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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十七章 邪念の贈り物
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第四話

 室内に上がり、朱王の前にちょこんと正座した豆太は、三人の様子を窺うように、それぞれの顔を見渡す。


 「豆太、お前ぇに聞きたいことがあるんだ。なに、そう難しい事じゃねぇよ、だからそんな顔するな」


 突然遊びを中断された不満か、それともいつになく真剣な志狼や海華の表情を見て不安に感じたのだろうか、豆太は海華の袖口をギュッと握り口を『への時』に曲げてしまう。


 「なぁ豆太、お前ぇ俺やおかぁちゃんに、何か内緒にしている事はないか?」


  自分の顔を覗き込むようにしてそう尋ねる志狼から一瞬目を逸らした豆太は親指の爪を噛みながら視線だけを朱王へ向ける。


 『喋ったな』そう言いたげに鋭く突き刺さる視線、幼い子供とは思えない昏く冷たい眼差しを向けられ朱王は少しばかり戸惑うが、豆太にしてみれば約束を破られたのだから、怒るのは当然だろう。


 ここで言い訳をしても豆太は余計頑なになり口を閉ざしてしまうに違いない。

そう考えた朱王は敢えて何も言わずに豆太の視線を受け止める。

 「そんなの、ない……。嘘じゃ、ない……」


 「そうか、ならもう一つ聞くぞ?最近台所から飯や菓子がなくなるんだが、これはお前ぇの仕業じゃねぇんだな?」


 「それ、は……えっと……」


 今にも消え入りそうな声でポツリと呟いた豆太は、そのまま舌を向いて強く唇を噛み締める。

そんな彼の肩に、海華の手がそっと添えられた。


 「豆太、いい?嘘じゃないならちゃんと話して。誰も怒らないわ。怒らないから、皆に話して聞かせてちょうだい」


 海華はそう優しく語りかけながら縮こまってしまった小さな身体を抱き寄せる。

眉間に皺を寄せ幼子には似合わぬ険しい顔付で彼女の胸に頬を寄せていた豆太は暫し無言を貫いた後、クスンと小さく鼻を啜る。

円らな瞳がみるみるうちに透明な雫で満たされていくのを目の当たりにした刹那、志狼は豆太の柔らかな髪をグシャグシャに掻き混ぜた。


 「豆太、俺はお前ぇを泣かせてぇ訳じゃねぇし、困らせようとも思ってねぇ。ただ本当の事を知りてぇんだ。困ってる事があるんじゃねぇのか?もしそうなら……ちゃんに話してくんねぇか?」


 「おかあちゃんも、豆太のためならなんでもするわ。だからお願い、話してちょうだい」


 自分の胸元を握る手に己の手を重ね合せて言った海華、そんな二人を交互に見ていた豆太は、とうとう堪え切れなくなったのか両の目からポロポロ涙をこぼし垂れた鼻水をしきりに袖口で拭う。


 「ごめんなさい……。いるの、床に下にいるの……。だから、毎日ご飯を持ってった」


 『ごめんなさい』そう繰り返しながら泣きべそをかく豆太の涙で汚れた顔を手拭いで拭き、背中を擦りあやす海華の後ろで志狼と朱王は顔を見合わせる。

縁の下にいるモノは一体なんなのか、その答えは意外にも早く豆太の口から明らかになった。


 「床の下にね、いるの……。おとうちゃんがいるの。だから……」


 「えっ……?おとうちゃん、って?」


 これには海華が素っ頓狂な声を上げて手にしていた手拭いをその場に取り落とす。


 「おとうちゃんって、豆太の本当の父ちゃんか?」


 「うん、おとうちゃんが床の下に隠れてる。悪い奴らに追い駆けられてるから、助けてくれって」


 途切れ途切れに声を絞り出す豆太を強く抱き締めた海華は、『これ以上聞かないで』とでも言いたげな目で志狼を見る。

それに気付いたのだろう志狼も一旦口を噤み、眉間に皺を寄せたままその場から立ち上がった。


 「――朱王さん、ちょっといいか?」


 「あぁ。ここじゃなんだ、なんだから表へ出よう」


 「わかった。海華、豆太の事頼んだぞ」


 豆太をあやす海華にそう言った朱王は、志狼と共に部屋を出ると普段より人気のあまりない長屋裏手にある塵捨て場へと向かう。

先程まで賑やかな笑い声をあげて遊びまわっていた子供らは部屋に帰ったのか、はたまた長屋を飛び出しどこかへ遊びに出たのか、その姿は長屋から消え、珍しく静かで穏やかな空気が周囲に満ちていた。


 「やっぱり、猫の正体は人間だったか」


 足元に飛んだ紙屑をぐしゃりと踏み締め朱王が呟く。

長屋の壁に背中を凭れさせるように立った志狼は、苦虫を噛み潰したような面持ちで奥歯を噛み締めた。


 「まさか、あいつの親父だったなんて……。朱王さん、これからどうしたらいい?」


 「どうするもこうするも、このまま縁の下に居候させる気か?まずは豆他の父親を引き摺り出すのが先だ。一体何に追われているのか、どうして豆太を手放したのか、それを聞き出さん事には始まらん。場合によれば、お前達や豆太が危ない目に遭うかもしれないんだぞ」


 志狼と同様顰め面を作った朱王が声を潜める。

豆太にはまた辛い面を指せてしまうかもしれない、しかしこのまま放って置けるわけもないのだ。


 うら寂しい雰囲気の塵捨て場で、男二人が額を突き合わせて何やらヒソヒソ話を交わす。

そしてこの日の夕方、橙色に燃える夕日が西の空に沈みかける頃、八丁堀へと続く小道には豆太の小さな手を引き桐野邸へ向かう志狼と海華、そして長い黒髪を空っ風にたなびかせ三人の後をつき歩く朱王の姿があった……。



 西の空が橙色から紫に移り変わる頃、桐野邸の客間には主である桐野のほか、朱王に志狼、そして豆太を抱いた海華の姿がある。


もうすぐ行燈に火が灯される頃合いだろう、濃い影が音もなく侵食していく客間に座する朱王達の間に立ち込め得る空気はピンと張り詰め、どこか冷たさを感じさせる。


誰も口を開かない静けさに満ちた空間で、豆太は海華の胸の中で身を縮こませ、しきりに親指の爪を口に運んでいた。


「……さて、そろそろ行こうか」


湖面に張った氷のように滑らかで透明な静寂を打ち破ったのは、桐野の一言だった。

その一言に小さく頷いた志狼はすぐにその場を立ち上がり部屋を出ると、灯りを付けた提灯を二つ手に、再び客間に姿を現す。


 その一つを朱王に手渡した志狼は、先に部屋を出て行った桐野の後を追って部屋を出て行った。

暖かな光を放つ提灯を持った朱王は、豆太を抱いたまま腰を上げようとした海華の傍に寄りさりげない仕草で彼女の肩に手を添えた。


 「おい、大丈夫か?」


 「ええ、あたしはね。ねぇ豆太、豆太は大丈夫?」


 胸元を強く握り締める豆太のしなやかな髪に頬擦りし、出来るだけ優しい声で問い掛ければ、豆太は唇を噛み締めたままコクリと頷く。


 不安げな光を宿す瞳は朱王が持つ提灯をじっと見詰め、強張った顔は薄暗い中でも白く見える。

これから彼は、重要だが辛い役目を果たさなければならないのだ。


 「豆太、これはお前にしかできない事なんだ。おとうちゃんのためにも、お前のためにもなる事なんだ。辛いだろうが、頼んだぞ」


 「……うん、わかった」


 真剣な面持ちで豆太を見下ろし、そう言った朱王。

彼を見上げて小さな唇を蠢かし、早口に答える豆太は引き攣るような笑顔を見せる。


 健気な彼の様子に、朱王は思わず『偉いぞ』と呟き唇を綻ばせて豆太の頭を撫でた。


 「おい、何やってんだ?早くきてくれ」


 一向に姿を現さない三人を呼ぶ志狼の尖った声が廊下の向こうから響く。

それに急き立てられるように廊下へと出た三人が向かったのは、志狼と海華が寝起きする部屋、離れと母家を繋ぐ渡り廊下だ。



 先に行っていた桐野と志狼が見守る中、豆太は海華から離れて廊下へ降りると、猿のようにすばしっこい身のこなしで廊下の下へと降りる。


 提灯を持ち、豆太の動きを目で追う朱王の隣では、顔一面に『不安』と『心配』を張り付けた海華が寄り添う。

四人の視線を一身に受けた豆太は、四つん這いの状態で縁の下に潜って行った。


 「豆太……大丈夫かしら?」


 不安を堪え切れなくなったのか、震える声で海華が呟く。

そんな彼女を横目に、志狼は唇に一指し指を押し当てて何やら言いたげに自身の足元を指差した。


 「え?志狼さんなに……?」


 「静かにしろ、何か聞こえるみたいだ」


 志狼を代弁してか、朱王が海華の耳元で小さく囁く。

途端にグッと唇を噛んだ海華が神経を耳に集中させると、なるほど、シンと冷えた空気の中に何やら人が囁く微かな声が聞こえるのだ。


 そして時おり、ガサゴソと何かが蠢く物音もする。

息を詰め、足元から聞こえる声と物音に集中する志狼は瞬きすらも忘れてしまったように目を見開き、その場に立ち尽くしていた。


 やがて、黒一色に染め上げられた縁の下から、二つのより黒い塊が砂利を擦る耳障りな音と共に姿を現す。

背中を丸めて這い出してきた黒い影に、志狼と朱王はほぼ同時に提灯を掲げて漆黒を光で散らす。


 ぼんやりと眠たげな光の粒子に映し出された人影は『ヒィィッ!』と掠れた悲鳴を上げてその場にドンと尻餅をついた。


 「な、なな、なんだ、っ!?豆太……おめぇ!」


 「ごめんね、おとうちゃんごめんね……」


 地面を掻き毟るように激しく動く痩せた腕にしがみ付いた小さな影から、涙を混じらせたか弱い謝罪が何度も何度も繰り返される。

冷たい砂利の上で固まる影の退路を断つかのように、朱王路志狼は廊下から地面へ闇を裂き、音もなく飛び降りた。


「随分とでけぇ猫が出てきたもんだな」


そう一言呟いた志狼は、地面に座り込む男の襟首を鷲掴み、右腕一本で引き摺り上げる。

ひぃ、と情けない悲鳴を上げつつその場に突っ立た男は、怯えきった眼差しを朱王や志狼、そして廊下から自分を見下ろしてくる桐野へと向ける。


 「お前が豆太の父親か?」


胸の前で腕を組み、そう問い掛けてきた桐野に、男は唇を戦慄かせながらガクガクと首を縦に振る。

それを合図としたかのように、志狼は男の胸ぐらを鷲掴み、その場に引き立たせる。

意思を持たない人形のようにされるがまま立ち上がった男は、細身の身体をこれ以上ないくらい小さく縮こませガクリと頭を垂れた。


 「いつまでもここに突っ立っていても仕方があるまい。話は中でゆっくり聞こうではない

か」


 そう一言残し踵を返した桐野、彼の後に続いて男の襟首を掴んだままの志狼、そして逃走を阻むように男の横にピタリとついた朱王が行く。

次第に小さく薄くなる提灯の灯り、暗さを増す中庭に残されたのはポツネンと立ち尽くす豆太と海華の二人だけだ。


 小さな唇を強く噛み締めたまま父親の背中を凝視する豆太の手を取り、海華は中へ入るよう彼を促す。

『豆太』そう海華が微かに声を掛けると、豆太は一度小さく鼻を啜り、彼女の手を強く握り返した……。







 志狼と朱王によって客間へと引き立てられた男は、叱られた子供のように背中を丸めて項垂れたまま、しわがれ声で自身の身の上を語り始めた。


 彼は名を平助と言い、豆太の実の父親である。

もとは江戸から遠く離れた寒村で女房と豆太、親子三人で仲睦まじく暮らしていた。

猫の額ほどの畑を耕し糊口を凌ぐ、貧しい生活。

しかし優しく朗らかな女房と気は小さいが己によく似て気持ちの優しい息子との慎ましい生活は、彼にとって何物にも代えがたい大切な物だった。


 しかし、その生活は前触れもなく音を立てて崩れ去る。

女房が、以前より家に出入りしていた薬売りと駆け落ちした。


 息子共々捨てられてしまった彼の生活は荒れに荒れ、仕事なんぞは手に付かない。

酒に溺れ、日がな一日飲んだくれては泣き、泣いては飲んでの繰り返し。

気付いた時には畑も家財道具も借金のカタに取られ、村にも居づらくなり豆太の手を引き逃げるように村を飛び出したのだ。


 「もう、あの時は自暴自棄ってぇ奴でして……もうどうなってもいいや、いっその事、この餓鬼連れて崖からでも飛び降りちまおう、なんて思ったもんです。何しろ、あっしは手に職もねぇ学もねぇ、畑耕すしか能のねぇ男なもんで。物乞いでもしなけりゃ野垂れ死にするなぁ目に見えてやしたから……」


 火鉢は赤々と燃えている、しかし染み込むような冷気に満たされた畳に正座したまま唇を動かす父の姿を、海華の膝に抱かれた豆太は円らな瞳でじっと見詰めている。

悲惨と言えば悲惨、息が詰まるくらい重苦しい彼の話を黙って聞いていた桐野は、海華が淹れた熱々の茶を眉を顰めて一口啜った。


 「村を出てからどれくらい過ぎたかわかりません、とにかく寒いわ腹は減るわで……あとちょっとで江戸だってところで、もうどうにも歩けなくなっちまったんです。道の端にへたり込んじまったんです。そうこうしている所に、あの人が声を掛けてきて……」


 「あの人とは?」


 「源五郎親分です。行くとこがねぇなら、俺と一緒に来い、ちょっとした仕事を手伝ってくれたら食うもんにも寝る場所にも不自由させえねぇし、豆太の面倒もみてやる、ってぇ言ってくれたもんで、こりゃ地獄に仏だって思いまして」


 頭を垂れ、じっと畳の一点を見詰めたままの男は抑揚のない声で淡々と語る。

生きるか死ぬか、極限の世界で現れた男は源五郎と名乗り十余人余りの男……上は始終を過ぎた者から十五、六の青年までを引き連れて江戸へ向かう途中だと話した。


 彼は食事と寝床の提供を約束する代わりに、ある条件、自分達の仕事の手伝いをしろと迫ったのだ。


 「飯が食えるだけでも万々歳ってぇもんです。もう喜んでついて行きましたよ。で、源五郎親分から言われたのは、ある店に下遣いでも下男でも何でもいいから入り込んでくれ、って。働き始めて十日くらいしたら、投げ文をする、そうしたらその夜に買って口の錠を開けて置けと言われて、俺、まさかあんな事になるなんざ思わねぇから……」


 そこまで口にすると、男は膝の上に置いた両手を強く握り締めて唇を噛み、そのまま黙りこくってしまう。

勝手口の錠を開けた後、その店がどうなったのか……男の口から利かずともその場にいた者には十分に想像がついた。


 「目の前で旦那や女将が斬り殺されて、丁稚まで……もう恐ろしくて恐ろしくて、親分のとこから何度逃げ出そうと思ったか……でも、もうお前も盗賊の一味だ、下手に逃げればお前の命も豆太の命もねぇって脅かされて……だから俺、なんとか豆太だけでも助けたくて……」


 『餓鬼は足手纏いになるから棄ててくる』そう誤魔化して昼寝中の豆太を連れ出し、町はずれの藪の中へ置き去りにした。

その後、豆太は父親を探してさ迷い歩き乞食同然の出で立ちで、海華達に発見された地蔵堂に辿り着いたのだ。


 『誰か親切なお人に拾われたらいい、いや……いっそ物乞いでもいいから生きていて欲しかったんです』


 そう絞り出すように呟いて、男は細かく肩を震わせた……。


 「豆太を手放してからも、親方に言い付けられて何度か、その……引き込み役になりやした」


 床下にいた時から羽織ったままの、埃で白く煤けた紺羽織。

その袖口を忙しなく指先で弄りながら、男……いや、平助は煤けた指先で鼻先を擦る。


 生きるため、殺められぬため、言われるがまま引き込み役として商家に忍び込んでいた、ある日の事である。


 「旦那に頼まれて街に使いに出掛けた時でした、人混みの中に豆太が……豆太を見付けたんです。知らねぇお人と一緒に、あ、そこにいるお方と一緒に歩いていて、もういても経ってもいられなくなって……」


 あの日、志狼が焼き芋屋に立ち寄った一瞬の隙をついて豆太を呼び止め、道の奥へ誘い込んだ。

急に現れた父親に豆太は大喜び、何の疑いもなく後を着いてきたのだ。


 「その時に豆太から聞いたんです。今は八丁堀のお侍様のお屋敷にいる、って。その時思ったんです。もしかしたら親分から、賊の一味から逃げ出せるんじゃねぇか、って」


 「与力組頭宅に乗り込んで来るほど相手も馬鹿ではないだろうからな」


 呆れ半分に呟いた桐野に、平助は無言で小さく頷く。

彼の背後では、朱王ら四人が固く唇を結んだまま平助の話に聞き入っている。


 「はい、その通りでごぜぇやす。豆太には、悪い奴らに追い駆けられている、助けてくれと言いまして、ここの場所を聞き出しました。その日の夜に店を出て、ここの軒下に隠れて……」


 豆太に頼み、余った食物や水を運んでこさせた。

そう平助が口にしたのと同時、豆太を抱いていた海華が弾かれたように顔を上げた。


 「ねぇ、ちょっと待って。食物を盗らせたのはわかったわ。それなら、あたしの人形や旦那様の香炉も、あなたが?」


 「へぇ、いつまでもコソコソ縁の下には居られません。頃合いを見計らって豆太とここを出ようと。江戸を出るにもなんにしても、金が必要だと思って。でも、香炉も硯も二束三文にしかなりやせんでした。あの人形が三両で売れたから、まぁいいかと……」


 いかにも残念そうに肩を落とす平助の後ろで、海華の両目がこれ以上ない程大きく見開かれた。


 「三両!? あの人形が……たった三両!? 」


 「随分な買い叩かれようだな? 俺の人形もその程度だったか」


 朱王の人形と言えば、江戸は勿論、上方の豪商・大名がこぞって求めたがる一級品。

しかも海華の人形は決してこの世に出回る事がない、まさに幻の一品だ。

それがたった三両程度で買われた、これには朱王も怒りを通り越して苦笑いしか出てこない。


 海華がなぜこうも驚くのか、よく理解できない平助は、きょとんとした面持ちで三人の顔を交互に見遣った。


 「もう、よくもそんな値段で叩き売ってくれたわね。……それより旦那様。これからどうしましょう」


胸に抱いた豆太の身体を抱え直し、海華が眉根に軽く皺を寄せる。

うむ、と軽く唸って顎の先を指先で擦る桐野は、朱王と志狼、そして平助にチラと視線を投げた。


 「勿論このままにしておくわけにはいかぬな。ましてや目の前に賊の引き込み役がいるのだ。儂一人だけで即決はできぬゆえ、明日にでも修一郎と話をせねばならぬ」


 『ただ、儂にも一つ案はある』そう意味深な台詞をポツリとこぼし、桐野は薄い唇の端を微かに上げた。






 薬種問屋『香桜屋』は江戸でも五本の指に入る大店だ。

江戸、上方はおろか日本全国、舶来から仕入れた数多の薬を商う店内は、この日も薬を買い求める人々で賑わい、店の者たちも右へ左へと忙しく立ち回っている。


 店内に広がるのは、漢方薬や煎じ薬独特の苦みや香ばしさ、そして鼻をつく埃っぽさが混ざり合い、この空気を吸っただけでも、風邪気くらいなら改善してしまう気さえする。


 濃紺に染め抜かれた大きな暖簾が寒風に揺れる。

まるで手招きをするような暖簾の動きに誘われて、一人の中年男がノソリと店内に足を踏み入れた。


 百姓を思わせる日焼けした肌、角ばった顔には額や目元に深い皺が幾筋も刻み込まれ、右の小鼻部分には黒々とした黒子が一つ鎮座している。


 雄牛の如く太く短い首、背はそれほど高くはないが、筋肉質の大柄な身体をノソリノソリと左右に揺らしつつ歩く男は、框へ腰を降ろすと小さな目で店内を一瞥した。


 「いらっしゃいませー!」


 男の姿を見付けた女中は、茜色の着物を翻しにこやかな笑顔で彼の前に膝を着き、深々と頭を下げる。

綺麗に結わえられた黒髪、そこに光る粗末な銀の簪が入り口から差し込む冬の日差しを鋭く反射させた。


 「いらっしゃいませお客様。どのようなお薬をお探しでしょう?」


 「あぁ……。二、三日前から頭病み(頭痛)が酷くてね」


 「あら、それはお辛うございますねぇ。寒くなると痛みが酷くなるお方が多いんですよ」


 眉間に微かな皺を刻みつつ何度か頷く女は、若いのか年増なのかよくわからぬ容貌だ。

丸薬がいいか、粉末がいいか、先日入った舶来物の良い痛み止めがある、そんな事を笑みと共にペラペラ話す女の話を相槌を打ちつつ聞いていた男の視線は、目の前の女ではなく、店の奥、母家や蔵へと続く入口へ忙しなく向けられる。

その時だった。


 「おハナ、おハナはいますか?」


 店の奥、ちょうど暖簾の向こうからよく通る男の声が店内に響く。

弾かれるように背後を振り向いた女は、『はぁい』と甲高い返事をし、男に一礼してその場から腰を上げ、声のした方へと向かう。


 「旦那様、何か?」


 「えぇ、ちょっと小石川の方まで用事を足しに出掛けてきます。平助も一緒に連れて行きますから」


 「はい、わかりました。旦那様は本当に平さんがお気に入りですねぇ。あ、でも平助さん一人じゃ何かと心配ですから、征さんと信さんもご一緒にお願いします。征さぁん!信さん!来てくださいなー!」


 そう言いながら女は口の横に手を添え、店の奥に向かって大声を張り上げる。

それを待っていたかのように、ミシミシと床板を踏み締める音が聞こえ紺色の羽織を纏った男が二人、暖簾を押し遣りニュウと顔を突き出した。



 『呼んだか?』と、色の白い細身の男が小首を傾げる。


 「旦那様がお出掛けになるの。征さん信さん、お供をお願いします」


 「うむ、承知し……いやいや、わかりました、すぐに支度を」


 細身の後ろには熊によく似た大柄な体躯の男が顔を歪ませるように奇妙な笑顔を作り出し、ぎくしゃくと小首を縦に振る。


 お手間をお掛けしますねぇ、そう言い残して、眼鏡の向こうから微笑みを投げ掛けたこの店の主は、紺羽織の二人組を伴い店の奥へと消えた。


 「お待たせして申し訳ございません」


 パタパタ小気味よい足音を立てて小走りに駆け戻ってきた女は、苦笑いと共に小さく会釈し、男の前に再び腰を降ろす。

すぐにお薬を用意致します、そう口にした女を軽く呼び止めた男は、彼女に耳打ちをするように顔を近付け微かに唇を蠢かす。


 「今のお方がここの旦那様かい?」


 「はい、さようです。少し前まで若隠居されていたんですが、先日お店を切り盛りしていた番頭さんが卒中で寝た切りになってしまわれまして。半ば無理矢理とでも言いますか、旦那様にお店に出て頂くようになったんです」


 元から話し好きなのだろう、聞かれた以上の事を小声で答える女は、唇の端を小さく上げて更に話を続ける。


 「それでも昔からの癖はなかなか直らないもので、今もああやってフラリと出掛けてしまわれるんです。それでなかなか帰ってこない。だから、必ず店の人をお供に付けて……。あら、私こんな余計な事まで。申し訳ございません」


 うふふ、と含み笑いを残し、少女のように可愛らしく小首を傾げた女は、ペコリと小さく頭を下げ、薬を取りに向かうため暖簾の奥へと姿を消した……。

 

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