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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十九章 奇跡と災厄は突然に
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第一話

 土手に咲き乱れる菜の花が目も覚める山吹色の海となる。


 澄み渡る蒼い空に純白の綿雲、髪と遊ぶ柔らかな風は眠気を誘う暖かさと太陽の匂いを帯びて市中を巡る。

うららか』そんな言葉がピッタリの今日、久し振りに、本当に久し振りの休日となった桐野の姿が八丁堀にある彼の屋敷、その縁側にあった。


 屋敷にいる使用人は志狼と海華の二人だけ。

誰に急かされもしない、何もやる必要のない一日は桐野にとって物足りない感じもするが、それでも日々溜まった疲れを癒す時間は必要だ。


 朝餉の後、海華は朱王の所へ向かい、志狼は台所の片付けを始める。

一人残された桐野は一人、縁側に座って読みかけていた書物へ目を通していた。


 自室で読めば良いものの、天空から与えられる穏やかな陽光と暖かさを利用しない手はない。

緑が芽吹き、花の蕾も膨らみ始めた中庭を前に頁を捲る桐野の肩辺りを、気が早い白蝶がヒラヒラ掠めて飛んでいく。


 厳しい冬が過ぎ去って、やっと訪れた目覚めの春、麗らかな春、全ての物へ平等に降り注ぐ日差しは日頃の疲れを取り去るように身体へ染み渡るようだ。

そんな自然の恵みを全身に受ける桐野の目蓋が、無意識に痙攣し、やがては徐々に下がってくる。

彼の手から読本が落ちるのに、そう時間は掛からなかった。








 「ただいま帰りました!」


そんな一言と共に勝手口から海華が姿を現す。

台所の床拭きに精を出していた志狼は、手にしていた雑巾を桶に放り込んで屈めていた身を起こした。


 「お疲れさん。朱王さんはどうだった?」


 「それがね、聞いてよ。兄様ったら机に凭れてウトウトしてて、あたしが来たのも気が付かないのよ」


 クスクス笑いながら台所へ上がる海華は、ふと母屋の方を覗き込み、立ち上がった志狼へと顔を向けた。


 「随分静かだけど、旦那様は?」


 「お部屋じゃねぇか? 」


 さっき、廊下を歩いている桐野の後ろ姿を見ていた志狼は、海華を伴い母屋へと向かう。

枯野へ屋を見ても客間を見ても、はては普段使わない空き部屋を見ても、彼の姿はどこにもない。

もしや、知らぬうちにどこかへ出掛けたのだろうか?

そう思いながら縁側へと出た二人は、そこで舟を漕ぎつつうたた寝している桐野の姿を見付けたのだ。


 「あら、旦那様ったら、あんなところで……」


 「シッ! 起こすな、せっかく気持ちよくお休みになられてるんだからよ」


 今日は、風も暖かい。

無理に起こすより、このまま休ませた方がいいだろう、そう判断した志狼は桐野の部屋から濃茶の羽織を一枚持ち出し足音を忍ばせて、それをそっと彼の背中へ掛けた。


 「これでよし、っと。さ、お邪魔にならないように、俺たちは部屋に行ってようぜ。お前にちょっと見て欲しいモンがあるんだ」


 意味ありげにパチンと片目を瞑り、海華の手を引いて離れの自室の前へとやって来た志狼は、彼女の背中を押して部屋へと入らせ、襖をしっかり閉じる。


 「なぁに? 何を見て欲しいのよ?」


 いつもとはどこか違う志狼の様子に怪訝な面持ちを見せ、文机の前に腰を下ろした海華。

彼女の正面に座った志狼は、やおら左腕を吊っていた三角巾をほどきに掛かった。


 「こっちの手、触ってみろ」


 右手で左腕の肘辺りを持ち、自分の方へと上げてくる志狼を小首を傾げて見詰めながら、海華は彼の左手をそっと握る。

細い指に微かに 力が込められた刹那、志狼の左手は彼女の手を力を込めて握り返したのだ。


 「わぁ……! 凄いわ志狼さん、こんなに力が入るようになったのね!」


 先ほどの面持ちはどこへやら、喜びに目を見開く海華にニヤリと笑って見せる志狼。

彼は唇を舌先で軽く湿らせつつ、しっかり繋がれた手へと視線を落とす。


 「これくらいで驚いてちゃいけねぇや。いいか、ちゃんと見てろよ」


 そう言いながら志狼はじっと己の左手を見詰める。

と、固く握られていた彼の左手が、軽く震えながら開き出したのだ。


 一本、また一本と開いていく指を、海華はポカンと口を半開きにしたまま、食い入るように凝視していた。


 「開くの!? 凄い! 志狼さん良かったわね!」


 興奮に頬を目を輝かせ、ぴくぴく蠢く指を軽く擦ってくる海華に、志狼はどこか恥ずかしそうに笑って一度手を引っ込める。


 「いつから動くようになったの? 」


 「それがわからねぇんだ。さっき、床を拭こうと思って、布を外したら、いつもと感覚が違ったんだよな。もしかしたら、と思って力を抜いてみたら、動いたんだ」


 筋が切れたのか腱が知れたのか、はたまた別の理由があったのか……。

手酷く痛め付けられ、残酷な一撃を浴びていた志狼の左腕は、温度も感覚も失い指先一つ動かせない状態だった。

筋肉が固まらないように、と海華が毎晩施す按摩の成果があったのか、最近は痺れを伴いながらも少しずつ動くようにはなっていたが、一度手を握ると自力で指を開けず、右手で一本一本指を引き剥がす作業をしなければならない状態だったのだ。


 力が入ったままの指は固く突っ張り、引き剥がす時には痛みや痺れに襲われる。

不自由には変わりないが、それでも感覚が戻り少しずつ動くようになったのだ、これからも焦らずいこうと、海華はよく言っていた。


 「これからもっと左手を使えば、きっと前みてぇに動くようになると思うんだ」


 「動くわよ! 絶対、必ず動くわよ!志狼さん……一緒に頑張りましょう!」


 泣き笑いの表情で抱き付いてくる海華を身体全体を使って受け止め、右腕でしっかり抱き締める。

今は、まだ彼女の腰辺りに添えるのが精一杯の左腕だが、やがては元のように、二本の腕で力一杯彼女を抱き締めたい。


 「手が治ったらよ、少しはお前に楽させてやれるな」


 「いいのよ、そんなこと気にしなくても。あたし、今のままで充分幸せなんだから」


 ギュッと志狼に抱き付いて肩口に頬を寄せる海華の髪に顔を埋め、そっと目を閉じる志狼。

二人は全く気が付いていなかった。

渡り廊下に面する襖、その前に立つ桐野の存在に。


 「……まいったな」


 襖越しに聞こえる二人の会話に気恥ずかしさを、そして盗み聞きしているような後ろめたさを感じつつ、彼は足音を忍ばせてその場から離れる。

昼間っから、主を放り出して何をしているのだ、と部屋の中へ怒鳴り込むほど野暮ではないし、何より仲睦まじくしているところを邪魔立てする理由もない。


 若夫婦と同居している舅は、きっとこんな気分なのだろう。

天を仰げば太陽が白く輝く。

こんな気持ちのよい日に、このまま部屋に引っ込んでしまうのもつまらない。

しばし渡り廊下から中庭を眺めていた桐野のだったが、やがて何かを思い付いたように自室へと戻り、簡単に出掛ける支度をしてから、一人屋敷を出ていく。


 部屋の机には、散歩に出てくる旨の書き置きを残しておいた。

自身の姿が見えない時、必ず志狼達は部屋を覗く。

書き置きがあれば心配させる事もないだろう。


 離れにいる二人に気付かれないよう、裏口からそっと表へと出た桐野。

そんな彼の目に、天秤棒を担ぎ、頭に笠を被った粗末な身なりの男が、道の向こうから歩いてくるのが映った。


  近付いてみれば、天秤棒の先には縦長の篭がぶら下げられ、中には紙屑が詰まっている。

屑や~お払いぃ~、屑や~お払いぃ~……と、よく通る声を上げる彼は、どうやら、くず屋のようだ。


 各家々から出る紙くずや金くずを買い取る生業の彼ら。

少しばかり足元をふらつかせながら桐野へ会釈し横を通り過ぎる男の頬は、黒い無精髭で覆われている。


 天秤棒を振り振り自分の屋敷へ、今しがた自分が出てきた裏口へと向かう男を、桐野は思わず呼び止めた。


 「おい、おいお前」


 「へぃ、あっしでございやすか?」


 喉の奥に絡み付くガラガラ声で答え、よたつきながらこちらを振り向いた男。

まだそこまで年寄りではないが、声だけひどく嗄れた彼に小さく頷いて桐野は屋敷の方をチラと見る。


 「ここは今……誰もおらぬ。すまぬがまた日を改めてくれ」


 「へぇ、旦那様は、こちらのお方でございやすか? そうすっと、いつもいらっしゃるこう……後ろで髪ぃ括ったお方は」


 「使用人だ。夫婦揃って留守にしている」


 咄嗟に嘘をついてしまった、この男も仕事があるだろうに申し訳ない。

心の片隅でそうは思いながらも、二人の邪魔をしてほしくはないのだ。


 「そうでやしたか、そういやぁ、いつもおかっぱ頭の方がご一緒でしたねぇ。そうか、奥さんでやしたか。いつ見ても仲がおよろしいのでねぇ、羨ましく思ってたんで」


 笠の下に隠れた顔に歪むような笑みを作り、男は何度か頷く。


 「仲良き事は美しきかな、でございやすねぇ。じゃぁ、また今度お邪魔させて頂きやす」


 ひょこ、と頭を下げ、再び天秤棒を持ち上げた男は、足元をふらつかせつつ桐野の隣を過ぎていく。


 「仲良き事は美しきかな、か……。なかなかオツな事を言う男だな」


 胸の前で腕を組み、感心したように頷いた桐野は男の後を追いうように歩みを進め出す。


 特に目的はない散歩、さて、これからどこへ行こうか。

そんな事をつらつら考えながらゆったりと道を行く桐野を、麗らかな春がたおやかな腕を一杯に伸ばして迎え入れる。

全身を包み込むような暖かな日射し、頬を撫でる穏やかな風、そして鼻をくすぐる若葉と花々の爽やかで甘い香り。

蝶は舞い、小鳥は遊び、分厚い半纏やどてらから解放された人々は足取りも軽く街へ繰り出す。


 しかし彼の生真面目な元々の性格から、この浮かれた雰囲気満載の街中はどうも居心地が悪いのだ。


 さて、時間を潰すにはどうしたらよいか。

道を行く人を避けつつプラプラ歩く桐野の頭には、自然とある人物の顔が浮かぶ。

彼の住まいは、今いる場所から少し離れているが、いい時間潰しにはなるだろう。

もし忙しいようならば、すぐに暇を乞えばいい。


 「……よし、行くか」


 そう一人呟き、クルリと踵を返した彼は、その足で『相手をしてくれそうな男』の所へ向かう。

彼のこの選択が、彼自身と志狼、そして海華も巻き込む大騒動に繋がる事となったのだ。







 澄んだ青空に竹トンボが飛ぶ。

薄い羽をクルクル回し、弧を描いて宙を舞ったそれは、長屋門を潜ったばかりの桐野の足先へポトリと落ちた。


 「あ、ごめんなさい!」


 長屋の奥から走ってきたのは、六つ程の男の子と、彼の弟だろうか、三つくらいの幼い男の子が駆け寄ってくる。

竹トンボを拾い上げ、兄であろう子供に手渡せば、彼は『ありがとうございます』と礼を言い、ペコンと頭を下げた。


 「よく飛ぶ竹トンボだな?」


 薄い唇を笑みの形に変えてわずかに身を屈める桐野に、子供は首を大きく縦に振り、欠けた前歯を覗かせる。


 「朱王さんが作ってくれたんです。こないだ生まれた妹には、人形を作ってくれました!」


 自分と同じ、浅黒く日焼けした顔をくしゃくしゃにして笑う子供に、桐野も微笑みながら頷いて見せる。

朱王が住む中西長屋では、春の訪れを待ちわびていた子供らがあちらこちらで歓声を上げ、朗らかな笑い声を上げて遊び回っていた。


 「すおーしゃん、独楽こまも作ってくれた」


 兄の後ろに隠れるよう立っていた弟は垂れた鼻水を啜りつつ、手に握っていた小さな独楽を桐野へ差し出す。

濃密な人付き合いはあまり得意としない彼だが、子供には好かれているようだ。


 「そうか、よかったな。その朱王さんは、今どこにおるのだ?」


 「部屋にいます。あ、でもお客さんが来てました」


 長屋門のすぐ近くにある朱王の部屋、その戸口に向かって真っ直ぐに指を指す子供の頭を一度撫で、礼を言った桐野は、そのまま朱王の部屋へと向かい軽く戸口を叩く。


 「朱王! 朱王、儂だ」


 「桐野、様!? 少々、お待ちくださいませ!」


 戸口の向こうからいささか慌てた声が聞こえ、バタバタと慌ただしい足音が聞こえる。

目の前で勢いよく開け放たれた戸口、板一枚隔てたそこには目を丸くしてこちらを見詰める朱王の姿があった。


 「桐野様……!」


 「朱王……どうしたのだ? 」


 『まるで幽霊でも見たような顔だぞ?』

自分と同じ表情で尋ねてくる桐野に、朱王は無理矢理な笑みを作って軽く首を横に振った。


 「いえ、その……申し訳ございません。実は、これから桐野様の所へ伺おうかと思っていたところで……いや、失礼いたしました。どうぞ中へ」


 あたふたと、朱王らしくない狼狽ぶりで桐野を部屋へと招き入れる。

何かおかしい、そう思いながらも室内へ入った桐野。

そんな彼を出迎えたのは朱王だけではなかった。


 「朱王さん、お客さんかい?」


 部屋の奥から聞こえる若い男の声。

六畳一間ほどの狭い室内には志狼と同じく髪を後ろで結い束ねた一人の男が胡座をかき、目を瞬かせてこちらを見詰めていた。


 「あっ、こりゃぁ桐野様!」


 「お主……確か幸吉、と申したな?」


 桐野の姿を目にした途端、慌てて居住まいを正した男は朱王の仕事仲間であり、彼の友人でもある錺物屋かざりものやの幸吉だ。

とある事件で桐野とも顔見知りとなった彼が、先ほどの子供が言っていた『朱王の客』だった。


 「突然すまぬ、忙しいようなら、また……」


 「いいえ、とんでもない。どうぞ中へ。桐野様に聞いて頂きたい話がございます」


 どこか神妙な面持ちで軽く頭を下げる朱王に言われるがまま室内に上がった桐野に、幸吉は深々と頭を下げる。

肩辺りまで伸びた髪を後ろで結わえた彼は、どこか気まずげな表情を見せて桐野から一瞬視線を逸らせた。


 「桐野様、その節はお世話になりました。実は、そのぅ……」


 どこか言いにくそうに言葉を濁す幸吉。

急須にドボドボと熱湯を注いだ朱王は、助け船を出すように横から口を挟んだ。


 「桐野様、お話というのは志狼さんの事なのです。幸吉さんが、一昨日の夜に志狼さんを吉原の近くで見た、と」


 「なに、志狼が遊郭に?」


 唐突な朱王の台詞に、思わず桐野の声が裏返る。

そんな二人を交互に見遣っていた幸吉は、そわそわと忙しなく身体を左右に揺すりながら唇を開いた。


 「吉原って言っても、お歯黒ドブの近くで見ました。ちょうど近くを通りかかった時に、お門の外の女郎屋に入っていくのを見たんです。あ、何しに吉原の近くを通ったか、なんて……」


 「案ずるな、そんな野暮ったらしい事は聞かぬ。それで幸吉、お主が見たのは本当に志狼で間違いはないのだな?」


 夜の吉原、一日の中で一番賑わい人通りが過密となる時刻である。

似通った誰かを見間違えても仕方がない。

しかし、幸吉はきっぱりと『間違いございません』と言い切った。


 「辻行燈の下で見たんでさ、あの顔は志狼さんだ。絶対に間違いございやせん」


 志狼と海華の仲睦まじさをよく知っている幸吉は、あの志狼が吉原へ女郎遊びに繰り出しているなどにわかには信じられない。

そう思ったそうだ。


 「海華ちゃんに黙って出てきたのか、それとも海華ちゃんも知っての事なんだか……他人事ながら何だか気になったもんで、女郎屋に入っていく志狼さんをそのまま見てたんです。店に入ってから、本当にすぐでした、物凄い悲鳴が……もうこの世のものとは思えねぇぐれぇの女の悲鳴が聞こえましてね」


 幸吉の目の前で、女郎屋の暖簾の下から年増と思われる白塗りの遊女が一人、犬っころよろしく転がり出てきたのだ。

張りの無い肌に白粉をゴテゴテ塗りたくった女は、紅を差した唇の端から一筋の鮮血を滴らせ、土埃舞う道の真ん中に蹲りギャァギャァ泣き喚き出す。


 それと時を同じくして、店の中からも男の凄まじい怒号と罵声、そして甲高い女の叫びが迸る。

女郎屋の暖簾を引き毟り、表へと飛び出して来たのは……。


 「まさか、志狼だと言うのか!?」


 朱王が淹れてくれた茶を手にしたまま、呆気に取られた様子で幸吉を凝視する桐野。

そんな彼に向かって幸吉は大きく首を縦に振った。


 「そうです。志狼さんでした。もう顔を真っ赤にして怒鳴り散らす喚き散らすで、店の用心棒共も手出しができねぇ、烈火の如くに怒るってなぁ、あんな感じを言うんでしょうねぇ」


 自分を抑え付けようと飛び掛かる屈強な使用人らを投げ飛ばし、殴り倒して大暴れする志狼。

口汚く罵る彼が、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、どうやら今しがた道に転がり出てきた女郎の態度が気に食わなかったらしい。


 只でさえ通行量が増える時間帯、夜道は騒然となったが、志狼のあまりの剣幕に誰しも唖然と事の成り行きを見守るしか出来なかった。


 「しばらくは、踞った女郎を蹴り飛ばしたりしてたんですが、誰かが呼んだ岡っ引きに町廻りが走ってきた途端に、人混みに紛れて逃げちまったんです。桐野様を前にして言いにくいんですが、俺、顔はおっかねぇけど、志狼さんがあんな人だなんて初めて知ったもんで……。海華ちゃんは大丈夫かって、心配になったんです」


 はぁ、と盛大な溜め息をつきつつ、冷めかけた茶を一気に飲み干す幸吉を前に桐野は膝の上に置いた手を力一杯握り締め、生唾を飲み下していた。


 「ちょ、ちょっと待ってくれ。その男は本当に志狼だったのか? 世の中には、よく似た人間の一人や二人……」


 「いえ、あれは志狼さんに間違い御座いません。現に、朱王さんのところにだって……」


  そう口にしてチラリと朱王の方を見た幸吉につられるよう、桐野も隣に座していた朱王へ顔を向ける。

すると彼は困ったように眉を「への字」にして頷いた。


 「きっと同じ騒ぎを目撃したんでしょう、昨日辺りから『お前の義弟おとうとは大丈夫なのか』と知り合いらがここに。私も信じられないのですが、皆、口を揃えて志狼さんに間違いないと」


 「そんな……信じられん。志狼はそんな他愛もない理由で女を殴ったり大暴れする男ではない。朱王、幸吉、お主らには悪いが、儂は信じぬぞ」


 眉間にしわを寄せ、腕を組んだまま顔を顰める桐野に朱王と幸吉は顔を見合わせ困惑する。

彼にしてみれば長年共に暮らしてきた家族同様の存在だ。

信じたくない気持ちもわかるが、『志狼だ』と断言したのは一人二人ではない。


 「どうしても志狼だと言うのなら、一度儂が志狼本人に確かめてみよう。志狼の性格だ、この儂にまで嘘偽りは申すまい。それでもし……信じたくはないが、志狼がやったと認めたのなら、儂自身の手で自身番に連れて行く。それで良いか?」


 使用人の不始末は主の責任、公序良俗に反する行いをしたのなら主である自分が戒めなくてはならない。

桐野の台詞に朱王と幸吉は表情を曇らせながらも頷いてみせる。

彼の事だ、事件を揉み消すなど考えられない。

が、朱王が今一番心配なのは誰でもない海華の事だった。


 以前も志狼が女郎屋に出入りしていたとの誤解から離縁だ何だと修一郎までを巻き込んでの大騒ぎとなった事がある。

それを考えると、彼女が志狼の遊郭通いを許すとは思えない。

きっと彼女の目を盗んで、若しくは上手く誤魔化して出掛けたのだ。


 もしも今回の事が海華に知れたなら……本当に女郎を殴ったのが志狼であったなら、以前とは比べ物にならないほど彼女は落胆し、混乱し、そして激昂するだろう。


 修羅場、そんな言葉では生ぬるい。

それを考えると胃の腑がキリキリ痛みだす朱王だった。


 「あ……の、桐野様、一つだけよろしいでしょうか?」


 「うむ、なんだ? あぁ、もしや海華の事か?」


 朱王の考えなどお見通しだ、と言わんばかりに顎の下を指先で擦った桐野に朱王は唇を引き攣らせてぎこちない笑みを作る。


 「以前の事もありますし……この件、海華には内密に……」


 どこまで秘密にできるだろう、そんな不安に押し潰されそうになる朱王。

そんな彼に、桐野は『案ずるな』と一言告げて険しかった顔を軽く緩める。


 「海華ならば大丈夫。隠しても最後にはわかってしまう事だ。それに下手に隠し立てをすれば除け者にされたと余計に傷付くであろう。あの二人は夫婦だ。どんな困難や問題も二人で乗り越えていかねばならぬ」

 

 海華も交えて、今夜中に話をする。

そう言って桐野は部屋を後にした。

部屋の残された二人は、再び互いに顔を見合わせ大きな大きな溜め息をつく。


 「確かになぁ……。桐野様の仰ることは最もだ。最もだがよ。そう上手くもいかねぇのが夫婦なんだよなぁ」


 自分だって所帯を持っていないにもかかわらず、妙にわかったような口をきいてボリボリ頭を掻く幸吉に、朱王は思わず『そうだな』と一人ごつ。

確かに桐野の言っていることは一理ある、しかし朱王にしてみれば幸吉の言ったこともまた、一理あるように思えてしまうのだ。


 これは覚悟をしておいた方がいい、そんなことを考えながらガクリとこうべを垂れる朱王を、幸吉は酷く気の毒そうな眼差しで見遣っていた。








 朱王の部屋から真っ直ぐ屋敷に戻った桐野は、その日の夜、夕餉も後片付けも終わった頃合いを見計らって志狼と海華を自室へと呼び出した。

いつも自宅では柔和な表情が多い彼が厳しい面持で自分たちの前に座っている。

海華はどこか体調が悪いのかと心配し、彼との付き合いが長い志狼は何か大事が起こったのだろうと瞬時に理解する。


 そして、彼の口から語られた話を聞いた二人は、桐野が朱王の部屋でこの話を聞いた時と同じように呆気に取られた様子で彼の顔を凝視した。

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