第二話
「やっと見付けたわ」
ふぅっ、と呆れか安堵かわからぬ溜め息をつく海華、彼女の隣にはどこから用立てたのだろう子供用の半纏と襟巻きを身に付けた豆太が、じっと志狼を見詰めている。
「――何しに来たんでぇ」
自分を見詰める二組の眼から逃れるように顔を背けて無愛想に吐き捨てた志狼。
狭い空間に漂う酒臭く籠った空気に一瞬顔を顰めつつ、海華は朱王と志狼を交互に見遣った。
「何しに来た?随分な言い方するじゃない。志狼さんを迎えに来たに決まってるじゃない。全く……あちこちの店廻った挙句に屋台の中まで覗いたのよ?どこにもいないと思ったら、まさか兄様引き摺り出してたとはね」
寒さで赤くなった頬をパンパンに膨らませてこちらを軽く睨む彼女の横では、豆太が小さく鼻を啜り彼女の手をしっかり握り返す。
時おり、表からはヒュウヒュウと口笛に似た風の音が聞こえる。
きっと、二人は身が縮むような寒さの中を方々探し回ったのだろう。
それを考えると、なぜだか自分までもが悪い事をしたような気がしてしまい、朱王は気まずげに海華から視線を逸らしてしまう。
そんな彼の気持ちもお構いなしに、志狼はケッ、と短く鼻で笑った。
「そりゃ悪うござんした。どうせ旦那様にでも言い付けられたんだろ?」
「違うわよ。探しに行こうっていたのは、豆太なんだから」
眉間に三本皺を寄せ、豆太と繋いだ手を見せつけるように前後に振った海華の台詞に、志狼はまるで濃茶を一気飲みしたかのように渋い面持ちを二人へと向ける。
黒豆の如き漆黒の円らな瞳で彼を見詰める豆太の、これまた小さな鼻の穴から透明な鼻水が一本、ツゥと垂れた。
「旦那様はね、放っておけば、頭冷やしてそのうち返ってくると仰っていたわ。でも、この子がどうしても行きたいって言ったのよ。おじちゃんを探しに行こうって」
『ねぇ?』と確認するように豆太を見下ろし声を掛けた海華に、彼は無言で頷く。
そして急に彼女の手を離すと、パタパタ小走りに朱王の前を通り過ぎて志狼へと掛け寄り、すっかり冷え切った小さな手で志狼の手を力強く握ったのだ。
「おじちゃん、帰ろう?」
子供が玩具かなにかをねだるように志狼の手を揺さ振り豆太は『帰ろう』と繰り返す。
酒精に濁った目でじっと彼を見下ろす志狼、普通の子供ならば怯えて近付かないだろう不機嫌そのものの視線にもめげず、豆太は更にもう片方の手で志狼の手を掴み両手で強く揺さぶった。
「帰ろう、ねぇ帰ろう?……ちゃん、一緒に帰ろうよ」
男児にしてはふっくらとした、しかし乾いた風で乾きかけた唇から飛び出た『ちゃん』の言葉に、志狼は勿論朱王や海華までもが驚きに目を見開く。
急に表情の変わった志狼に豆太も驚いたのだろう、彼の手を揺さ振っていた小さな手が止まった。
シン……、と静まり返る店内、唯一人、ここの主である男だけがポカンと口を半開きに四人を凝視する。
この静寂は、志狼が腰掛から立ち上がる鈍い振動に打ち破られた。
「お、い……志狼さ……」
「――帰る」
「え?」
「そろそろ帰る。朱王さん付き合ってもらってすまねぇな」
不機嫌さはそのままに、豆太の手を払った志狼は懐を弄り財布を取り出すと、二人分の銭を飯台に放り再び財布を懐へ捻じ込む。
そして彼の右手は、そこに立ち尽くす豆太の手をしっかりと握った。
きょとんとした面持ちの豆太を半ば引き摺るように店を出て行く志狼を追って朱王と海華は店を飛び出した。
「ちょっと待ってよ志狼さん!志狼さんってば!」
豆太の手を引き先を行こうとする志狼に掛け寄った海華の手を、ほぼ無意識だろう豆太が強く握る。
二人の間に挟まれるように立った豆太は、丸い目を瞬かせながら交互に二人を見上げた。
「待ってってば!どこ行くの……」
「どこって、帰るに決まってんじゃねぇか。餓鬼はもう寝る時間だ。な、豆太」
当たり前の事を聞くな、そう言いたげな口振りで豆太に向かいそう言うと、豆太はニコリと笑い大きく頷く。
昼間とは全く違う彼の様子に呆れるやらおかしいやらで、海華は苦笑いする事しかできなかった。
「そうね……。そうよね、じゃぁ、もう帰りましょう。あ、と……兄様!」
一人置いてけ堀状態の朱王に気付き、後ろを振り向けば、彼は海華と同じく苦笑しながらこちらを眺めている。
「兄様、遅くまで付き合わせてごめんなさい」
「なに、気にするな。月が出ているうちに早く帰れよ」
軽く口角を上げ、ひょいと片手も上げた朱王に同じ笑顔で返した海華と志狼はそのまま豆太をつれて八丁堀へと帰って行く。
漆黒の夜空には白銀の凍月が輝き、四人の影を乾いた夜道に長く長く映し出す。
子供を真ん中に、、あるで本物の親子連れのように仲睦まじく寄り添い歩く三人の後ろ姿を眺める朱王の黒髪を、突如吹き抜けた一陣の風が漆闇に巻き上げて行った。
朱王が飲み屋の前で志狼らと別れてから三日余りが過ぎた。
本物の親子のように三人仲良く手を繋ぎ帰って行った、あの後ろ姿がなぜか忘れられない朱王は、この日三人の様子を窺いに八丁堀へと向かっていた。
突然の居候とも言える豆太を邪険に扱っていた志狼は、あの後どう変わったのか。
朱王にしては珍しく好奇心に駆られたのもあるが、志狼と豆太の間に挟まれた海華が何よりも気になるのだ。
連日の曇り空、どんより分厚く立ち込める灰色の雲の下を足早に八丁堀へと向かう朱王、まだ昼も過ぎたばかりからか、通りは分厚い着物を着た人々で溢れ、人混みがあまり得意ではない朱王にとってはあまり有り難くない状況だ。
足袋を履いた足を踏まぬよう、どてらで覆われた肩がぶつからぬよう人の波をすり抜けて辿り着いた八丁堀の奥、微かな日の光を反射し白く光る土壁をもつ桐野邸の裏口は落ち葉一つなく綺麗に掃き清められ、立てつけが悪くギィギィうるさかった裏木戸も志狼の手によってだろう、修繕されている。
まだ真新しいそれを押し開け、勝手知ったる何とやら、迷う事無く中庭を抜ける朱王は海華がいるであろう勝手へと向かった。
「海華、志狼いるか?」
「あら兄様!」
朱王の予想通り、台所で茶碗吹きをしていた海華が乾いた布巾を手に驚きの表情でこちらを振り向く。
軽く片手を上げて彼女に応えた朱王はそのまま勝手口から中へと上がった。
「どうしたの、いきなり」
「いや、これと言った用事はないんだが……あれからどうなったのかと気になってな。志狼と豆太はどうした?」
「二人で出掛けたわ。ここじゃなんだから、中にどうぞ」
布巾を置き、締めていた前掛けも外した海華はにこやかな笑みを朱王へ向けて彼を客間へと案内する。
寒気の中を歩いてきたためか指先まで冷えていた朱王に赤々と炭が燃える火鉢と湯気の立つ茶を用意した海華は、彼の正面に座ると両手の平を軽く擦りつつ朱王へ身を乗り出した。
「志狼さんの事、心配して来てくれたの?」
「心配って程でもない。ただ気になっただけだよ。二人で出掛けたって事は、あの二人はなんとか上手くやっているのか?」
熱い茶を啜り訊ねた朱王に、海華は満面の笑みを作って大きく頷き手のひらを火鉢に翳した。
「ええ、もう今までのはなんだったの、ってくらいに志狼さん変わったわ。豆太の事も可愛がってくれるの。さっきもね、二人してお勝手で胡麻擦りしてたのよ。豆太に擂鉢押さえさせて……。豆太もね、『ちゃん、ちゃん』ってよく懐いてる。本当の父子みたいよ」
「そうか。志狼の奴、『ちゃん』って言われただけで一変するなんて、意外に単純だな」
「あら、単純でいいじゃない。あたしも一安心してるのよ。欲を言えば、『おとうちゃん』って呼んであげて欲しいけどね」
苦笑いしつつ肩を聳やかす海華だが、朱王はどうしても肯定できなかった。
何故なら、あまり情を深めすぎれば別れが辛くなるからだ。
豆太は迷い後、もし実の親が名乗り出たならば返さなくてはならない。
勿論、海華も志狼も重々わかっている事であろうが……。
「まぁ……豆太もまだ慣れないんだろう。しばらくは好きなように呼ばせておけ」
「そうよね。あの子もまだ小さいんだし。――もう少しで志狼さん達帰ってくると思うから、ゆっくりしていってね」
あかぎれの治りかけた指先を軽く揉みながら言った海華に、朱王は素直に頷いて見せる。
さて、その頃街へ出掛けた志狼と豆太は……
「―― さぁてと、これで用事はすんだな」
冬物の襦袢や下履きを包んだ風呂敷を右手に下げて、志狼が一人ごつ。
そんな彼からはぐれまいとするように、半纏の裾をギュッと握った豆太が、己の首に巻かれた襟巻きを弄びながら、鼻を啜っている。
「豆太、おめぇ何か欲しいモンはねぇのか?」
半纏の袖口で鼻を拭く豆太へ顔を向けつつ志狼が尋ねると、豆太はちょこんと首を傾げて周囲を見渡す。
海華の手で結わえられた柔らかな髪を冷えた風に揺らせる彼は顔を右側に向けたまま、ある一点をじっと見詰めた。
「なんだ、どうした?」
「ちゃん、あれ……」
そうポツリと言いながら道の向こうを指差した豆太、彼に小さな指の先には焼き芋屋の屋台が一台ある。
白い煙を一筋たなびかせ、辺りに香ばしい匂いを振り撒く屋台に目を向けた志狼は、そのまま豆太へ顔を向けた。
「芋、食いてぇのか?」
「うん。おかぁちゃんにもお土産」
鼻の下を指先で強く擦った豆太の台詞に、志狼も『そうか』と頷く。
焼き芋は海華の大好物、買って帰れば喜ぶに違いない。
「よし、じゃぁ海華……じゃなくて、おかぁちゃんに買って帰るか」
口角を軽く上げつつ言った志狼に、豆太はニッコリと太陽のような微笑みを浮かべて彼の着流しを強く握り直す。
彼を連れて道の反対側へ渡った志狼は、屋台の傍らに座り込み芋の焼き加減を確かめていた無精ひげの小男の背中に声を掛ける。
「へぇ、いらっしゃいまし」
「芋四つくれ。なるだけ太くて美味そうなヤツにしてくれよ」
火鉢より何倍も強い熱量をもつ焼き窯の傍で一時の暖かさを楽しみつつ芋の用意ができるのを待つ志狼の横では、豆太がもの珍しそうに屋台の周囲をうろつき真ん丸な瞳をクルクル動かして男が窯から芋を取り出すのを見詰めていた。
「おい豆太、それに触んじゃねぇぞ、火傷するからな」
屋台の下を覗く豆太に声を掛ければ『わかった』と些かくぐもった返事がする。
『可愛い坊ちゃんですねぇ』と屋台の主も表情を緩めて志狼へ向き直り、灰色の雑紙に幾重にも包まれた芋を差し出した。
「いや、ちょろちょろ動き回るもんだから目が離せねぇんだ。さ、豆太行くぞ。――豆太?」
芋と引き換えに代金を渡した志狼がひょいと足元に目を遣ると、今しがたまで屋台の下を覗き込んでいた豆太の姿はどこにもなかった。
「豆太?おい、おい豆太!どこにいるんだ?」
風呂敷包みと、今買った芋の包みを右手に抱える不自由な体勢で、志狼は慌てて周囲を見渡す。
しかし、豆太は神隠しのようにどこかへ消えてしまった。
豆太の名前を呼びながら周囲を見渡し彼の姿を探し回る志狼は、大通りを一通り探し回り近くにいた人々に子供は見なかったかと尋ね歩く。
と、一人の老婆が焼き芋屋台の裏にある小路に小さな子供が駆け込んで行くのを見たと話してくれた。
志狼が立っていた場所からは屋台の車輪の陰となる完全な死角、急いでその小路に向かった志狼だが、そこは裏道も裏道、建物の間を縫うように続く細く狭い道だ。
「豆太!豆太―!どこに行ったんだ!」
人一人がやっと通れる道を擦り抜けて進む志狼の呼び掛けに応える者はいない。
最初は一本道だと思っていたが、進むにつれてあちこち枝分かれするよう更に細い小道が左右に伸びる。
下手に迷い込んでしまっては同じ場所に出るのは困難だろう、まるで迷路のように伸びる細い道にさすがの志狼も困惑し、腹の底から大声を張り上げて何度も何度も豆太を呼ぶ。
小道を彷徨いどのくらいが過ぎたろうか、志狼の後方、丁度左手側辺りから『ちゃんっ!!』と悲鳴じみた甲高い叫びが迸った。
「豆太!?豆太っ!!どこだ、どこにいる!?」
突如聞こえた叫びに心臓が跳ね上がるのを感じながら弾かれるように振り向いた志狼は声の聞こえた方向へ脱兎の如く駆け出す。
右手に抱えた焼き芋の包み、矢鱈と熱く感じるそれを力一杯抱き締めながら走る志狼は、ほとんど無意識に自身の左手側にある道を左に曲がった。
「豆太ッ!!豆太……!」
「ちゃん……」
細長く開けた視界の真ん中に飛び込んできたのは、狭い道の端にへたり込んだ豆太の姿だった。
「お前どうした!?大丈夫か!?」
飛び付くように豆太に掛け寄り彼の顔を覗き込めば、今にも泣き出しそうな面持ちで豆太が志狼にしがみ付く。
一体何があったのか、どうしてこんな場所へ来たのか、そう問い質す志狼に、豆太は一言『猫がいた』と答えた。
「猫追い駆けて迷子になるなんて、なんだか豆太らしいわね」
クスクス苦笑いしながら志狼の前に湯飲みを置いた海華は、自身の傍らで穏やかな寝息を立てて眠りこける豆太へ視線を落とす。
海華が淹れてくれた茶を啜り、ハァと疲れをにじませた溜息をついた志狼は湯飲みを畳へ置くと、平皿に盛られた焼き芋に手を伸ばした。
曲がりくねった小道の奥でへたり込んでいた豆太は、なぜこんな所に来たのかという志狼の問い掛けに『猫がいた』と繰り返すばかり。
どうやら、野良猫か何かが道に入って行くのを見付け、好奇心のままに追掛けたのだろう。
志狼に叱られると思ったのか、今にも泣きそうな面持ちで『ごめんなさい』と繰り返す豆太に、志狼はもう黙っていなくなるなときつく言い置いて屋敷へと戻った。
帰ったばかりの時はしょんぼりと元気がなかった豆太だが、海華に慰められ、彼女の膝の上で買ってきた焼き芋を半分ペロリと平らげると、そのまま糸が切れたように眠り込んでしまったのだ。
「全く、いきなりいなくなっちまうんだから、肝が冷えたぜ」
「お疲れ様でした。でも、この子もすっかり志狼さんに慣れたのよ。じゃなきゃ、『ちゃん』なんて呼ばないもの」
ニコニコ笑いながら豆太が残した芋を手に取り志狼の横に腰を降ろした海華の台詞に、志狼はどこかはにかむように笑い芋を一口齧る。
屋敷の離れで過ごす穏やかな時間に、微かな子供の寝息が混ざった。
「そう言えばね、さっきまで兄様が来ていたの。志狼さんと豆太は上手くやってるか、ってね」
「あ、そうか。そりゃすまねぇ事したな。もう少し早く帰ってくれば良かった。後で豆太を連れて顔出してくるか」
口に頬張った芋を慌てて茶で流し込み、口元を拭った志狼。
そんな彼の横顔へ視線をやった海華は、やおら真剣な面持ちを作ると手にしていた芋を再び皿の上へ置いた。
「ねぇ志狼さん。豆太の事、なんだけど……」
「豆太の事?なんだ改まって」
一口、二口と芋を齧って小首を傾げる志狼に、海華は一瞬口籠りつつ膝の上に置いた手を忙しなく握る。
「あのね、もし……もしも豆太の親が見付からなかったら、誰も引き取り手がいなかったら、どうしようかな、って」
いつもの海華らしくない、どこか沈んだ声色に志狼の眉がヒクリと跳ねる。
海華の傍らに敷かれた布団の中で、豆太が小さく寝返りをうった。
「どうするって、言ってもな。このまま叩き出す訳にもいかねぇだろう」
海華が何を言いたいのか大よそわかる志狼だが、そんな彼もどう返事をしてよいのか戸惑っていた。
「兄様がね、志狼さんや旦那様とよく相談しろって」
「そうか。朱王さんがそんな事を……」
『まいったな』そう小さく呟き志狼がワシワシ髪を掻き混ぜた、その時だった。
今まで静かに寝息を立てていた豆太の口から苦しげな短い呻きがこぼれ落ち、小さな手がもがくように布団を掻き毟る。
突然の異変に、二人の視線は豆太へ釘付けとなった。
「……ん、ちゃ、ん……」
「この子、どうしたのかしら?」
小さな眉間に皺を刻ませ低く呻く豆太の顔を覗き込む海華、白い額にジワリとにじむ汗を拭おうと彼女が手を伸ばした時、豆太の目尻から一筋の雫が音もなくこぼれ落ちる。
「ちゃん……おとうちゃ、ん……どこ……行ったの?」
寝言だろう、途切れ途切れに聞こえる豆太の言葉に、二人は思わず息を飲む。
そんな二人を前に、半ば寝ぼけた豆太は突如ムクリと身を起こすと、ワァワァ声を上げて泣きじゃくり始めたのだ。
「おとうちゃぁぁん、置いてかないでぇ……いやだぁ、おとうちゃぁぁん……!」
まるで何かに憑かれたように泣き叫ぶ豆太を前に戸惑いを隠し切れない海華は、どうしてよいのかわからず志狼へと振り向く。
すると志狼は、何も言わずに豆太を右腕一本で己の膝の上へと抱き上げ、力を込めて胸に抱き締めたのだ。
「泣くな。豆太、大丈夫だ。お前を置いて行きやぁしねぇよ。大丈夫だから、もう泣くな」
力一杯しがみ付いてくる豆太の頭に頬擦りし、何度も『大丈夫だ』と言いながら彼をあやす志狼の姿を、海華は驚きの表情を持って見詰める。
あくる日、太陽が西の空に沈んだのを見計らって、志狼と海華は豆太の手を引き『ある場所』へ向かった。
志狼達三人が訪れたのは、北町奉行邸宅、つまり修一郎の元だった。
夜風に曝されすっかり冷えきった身体を寄り添わせる三人を出迎えた修一郎の妻、雪乃は直ぐ様彼らを客間へと案内したっぷり炭をくべた火鉢と熱々の茶を出してくれた雪乃は、海華にピタリとくっ付き、キョロキョロ忙しなく周囲を見渡す豆太菓子を出し、ニコニコと穏やかに微笑みながら話相手となってくれる。
修一郎と彼女が一緒になってから、もうだいぶ経つが二人の間に子供はいない。
元より子供好きである彼女に、最初は海華の陰に隠れて様子を窺っていた豆太も、時期に慣れたのだろう、出された菓子を頬張り雪乃の質問にはにかみながら答えるまでになっていた。
今宵、ここには屋敷の主である修一郎の他に桐野、そして朱王が訪れる事になっていたのだが、約束の時間になっても彼らは姿を現さなかった。
「兄様遅いわねぇ。修一郎様も旦那様も、何かあったのかしら?」
どこか落ち着かない様子で障子へ視線を向ける海華、彼女の膝の上では菓子で小腹を満たした豆太がコクリコクリと舟を漕いでいる。
「本当に遅いわね。ごめんなさい志狼さん、海華ちゃんも。もう少しで戻ると思うのだけれど……」
一向に帰宅しない夫に気を揉みながらすまなそうに微笑む雪乃へ、二人は慌てて首を横に振った。
彼は唯でさえ忙しい身、わざわざ合う時間を取ってもらえるだけでも有り難いのだ。
『きっとお忙しいのでしょう』小さく会釈しながら志狼が答えるのを見計らったかのように、玄関の方向から『今戻った』と大きく野太い声が響く。
鼓膜を震わすその声に、半分閉じかけていた豆太の瞼が弾かれるように開いた。
すぐさま雪乃が玄関へ出迎えに向かい、やがて夜気に頬を薄赤く染めた修一郎と朱王が揃って客間へ姿を現した。
「二人とも待たせたな、遅れてすまぬ」
腰の太刀を雪乃に預け、黒羽織のままドカリと上座に胡坐をかいた修一郎に、志狼そして彼の隣に座した朱王は深々と一礼し、豆太を膝から降ろした海華も揃って頭を下げる。
そんな三人の姿を見ていた豆太も眠い目を何度か瞬かせながらちょこんと頭を垂れた。
「お忙しいところをお邪魔してしまい、申し訳ございません」
「なに、よいのだ志狼。お前達頭を上げろ。どれ、そこにいるのが先日話していた子供か?」
興味津々の眼差しで身を乗り出し自分を見詰めてくる修一郎に、豆太は身を固まらせ視線を宙に泳がせる。
彼にとっては蟻と小山ほどの体格差がある修一郎に見詰められ戸惑いを隠し切れない豆太の背中を優しく撫でた海華は俯いてしまった彼の耳元にそっと顔を近寄せた。
「ほら、昼間に練習したでしょう? その通りにやってごらんなさい」
「う、ん……。え、っと、豆太と申します! これから、よろしくお願いいたします……」
小さな両手をペタリと畳へつきおずおずと頭を下げる豆太を前に、修一郎の頬が自然と緩む。
鬼と呼ばれる事も多々ある彼だが、見掛けによらず子供が嫌いではないのだ。
「うむ、なかなかよい挨拶だ。だが、名は体を表すと言うのは本当だな、豆粒のようだ」
冗談混じりの台詞に思わず朱王は苦笑いだ。
「桐野から大体の話しは聞いておる。あ奴は勤めが長引いておるゆえ、まだここには来られんそうだ。俺と朱王と先に話を進めていてくれと言伝てを受けていてな。早速話を、と言いたい所だが、海華」
「は、はいっ!?」
唐突に名前を呼ばれ、思わず裏返った声で返事をした海華に、修一郎はニコと小さく笑って脇息に肘をつく。
「お前、子供を連れて奥へ下がってくれ」ぬか?」
矢鱈とにこやかに微笑む修一郎の口から出た言葉に、海華はキョトンとした面持ちで何度か目を瞬かせる。
そして戸惑いの色を含ませた視線を朱王と志狼へ交互に向けた。
「海華、修一郎様の仰る通りにしろ」
「でも兄様……。ねぇ、志狼さん……」
「海華、大丈夫だ。俺がしっかり話すから。ほら、豆太も寝ちまいそうだろう?あっちで少し休ませてくれ」
うとうと微睡む豆太を抱いた海華の手を軽く叩き、志狼は何やら意味ありげな目配せをする。
その視線の意味に気がついたのか、海華はもう何も言わず無言のままに豆太を抱き上げその場から立ち上がった。
「―― どれ、行ったか? すまぬな志狼、それに朱王。別に海華を除け者にしようと言うのではない。ただ、豆太に聞かせたくはない事もあるのでな」
ゴホン、と一度咳払いをした修一郎は、頬杖をついた状態まず、志狼へ目を向ける。
「志狼、お前桐野に豆太をお前と海華の子供として引き取りたいと申し出たそうだが、それはまことか?」
単刀直入に切り出す修一郎に、志狼は一瞬表情を強張らせつつ『はい』と、はっきり返事をする。
三人が集う客間に張り詰めた空気が流れ、朱王と修一郎の視線は膝の上で固く右手を握り締める志狼へと注がれた。




