第一話
梅の花が綻び、鴬の初鳴きと共に江戸へ春がやって来る。
慌ただしく過ぎた冬の名残か、いささか冷たい春風に吹かれ足早に道を行く志狼と海華、彼女は、茜色の風呂敷に包んだ四角形の包みを抱えていた。
「おい、重てぇだろ? そろそろこっちに寄越せよ」
「大丈夫よ、このくらい。それよりごめんなさいね、こんな手間掛けさせちゃって」
しっかりと包みを抱え、隣を歩く志狼へすまなそうな笑みを向ける海華に、志狼は『気にするな』と言いたげに首を軽く横に降る。
「一日分の飯を用意するくらい、なんてこたぁねぇよ。だが、ゆっくり飯食う暇もないなんて、朱王さんも商売繁盛だな」
「えぇ、時期がらかしらね、問屋さんからの注文が多いのよ。―― 兄様のところにいた時は、あたしも夜なべして手伝ったわ」
過ぎ去りし日を懐かしむような眼差しを道の先へ向け、海華が微笑む。
そう、今時期……特に晩冬から初春にかけてからの時期、人形の依頼が普段より多くなる。
問屋からの注文もあれば、個人から直接頼まれる事も多い。
特に気の乗らない依頼でなければ引き受ける朱王は、今も数件の依頼を抱え、まさに寝るまも惜しんで仕事をしている、といった状況なのだ。
当然、飯を食う時間もしっかり取れない事から、彼は海華に一日分の飯とおかずを重箱に詰めて用意してくれと頼んだ、という訳である。
仕事に励むのは良いが、しっかり寝て、食べてくれないと身体に障る。
長屋を訪れる度に口酸っぱく言い聞かせる二人だったが、いつも朱王は生返事ばかりだ。
勿論、部屋の中は人形の手足やら材料やらが転がり、座る場所を探すのも大変なほど。
今日、室内はどんな有り様になっているのだろうかと、ドキドキしながら中西長屋の門を潜った二人は、恐る恐るといった様子で部屋の戸口を静かに引き開ける。
「朱王さん、? 邪魔するぜ」
「兄様? 兄様入るわよ」
志狼の背後からソロリと顔を出した海華の視界に入ったのは、 作業机の上に突っ伏し寝息を立てている朱王の姿だった。
「ヤダ、ちょっと兄様! 起きて!」
重箱を傍らへと置いた海華は、朱王の肩に手を掛け思いきり前後へ揺さぶる。
朱王の眉間に深いシワが寄り、きつく眉がしかめられたと同時に、閉じていた瞼が痙攣しながら開き出す。
「ん……ぁ、? ぁ……ぁあ、お前、か……」
不機嫌そのものに歪められる顔に、ボンヤリ虚ろな瞳。
霞がかった視界に海華の顔を認めた朱王は、右手に固く握ったままの彫刻刀をポロリと取り落とし、作業机から身を起こした。
「お前か、じゃないわよ。こんなところで寝てちゃ風邪引くわ」
傍に脱ぎ捨ててあった半纏を背中に掛ける海華の隣では、苦笑いする志狼があちこちに散らかった人形の下絵やら仮彫りの手足やらを広い集めている。
「志狼さん、も……。来てくれたのか、面倒掛けてすまないな」
「何だよ水臭せぇ。このくらい朝飯前だ」
下絵の束を朱王の作業机へと置き、白い歯を覗かせて笑う志狼は、何かを思い出したかのように、海華が置いた重箱へと視線を向けた。
「朝飯で思い出した。朱王さん、まだ飯食ってねぇんだろう?」
「……実は、昨夜海華が置いていった握り飯を一つ食っただけなんだ」
「あらヤダ、呆れた! ちゃんと食べてって言ったのに。これだから兄様を一人で置いておくのは心配なのよねぇ」
眉を潜めつつそうこぼし、パシリと軽く朱王の背中を叩く海華に聞こえぬほど小さな声で『うるさい』と呟いた朱王は、縮まっていた身体を伸ばすように大きな大きな伸びをして、寝癖のついた髪を掻き回した。
「朱王さん、飯食ったら布団敷いて、少し横になったらどうだ? このままじゃ、いくら朱王さんだって倒れちまうぜ」
自信の身体を労るのも大切な事、このまま無理をして寝込むなんて事になったら大変だ。
朱王の事を案じる台詞が志狼の口から生まれた、それと同時だった。
まるで朱王が休むのを阻止するかのように、戸口の向こうから『ごめんくださいませ』と、掠れた男の声が響いたのだ。
「はい、ただいま! あら、木村屋さん、おはようございます」
明け開いた戸口の向こうに立つ小柄な男、海老茶色の羽織を纏った男は、応対に出た海華を見るなり一瞬驚いたように目を見開いた。
が、すぐににこやかな笑顔を見せて小首を傾げる。
年の頃五十半ばのこの男は、人形問屋木村屋の主であり、以前から朱王を贔屓としてくれている。
「おぉ、これはこれは海華さん。おはようございます。朱王先生は……?」
どこか落ち着かない様子でキョロキョロ視線を動かす木村屋に笑顔で答えつつ、ふと彼の背後に目をやれば、白髪混じりの髪を結った初老の男と、朱王より二、三才ほど年若いであろう男が、木村屋と同じくソワソワとした様子で長屋の壁際に隠れるよう立っていた。
「中におります。どうぞお上がりください。それと……後ろのお方は?」
グッと首を伸ばして男らを見る海華に、木村屋は引き攣った笑顔を見せ、『連れです』と早口に答える。
それならば一緒に中へ、と彼らを招き入れた海華だったが、どうもこの三人、様子がおかしい。
どこかビクつきながら三人揃って朱王の前に座る彼らに、朱王は元より志狼までもが怪訝そうな面持ちを作った。
「朱王先生、早い時分に申し訳ございません」
そう言って深々と頭を下げた三人に、シワの寄った着流しを慌てて整えつつ、朱王も頭を下げる。
木村屋の『連れ』とは、朱王もよく知る同業者。
つまり人形師だった。
「こちらこそ、こんなナリで失礼致します。木村屋さんに……源助さんと正太さんも。今日はまた、どんなご用件で……」
今までにはない取り合わせの三人を目の前に、朱王も先程までの眠気が吹き飛んだようだ。
三人の後ろでは、志狼と海華がチラチラこちらを窺いながら茶の支度を進めていた。
「はい、今日は先生に一つ伺いたい……いえ、確かめたい事がありまして。―― 先生、そのぉ……失礼とは存じますが、コレは、先生がお作りになった物でございますか?」
シワの寄った顔から冷や汗を流しつつ、木村屋は、左手側に置いていた手のひらに乗るほど小さな風呂敷包み、彼が持参した包みを震える指先でゆっくりと開き出す。
包みが完全に開かれたと同時、朱王の視線はそこに鎮座している『人形をした襤褸屑』に釘付けとなった。
「―― コレは、なんですか?」
眉間にシワを寄せ、微かに柳眉を上げて朱王は『ソレ』を見下ろす。
丁重に包まれていた『ソレ』は、あちこち解れて穴が開き、茶色く変色した布の固まりと、折れた人形の頭だった。
いや、よくよく見れば丸っこい塊の端々からは黄ばみ汚れた小さな手足が突き出ている。
そして、その傍に転がる頭は右頬の部分に大きなヒビが入り、絹糸でできた結い髪は埃だらけで解れ毛だらけ、娘なのか年増女なのかよくわからない顔立ちは、白木を手荒く削った物に胡粉を塗りたくった程度の代物だ。
「木村屋、さん? これは……これを、私が作った物、かと?」
眉間に刻まれたシワがみるみるうちに深くなり、こめかみにはうっすら青筋が浮かび始める。
一瞬で表情を変えた彼を前に、木村屋は唇の端を引き攣らせ隣に座る源吉と呼ばれた白髪の男は喉仏を大きく揺らして生唾を飲み下した。
「ほら……ほら木村屋の旦那、こんなガラクタ、朱王さんが作ったわけねぇじゃねぇか。やっぱり、あのじぃさんの勘違いなんだ」
源助の隣に座していた男、正太が軽く腰を浮かし、怯えているのか笑っているのかわからない面持ちで身体を前のめりにさせ、木村屋と源助に上擦り声で言う。
「でもよぉ、正太。そのガラクタ掴まされたのは一人じゃねぇんだぜ? みんな朱王さんが売り込みに来たって言ってんじゃ……。それに、娘や孫に手ぇ付けられたってのも……」
「ちよっ! ちょっと待ってくださいよ! それ、どういう事なんですか!?」
源助の発した台詞に、驚愕の表情を見せて海華が口を挟む。
もうお茶なんかどうでもいい、志狼と共にワタワタと三人の横へ座った二人へ、汗を拭き拭き木村屋が頭を垂れた。
「いや、それが海華さん、まず何からお話ししてよいやら……」
「まず、その人形の事から話して頂きましょうか」
胸の前で深く腕組みした朱王が不機嫌を露に口を開く。
身体中から滲み出る怒りに圧倒されながらも、木村屋は『はい』と頷いた。
「実は数日前、とあるお茶屋のご主人がうちにみえまして、『朱王という人形師に孫娘の人形を頼んだらこんな品をよこした上に、孫娘に手を出した。どうしてもあの男を見付け出したい』と、まぁかなりご立腹で」
今にも殴り掛かってきそうな剣幕で店に怒鳴り込んできた老人は、木村屋に朱王が作った人形をが売られているのを知り、住まいを教えろと息巻いた。
だが、木村屋は男の話を頭っから信用しなかったのだ。
「先生とは、もう長いお付き合いです。こんな手抜きの作品を渡したり、お客様に手を出すなど考えられません。どなたかとお間違えではと何度も申しました。ですが、そのお方がおっしゃるには、うちに来たのは髪が長くて背の高い優男で、自分が作った人形を持参した。今回は特別に安くさせてもらうから、お嬢さんの人形を作らせて欲しい、と言ったのだ、と」
「背が高くて髪の長い優男……それだけ聞きゃぁ朱王さんだな」
ボリボリ頭を掻きながら呟く志狼の脇腹を海華が肘で軽く小突く。
そんな二人を横目に小さく咳払いをした木村屋は更に話を続けた。
「いや、しかしですね。そこまで言われても私はどうしても信用できない。で、その朱王さんとやらが持ってきた人形の事を聞いたのですがね、それが惚れ惚れするほど美しい娘人形で、ちょうどうちに飾ってあった人形と同じだとおっしゃるのです。それを見て、仕事を頼もうと前金十両を渡したのだと」
前金を払い、自称朱王は数回ほど写生と称して男の自宅を訪れ孫娘と会った。
しかしそれから何日経っても人形は完成しないばかりか、朱王からは何の連絡もない。
気の長い男もさすがに痺れを切らしかけた頃、自宅の裏玄関に擦り切れた風呂敷に包まれて、この人形が放置されていたのだ。
十両払って出来たのは塵屑同然の人形、そして男の怒りに更に油を注いだのは、孫娘の涙ながらの告白だった。
実は、写生に訪れていた朱王と密かに情を結んでいたというのだ。
一目見たときから貴女に惚れてしまった、とかなんとか甘い言葉を囁かれ、まんまと奪われてしまった孫娘の純潔。
怒りより先に絶望と後悔が男を襲った。
何しろ、朱王を家へ招き入れたのは彼なのだ。
どうしても、草の根を分けてもあの男を探し出してやる。
そう怒りに燃える男を何とか宥めすかして一旦帰宅させた木村屋だったが、 その日のうちに彼を更に驚愕させる事態が起こった。
「朱王先生、他でもない源助さんや正太さん達も、先生の良くない噂を聞いて、心配してうちにいらっしゃいました。何でも、朱王という人形師があちこちの大店や商家に出入りして、前金をせしめている、らしいと」
『決して真実ではありますまい』そう小さくこぼして、木村屋は祈るような眼差しを朱王へと向ける。
その瞬間だった。
疾風のごとく繰り出された朱王の拳が
目の前の人形へ力一杯打ち込まれ、ボキッ! と骨が折れるような音が辺りに響く。
丸まっていた人形の胴体は見事『くの字』に叩き折られ、千切れた絹糸が海華の鼻先を舞う。
風呂敷を隔てて畳にめり込む岩の拳。
突然の凶行に呆然と彼を見詰める者らの前で、朱王は怒りを宿らせた顔をゆっくりと上げた。
「……一つだけ申し上げておきますが……今、私は自分から他所様に人形を売り込みに行く事はありません」
抑揚の無い声で言った朱王に、三人は首が取れてしまうのでは、と海華が心配するほど強く首を縦に振る。
彼の言う通り、個人宅に直接売り込みに行ったのは、江戸に来たての頃、まだ朱王が名前も知られぬ一人形師だった時の話だ。
「先生自ら売り込みに行けるほど暇ではありません、それは重々承知しております」
「そうだそうだ、それに朱王さんが女に手ぇ出すなんざ有り得ねぇ。お天道さんが西から昇るぜ」
鼻息荒く口にする正太に思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える海華。
まさにその通り、逆立ちしたって朱王がそんな真似をするはず……いや、出来るはずがない。
だが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。
「と……取り合えず、兄様の疑いを晴らさなきゃ。このままじゃ商売上がったりよ」
「そんな程度じゃすまねぇぜ、下手すりゃ御上が動き出す。とにかく、その金を騙し取られたってぇ奴等に会って、本物の朱王は自分だって事を証明しねぇと」
「あぁ、そうだな。木村屋さん、源助さんに正太さんも、申し訳ありませんが、私と一緒に来て頂けませんか?」
先程までの怒りを腹の奥底に抑え込んで、朱王は凹んでしまった畳へ両手をつき、頭を下げる。
「勿論です先生! 先生の汚名を灌ぐためならば、私はどこへでも参ります」
「あっしも参りやす。正太、お前ぇは……」
「行くに決まってんじゃねぇか! 朱王さんにゃ日頃から世話になってんだ。ここで『行かねぇ』なんて言っちゃ男が廃るぜ」
今にも飛び出して行きそうな勢いで片膝を立てる正太を前に朱王は思わず苦笑い。
困った時の神頼みならぬ、困った時の友頼みだ。
誤解を解くには早い方がよいが、それぞれに都合もあるだろう。
明日の朝、またここへ集まることを約束し、三人はそれぞれ長屋を後にしていく。
三人が揃って長屋門まで見送り、部屋に戻った朱王の目に映るのは、畳の上で無惨に潰れた人形の残骸。
それが、治まりかけていた朱王の怒りに再び火を付けた。
「ふざけやがって、こんな物ッ!」
柳眉を逆立て、そう吐き捨てた朱王は、渾身の力を込めて人形を蹴り飛ばす。
ガシャッ! と無様な音を立てて壁にぶち当たり、バラバラに壊れた人形、その胴体からは灰色に汚れた綿クズや汚れた着物の切れっ端が飛び出した。
「こんな物の何が人形だッ! こんな木偶を俺の名前を使ってよくもッッ!」
潰れた胴体やひび割れた顔を何度も何度も踏み付ける朱王の顔は怒りに赤く染まり、振動で部屋は地震のようにグラグラ揺れる。
ここまで怒りを露にする朱王を前に、志狼と海華は唖然としたまま互いに顔を見合せた。
「ちょ、っと! 兄様もう止めて! 」
これでは部屋の床が抜けてしまう、そう思ったのだろう。
海華は朱王へと近寄り彼の背中へ声を掛ける。
『うるさいッ!』そう怒鳴って髪を振り乱し、こちらを振り返った朱王の顔は、まるで悪鬼羅刹のようだった。
「何よ、あたしに当たる事ないじゃない! そりゃ、名前勝手に使われた兄様の気持ちもわかるわよ。だけど……」
「だからうるさいと言っているんだ! あぁ、もういいお前達はもう帰れ! しばらくここには来なくていい!」
乱れた髪をグシャグシャに掻き回し、もう一度人形に蹴りを入れて、朱王は作業机の前にドカリと腰を下ろす。
あまりにも理不尽な彼の物言いに、今度は海華が眉を逆立てた。
「何なの!? 子供じゃあるまいし、いい加減にしてよっ!」
「うるさいと何度言ったらわかるんだ!? 帰れ! もう独りに……放っておいてくれッ!」
彼の口から飛び出た絶叫が二人の鼓膜を貫く。
海華の後ろにいた志狼が、彼女の肩にそっと手を当てた。
「海華、もういい。帰るぞ」
「でも、志狼さん……」
「いいから、行こう。朱王さん、明日の朝、また来るぜ」
いくぶん小さく見える朱王の背中へそう告げて、志狼は海華の手を半ば強引に引いて部屋を出ていく。
戸口が閉められると同時に訪れた静寂。
耳が痛くなるほどの静けさと一抹の寂しさの中で、朱王は唇を噛み締めガクリと頭を垂れた。




