第六話
さて、朱王らが修一郎の邸宅に集まってから数日後、平助の裁きが下る日がきた。
縄で後ろ手に縛られお白州に引き立てられた平助は、桐野邸の縁の下にいた時より一回りほど痩せ窶れ、無精髭の生えた頬はゲッソリと痩けてしまい、薄汚れた着物の合わせから覗く胸からは、うっすらと肋が浮いているのが分かる。
まだ春となるには早い季節、だだっぴろいお白州には冷たく乾いた風が容赦なく吹き込み、じっと座っているのは本当に辛い。
そんな中で平助の審理は淡々と行われ、いよいよ刑の申し渡しという時になって、町奉行である修一郎がゆっくりと口を開いた。
「さて、審理はこれで終わりとなろう。これから申し渡しとなるのだが、その前に。平助、お前にどうしても会わせたい者がおるのだ」
お白州に響く野太い声。
審理の最中、しかも終わり近くにな利、ここへ人を呼ぶなど滅多にない。
それを不思議に思ったのだろう、修一郎から少し離れ、苦虫を噛み潰した面持ちで座していた吟味方与力は、怪訝な面持ちとなり修一郎と平助を何度か見遣る。
「私に、会わせたい人……?」
「そうだ。おい、あの者らをここへ」
お白州の出入り口に立つ役人に一言声を掛けると、すぐに木戸の軋む音が聞こえ、 炭色の着物を纏った一人の女が小さな子供を抱き、お白州へ足を踏み入れた。
「まめ、太……!?」
荒縄で縛り上げられた平助の身体が一度大きく跳ねる。
彼から少し離れた場所へ正座した女……海華は、抱えていた子供を自分の隣へ座らせると、建物の中から自分達を見下ろす修一郎へ向かい深々と一礼した。
「お主、名前は?」
「海華と、申します」
いつも自分に向けられる穏やかな表情とは全く事なる、どこか冷たくも感じる眼差しで見下ろされて海華は緊張に声を震わせる。
お白州についた手は小刻みに震え、彼女の緊張が伝わったのだろう豆太は、彼女の着物を千切れんばかりに握り締め、顔面を蒼白にさせて修一郎を凝視した。
隣にいる子供は誰だ、お前と子供はどういった関係だ、と矢継ぎ早に修一郎が尋ね、海華は時々舌を縺れさせながらも必死になって答える。
厳粛なお白州の中で繰り返される一問一答に、その場にいた与力、役人らはいささか戸惑った様子で修一郎へ視線を向けた。
「そうか、ならばここにいる平助が厳罰に処せられたなら、豆太は天涯孤独の身の上となるのだな」
眉間に微かな皺を刻ませた修一郎がわずかに身を乗り出す。
その途端、大きく頷いた海華は鼻を啜りつつ隣の豆太を力一杯抱き締めた。
「ここ子はまだ三つでございます。それなのに……母親は行方知れず、その上に父親まで刑死なんて……! この子は何も悪くありません! お願いしますお奉行様、この子から父親を奪わないで下さいませ!!」
大きな瞳からボロボロと透明な涙を転がし、お白州にひれ伏して号泣する海華、その悲痛な訴えとその場の空気に飲まれてしまったのか、豆太も円らな瞳に一杯の涙を溜め、ひくひくしゃくり上げ始める。
「おとう、ちゃんっ! おとぅちゃぁぁぁん! いなくなっちゃイヤだぁぁ……イヤだよ、おとうちゃん帰ってきてよ――!」
静かだった空気を震わせる女と子供の激しい泣き声。
特に幼い豆太が号泣するのを目の当たりにして感極まったのであろうか、修一郎の右横に座する吟味方与力は目を真っ赤に充血させ、天井を見上げて何度も何度も瞬きを繰り返す。
「豆太ぁ……! すまねぇっ! 父ちゃんのせいで……すまねぇ、豆太すまなかったぁぁ!」
縛られたままの不自由な身体を捩らせ、遂に平助も涙に咽び始める。
涙、涙、また涙……。
広いお白州に満ちる三つの泣き声を聞きながら、修一郎は肺の奥から深い深い溜め息を吐き出した。
『あのような白州は初めてだったわ』そう笑いながら言った修一郎は、海華が持ってきた茶を美味そうに啜る。
彼の下座に座る桐野は、同調するように頷き、志狼の横に座る海華へ視線を投げる。
「海華の涙が効いたのであろう」
「確かに、豆太と二人見事な泣きっぷりだった」
修一郎と桐野が発した台詞に海華は微かに頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑う。
そんな彼女に横目で呆れた眼差しを向ける朱王。
彼は事のあらましを志狼から聞いていた。
そう、昨日のお裁きは最初から結果が決まっていたもの、謂わば八百長だったのだ。
修一郎は元々、平助を厳しい刑に処すつもりはなかったのだ。
それはひとえに豆太を不憫に思っていたからだろう。
しかし、引き込みを行った事は事実。
何の理由もなく無罪放免とするなど、彼の立場上出来はしない。
そこで、海華と豆太の出番だった。
「お前の嘘泣きが意外なところで役になったな。どれだけ、大袈裟に泣いたのか俺も見てみたかった」
呆れ半分の眼差しを海華へ向けつつ朱王は湯飲みを口に運ぶ。
彼女の嘘泣きと豆太の号泣のなか、修一郎が平助に下した裁きは『百叩き』。
引き込み役としては軽い刑罰だった。
きっと今頃、刑が執行されているだろう。
そして明日には、平助のは豆太のもとに戻ってくる。
そういう手筈になっていた。
押し込みの主犯、源五郎達は打ち首獄門となるのが確実だ。
いや、きっと修一郎ならばそうするだろう。
平助が『お礼参り』の危険に晒される可能性も限りなく少ない。
「そう言えば、平助達はこれからどうするつもりだ? 志狼よ、お前は何か聞いていないか?」
今思い出した、といった様子で志狼の方を向く桐野。
『はい』と一言返事をして、志狼は居住まいを正す。
「なんでも、もう江戸はこりごりだと。生まれ育った村の近くに叔母夫婦が住んでいるから、しばらくはそこに厄介になりたいと申しておりました」
「そうか。勿論、豆太も一緒なのだろうな?」
「はい……。母親がいないぶん、自分がしっかり豆太を育てる、と」
少しばかり口ごもりながら言う志狼に、桐野は軽く頷き胸の前で腕を組む。
次に彼の視線は、海華へと向けられた。
「親子二人、穏やかに暮らせるのなら言うことはない。だが海華よ、お前は寂しくなるな?」
その一言に、海華は無言のまま首を縦に振る。
一瞬、表情に現れた影。
しかし彼女はすぐさまにこやかな微笑みを取り戻し、お茶を返ると足早に部屋を後にする。
その後ろ姿を見送りながら、朱王は眉間に微かな皺を寄せると、厠に行く、と断りを入れてその場から立ち上がる。
向かったのは勿論、台所だった。
長い廊下を渡り、左に曲がった一番奥に台所はある。
人様の屋敷の台所に勝手に入るのは気が引ける
が、どうしても海華と二人きりで話したかったのだ。
湯飲みの中にある飲み残しを片付けていた海華、その背中へ小さく声を掛けると、驚いたように目を丸くさせ、彼女はこちらを振り返る。
「やだ、びっくりした。兄様どうしたの?」
「いや……お前に話があってな」
「話って、豆太の事でしょう?」
全てお見通しだ、そう言いたげな眼差しで朱王を見た海華は湯飲みを盆に乗せ、側にかけてあった布巾で手早く手を拭う。
「豆太には、親父の事を話したのか?」
「勿論話したわよ。お父ちゃんが帰ってくるって。あの子凄く喜んでたわ。当たり前よね……。だから、あたしはいいの。志狼さんも、豆太の一番良いようにしよう、って」
『寂しくなるけど、それでもいいの』そう掠れた声で呟いて、海華は静かに笑う。
そして、浮かない表情でこちらを見詰める朱王に数歩近寄り、その肩をポンと軽く叩いた。
「イヤねぇ、兄様。そんな顔しないでよ。あたしだっていつまでも子供じゃないんだから。離れるのが寂しい!なんて、駄々捏ねないわ」
「そう、か? それなら……」
『大丈夫だな』そう本心から言えない朱王。
彼女が、どんな時に痩せ我慢をしているのか、長年共に暮らしていた彼ならすぐにわかる。
心配なんだ、その一言が伝えられないまま、朱王は固く唇を結んだ。
「本当にお世話になりやした」
旅装束を身に纏った平助が深々と頭を下げる。
溶けきらぬ雪が道の端に点々と残る日本橋のたもと、今日は平助親子の旅立ちの日だ。
道中寒くないように、腹が減らないようにと志狼や海華が用意した旅装束を着込み、握り飯やら菓子やらを多すぎるほど持たされた豆太は父親の手をしっかり握り、始終笑顔を絶やさない。
これから先、再開できるかどうかもわからない豆太。
健やかに育つのか、食い物や金の苦労はしないのか、心配事は山ほどあるが、この笑顔を目の当たりにすると『行かないで』とは言えない二人だった。
「豆太、寒くねぇか?」
「うん」
「はい、これ。傷薬よ。それと……少ないけれど、何か困った事があったら使ってね」
豆太の前にしゃがんだ二人、志狼は豆太の襟巻きを巻き直し、海華は小遣い銭を握らせる。
「いやぁ、すみません。こんなにたくさん……」
「お前ぇにじゃねぇ、豆太にだ」
「へぇ……」
志狼に下から睨み上げられ、恥ずかしそうに俯き頭を掻く平助に朱王は最早苦笑いしかできない。
そんな大人達を前に、豆太は平助の手を離し、唐突に志狼の首に腕を廻して強く抱き付いた。
「ちゃん、優しくしてくれて、ありがとう」
「おぅ……。元気でな」
小さな身体を右手でギュッと抱き締める志狼の声が微かに震える。
次に豆太は志狼の手から抜け出ると、泣きそうに顔を歪めて海華の胸へと飛び込んだ。
「おかぁちゃん……ッ! おかぁちゃぁ、ぁん!」
「泣かないで……。元気でいれば、また会えるから。男の子は、強くいなくちゃダメなのよ? だから、もう泣かないの」
しゃくり上げる豆太の背中を懸命にさ擦り慰める海華の目尻にも透明な雫が浮かぶ。
まるで本物の親子が別れ別れになるようだ。
橋のたもとで繰り広げられる涙の別れ。
自分達の周りを過ぎ行く人々の送る視線に多少の居心地悪さを感じながら、朱王は軽く海華の肩を叩く。
それを合図としたかのように、海華はそっと豆太の身体を離す。
平助に手を引かれて人混みに消えていく豆太は、何度も何度も後ろを振り返り、紅葉の手を一杯に振る。
二人の姿が完全に見えなくなった時、両目から大粒の涙を転がした海華は志狼の肩口に顔を埋めこぼれる嗚咽を必死で堪えていた。
豆太がいない夜は、落ち着かないほど静かに、深々と更けてゆく。
『今日は早めにあがれ』桐野の言葉に甘えていつもより早く自室に引いた志狼は、海華が用意してくれた酒をちびちび舐めながら、揺れる行灯の灯りをボンヤリと眺めていた。
ふと、視線を横に移せば、自分に背中を向けて何やら手を動かしている海華の姿がある。
よく見ると、彼女の手にあったのは豆太のためにと用意した寝巻き、そして小さな肌着だった。
「―― あの子、無事に着いたかしら?」
寝巻きを畳んでいた手を止めて、海華がポツリとこぼす。
「日が暮れる頃には着いただろうよ」
「そうね……。―― やっぱり、神様なんていなかったのかしら」
唐突に妙な事を呟いた海華。
多少の驚きを隠せないまま猪口に残っていた酒を一息に飲み下し、志狼は身体ごと海華の方を向く。
寝巻きを置いた海華も、彼につられるようにこちらを振り向いた。
「なんでぇ、神様って……」
「志狼さん覚えてる? 豆太と初めて会ったお地蔵様の事。あそこね、『子授け地蔵』って言われてるの」
子供を望む女があの地蔵を拝むと子宝に恵まれる、風の噂でそう聞いてから、彼女はほぼ毎日あの地蔵に手を合わせていたのだ。
「豆太が出てきたときは、『あぁ、お願いが叶った』って、本気で思ったわ。でも、そうじゃなかった。……上手くいかないものね」
ふふっ、と小さく笑った海華は、きちんと畳んだ寝巻きに肌着を積み重ね、長持にしまいこむ。
これが再び日の目をみるのはいつになるのだろう。
「お前ぇはバカだなぁ」
「えーえーそうですよ。どうせあたしは学も何もない馬鹿ですよ」
「違う違う、そういう意味じゃねぇ」
間延びした声で溜め息混じりにそう言った志狼に、頬を膨らませる海華は、長持の蓋をいささか乱暴に閉めた後、彼の隣へと腰を下ろす。
すっかり膨れてしまった彼女に苦笑いした志狼は、猪口を膳に置く。
そのまま、彼の手は海華の腰に廻された。
「石の地蔵に手ぇ合わせて子供ができんなら世話ねぇぜ。子供ってなぁ、やる事やんなきゃできねぇだろうが」
そんな台詞と共にギュッと強く抱き締められて、一抹の寂しさが浮かんでいた海華の顔が静かに和らぐ。
「そっか……。そうよね。もう神頼みなんかしないわ。頼るなら、志狼さんによね?」
「ま、そういう事だ」
互いに顔を見合わせコロコロ笑う二人。
離れに灯っていた行灯の光が消えるのに、そう時間は掛からない。
漆黒に息づく星屑が音もなく瞬く夜、世界に広がる『夜』は、深々と更けていった。
豆太が海華達の元を離れて、ひと月あまりが過ぎた。
志狼に海華、そして朱王も豆太が現れる前とほぼ同じ生活に戻り、二人は毎日のように朱王の長屋を訪れて身の回りの世話を焼いている。
「―― おい志狼さん、海華の奴、随分と機嫌が良いが、何かあったのか?」
志狼が淹れてくれた茶を飲みながら朱王が尋ねる。
茶筒の中にある茶葉の量を確かめていた志狼は、チラリと戸口の方に視線を投げつつ『あぁ』と小さく頷いた。
「昨日、平助んとこから文が来たんだ。向こうで親子共々元気にやってます、ってな。雪が降る前に、必ず豆太を連れてご挨拶に伺いますとさ」
「なるほど、そういう事か。あの調子じゃ、今夜はびっくりするくらいのご馳走が出るな」
にや、と悪戯っぽい笑みで湯飲みを口に運ぶ朱王。
そんな彼の言葉を待っていたかのように勢いよく戸口が開かれ、箒を片手にした海華が顔を突き出す。
「兄様、これからお買い物に行くんだけど、何か欲しい物はない?」
「あぁ、そうだな……。特にコレと言ってはないが、今晩の飯はなんだ?」
「お夕飯? 兄様が食べたい物なんでも作るわ! 好きなもの言ってよ」
顔中から笑顔を溢れさせる海華を前に、朱王は『そら見ろ』と言いたげな視線を志狼に向け、すぐに『久し振りに肉が食いたい』とこぼす。
「お肉ね? じゃぁ鳥鍋にしましょうよ。奮発して鴨もいいわね。 あたし、これから買ってくるから。志狼さん、後はお願いします!」
箒を壁に立て掛け、前掛けを素早くほどいて上がり框へ放った海華の姿は、あっという間に長屋から消えていく。
「相変わらず単純な奴だ」
「それがあいつの良いところなんじゃねぇか」
駆け出す足音と土埃だけを残して消えていった彼女に、男二人は苦笑だ。
母親になるには少々落ち着きが足りないかもしれん、そんな事を心中思いつつ朱王はヒビの走る土壁に背中を預ける。
目の前に広がるのは半分だけ閉められた立て付けの悪い戸口と、そこから広がる長方形の青い空。
どこからか聞こえる赤ん坊の泣き声を、まだ冷たい空っ風が掻き消していく。
雪解け水でぬかるむ大地に春が芽生えるのは、もう少し先の事だ。
終




