、さすがの朱王も吃驚仰天だ。
自分にしがみついてワンワン泣き喚く彼女をなだめ、そして叱咤して朱王は寝巻きを脱ぎ捨て乱雑に着流しを纏ったまま、志狼が連れて行かれたという柳町の番屋まで走る。
雨風に曝され白っ茶けた戸口を息を切らせて跳ね開けたと同時、朱王と海華の鼓膜をつんざいたのは、今まで聞いた事もないような桐野の激しい怒声だった。
「お前達、本気で志狼が夜鷹を殺めたと思っておるのかッッ!」
「いえ、けしてそうでは……ただ、殺しの現場を見た者が志狼に間違いないと……」
阿修羅の如く怒り狂う桐野の前では、普段より一回り小さく見える都筑と高橋がしどろもどろに言い訳を繰り返している。
「桐野様!」
「ん!? おぉ、朱王! 」
突然現れた朱王に逆立っていた眉毛をヒクリと跳ねさせ、桐野がこちらを振り向く。
朱王の隣に立つ涙で汚れた顔の海華を見た刹那、彼はどうして朱王がここにいるのかを理解したようだ。
「海華から聞きました。志狼さんは……」
「たった今、大番屋へ向かった。都筑も共に行かせたが……間の悪い」
町奉行は月番制だ、これが北町奉行当番月であったならば修一郎の情けが期待できただろうし、志狼の身柄も桐野預かりに出来たかもしれない。
「志狼さん、今日は戻ってこられないんでしょうか?」
グスグス鼻を啜りながら充血した目で桐野を見る海華に、桐野は酷く難しい面持ちで頷く。
「どうなるのか、儂にもわからぬ。昨夜の夜志狼が確かに屋敷にいたと家族以外に証言できる者がいればよかったのだが……」
そう悔しそうに呟く桐野を前に、朱王はスッと高橋へ近寄り桐野邸で何があったのかを詳しく聞き出し始める。
困り果てた、そんな面持ちで高橋が話だ出し内容は朱王も驚くようなものだった。
今朝方早く、朝餉が終わってすぐの事だった。
南町奉行所の町廻り同心や彼らの配下にある目明かしら数人が屋敷を訪れ、応対に出た志狼に大至急番屋へ同行するように、と告げた。
突然の事に驚き、桐野を呼んだ志狼。
こんな朝早くにどんな了見だ、そう問うた桐野に渋い面持ちをした同心は、志狼が昨夜、新川で人を殺した疑いがあると言ったのだ。
まさに青天の霹靂、同心が言っている事を一瞬で理解できない志狼はポカンと口を半開きにして桐野を見詰めるだけ。
かたや桐野は昨夜志狼は間違いなく屋敷にいた、奥の離れで女房と居た、と必死で反論してくれたのだが、女房の言う事は信用出来ない。
亭主を庇って嘘をついているやもしれぬ、などと言い全く取り合ってくれない。
挙句の果てには、おとなしくついて来ないなら海華も一緒に引き立てていくぞ、と半ば脅しのような台詞まで吐く始末だ。
しかしその脅しは、結果的に志狼を動かした。
何が起きたのかわからず、ただ廊下にある柱の影でオロオロと玄関先でのやりとりを見守っていた海華に、『なにも心配要らねぇ』とだけ言い残し、志狼は引き立てられて行った、という訳だ。
「それじゃぁ、海華は……」
「桐野様から事の次第を聞いた途端、顔色を変えて飛び出して行ったそうだ。亭主がいきなり人殺しでお縄になったのだからな、そうなるのも無理はなかろう」
はぁ、と溜め息をついて細い肩を落とした高橋。
ふと自分の隣を見れば、番屋の座敷に上がりシクシクべそをかく海華を忠五郎が必死になだめている最中だった。
「海華、おい海華、もう泣くのは止せ」
ささくれた畳に腰を下ろし、寝癖がついたままの髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜつつ朱王は海華の顔を覗き込む。
小さくしゃくり上げ始め、ようやく顔を上げて朱王を見た海華へ彼は『お前に聞きたい事がある』と、噛んで含めるような調子で訊ねた。
「聞きたい、事?」
「そうだ、夕べ、お前は確かに志狼と一緒にいたんだな? 間違いないな?」
「間違いないわ! 五ツ時(20時頃)にお部屋に下がって、四ツ時(22時頃)には休んだのよ。昨日は志狼さん、昼も夜も出掛けてなんかない。あたしが寝てる間に、こっそり出ていったなんて考えられないわ!」
隣同士に布団を並べているのだ、夜中に起き出して部屋を長く留守にしていれば海華とて気が付くはず。
『まるで狐に化かされたみてぇな話だな』
海華の横で人数分の湯飲みに茶を注いでいた忠五郎が、大きな欠伸を一つ放ちながら掠れた声で呟いた。
「こんな妙な話しゃ聞いたこたぁねぇ。殺しを見てた、ってえ二八蕎麦屋の親父も、近くで客待ちしてた夜鷹も、やったのは志狼さんに間違いねぇ、あの顔だってんだからよ」
それぞれに湯飲みを押しやり眉間にシワを止せて唸った忠五郎に、高橋も同意するとばかりに首を縦に振る。
「確かに。しかし志狼が夜鷹を殺す理由はなかろう。しかも、あんな惨い殺し方で」
「惨いって……どんな殺され方を?」
「うむ、海華殿の前で言いにくいのだが……刃物で顔全体が滅多切りにされていた。止めとばかりに両目も潰してある。一見しても誰だかわからぬ有り様だったようだ」
座敷に腰掛け、近場にある湯飲みを手に取る高橋。
小さな女用の湯飲みを両手に包んでいた海華の口から『志狼さんじゃない……』と、消え入りそうな声がこぼれた。
「志狼さんじゃない……志狼さん、志狼さん、そんな酷い事はしないわ……」
女の顔を切り裂いて、目玉を抉る。
そんな鬼畜の所業、志狼の仕業であるはずがない。
大番屋に連れ去られた彼は今頃どうしているだろうか?
そう考えると、目蓋の奥から次々と涙が溢れてくるのだ。
『志狼さん』そう涙混じりで彼女が呟いた、その時だった。
やおら表が騒がしくなり、『都筑様ぁぁぁ!』と引っくり返った悲鳴と共に戸口がぶち開けられる。
「都筑様、お待ちくだせぇ! いくらなんでもアレは……」
「やかましいッ! 貴様、あれだけ侮辱されて、よく黙っていられるな!? えぇ、そこを退けッ!」
真っ直ぐに射し込む白い光の中に浮かび上がる大柄な体躯。
こめかみに青筋を浮かべ、眦をつり上げた都筑が足音も荒く姿を現す。
その背後では、顔中を脂汗で汚した留吉が足元をふらつかせながら彼の後を追い掛けてきた。
「都筑様!」
「都筑、お前どうしたのだ!?」
夜叉の如き形相の彼に、思わず朱王と高橋はほぼ同時に驚きの声を上げる。
黒羽織を乱暴にはためかせながらも、桐野に向かって一礼した彼は鼻息も荒く分厚い唇を開いた。
「どうしたもこうしたも、桐野様お聞きください。南町奉行所の奴ら……、はなから志狼を下手人だと決め付けて掛かるのです! しかも、先日志狼に殴られたとか言う女郎まで引っ張り出してきて……」
「あの女郎をか? それで? その女は何と申した?」
「殴ったのはこの男で間違いないとほざくのです! 挙げ句にギャァギャァ喚いて大番屋の中で志狼と掴み合いになりかかって……しかもですよ! このまま志狼を帰せば、また夜中に出歩いて人を殺めるやもしれぬゆえ、このまま留置所に留め置くとまで申すのです! 」
その一言で遂に堪忍袋の緒が切れた都筑。
化粧の剥げたシミだらけの顔を醜く歪めて志狼に掴み掛かる女と、同心の胸ぐらを引っ付かんで怒号を張り上げる都筑。
それを目撃していた留吉から言わせれば、もう大番屋は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなったのである。
「どうしてこうなるの!? 前だって昨日だって志狼さんはあたしと一緒にいたのに……どうしてみんな嘘をつくの!?」
海華の口から飛び出す悲痛な叫び。
両手で顔を覆い項垂れる彼女の問いに答えられる者は誰一人としていない。
殴られたという女郎や周囲にいた通行人、殺人の目撃者である二八蕎麦屋の親父、彼らはみな結託し志狼を陥れようとしているのか。
しかしあの夜、幸吉は全くの偶然であの場に居合わせたのだし、それだけ大勢の人間が示し合わせて志狼を罪人に仕立てなければならない必要がどこにあるのか?
「志狼が無実である以上、真の下手人がいるはずだ。しかも志狼にそっくりな誰か……」
口許に手を当てて顔をしかめ、思案に暮れる桐野が呻くように呟く。
志狼に瓜二つの誰か。
そっくりな他人……。
「他人同然の、肉親……! いる、一人だけ、ッ!」
海華の隣に腰を下ろしていた朱王の口から放たれる叫びに、その場にいる者の視線が彼へ突き刺さる。
この日から、都筑に高橋、そして朱王に海華までもがほぼ一日中江戸市中を駆けずり回る生活へと変わったのだ。
「―― では、まだ七之助は見付からぬのだな?」
修一郎の住まう邸宅、柔らかな行灯の光を受けて、猪口を傾ける彼の顔半分が濃い影で塗り潰される。
無言で頷き猪口の酒を一気に飲み干す桐野の顔には濃い疲労の色が伺え、彼の下座に座る朱王はいつにも増して口数が少ない。
志狼が捕まり三日が過ぎた。
今日、彼は大番屋の牢から南町奉行所内の牢屋へ移され、朱王はもとより桐野でさえも簡単には面会できぬようになってしまったのだ。
「志狼がお縄になってから新たな事件は起きておらん。俺が小耳に挟んだ話しによれば、南町奉行所は完全に志狼が下手人だと考えているようだ」
「そんな筈はない、絶対にないッ! ……だが、そう言うならば真の下手人を連れてこい、と……そういう話か?」
「うむ、その通りだ」
珍しく感情を高ぶらせる桐野と、あくまでも冷静な修一郎。
その間に挟まれて、じっと己の膝先を見詰める朱王の唇は固く結ばれたままだ。
「ところで、海華はどうしている?」
桐野の酌を受けつつ訊ねる修一郎に桐野は眉間のシワを更に深めて軽く首を振る。
「一見気丈に振る舞ってはいるが……部屋に戻れば毎晩のように泣いている」
思えば、二人が所帯を持ってからこんなに長く離れ離れとなった事などない。
これからどうなるのか、志狼はいつ帰ってくるのか……。
先の事が何もわからない今、彼女は押し潰されそうな不安の中にいる。
「今夜も、一緒に来るかと聞きましたが……自分はお屋敷に残るから、と」
苦しげな声色で呟く朱王、彼の膝に置かれた手がきつくきつく握り締められる。
彼も、この数日朝から晩まで江戸市中を足を棒にして探し回っていたのだ。
志狼の異母兄弟である七之助を。
志狼と顔形、姿形が生き写しなのは彼の他にあり得ない。
『そっくりな他人』とは、まさに彼の事だろう。
それに、彼は志狼を心の底から憎んでいるのだ。
人殺しの濡れ衣を着せ、あわよくばその命を奪う事も厭わない。
柳町の番屋で、彼の顔が頭に浮かんでから朱王は必死に、普段は好き好まない人混みの中で彼を探し二度と足を踏み入れたくない吉原にまで足を伸ばす。
志狼の顔をした修羅を探し出すために、心当たりはくまなく訪ね歩いた。
囚われの身となっている志狼を助け出すためには、七之助を一刻も早く南町奉行所へ突き出さなければならない。
彼こそが、志狼が下手人ではないと証明する唯一の証拠となるのだ。
志狼、そして海華の為にも早く七之助を見付け出さなくては。
焦る気持ちを心の奥に押さえ付け、一息に飲み下した酒は熱く苦く喉を焼く。
これまでにないくらい重苦しい空気の中、酔えもしない酒を煽る三人。
『早く解決してほしい』そんな彼らの願いを八百万の神々が叶えたのか、事態が急変したのはすぐ翌日の事だった……。
修一郎の邸宅から戻った次の日、朝から街へと七之助を探しに出掛けた朱王は昼を過ぎた頃に足を引き摺るようにして長屋へと帰ってきた。
普段から好んで長々と出歩く事はない彼は、半日の外出でも疲労困憊。
だが、これからまたひとっ走りしなければならない。
軽く何か腹に納めてから出掛けよう。
そう思いながら部屋の戸口に手を掛けた、その時だった。
自分の名前を呼ぶ大声が背後で響き、驚いて後ろを振り返れば土煙を上げて長屋門を潜る一人の人影が見える。
「すお……朱王殿! 朱王殿ッ!」
「高橋様!? どうなされました!?」
必死の形相で駆けてくる一人の侍、それは同心の高橋だ。
息を切らせ、足元を縺れさせながら朱王の前まで来た彼は、『志狼が出牢となるぞ!』と掠れた途切れ途切れの声で叫んだ。
「志狼さんが!? もしや、七之助が捕まったのですか!?」
高橋の台詞に一瞬何も考えられなかった朱王は、すぐに身を乗り出して大きく目を見開く。
しかし高橋は荒い息のまま、首を横へと振った。
「いや、いやまだだ。七之助はまだお縄にはなっておらん。だが、やっと姿を現したのだ。しかも南町奉行所の奴らの前に。南町の同心め、まるで幽霊を見たような顔で柳町の番屋へ飛び込んできたらしい」
『いい気味だ』そう掠れた笑みを漏らす高橋の話しによれば、昨夜遅く、両国の裏通りでヤクザ者と通り掛かりの男が殴り合っている、との一報が近くの自身番屋へ入り、目明かしを引き連れた南町奉行所の同心が駆け付けたそうだ。
彼らが現場に到着したときには、四、五人ほどの柄が悪い男らが顔の形が変形するほどに殴られ、徹底的に痛め付けられ、道へ転がっていたという。
そして、男らの呻き声が低く響くその場に一人、飄々(ひょうひょう)とした面持ちで立っていたのは……先日、彼らがお縄にした男、志狼だったのだ。
なぜ牢にいるはずの男が街中でヤクザ者をぶちのめしているのか、口を半開きにし、唖然呆然と立ち尽くす彼らの前で、志狼……いや、志狼と同じ顔をした男はニヤリと嫌な笑みを残して道の奥に広がる漆黒へ消えていった。
「今日の朝方、慌てて牢を見てみたが、間違いなくそこに志狼はいた。それで奴らもやっとわかったようだ。諸々の手続きはあるが、夕刻までには屋敷へ戻れるぞ」
『よかったな』そう言った高橋にポンと強く肩を叩かれ、朱王は我に返る。
目の前にある高橋の微笑み、朱王にはその向こうに海華の顔が重なり見えていた。
無実が証明された志狼はその日、夕刻より少し早く、世界が橙色に包まれる前に大番屋の牢より解放された。
彼の他、数人が放り込まれていた雑居牢、勿論風呂など入れるはずもなく、着替えも満足にできるわけでもない。
数日で垢じみ、強い汗の臭いを発散させる志狼は番屋から一歩外へと出た瞬間、肺の中の空気を入れ換えるように大きく大きく深呼吸をした。
「どうだ、一心地ついたか?」
彼を引き取りに来た桐野がそう訊ねると、志狼は微かに苦笑いして頷いた。
「人の世に戻ってきたような感じです……」
充血した目を軽く擦り、目の前の桐野、そして彼と共に来ていた朱王を素早く見遣った志狼は、なにか物足りない様子で口許を軽い『への字』に変えた。
「海華は……? 一緒ではなかったのですか?」
「あぁ、あいつか。志狼さんが解放される事は勿論報せた。だが、あいつ『会ったらすぐに泣きそうだから』って、お屋敷で待っている。お前だって、道の真ん中で大泣きされちゃたまらんだろう?」
斜めとなった陽射しに美しく照らされる黒髪を揺らし、朱王が微笑む。
彼の台詞に恥ずかしそうな面持ちで『そうだな』と返事をして、志狼は軽く鼻を啜った。
「今頃、屋敷で美味いものをたんとこしらえて、お前を待っている筈だ。さぁ、あまり待たせては海華が可哀想だぞ」
そう言いながら彼の肩を軽く叩き、桐野は歩みを進める。
『面倒掛けさせてすまなかった』
そう神妙な面持ちで頭を下げる志狼に『気にするな』と答え、歩みを進める朱王の肩に、煌めく陽射しが影を落とした……。
人の姿も見えない桐野邸、その離れからパタパタと忙しない小さな足音が絶えず聞こえてくる。
中庭に面した障子は全て開け放たれ、その中で青畳を隅々まで掃き清める海華の唇から、この半時ばかり笑みが絶えなかった。
『志狼が帰ってくるの』屋敷に駆け込んできた高橋からそう聞かされたのは昼を過ぎた頃、突然の報せに戸惑い、そしてやっと志狼に会える、その事に思わず涙ぐみ狂喜乱舞した海華は高橋が帰るなり、すぐに台所へと飛び込んでいく。
そこから海華はありったけの食材を使い、志狼の好物を作り始めたのだ。
牢に入れられている間、ロクな物を食べていないだろう彼のために鳥に油揚げ、そして牛蒡を入れた煮物に、いんげんの胡麻和え、新鮮な刃物の出汁浸し等々、作れるだけの料理をこしらえた後は部屋の掃除に新しい下着や着物の用意に、と屋敷中を飛び回る。
布団は毎日のように日に当てていた。
夜もグッスリ眠ってもらえるだろう。
他に準備しなければならない物は……。
「あ、ッと……、忘れてた」
一言呟いた海華は、掛けていた襷を外し箒を壁に立て掛けて部屋の隅にある長持へ目をやる。
そして彼女は長持の中から志狼の寝巻きを取り出し、正座した膝の上へ広げた。
裾が解れていたのをすっかり忘れていた。
裁縫が大の苦手な彼女だが、今回ばかりは志狼の手を煩わせたくない、裾直しくらいやってあげたい、そう思ったのだろう。
まずは解けてしまった糸を取ってしまおうと古びた針箱から小さな糸切り鋏を手に取った海華が、薄い藍色の格子模様が入った寝巻きの裾を摘まんだ、その時だった。
『海華』と背後から自分の名前を呼ぶ男の声が響き、海華は弾かれるように背後を振り向く。
開け放たれたままの障子、四角く切り取られた中庭と縁側、そこに、待ち焦がれていた男の姿があったのだ。
「し、ろ……さん?」
「そうだ、どうした? 鳩が豆鉄砲食らったみてぇな顔してるぜ?」
ニヤリと唇をつり上げ、軽々と縁側に飛び上がり部屋へと入ってきた志狼を、海華はポカンとした面持ちで見上げる。
室内に吹き込む風と共に強い汗の臭いが鼻をついた。
「やっと無罪放免だ。心配掛けてすまなかった」
そう言いながら右手を差し伸べてくる志狼は、自分の手を恐る恐る握り、ふらつきながら立ち上がった海華をそのまま強く胸に抱く。
「お帰り、なさい……! 志狼、さん! よかった、本当によかった……! でも旦那様は? 志狼さんを迎えに行ったはずだけど……」
「あぁ、旦那様か。修一郎様のところへ挨拶に寄るから、お前は先に戻ってろって言われたんだ。俺も、早くお前に会いたくてよ」
腰に廻していた手を肩へ移し、彼女の耳許でそっと囁く志狼に、くすぐったそうな笑みを見せる海華は『よかったわ』ともう一度呟いて彼の汚れた三角巾で吊るされた左腕に片手を添える。
彼女の頭をそっと撫でる志狼の手、その手首の辺りから鋭く光を反射する『何か』が音もなく顔を覗かせる。
次の瞬間、斜めに差し込む黄昏時の光に包まれる志狼の喉元に、鋭利な刃先の糸切り鋏が突き付けられたのだ。




