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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十七章 邪念の贈り物
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第三話

 己に向けられる二つの視線にも臆することなく、真っ直ぐにこちらを見詰める志狼へ、軽く片眉を上げた修一郎は、『そうか』と一言呟き何度か小さく頷く。


 「まぁ、いずれはこのような話が出るのではないかと思っていたが、随分と早かったな。」


 志狼へ言ったのか、それとも自身に言い聞かせているのかわからぬ一言を放ち緩く口角を上げた修一郎は胸の前で深く腕を組む。


 「桐野からも聞いておるぞ。この短期間で豆太は随分お前達に懐いたと。まるで本物の親子のようだ、とな」


 『本物の親子』とは一体どんな状態を示すのか、あえて聞きはしなかった志狼だが、その顔には先程まで現れていた緊張の様子はなく、どこか柔らかな面持ちに変わる。

しかし、次に修一郎が発した一言に、志狼は再び表情を強張らせ固く唇を噛み締めてしまったのだ。


 「だが志狼よ、豆太はいつまでも三つの子供ではない。いつまでも『素直な良い子』であるとは限らぬ。それに……お前と海華の間に」これから子が出来るやもしれぬ。お前も海華も、豆太と実の子を分け隔てなく可愛がる事が出来るのか?」


 修一郎の指摘に、志狼は噛み締めていた唇を更にきつく噛み、己が膝先をじっと見詰める。

そんな彼に目を遣ったまま、修一郎は更に続けた。


 「あの子が不憫だ、懐いたからにはこのまま放り出せないとのお前達の気持ちはよくわかる。だが、あくまでも豆太は他人だ、もしもこの先、横道に外れるようなことがあるやもしれん、お前らに恩を仇で返すような真似をするやもしれん。それでもお前達は豆太を自分達の子供として受け入れられるのか?恩知らずだ、これだから貰い子は、だのと思わぬか?俺はそれだけを案じておるのだ。いや、俺だけではない、そこの志狼も桐野も同じ気持ちだ」


 修一郎の口から一気に溢れ出た彼の、いや、彼と朱王、そして桐野の三人の気持ちを黙って聞いていた志狼だが、やがて彼はゆっくりと顔を上げ、朱王と修一郎を交互に見た。


 「朱王さん、本当に、朱王さんも同じ考えなのか?」


 微かに震える、志狼には珍しい力を失った声色に、朱王は顔色一つ変えず頷く。


 「あぁ、そうだ。修一郎様の仰る通り。俺も諸手を上げて賛成はできない。一つ間違えば……お前達も、豆太も不幸になる。お前達が豆太を案じて可愛く思う気持ちは俺にだってわかるが、まだ引き取ると決めるのは時期尚早じゃないかと思う。豆太だって、まだ気持ちの整理がつかんだろう」


 自分達はいい年をした大人だが、豆太はまだ三つの幼子、突然志狼と海華を新しい親だと思え、というのも酷だろう。

今、豆太が自分に懐いてくれるのも一過性のものかもしれない。

二人の言葉を受けて志狼は考える、自分は事を急ぎ過ぎた、全てを先走って考えたのではないか。

大人の考えばかりで事を進めて行けば、結局豆太のためにはならない、自分達の自己満足で終わってしまうのだ。


 無言を貫いたままの志狼を横目に、朱王はどこかバツが悪そうな面持ちを造り指先で頬を掻いた。


 「別に、お前が父親に向いていないと言っている訳じゃない。それだけは分かってくれ。あの通り豆太は海華にベッタリだ、ま、豆太も気は弱いが性根の優しい子だ。とにかく、もう少し……」


 「わかった、わかったよ朱王さん」


 へへッ、と乾いた笑いを放ち人差し指で鼻の下を軽く擦る志狼は、徐に顔を上げて修一郎に向き直る。

何かが吹っ切れた、そう感じさせる彼の表情に、修一郎は僅かに目を細める。


 「修一郎様や朱王さんの仰る通りでした。『とうちゃん』なんて呼ばれて、浮かれ上がってたみてぇで……。もう一度、皆で話し合って見ます。勿論、豆太も一緒に」


 一番の主役は豆太、どうしたら彼が一番幸せになれるか、それをもう一度、皆で考えて行こう。

そう決心した途端、志狼の身体からフッと力が抜けて行く。

それは朱王も同じだったようで、ふぅ、と大きめの溜息をついた彼は顔に触れる黒髪をワサリと大きく掻き上げた。


「どれ、話はこれで終わりだ。海華と豆太を呼び戻そうか。早くせねば、また海華が臍を曲げるぞ」


 冗談半分で言った修一郎だが、朱王と志狼は大真面目な顔で大きく頷く。

海華達を呼ぼんで来ようと志狼がその場から腰を上げたその時だった、パタパタと床を弾くような軽やかな足音が聞こえ、障子に一際小さな人影が浮かぶ。

カラカラ……と小さく開いた障子の向こうには、頭の天辺で髪を結わえた豆太が漆黒の瞳を瞬かせ立っていた。


 「おぉ、豆太」


 ニヤと唇を吊り上げて豆太を手招きする修一郎にモジモジはにかみ障子から半分だけ顔を出した豆太は、上目遣いで志狼を見る。


 「ちゃん、旦那しゃま……」


 「ん?」


 「旦那しゃまが……」


 たどたどしい口振りで『旦那しゃま』と繰り返す豆太、やがて廊下の向こうから先程より重い足音が聞こえ、豆太の小さな身体を覆い隠すように漆黒の人影が長く伸びた。


 「遅くなってすまなかった」


 修一郎と同じく頬を赤く変え、軽く息を切らして豆太の後ろに立った桐野は豆太を掬い上げるように抱き上げる彼へ朱王と志狼は深く一礼し、修一郎は早速部屋の中へ招き入れた修一郎は、大声で雪乃を呼びつけ酒の支度をするよう命じた。


 「遅かったな、例の押し込みか?」


 「あぁそうだ。大手町で昨夜一軒あっただろう。最近雇った下男が一人行方知れずと店の者が話していてな。どこにでもいそうな中年男だったらしい」


 「男?男の引き込み役とは珍しい。確かこれで三件目だったな。全く、年の瀬に物騒な」


 眉間に深い皺を寄せて顎を擦る修一郎、彼の右手側に腰を降ろす桐野の膝の上では、豆太がちょこんと座ったままキョロキョロ辺りを見回している。


 「旦那しゃま、おかぁちゃんは?」


 「ん?海華か?勝手にいるはずだ。ほら、行け」


 細い胴体に回していた腕を外してやれば、豆太は桐野の膝の上からピョンと飛び降り小走りに部屋から駆け出していく。

からくり人形のようにも見える彼の忙しない動きに小さく微笑んでいた朱王は、何かを思い出したかのように唇を開いた。


 「海華は『おかぁちゃん』なのに、志狼さんは『ちゃん』のままなんだな?」


 「昨日は『おとうちゃん』って呼んだんだぜ?寝惚けた一瞬だったけどよ。そのうち、きっと『おとうちゃん』って呼んでくれるさ」


 へへッと照れ臭そうに笑う志狼を見ていた桐野は、修一郎に顔を寄せて何やら耳打ちをする。

そして修一郎から返った返事を聞いた彼は満足そうな面持ちで何度か頷いた。


 やがて、盆に何本もの徳利と酒の肴を乗せた雪乃と海華が客間に戻り、宴は幕を開ける。

初めて目にするであろう大人の酒盛りに、豆太は興味津々と言った様子で酒精に顔を赤く染める修一郎や酔いが回り口の周りが良くなる志狼を眺めていたが、やがて夜も更けるにつれコクリコクリと居眠りをし始め、やがて海華の膝で眠り込んでしまった。


 このままでは豆太が可哀想だ、そう思った海華は陽気な笑い声を立てて猪口を空にしていく志狼の袖を軽く引く。


 「志狼さん、あたしこの子連れて先に帰るわ」


 「ん?帰る?あー……豆太の奴、寝ちまったか。わかった、じゃぁ俺も」


 「あら、志狼さんはいいのよ。あたし一人で大丈夫……」


 「馬鹿、夜道を女子供だけで帰らせられるかよ。修一郎様、申し訳ありませんが、私達はこれでお暇致します」


 ふらつきながら畳に手をつき暇を乞うた志狼に修一郎は笑いながら頷く。

志狼と海華、二人揃って深く頭を下げ、くぅくぅ寝息を立てる豆太を器用に背負った志狼は、若干よたつきながら部屋を出て行く。


 「それじゃぁ、私もこれで失礼致します。兄様も、今日はありがとう」


 志狼同様畳に手を着き軽く頭を下げる海華に、朱王は手にしていた猪口を膳の上に置いた。


 「いや、いいんだ。その……話の内容は志狼さんから聞くんだぞ」


 「うん、わかりました」


 ニコリと笑って再び一礼した海華。

部屋を出て行く彼女の後ろ姿を眺めつつ、修一郎は小さな溜息をついて首の後ろを掻く。


 「おい桐野見たか?豆太を背負って出て行った志狼を」


 「あぁ、見たぞ。どこからどう見ても父親だ。顔付も全く違う。昔の志狼からは考えられん。人は変われば変わる物だ」


 しみじみとした口調で言った桐野は、酒精のためか、それとも疲れのためかわからぬ充血した目を何度か瞬かせる。

豆太が二人の実子だったなら、きっとどこよりも仲睦まじく幸せな親子になっただろう。

これから豆太の親が名乗り出てくるのかすらわからぬ今の状況が、修一郎らにとって最も歯痒いのだ。


 『豆太が海華の子供であったらなぁ』そう独り言のように呟いた修一郎の言葉が、桐野と朱王の桐野の耳に長くこびり付いた。







 「ねぇ志狼さん」


 鼻歌混じりに夜道を行く志狼の隣に並び歩く海華が、手にした提灯を左右に揺らしながら唇を動かす。

頭上には暗雲が埋め尽くす夜空が広がり、月も姿を隠す夜、八丁堀へ帰るには提灯が必要不可欠だった。


 「なんだ?」


 「さっき、修一郎様に何て言われたの?」


 こちらへ顔だけを向けながら訊ねる海華に、志狼は一瞬口籠りながらも途切れ途切れに修一郎、そして朱王と交わした会話の内容を話して聞かせる。

きっと彼女にしてもそれなり心に刺さる内容だろうその話、唯一の救いは豆太があの場にいない事だった。

そして今も、自分の背中で安らかな寝息を立てている。


 志狼の話が全て終わった後、海華は暫し無言だったが、やがて微かに頬を緩めて『そうね』と小さく呟いた。


 「修一郎様の仰る事も、確かに一理あるわね。兄様も、きっと心配なのよ。あたし達の事も豆太の事も。あたしや兄様は、今の豆太と同じ境遇だったから余計よね」


 自嘲気味の笑みを混ぜつつこぼした彼女の台詞に志狼は返す言葉が見付からない。

実の両親が鬼籍の人となった後、養母に折檻され続けた地獄の日々。

志狼と海華が豆太に同じ真似をするなど修一郎も志狼も本気で考えている訳ではないだろう、しかし実子と継子を分け隔てなく育てる事も皆が考えているよりずっと難しいのかもしれない。


 「実を言えばな、俺も……迷うんだ。今は豆太が可愛いと思う。ちゃんって呼ばれれば嬉しいさ。でもな、もしもこれからお前が俺の子を産んだら、今のまま変わらずに豆太を可愛いがれるのかって。どこかで豆太をないがしろにしちまうんじゃねぇのかって。絶対そうならねぇって保証は、どこにもねぇだろう?」


 歩みを止めぬまま心に内を吐露していく志狼の話を、海華は時おり相槌を打ち、何度も頷きながら聴いている。

自分達は、人一人を育てて行けるだけの甲斐性がある人間なのだろうか?

血の繋がらぬ子を慈しみ幸せにしていけるのだろうか?

豆太を愛おしいと思う気持ちと底の見えない不安が混ざり合い、心の中に延々と渦を巻く。

背中に感じる温もりと重みが、今の志狼には何よりも重く感じた。


 硬く厳しい表情に変わる志狼の白布で吊った左腕にそっと手を掛け身を寄り添わせた海華は、志狼とは反対に表情を綻ばせニコリと白い歯をその口元から覗かせた。


 「志狼さん、そんなに思い詰めないで。もしも、志狼さんが豆太に酷い事しそうになったら、あたしが絶対止めるから。殴られても蹴られても、あたしが止める。だから心配しないで。豆太を育てるのは志狼さん独りじゃないわ。その代り……」


 一度言葉を区切り息を整えた海華は、自然と足を止めた志狼の肩に頬を寄せる。


 「あたしが豆太に酷い事しそうになったら、絶対に止めてね?」


 『絶対よ』そう静かに言った海華の手が、吊られた左手をきつく握る。

二人にとっては、そして豆太にとっても人生の一大事、自分一人がいつまでも悩み迷っている訳にはいかない。

海華と豆太を守るのが、今の志狼がやるべき事だ。


 「……わかった。わかった海華。豆太は、俺とお前で、二人で守ろう。絶対にこいつを幸せにしような」


 固い決心を含ませた声色でこちらへと顔を向ける志狼に、海華はニッコリと満面の笑みで大きく頷く。

やがて二人は屋敷の裏口へと到着し、提灯を携えた海華が片手で裏口を押し開いた。


 「ん?あら?」


 裏木戸を潜った海華が、キョトンとした面持ちで自分の左手側、ちょうど前栽と松の木の陰となっている部分へ提灯を翳し奥を覗き込むように身を乗り出す。


 「海華、どうした?」


 彼女の前を歩いていた志狼が足を止めて屈み込むように前栽辺りへ目をやる海華の背中に声を掛ける。

すると彼女は何度か小首を傾げつつその場から身を起こした。


 「そこで何か動いたような気がしたの」


 「何か動いた?まさか、泥棒か?」


 『泥棒』口にした途端、志狼は背負っていた豆太を素早く降ろして海華へ託す。

そして彼女から提灯を受け取ると、それをぶら下げたまま『そこよ』と海華が指さした場所へ向かおうとする。


 彼が一歩足を踏み出したときだった。


 「にゃおう」


 「あ?」


 「にゃぁおぅ……」


 松の木の遥か向こうから聞こえる間延びした、どこか気怠い鳴き声。

それに続いて、カサカサと下草を踏む軽い足音が聞こえ、暗闇に細長い尻尾か舞う。

固かった志狼と海華の表情が一気に緩んだ。


 「なんでぇ、猫か」


 「嫌だわ、もう。志狼さん驚かせてごめんなさい。さ、早く中に入りましょう」


 『風邪を引いちゃうわ』そう言いながら志狼さんを手招く海華の胸で、豆太は相変わらず静かな寝息を立てて眠っている。

寒さに肩を竦め、海華に寄り添って屋敷へと入る志狼さんの右手で、風に揺られた提灯が小刻みな瞬きを繰り返す。


 特段の変わりなく更けゆく冬の夜、しかし、翌日からこの屋敷で不可解な出来事が連発するようになるのを、今の二人は知るよしもなかった。





 「―― おかしいわねぇ……」


 おひつの中を覗き込みながら、しきりに小首を傾げる海華。

洗濯物をを終え、左腕を白布で吊り直していた志狼は、『またか』と言いつつ彼女の後ろから顔を覗かせた。


 「またよ。さっき見たときはもっとご飯が残ってたのに……」


 『おかしいわねぇ』再びそう呟きながらお櫃の蓋を閉める海華。

最近、この台所ではお櫃に入れた飯が少なくなっていたり、作り置きしていたおかず、買い求めた菓子がなくなるなど、奇妙な現象が立て続けに起きているのだ。


 最初は鼠の仕業か、はたまた誰かがこっそり食べたのだ、くらいにしか思っていなかったのだが、こう毎日食べ物が消えるというのはどうもおかしい。


 第一、鼠が食べたと言うのなら食い散らかされた食物で周囲が汚れていてもいい筈なのだが、台所はいつもの通り綺麗に整頓されたままなのだ。


 一昨日などは竹籠に干し柿を盛り、布巾を掛けておいたのだが、中の干し柿が半分なくなっていた。

布巾は元通り籠にかかったまま、鼠の仕業でない事は一目瞭然だった。


 「あたしは食べていないし、志狼さんじゃぁないわよね。勿論旦那様じゃないし……。だとしたら豆太?」


 「飯が足りねぇのか?育ち盛りだから、腹が減るのも早ぇえのかな?」


 豆太が盗み食いしたところを確認したわけではないため、はっきり断定できない。

だが、彼以外には考えられないのもまた確かである。


 「腹が減ったってんなら仕方がねぇが、盗み食いはよくねぇな。今夜あたり、豆太にそれとなく聞いてみるか」


 台所から離れへ向かおうと廊下に出た志狼の言葉に、後ろを歩く海華も同意するように頷く。

と、何かに気が付いたように海華の歩みがピタリと止まった。


 「そう言えば、豆太はどこに行ったのかしら?」


 「庭で遊んでいたのを見たぞ。屋敷から出ないように言ってあるから、きっと中にいるんじゃねぇか?」


 手を吊った白布の端を軽く噛んで整えながら志狼が口にする。

豆太は余所の子供と遊ぶより、静かに一人で遊ぶのが好きな性質たちである。

志狼の言う通り庭ででも遊んでいるのだろう、志狼の言葉を素直に受けた海華も特別豆太を探そうとはせず、洗濯物をしにそのまま井戸へと向かう。


 いつもと同じ家事に追われる二人、大きな盥を抱えた海華が井戸に向かった丁度その時、背の高い男が一人裏木戸を潜り抜けようとする。

それは見間違う事無い朱王の姿だった。



 手に江戸紫の風呂敷包みを携えた彼は、出来上がった人形を人形問屋に納めに行った帰りにここへ寄ったのだ。

特に差し迫った用事があるわけではないが、長屋に急いで帰る理由もない。

二人が忙しそうなら帰ればいいのだ、そう思いながら中庭を歩く朱王の頭上を、羽根を膨らませ真ん丸になった雀が二羽、会話を交わすよう賑やかに囀っている。


 年の瀬は世の中すべてが忙しない空気に包まれる、鳥や獣、森羅万象の全てが生き急いでいるようだ。

そんな事をつらつら考えつつ離れまできた朱王の目が離れの縁の下で小さな影が蠢いたのを捉える。


鼠ではない、猫よりも大きいその陰の主は、ゴソゴソガサガサと乾いた音を立てて狭い縁の下から白日の下に姿を現した。


 「あ……」


 「お前、豆太、?」


 薄暗い縁の下から四つん這いで出てきたのは、頭には蜘蛛の巣、そして顔には埃をこびり付かせた豆太だった。

降り注ぐ陽光を受け眩しそうに目を瞬かせた豆太は、目の前に立つ朱王の姿を見るなりポカンと口を半開きにさせて、四つん這いのままその場に固まってしまう。


 「朱王、おじちゃん……」


 「豆太、どうした?なにやってるんだ?」

 こちらを見上げる豆太の傍に屈み込み、彼を引き立たせた朱王は戸惑ったような面持ちで彼を見る。

まるで叱られた子供よろしくシュンと項垂れ、モジモジ身体を揺すっていた豆太だが、やがて『猫が……』と

消え入りそうな声で呟いた。


「猫?そこに猫がいるのか?」


「うん……。猫に、エサやってたの……」

 

 怒らないで、とでも言いたいのか、縋るような上目遣いで自分を見る豆太に思わず小さく吹き出しながら、朱王は彼の頭をワシワシ撫でる。

そして懐から取り出した手拭いで顔についた埃や蜘蛛の巣を拭い取っていく。


 「おかぁちゃんには、言わないで……」


 「あぁ、わかった。おかぁちゃんにも、ちゃんにも言わないよ。どれ、どんな猫がいるんだ?俺にも 見せてくれ」


 そう言いながら朱王が縁の下を覗き込もうとした瞬間、豆太は血相を変えて彼の前に大きく両手を広げて立ち塞がったのだ。


 「だめ、なか見ちゃダメ!!」


 必死になって『ダメ』と繰り返す豆太の唇は微かに震え、次第に目が潤み出す。

突然の事に驚きながらも、朱王はそれ以上中を覗く事はせずその場から立ち上がった。


 「猫、逃げちゃうの……。怖がりだから、だから、見ちゃダメ」


 「怖がり、か……。なら。俺は見ないよ。エサが終わったなら中へ入ろう。ここじゃ風邪ひくぞ」


 埃で煤けた手拭いを軽く払って懐に押し込み、豆太に手を差し伸べれば、彼は素直に朱王の手を握った。


 朱王は豆太との約束通り、彼が縁の下に隠して飼っている猫の事を海華や志狼には話さなかった。

特別大きな問題ではない、そう思っていた朱王だが後日、思い詰めた表情をした海華から奇妙な事を聞かされる事となる。


 「なに、人形がなくなった?」


 自室で彫刻刀の手入れをしていた朱王が怪訝そうな声を出して、部屋の真ん中でしょんぼりと座り込む海華と、神妙な面持ちで顔を俯かせる志狼へ顔を向ける。

ガックリ肩を落としたまま、彼女は無言で首を縦に振った。


 「ごめんなさい……今朝、箪笥の上を見たらなくなってて……せっかく兄様が造ってくれたのに」


 『ごめんなさい』再び小さな声で謝りながら畳に両手を付く海華を前に、朱王は彫刻刀を机に置いて身体ごと彼女へ向き直った。

なくなった人形、それは海華が嫁ぐ時に朱王が造った娘人形だ。


 「もういいから、顔を上げるよ。なくなったって、どこかに移したまま忘れただけじゃないのか?」


 「あたしも最初はそう思ったわ、でも、あの人形を他の部屋に持って行くことなんてないのよ」


 「屋敷の隅から隅まで探したんだ、旦那様のお部屋まで探したんだが見付からねぇ。……硯といい香炉といい、最近何なんだ……」


 眉間に深い皺を寄せて志狼が吐き捨てた台詞を、朱王は聞き逃していなかった。


 「硯と香炉?それもなくなったのか?」


 「あぁ、そうなんだ。俺の硯と旦那様の香炉が見付からねぇんだよ。硯は古道具屋から買った物だから、二束三文のガラクタなんだが、旦那様の香炉は……」


 「前にお世話になった方からの頂き物らしいの。普段は使わないからしまっていたんだけど、この間使おうと思って探したら、ないって仰るのよ。押入れから物置から屑籠の中まで引っ繰り返して探したんだけど、どこにもないの」


 今にも泣きそうに顔を歪めて大きな溜息をつく海華を前に、朱王もすっかり困り果ててしまう。

人形ならまた作り直せるが、桐野の香炉は別だ。


 「好き好んで与力の屋敷に泥棒へ入る奴はいないだろう、他に何か変わった事はなかったのか?」


 「変わった事と言えば……」


 「台所から食い物がなくなった事くれぇだな」


互いに顔を見合わせ、そう言った二人に、朱王の眉がヒクリと蠢く。

幸いな事に、豆太は長屋に住む子供らに誘われ、表で独楽回しの仲間入りをしていた。


 『豆太には内緒にしてくれ』そう言い置いて、朱王は先日、豆太が縁の下から出てきたこと、そしてそこに猫がいるという事を話して聞かせる。


 「あの子、猫なんか飼っていたの。じゃあ、ご飯やお菓子がなくなっていたのは猫にあげるためだったのね」


 謎がやっと解けた、そう言いたげに目を瞬かせた海華だが、隣の志狼は未だ解せぬ様子で小首を傾げる。


 「猫の餌か……。でもよ、猫は干し柿なんざ喰わねぇぜ?飯や菓子以外にも干し芋だの漬物の切れ端だのもなくなってたよな?」



 志狼の台詞に、海華も納得したのか右頬に手のひらを当てて数度頷く。

消えた食べ物に人形、そして硯と香炉、一見して何の関連性もない物が次々と消えて行くのだ。


 猫に餌は必要だろうが、人形や、まして香炉などは必要ない。


 「縁の下にいるのってなぁ、本当にただの猫か?」


 真っ直ぐに朱王を見詰める志狼の目がわずかに細められる。

隣にいる海華の口元が微かに引き攣った。


 「や、だわ志狼さん、猫じゃなきゃ何がいるっていうのよ」


 「――お前も薄々感づいてんじゃねぇのか?朱王さん、朱王さんはどう思う?」


 「そうだな、猫は猫でも、どでかい泥棒猫かもな。何はともあれ、豆太と話をしてみよう。海華、ここに」連れてこい」


 このまま傍観しているわけにはいかない、『猫』の正体を知っているのは豆太だけだ。

有無を言わせない朱王の様子に、海華は何か言いたげに唇を動かすも結局素直にその場から腰を上げて表へと出て行く。


 やがて彼女に手を引かれて部屋へ入ってきた豆太は、朱王と志狼を交互に見遣った後、ツゥと垂れた鼻水を着物の袖口で強く拭い取った。

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