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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第二章 『二人きり』は難しき
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第四話

 高橋から告げられた時刻より少し前に志狼は篠田屋に到着した。大川の川縁に店を構える篠田屋は、黒く変色した板塀に囲まれた大店であり、将軍後献上の品も扱う名門だ。当たり前だが、今、店からは明かり一筋漏れず、雨戸も重厚な門にの中にある正面の玄関もぴったりと閉め切られ人の気配は全く無い。


 巨大な影となって自らに覆い被さる店を見上げる志狼の横顔を、右手に携える提灯の明かりが、真の闇にぼやりと浮かび上がらせた。


「こりゃあ、裏から入れってこったろうな ……」


 そう一人ごち、裏口に向かう志狼。すぐに見つけた小さな出入り口を遠慮がちに叩けば、中からは『誰だ?』と、大店には似合わぬ警戒を含ませた低く野太い返事が返る。


「志狼でございます」


 そう答えるやいなや、ぎぃっと蝶番を軋ませて分厚い木板で作られた裏口が開く。そこから顔を覗かせたのは、緊張に顔を強張らせた都筑だった。


「おお、志狼か。よく来たな」


「遅くなりました。都筑様、旦那様は……?」


「中だ。またお前に一肌脱いでもらう事になりそうだぞ」


 意味深な台詞と小さな笑みを送りつつ、都筑は志狼を中へ招き入れる。 闇が満ちる中庭を抜け、店内へ足を踏み入れた志狼を待っていたのは、主である桐野と、辺りと同じ漆黒の羽織袴を纏ったたくさんの侍達の姿だった。


「旦那様 ……」


「志狼か。遅くにすまなかったな。―― お前の勤めは、今宵で最後になるだろう。最後の仕上げだ。今一度、しっかり頼むぞ」


 羽織の袖を襷で括り上げる侍達。ピンと張り詰めた空気が漂う店内に響く桐野の台詞に、志狼はただ、無言で頷く。桐野によると、昨日、篠田屋では上方から下ってきた大量の荷を捌いたばかりであり、店の裏手にある倉には、千両箱が山と積まれているらしい。


 そして最近、篠田屋に寺村が頻繁に出入りし、押し込みが続いているゆえ用心しろと言い置いていったと、店の主人が証言しているのだ。


「それが本当だとしたら、あ奴は真に図々しい」


 怒り半分、呆れ半分といった様子の桐野はやおら志狼にむかい濃紺の羽織を差し出す。


「そろそろ奴が賊を連れて現れるだろう。お前には、番頭に化けて奴を出迎えて欲しいのだ。後ろには都筑らを付ける、頼まれてくれるか?」


「承知致しました」


 深く一礼しつつ、志狼は羽織を受け取り身に纏うあっという間に商家の使用人の出来上がり、違和感なく化ける、これが志狼の一番の強みでもあった。


 時は満ちた。

 後は、あいてが現れるのをひたすら待つだけ。羽織の裾を指先で弄りながら、高ぶりつつある気持ちを抑える為だろうか、ふぅっと低く息を吐く。蝋燭の灯りに照らし出され、土壁に浮かぶ影が志狼の気持ちを現すよう、ゆらりと左右へ大きく揺れた。


 足音を忍ばせて、時は過ぎ去る。篠田屋の者らは、桐野の命により敷の安全な場所に移され、今頃はほぼ全員が夢の世界の住人となっているだろう。明かり取りの蝋燭がジリジリ燃える鈍く小さな音と、侍らの低い息遣いだけが薄い闇を満たしていく。



 はたして、寺村は今宵ここを訪れるのだろうか?

 ピンと強く張られた緊張の糸、そして微かに頭をもたげる不安。上がり框に腰を下ろし、顔の前で手を組み俯く志狼の唇から、今日何度目かの細い細い溜め息が漏れた、その時だった。


 どんどん! と、ひどく乱暴に裏口が打ち据えられ、それは振動となって室内に居る者の身体を揺する。 弾かれたように顔を上げる侍達。 興奮のためだろうか、耳までを赤く染めた都筑が腰を浮かす。それを片手を上げて制し、桐野は志狼へ目配せした。


 それに無言で頷いて、静かに腰を上げた志狼は、そっと戸口を開け放ち裏口へと向かう。規則的な動きで打ち据えられる木戸。 薄い唇を軽く舐め、志狼は戸の横へ立った。


「はい、今時分、どちら様でしょうか?」


「夜分にすまぬ。北町奉行所同心、寺村 新八と申す者だ」


 寺村新八、その名を耳にした瞬間、心臓が早鐘を打ち鳴らす。動揺を声色に出さぬよう、平静を保ちながら志狼は更に続けた。


「寺村様、で、いらっしゃいますか? 失礼ですが、どう行ったご用件で…?」


「どうもこうもない。先日、宇津見うつみ屋に押し入った賊が、今夜この店を襲うとの情報を得た のだ。早くここを開けてくれ。お前達の命が危ないのだぞ」


 切羽詰まった声で早口で捲し立てる寺村。 この大根役者め、そう心中で罵って、志狼は戸口に手を掛ける。ぎぎぎ、と鈍い呻きを上げて木戸が開く。魂まで飲み込まれてしまいそうな漆黒、禍々しささえ感じさせる黒を背に、寺村は立っていた。


『手間を掛けるな……』乾いてひび割れた唇が、そう短い台詞を紡ぐ。 その刹那、白く輝く一筋の光が、志狼の視界の端を斜めに切り裂いた。空気を切り裂く閃光と、乾いた鋭い響き。後ろに倒れんばかりに背を反らす志狼の鼻先ギリギリを冷たい白刃が間一髪、掠め過ぎて行く。


 声も出せない一瞬の出来事。 激しく傾く世界の中で、志狼に向けられていたのは肌を焼くように劇烈な殺意を含ませた寺村の視線だ。身体ご激しく地面に叩きつけられ、骨を突き抜ける痛みとに顔をしかめる志狼の前に仁王立ちとなって、寺村は太刀を頭上高く掲げる。


 血走った両眼をいっぱいに見開く寺村の唇に歪んだ笑みが浮かび、黄ばんだ歯が覗く。黒雲から一瞬射し込む月光に、凶刃が冷酷な煌めきを放ったと同時、地に尻餅をついた格好の志狼の背後から、闇と同じ漆黒の羽織を夜風にはためかせ、侍達が足音も荒々しく飛び出してくる。


 冥い歓びに醜く歪んでいた寺村の顔、その表情は、みるみるうちに凍り付き、太刀を握る腕に痙攣の如き震えが走った。


「やはり来たか」


「桐野、様……っ!」


 手に手に抜き身を握り、怒りに満ち満ちた表情でい並ぶ侍達の間から姿を表した桐野を見るなり、茫然と呟く寺村。 温厚な桐野が普段見せる事のない、阿修羅の如きその表情は、小悪党たる男一人を震え上がらせるには十分たるものだ。


「なぜ………どうして、ここに?」


「どうして、か……そうだな、お前の浅知恵など、とうの昔にお見通し、とでも答えておこうか。 ―― 寺村、観念致せ」


 静かな口調、しかし有無を言わせぬ迫力を含ませて、桐野は一歩、また一歩と寺村へ歩み寄る。

 だが、小悪党は観念するどころか、窮鼠猫をんだのだ。筋の浮かぶ手に握り締められていた太刀、その切っ先が、志狼の喉元に突き付けられる。

 脂汗を滲ませる寺村は、再び笑みの形に顔を歪ませた。


「観念しろ、か……。 それはこちらの台詞ですね」


 自棄やけのやんぱち、退路を断たれた悪足掻きか、志狼の喉仏ギリギリを狙う先端は、微かに震えていた。


「これ以上恥を重ねるな!」


 どこか悲鳴じみた叫びを上げる高橋を鼻で笑い、寺村は志狼にその場から立つよう切っ先で促す。 言われるがままに立ち上がる、そう見せかけた志狼の右手が、緊迫した空気を音もなく切り裂いた。


 寺村の視界一面に拡がる霞んだ世界。 半開きの口内に飛び込む砂つぶてと、眼球を襲う激痛に、ギャツ! と盛大な悲鳴が響いたと同時、志狼に傍らに太刀が転がった。


 両眼を押さえ地に膝をつく寺村をそのままに、志狼は刀をひっ掴むなり飛び上がらんばかりの勢いで、その場から立ち上がる。


「おいっ! てめえら逃げんじゃねぇやっ! 待ちやがれっ!」


 怒声一発、濃紺の羽織をはためかせ、木戸を蹴破り志狼は表へと飛び出していく。 彼は気付いていたのだ、戸口の影からこちらを窺う黒装束を纏った人影の存在に。


 木戸から飛び出した志狼の目に、脱兎の如く夜道を逃げ行く六、七人の黒い影の姿が映る。その途端、彼の中に長い間忘れていたある感覚がよみがえった、それは、身体の奥底で血潮が煮えたぎるような興奮、倒すべき敵を目の前にして志狼の中の野生が目を覚ます。


 この時ばかりは自身の左腕が動かない事も、頭の中から消え去っていたのだろう、志狼は気合一発、大刀を振りかざし逃げる影へ向かって襲い掛かった。地面を強く蹴り上げた彼の身体は夜の闇へ向かって高く飛び、集団の一番後ろを駆けていた影の背中へ渾身のけりを食らわせる。


『グェ』と蛙が潰されるような鈍い、そしてどこか情けなくも聞こえる悲鳴を上げて顔面から硬い地面に倒れ込んだ影を踏み付けに、志狼は白刃を振りかざした。恐れの入り混じった叫びを上げて脇差を振り回し、突進してくる影の凶刃を大刀の刃先で軽くかわし、そのまま真横へ薙ぎ払えば、影の胴体は真一文字に切り裂かれ、噴き出す鮮血と飛び散る臓物が闇に鮮やかな花を咲かせる。


 漆闇に響く断末魔の叫び、そして半狂乱になって襲い掛かってくる影の絶叫に脳髄までを痺れさせ志狼も負けじと腹の底から咆哮を張り上げて刃を振るう。一人は首筋を峰打ちに、次は柄尻で盆の窪をぶちのめして、道の転がる影が四つになったその時、背後で『アッ!』と掠れた叫びが上がり、志狼はハッと我に返る。


 叫びの主をよくよく見れば、それは木戸から顔を覗かせる高橋だった。その背後からは、驚きに目を見開いた大柄の侍、都筑も顔を覗かせている。


「志狼……無事?」


「はい、あぁ……申し訳ありません。二人ばかり取り逃がしました」


 息の乱れもなく、そう静かに呟く志狼の細い顎先から透明な汗が一滴滴る。高橋に都筑、そして二人の後から桐野が駆け寄り、道に倒れる男たちを一瞥する。そして、桐野は羽織を纏ったままの志狼の肩を、ポンと軽く叩いた。先刻まで険しかった彼の表情は、心なしか和らいでいる。


「構わぬ。お前一人で四人を捕らえたのだ。上出来ではないか。…… 後の始末は、我々の役目。志狼よ、ご苦労だった」


 そう言いながら、桐野は志狼の手から刀を取り、その背を力強く叩く。思わず足元をふらつかせながら、志狼は慌てて桐野を見遣った。


「ですが、旦那様……」


 逃げて行った者らの捜索はどうするのか、そう問う前に桐野は志狼へそっと耳打ちをする。


「こ奴らと寺村を締め上げれば、残りの賊の居場所がわかるのも時間の問題だ。お前の手を煩わせるまでもない。それより、早く帰って海華を安心させてやるがよい」


『それが、お前の勤めだ』周りには聞こえぬ小声で告げられ、志狼は苦笑なのか照れ笑いなのかわからぬ表情を作り出し、小さく頷く。


「では、お言葉に甘えて、私はこれで失礼させて頂きます」


 目に前に立つ桐野と、地面に倒れる男らに次々と縄をかけていく都筑と高橋に一礼し、一度店内へ提灯を取りに戻った志狼は、そのまま生温い空気が充満する世界へ向かって駆け出していく。だが、志狼が駆けていった先は、自らが住む屋敷ではなかった。そう、志狼にはまだ、やらなければならぬ事が、残されていたのだ。








 閉じた襖の間から、糸のように細い光が一筋漏れている。それを見たと同時、志狼は未だ海華が起きていると確信した。 


 息を切らせ、全速力で走りに走って辿り着いた八丁堀は、ほとんどの屋敷から灯りが消えてしまい、シンと寂しいくらいの静寂に包まれている。乱れた息を何とか整え、顎の先から滴る汗をグイと拭って辺り廊下と部屋を隔てる襖の前に立った志狼が、そこを開けようと手を掛けた、その時だった。


『誰? 志狼さん?』と、僅かな警戒を含ませたような海華の声が聞こえる。襖越しに聞こえたその声に、志狼の心臓が一際大きく脈打った。『俺だ』そう答えて襖を開ければ、行燈の柔らかな光に包まれて文机の前に座る海華の姿が目に飛び込んでくる。一瞬で、彼女の顔が歓喜一色に染め上げられた。


「今帰った、遅くなってすまねぇ」


「お帰りなさい! 今夜は帰ってこれないのかと……」


「俺も最初はそう思ってた。旦那様がな、早く帰ってお前を安心させてやれと、帰して下さったんだ」


「そうなだったの……。あ、待っててね、今すぐ着替えの支度をするから」


 そう言って立ち上がった海華は、長持ちかへ寝巻を取りに向かう。すると志狼は不意に汗に濡れた懐をまさぐり、きれいに折り畳んだ手拭いを取り出して、それを海華へと差し出した。志狼の寝巻きを手に、海華はちょこんと小首を傾げる。


「なぁに? それ」


「開けてみろ。まぁ……そんな珍しい物じゃないけどな」


 にや、と白い歯を見せる志狼からそれを受け取り、そっと開いた海華の目が、大きく大きく見開かれる。 枯れの体温が仄かに残る手拭いに挟まれていたのは、一輪の鷺草だった。


 それは、屋敷に戻る前、あの雑木林に立ち寄った志狼が摘んできたもの。毎日の習慣になったこの手土産も、持ち帰るのは今日が最後になるだろう。


「いつも同じで悪いな」


「そんなことないわ。いつもありがとう」


 にこやかな笑みを見せて花を手に取って、その場を立った海華は文机の引き出を開けると一冊の読本を取りだし、ぱらぱらと捲り始めた。


「今日で八日目ね……」


 そう静かに呟いて、海華は読本を志狼の目の前に差し出す。


「お前、これ……」


「うん。全部とっておいたの。志狼さんがくれた、大事なお土産だから」


 幸せそうに微笑んで、本を広げる海華。それには、今まで志狼が摘んで来た鷺草が押し花となって挟まれていた。


「そのままにしてたら、すぐに枯れちゃうでしょ? 少し色は褪せちゃったけど、これならずっと残せるから」


 そう言いながら、彼女は今日贈られた花を読本に挟む。 大切そうにそれを引き出しにしまい込み、再び志狼の傍らに戻る彼女を志狼は静かに己の胸へ抱き寄せた。


「やっと…二人っきりになれたな」


「そうね。また誰か来なきゃいいんだけど……」


「大丈夫だ。旦那様も、高橋様方も、今夜は屋敷に帰れやしねぇよ」


 形のよい耳朶に唇を寄せ、志狼は熱っぽい囁きを漏らす。しかし、海華はくすくすと小鳥が囀ずるような笑みをこぼして、抱擁の中から抜け出した。


「そう。―― でも、今日はダメよ。志狼さん疲れてるんだから、今は、しっかり休んでね」


 そんな一言を残し、海華はそっと彼の手を握った。ちぇっ、と小さな舌打ちをしつつ苦笑いを見せた志狼だったが、一度布団に寝転んだが最後、その目蓋は自然と瞳を覆い隠し、身体からは力が抜けていく。まだ、海華と話がしたい、彼女の顔を見ていたい、温もりを感じていたい……そんな気持ちは山々だが、体にたまった疲労がそうさせてはくれなかった。いともたやすく眠りの神にさらわれた志狼が次に目を覚ますのは、翌日の昼近くになってからのとなるのだ。








 寺村が捕らえられて後、事の展開は恐ろしいほど早く進んだ。


 志狼が捕らえ損ねた賊は、翌朝、遅くても三日後には全員が捕らえられ、江戸市中で続いた押し込みは全て寺村が金と引き替えに情報を流出させ、引き込み役までかって出ての犯行だと判明したのだ。店主一家は元より使用人全員が口封じのため殺められ、その下手人の中に町の治安を守るべき同心がいた、この事実を瓦版は大々的に書き立て、奉行所への不平不満、抗議の声は一気に熱を増し、修一郎や桐野は厳しいや立場に置かれる事となる。


 だが、人の噂も七十五日の諺通り、過ぎ去る時は人々の記憶からこの事件を掻き消していった。密偵としての志狼の任も解かれ、色々あったが、どうにか普段の平穏な生活を取り戻した桐野家では、この日の夜も夕餉の後片付けを終えた志狼と海華が、自室へ下がる許しを得ようと桐野の部屋を訪れていた。


「旦那様、他にご用がなければ、私共はこれで……」


「うむ、下がってよい。今日も一日ご苦労だった」


 仕事の続きだろうか、書物に目を通しつつ桐野が答える。『失礼致します』そう告げ、二人揃って深々と頭を下げる。と、その時、玄関の方向から屋敷全体に響き渡った『邪魔をするぞーっ!』と野太く、やたらと上機嫌な男の声に、思わず三人は顔を見合わせた。


「旦那様、あの声は……」


 頬をわずかに引き攣らせ、志狼が唇を動かす。


「おい桐野ーっ! 志狼、海華~! 誰もおらぬのか!」


「……間違いない、修一郎だ」


 呆れたような溜め息を一つ、桐野は早速玄関先へと向かう。慌ててその後を追った二人が見たもの、それは汗だくの朱王に肩を貸され、赤鬼よろしく顔を真っ赤に染め上げた酔っ払い……いや、北町奉行、上条 修一郎の姿だった。


「なんだお前、おるではないか、なぜに早く出てこないのだ!」


 最早へべれけ状態の修一郎は、そのまま崩れるように上がり框へ腰掛ける。その傍らでは、ぜぇはぁと身体全体を使い息をする朱王が、その長身を柳の如くふらつかせていた。


「『なんだお前』は、こっちの台詞だ。どうしたのだ、このザマは?」


「酒を飲んで酔っ払うのが悪いと申すか! やっと全てが片付いたのだぞ! 息抜きでもせねば、やっていられまい」


 充血した目をごしごし擦り、修一郎は唖然とした面持ちで自分を見下ろす海華へ顔を向ける。

 赤鬼の顔が、盛大に緩んだ。


「海華、久し振りだな! お前、少し痩せたのではないか?」


 上がり框に両手を付き、よたよたとこちらへ近付こうとする修一郎の側に急いで膝を着く海華の鼻を、噎せ返るような酒臭さが襲う。


「やだ、わ。修一郎様、こんなに酔っ払って。今、お水をお持ちしますから……」


 臭い立つ酒精に顔をしかめる事も出来ず、無理矢理な笑顔を作り出す海華の背中をバシバシ叩き、『酔ってなどおらぬ!』と、辺りに轟かんばかりの大声を張り上げる修一郎を横目に、 志狼は三和土たたきに立つ朱王を軽く手招いた。


「朱王さん、こりゃあどういう……」


「すまん、実は夕方修一郎様がうちにいらして……二人で飲んでいたら、いきなり八丁堀ここへ行こうと……」


 困り果てたと言わんばかりに眉を潜め、弱々しい声色で告げる朱王。 そんな男どもなど眼中に入っていないのだろう修一郎は、海華の膝にしがみつかんばかりの体勢になり、酒を出せと騒ぎ出す。


「お前、これからまだ飲むつもりか!」


「あたりまえだ、そのためにまいったのだからな! 久し振りに海華の酌を受けたいのだ!」


 赤く染まる顔に満面の笑みを浮かべる修一郎を前に、志狼は心中で大きな溜め息をつく。どうやら、今夜も志狼と過ごす時間は取れないようだ。


「承知致しました。すぐに……」


『支度致します』その台詞は、海華の口から生まれることはなかった。彼女の隣に立っていた桐野が素早く土間へ飛び降りたかと思いきや、修一郎を框から強引に引き起こし、その脇を支え立たせたのだ。


「修一郎、今宵は場所を変えて飲もうではないか。良い店があるのだ」


「おい、何をする、俺は海華と……」


「海華はな、これから所用があるのだ。あぁ、志狼、今夜は多分帰ってはこれん。後の事は気に致すな。朱王、お主も一緒に来るがよい」


 有無を言わせぬ様子の桐野に、朱王は戸惑いながらも頷きつつ、修一郎の肩を下から支える。何やら訳のわからぬことを叫びながら、桐野と朱王に引き摺られ、玄関を出て行く修一郎。あまりに突然、そして一瞬の出来事に残された二人は言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。


「……行っちゃったわね」


 しん、と静まり返った廊下にこぼれる海華の呟き。 嵐が過ぎ去った後の静寂は、耳が痛くなるほどだ。

 開け放たれたままの玄関を閉め、くるりとこちらを振り返った志狼は次の瞬間、もう堪え切れないとばかりに口元を押さえ、けらけらと笑い出す。その笑いは、あっという間に海華へ伝染し、上がり框に座したまま腹を抱えて笑い転げる彼女の隣へ、志狼はよろめきながらも腰を下ろした。


「あんなに気を使われるなんて思わなかったな。お前、朱王さんの顔、見たか?」


「見たわよ、泣きそうな顔してたわ。でも、旦那様だって必死だったんじゃないかしら?」


 目尻に浮かぶ涙を拭い、海華は志狼へ向き直る。 笑いすぎて乱れた息を整えて、志狼は改めて思う。今まで、これほど笑い転げた事があっただろうか、心の底から楽しいと素直に感じた事があっただろうか、と。


 昔、誰かに言われた、『お前は能面のようだ、感情も、表情もない』との台詞。 あの時の自分と今の自分は、確実にどこかが違う。だが、具体的にどこが変わったのかが志狼にはわからないままだった。


「でも、俺たち二人っきりになれるのが、これほど難しいとは思わなかったな」


「そうね。―― 一番最初に二人っきりになった時の事、覚えてる?」


 不意に投げ掛けられた質問に、志狼はハテと首を傾げる。


「さぁてなぁ……始めて一緒に花火を見たときか?」


「ハズレ。もっと、ずっと前よ。吉原で火付け騒ぎが起きた時、下手人に間違われて、二人で女郎屋に匿ってもらったの覚えてない?あの時、始めて二人っきりになったのよ」


「あぁ……あの時か。もう随分昔みたいに感じるな」


 天井を仰ぎ見ながら呟く志狼に、海華はどこか困ったように笑った。


「 いやだ、そんなに経ってないわよ。それに、あの時志狼さんあたしを置いて帰っちゃったんだから。それも忘れた?」


「それは……忘れねぇ。あれだけは悪ぃと思ってんだぜ? ―― これからは絶対、どこにも置いてなんかいかねぇよ。ずっと、一緒だ」


 しっかりと海華の瞳を見詰め、そう告げる志狼の顔には静かな笑みが浮かぶ。 同じ表情を作る海華の頬は、薄い桜色に染まった。


「絶対、だからね? 破っちゃ嫌よ?」


「破らねぇ。絶対だ。―― ところで、これからどうするか?」


 上がり框の上に置かれた海華の柔らかく小さな手を優しく握り、志狼はゆっくり海華をその場に立たせる。 されるがままに立ち上がり、悪戯っぽく白い歯を覗かせて、海華は逞しい右腕に己が腕を絡ませた。


「せっかく旦那様が時間を下さったんだから、ゆっくりさせてもらいましょう」


「そうだよな。なら、―― 部屋に行くか」


 ピタリと身体を寄り添わせ、自室に消えていく二人は、この夜、久し振りに手に入れた『二人っきりの時間』をたっぷり楽しんだ。気を利かせたのか、はたまた単に酔い潰れただけなのか、桐野が屋敷へ戻ってきたのは、翌日の昼近くの事となる。目の下に隈を作り、今にも倒れそうによたつきながら玄関をへ入る桐野を出迎えたのは、青空の如く晴れやかな顔をした、志狼と海華だった。









 終


 ※捕捉


 鷺草……ラン科の多年草。


 花言葉……『夢の中でもあなたを想 う』


 Wikipediaより引用。

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