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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十七章 邪念の贈り物
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第一話

 砂埃を巻き上げて空っ風が足元を駆け抜ける。

乾燥した肌を打つ冷えきった風に肩を竦ませ半纏の前を掻き合わせる海華の隣では、同じく古びた半纏を纏う朱王が小さく鼻を啜った。


 いつものように朱王の世話を焼きに中西長屋を訪れた海華は、顔料を買いにいく、という彼に付き添い街まで出ていたのだ。


自分自身も夕餉の買い物を、と思っていたのだが、結局いい物も見付からず、手ぶらでの帰宅となってしまった。


 「あぁ、寒い。見てよ兄様、向こうの空、真っ黒よ」


 寒気に目を潤ませて、海華は水平線の向こうに広がる空へ視線を向ける。

そこは彼女の言葉通り、炭色の雲が不気味に広がり、遠くでギャァギャァ騒ぐ烏の声が微かに聞こえる。


 海華と同じ方角へ視線をやった朱王の表情が露骨に曇った。


 「今夜辺り降るかもしれないな。もしかしたら、雪になるかもしれないぞ」


 「やだわぁ、志狼さんの股引きと旦那様の半纏を新しいのに変えなくちゃ。冬物の着物も出さないと……」


 これから年越しまで、あれやこれやとやる事が山と待ち受けている。

『大変だわ』そう呟きつつ溜め息をつく彼女に苦笑いを見せ、風にたなびく黒髪を片手で押さえる朱王だが、彼とて師走に向けて多忙な日々となるのは同じなのだ。


 「忙しいようなら、うちには毎日来なくてもいいんだぞ」


 「あら、いいのよそんな。気にしないで、

志狼さんもいるんだから、何て事ないわよ。あ……ごめんなさい、ちょっと待っててくれる?」


 大通りの真ん中、ちょうど十字路の真ん中辺りで、何かを思い出したようにピタリと足を止めた海華。

彼女はそこに朱王を残したまま、右手側にある道の端へと小走りに駆けていく。

行き交う人々の邪魔とならないよう端に寄った朱王が何気無く彼女の背中へ目をやる。

すると海華は道の隅に建てられた小さな地蔵堂の前に屈み込み、両手を合わせていた。


 いつもの半分ほどに小さく感じる背中、しっかりと目を閉じ何を熱心に祈っているのだろう。

気になりはしたが、敢えて声は掛けなかった。

彼女は以前から稲荷やら神社やらに自然と手を合わせる事が多かった。


 その願いと言うのも朱王からすればとるに足らないものであったため、この日も『明日は晴れるように』とか、『寒さが厳しくならないように』など、言葉は悪いが下らない願い事なのだろうと朱王は思っていたのだ。


 自身の目の前を通り過ぎて行く人々を目で追い掛けつつ海華の背中を眺めていた朱王、と、彼女の目の前、丁度お堂の真後ろで、何やら小さな影が蠢くのが見えた。


 「海華! おい海華!」


 「え? 何? もう少しだから、ちょっと待ってて」


 思わず海華を呼び止めた朱王に、彼女は少々不服そうな声色を出しこちらを振り向く。

そんな一瞬の間にも、お堂の背後にある影法師はフワフワと出たり引っ込んだりを繰り返した。


 「違う、そこの後ろに誰かがいるんだ」


 「後ろ? 後ろって兄様、そこは塀よ」


 ますます怪訝な面持ちで小首を傾げその場から腰を上げる海華へ朱王は大股で歩み寄り、彼女をお堂の脇へ押し遣り、身を乗り出すようにお堂の背後を覗き込む。

土埃が立ち込める狭く暗い空間、大人は決して入れないだろう狭い空間にしゃがみ込む小さな人影が、そこにはあった。


 「ねぇ、ねぇ兄様、本当に誰かいるの?」


 裏を覗き込んだまま声も出さず身動きもしない朱王の袖を軽く引き、海華もお堂の屋根に手を掛ける。

地蔵堂に覆い被さるようにしている兄妹の姿を見た通行人は、皆一様に首を傾げ、眉を顰めてその場を通り過ぎていった。


 「ねぇ、兄様ってば!」


 「うるさいな、大声出さなくても聞こえている」


 「じゃぁ答えてよ、そこに誰がいるっての?」


 「子供だ。子供が一人……。おい、おい大丈夫か?」


 顔の横に下がる黒髪を掻き上げ、彼なりに精一杯優しい声で小さな人影、狭い空間に縮こまる子供らしき人影に朱王が声を掛けると、小さな頭がゆっくりと動くのがわかる。


 「どうした、そんな所に隠れてないで、こっちへ出てこい。動けるか?」


 一度顔を退かし、腕をいっぱいに伸ばして隙間に差し込むと、たっぷり肉の付いた小さな手が震えながら朱王の手をきつく掴む。

自身の手から感じるひどく冷たい感触に一度身震いし、彼はゆっくりと腕を引いた。


 「え、本当に子供……え!? ちょ、あなたどうしたの!?」


 朱王の手に引かれ姿を現した一人の子供。

その姿を目にした途端、海華の口から裏返った叫びが放たれる。

驚愕に目を見開く彼女の前で、襤褸布を申し訳程度に纏った男児は『くしゅっ!』と掠れたクシャミを放ち、両の鼻から垂れさがる青っ洟を力なく啜り上げた。




 着物とは言い難い襤褸布を巻き付けただけの子供はあまりの寒さに己の身体をギュッと抱き締め、二人の目の前でガタガタ震え続ける。

全身垢塗れで髪は油を塗ったよう、乾いてひび割れた唇は蒼白を通り超えてドス黒くさえ見える。


 どうしてこんな所にいるのか、親はどうしたのか、そう矢継ぎ早に問い掛ける海華に子供はただ『わからない』とでも言いたいように小刻みに首を横に振る。

周囲を見渡しても親だろうと思われる人物は見当たらない。

動揺を隠し切れない二人の前で、遂に子供は両の目から大粒の涙をポロポロこぼし、その場にしゃがみ込んでしまった。


 このままでは凍え死んでしまう、そう瞬間的に思ったのだろう海華は咄嗟に子供を抱き上げ踵を返す。

彼女の行動に驚いたのは朱王だった。


 「おい! お前どこに行くんだ!?」


 「長屋よ!このままじゃ死んじゃうわ、早く温めないと!兄様も早く来て!」


 徐々に集まり出す野次馬の間を縫って、海華は脱兎の如くにその場から走り出す、『待て!』と遠ざかってい背中に何度も呼び掛けるが、彼女が振り向く事はない。

結局、二人はそのまま中西長屋へと駆け込む。

傾きかけた長屋門、土埃を巻き上げ駆ける海華の視界に朱王の部屋の前に佇む一人の男の姿が飛び込んできた。


 「志狼さん!?」


 「おぉ、海華。やっぱり出掛けてたのか……って、その子、誰だ?」


 鼠色をした襟巻を鼻先辺りまで引き上げた志狼のくぐもった問い掛け、しかし今の海華にはその問いに答えている余裕はない。


 「ちょうど良かった! 志狼さん、早く中でお湯を沸かして!それと、火鉢の炭も!早く温めないと、この子死んじゃうわ!!」


 「死んじゃうって、お前一体……」


 「訳は後で話すから、お願いだから早くしてッッ!」


 半ば叫ぶように言い放った海華は志狼を押し退けて部屋に飛び込む。

何が何やらわからないまま狼狽える志狼、彼が長屋門に目を遣ると、顔を真っ赤に紅潮させた朱王が息を切らせて転がりこんでくるのが見える。


 「朱王さん!? なぁ、朱王さん何が……」


 「何やってんのよ志狼さん! 早くしてってばっ!!」


 「あぁ!わかったわかった、火と湯だな!? 何だか訳わかんねぇが、ちょっと待ってろっっ!」


 海華の剣幕に負けた形となった志狼は、部屋に入るとすぐさま火鉢に炭を投げ込み大きな鉄鍋一杯に湯を沸かしにかかる。

その間に、海華は部屋にあるだけの半纏やどてらを子供に纏わせ、部屋の真ん中に投げるようにして敷いた朱王の布団へ子供を寝かし付けた。


 バタバタ慌しく動き回る二人を余所に、息も絶え絶えの有様で部屋へ入った朱王は上がり框に腰を降ろし、全身を使うように激しい息を繰り返しながらガックリ肩を落とす。


 「志狼、さん……あんた、どうして、ここに?」



 切れ切れに言った朱王にかまどへ薪を放り投げていた志狼が視線だけをこちらへと向けた。


 「ちょいと野暮用があってな。来てみたら返事も何もなかったから、表で待っていたんだ。それで朱王さん……」


 湯気を立てはじめる鉄鍋に指先をちょいと浸し、良い湯加減だと判断したのだろう志狼は鍋の湯を小桶に移して海華を呼ぶ。

すると彼女は何枚もの手拭いを湯に浸し、硬く絞った物それで布団に横たわる子供の顔を拭き清め始めた。


 「あのガキはどこの誰でぇ? 朱王さん、またあんたの隠し子だの落とし胤だのじゃねぇだろうな」


 真剣な面持ちで子供の介抱をする海華の横顔を見ながら志狼が放った一言に、朱王は片眉だけをヒクリとつり上げ彼を睨んだ。


 「またとはなんだ、またとは。隠し子だのなんだのと冗談じゃない。どこの誰だかなんて知らんよ。地蔵堂の裏手で見付けただけだからな。海華の奴が可哀想だと連れてきたんだ」


 「へぇ。なら、捨て子か乞食の子供だろうぜ。それにしても……これからどうするんだ?」


 水に濡れた手を傍らにある布巾で拭った志狼は、やおら室内に上がり、火鉢の上に掛かっていた鉄瓶を手に取る。

シュゥシュゥと勢いよく噴き出す白い湯気の向こうに、眉根を寄せる朱王の顔が霞んで見えた。


 志狼が鉄瓶の湯を使って作ったもの、それはほんのりと甘い香りを漂わせる葛湯だった。


 志狼によると、近所の奥方から頂いた物であるが、自分も桐野も余り得意ではないため、朱王と海華に食べてもらおうと用事足しの帰りにここへ立ち寄ったのだそうだ。

ここでは貴重品になる砂糖を少々加えた葛湯を湯飲み一杯食べた子供は、幾ばくもしないうちにクテンと眠ってしまった。


 三つの湯飲みにそれぞれ葛湯を満たし、熱々のそれを無言のままで啜る三人の口からは時折深い溜息が漏れる。

スゥスゥと軽やかな寝息と気不味い沈黙が混ざり合う室内、最初に口を開いたのは志狼だった。


 「ひとまず命は助かったみたいだが、これからこのガキどうするんだ?」


 畳に胡坐をかいた状態でボリボリ頭を掻く志狼の隣に座する海華は、眉をへの字にして湯飲みを手のひらで包み転がす。

彼女とほぼ同じ表情で子供の寝顔を見下ろす朱王の口からは、この日何度目かの深い深い溜息が漏れた。


 「どうするったって……犬や猫の子じゃあるまいし。このまま追い出す訳にはいかないじゃない」


 「じゃぁ何か?お前、このガキの親ぁ見付けるってぇのか、捨て子だったらどうする?まさかここで面倒見ようって言うんじゃ……」


 次第に裏返りそうになる志狼の声、彼が発した台詞が終わるか終らないかのうちに、朱王は手にしていた湯飲みを放り出すように畳へと置き『冗談じゃない!』と二人が吃驚するような大声を張り上げた。


 「ちょっと兄様!声が大きいわ、あの子が起きる!」


 「そんな悠長なことを言っている場合じゃないだろう!ここに子供を置くなんて、駄目だ!絶対に駄目だからなッッ!」


 普通の人ならば確実に起きてしまうだろう声量だが、子供の瞼は閉じたまま、体の中で唯一柔らかそうな唇だけがムニャムニャと動くだけ。

あの寒さの中、裸同然でどのくらい外に突っ立っていたのかはわからぬ。

だが、この眠りの深さから見ると、まともに休息も取れず食事も儘ならない状態だったに違いない。

身体の大きさからみると三つか四つ程だろう幼子を、再び寒空の下に放り出す事など考えられなかった。


 「静かにして!少し落ち着いてよ兄様」


 柳眉を逆立て唇の真ん中に人差し指を押し当てながら朱王へ向き合う海華は、そっと子供へ手を伸ばして首元まで布団を引き上げる。


 「誰も兄様に子供の面倒みろなんて言わないわよ。そんな事できっこないの、初めからわかってるってば」


 「ならどうするんだ?この子供、どこで面倒みるつもりだ?」


 「うちでみるに決まってるわ。勿論……旦那様が許してくださればの話だけど」


 だんだんと尻窄みになる海華の台詞に、朱王以上の驚きを見せた志狼は思わずその場から腰を浮かした。


 「ちょっ、ちょっと待て!海華、お前まさかこんな汚ねぇガキ引き取ろうってのか!?」


 「汚いって何よ、酷いわね。しばらく面倒みようって言ってるのよ。もしかしたら、親が探しているかもしれないでしょう?」


 ちょこんと小首を傾げて言った海華、それも一理あるとは思いつつも、あたふたしながら志狼は更に続ける。


 「しばらくって、いつまでだ?」


 「そんなのわかる訳ないじゃない、この子の引き取り手が見つかるまでよ」


 『それこそ冗談じゃねぇやッ!』嘆きと怒りを半分半分に含ませた叫びが志狼の口から飛び出した、それと同時に海華は渾身の力で彼の腰辺りを平手でひっ叩き、静かにしろと言いたげに睨み据える。


 叩かれた場所から熱く広がる鈍い痛みに唇を噛み締める志狼は、助けを求めるような眼差しをウンザリとした面持ちを崩さない朱王へ向けた。










 「豆太!豆ちゃん、おやつよ!」


 ヒラヒラと純白の雪花が舞い落ちる桐野邸の縁側で、聞き慣れぬ名前を呼ぶ海華の姿があったのは、子供を保護してから数日後のことだった。


 彼女の呼び掛けに答える『はぁい!』と、いささか甲高い子供の声が廊下を渡り、すぐに庭の向こう、冬でも青々とした細い葉を繁らせる松の向こうから小さな影が飛び出してくる。

継ぎはぎの粗末な着物に、同じく膝の部分に継ぎがある股引きを身に纏った年少の男児は、海華が立つ縁側まで走ってくると子犬に似たつぶらな瞳を輝かせ彼女を真っ直ぐに見上げた。


 「寒かったでしょ?早く手を洗って中へ入ってね。それと志狼さ……おじちゃんは?」


 縁側にしゃがみ込みこちらを見下ろす海華に、子供はニコリと笑って今来たばかりの庭の奥を指差す。


 「向こうにいるよ。おじちゃん!おじちゃーん!」


 軽やかな身のこなしで後ろを振り返った子供は、庭に向かって何度も叫ぶ。

すると、前栽せんざい辺りがガサガサ動き、むっつり顔の志狼が姿を表した。


 「お疲れ様、少し休んで」


 「おう」


 不機嫌そうな表情を崩さないまま、ぶっきら棒な返事をした志狼は、端折った着流しの上に纏う半纏を軽く払うと、海華や子供に目も向けず台所へと歩いて行く。

 自分達には目もくれず立ち去って行く彼の後ろ姿をじっと見詰めていた子供は、悲しげな光を宿した目で海華を見上げた。


 「おじちゃん、怒ってるの?」


 「怒ってなんかないわよ、寒いのを我慢してるから、怖い顔になっちゃうだけ。豆ちゃんは何も心配しなくていいから、早くお上がんなさい」


 唇を微かに綻ばせながら言った海華に一つ頷き、子供はパタパタと勝手に向かって駆けて行く。

海華が『豆太』と呼ぶこの子供は、彼女と朱王が地蔵堂の裏手で拾ったあの小汚い子供だ。

朱王の部屋で暫し休ませた後、目覚めた子供に三人は名前や親の所在を問い質したのだが、彼は自分を『まめた』だと言ったきり、父親は『わかんない』母親は『知らない』と答えただけ、さて、これからどうしたものかと考えあぐねた末、三人は仕方なく豆太を忠五郎がいる番屋へ連れて行った。


 近所で借りた着物を纏わせた豆太を抱いた朱王が番屋に入ってきたのを見るなり忠五郎が発した一言は、『今度はどこの女との子供でぇ?』だ。

これには朱王も呆れ果てて反論の言葉も出ない。

そんな彼を余所に、志狼は必死に子供の親を探してくれ、子供を預かってくれる者を探してくれと頼み込む。

しかし忠五郎は浅黒い顔を難しそうに歪めて深く腕組みし、この広い江戸市中では親を探し出すのは難しいだろう、それにいきなり幼い子供を預かってくれる家など中々ない、と繰り返すだけだ。


 確かに忠五郎の言う通り、第一両親が存命しているかもわからない。

引き取りがいるかいないかわからない子供を無責任に他人へ預けるのも気が引けた。


 途方にくれながら長屋に戻った三人にはこれ以上どうしようもなく、結局豆太と名乗る少年は志狼と海華に連れられ八丁堀の桐野邸に一時身を寄せる事になったのである。


 突然現れた幼子に帰宅した桐野もさすがに驚きを隠せない様子だったが、海華が訳を話し、しばらく置いて下さいと豆太共々何度も頭を下げるのを見て、彼の居候を快く承知してくれた。


 これでしばらくは衣食住に不自由しない、後は忠五郎や町方同人、そして人の噂を上手く利用して豆太の親を探す事ができる、ホッと胸を撫で下ろした海華だが、思わぬ障害はすぐ近くにいた。

そう、それは志狼だ。


 志狼と海華が住む離れに豆太が居候するようになってからと言うもの、志狼の機嫌はすこぶる悪い。

朝から晩まで苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、口数は滅法少なくなり、豆太に声をかけるどころか見向きもせず、豆太が近くへ寄ろうものなら犬猫のように邪険にし、追い払う。


 心底子供が嫌いではない筈の志狼が、なぜ豆太にだけ辛く当たるのか、海華には彼の気持ちも少なからずわかる気がした。


 「ねぇねぇ、おかぁちゃん。おかぁちゃんってば」


 背後から着物の袖を引っ張られ、振り向くと、お勝手の入口に腰掛け大福を頬張っていた豆太が立っている。

子供にしては痩けているように見える頬や薄い口許は、大福にまぶされた粉で真っ白に汚れていた。


 「あらやだ、どうしたのその顔!」


 コロコロ笑いながら手元にあった布巾で顔を拭く海華と、手も拭いて、とばかりに両手を差し出す豆太。

まるで本物の親子のように見える二人を忌々しげに横目で見ていた志狼は、締めようとしていた前掛けを乱暴に竈へ叩き付ける。

前掛けが立てるバン!と派手な音に、二人は彼の方へ顔を跳ね上げた。


 「―― ちょっと出てくる」


 抑揚のない声でボソリと告げて勝手口から出て行こうとする彼を海華は慌てて呼び止めた。


 「待ってよ志狼さん、どうしたの? 今から出掛けるって、どこ行くのよ?」


 「いちいちそんな事言わなきゃいけねぇのか? そこら辺ウロウロしてくるだけだ」


 「何よそれ……。大体、もうすぐ旦那様がお帰りになるのよ? お夕飯の支度だって……」


 「うるせぇっ! 飯の支度ぐらいお前がやればいいだろうッ!」


 自分に背中を向けたまま放たれた怒声に、思わず海華は肩を竦め、二人のやり取りを聞いていた豆太は目を丸くしてその場に硬直してしまう。

そんな二人を残したまま、志狼は脱兎の如く走り去って行った……。






「なぁにが『おかぁちゃん』、だ。調子に乗りやがってあのクソガキ……ッッ!」


 ブツブツ低い声で呟きつつ、据わってしまった両眼を細めて舌打ちした志狼が飯台の上に置かれた猪口に酒を注いでいく。

しかし小刻みに震える彼の手から注がれる酒は、半分ほども飯台へと零れ落ち、それを見兼ねたのだろう彼の正面から伸びた手が徳利を引ったくり、残りの酒を猪口へと注いだ。


 ここは中西長屋から道二本離れた場所にある小さな飲み屋、飯台が二つだけしかない小さな店内、その一番奥に腰掛ける男二人以外に客はなく、店主だろう白髪頭の初老の男は、調理場の奥でうつらうつらと舟を漕いでいた。


 「志狼さん、もういい加減にしたらどうだ?飲み過ぎだぞ」


 「うるせぇやぃ。このくれぇがなんだ……俺は、まだ酔ってなんか、いねぇ!」


 目元を真っ赤に染め、酒精の臭いがプンプンする息を吐き散らして猪口の酒を飲み干す志狼の正面には、ウンザリとした面持ちで飯台に片肘をつく朱王がいる。

ヘベレケに酔った状態の志狼が中西長屋に姿を現したのは、とっぷりと日も暮れた頃。

仕事も一段落、晩酌でもしようかと酒瓶を作業机の下から酒瓶を引っ張り出していた朱王は、突然部屋に乱入してきた志狼に半ば無理矢理部屋から連れ出され、この場末の酒場に連れて来られたのだ。


 足元も覚束無いほど酔っ払った志狼の様子に驚きを隠せないまま、一体何があったのかを問い質す朱王に、志狼は延々と海華と豆太に対する文句や苛立ちを喋り立てたのだ。


 「なぁ朱王さん!海華は……海華は、俺の女房だな!?」


 手にしていた猪口を叩き付けるように飯台に置き、充血し濁った目で自分を見る志狼に朱王は呆れつつも首を縦に振る。


 「そうだな、海華はアンタの女房だ」


 「だろ!?あいつは俺の女房だ、それじゃぁ……あの豆太ってぇガキは、俺のなんだ!?」


 いつもの素人は全く違うザラついた声を張り上げる志狼の問いに、朱王は胸の前で腕を組みちょこんと小首を傾げて見せた。


 「豆太か?あの子はアンタとは何の関係もないだろう。赤の他人だ」


 ひょんな事から寝食を共にしているが、豆太と志狼、そして海華は全くの赤の他人であることに間違いはない。

朱王の一言を聞いた途端、志狼の眉根が一気に吊り上がった。


 「そうだ、あのガキと俺たちゃぁ何の関係もねぇんだ、なのに、あいつは海華を『おかぁちゃん』てぇ呼ぶんだぜ!?おかぁちゃんってぇ、馴れ馴れしいにも程があらぁ!」


 「……海華はおかぁちゃんなのに、自分は『おじちゃん』って呼ばれるのも腹が立つんだろ?さっきから何度同じ話をしているんだ」


 疲れ切った声色でガクリと肩を落とした朱王の目の前で、ドン!と激しく飯台が拳で打ち付けられる。

一瞬震える空気、店の奥で居眠りしていた初老の男が、寝ぼけ眼を何度か瞬かせた。


 「俺はあんなガキの親父なんかにゃなりたくねぇやッ! なぁ朱王さん、聞いてくれよ。あのガキ

な、四六時中海華にベタベタベタベタくっついて廻ってんだぜ? こないだなんざ、三人で街歩いてたら、知らねぇ女から『可愛い坊っちゃんですね』なんて言われてよぉ……」


 その時の光景が頭によぎったのか、志狼の声が次第に弱々しく変わる。

飯台に片肘をつき、頭を抱えた状態で彼を見詰める朱王の眉尻が、わずかに下がった。


 「朱王さん、あのガキの親ってなぁ、いったいどこにいるんだ? あいつ、いつ出てくんだよ? 」


 「それを俺に聞かれてもな……。桐野様に聞いた方がいいんじゃないか?」


 「―― 海華の奴、あいつを引き取るなんて言わねぇよなぁ?」


 飯台へ突っ伏しながら呟く志狼に、もう朱王は何も答えられない。

とどの詰まり、彼は海華にくっつく豆太に嫉妬しているのだ。


 「旦那様もよぉ、何だかんだ言って、あいつの事可愛がってんだ。海華が引き取りたいってぇ言ったら、反対はしねぇと思う……」


 「志狼さん、海華だってアンタに相談もなく勝手な真似はしないよ。桐野様もそうだろう? そう心配ばかりするな。さ、そろそろ帰るぞ」


  ポン、と軽く彼の肩を叩くと、飯台に臥した状態で志狼は小さく頷く。

それとほぼ同時、店の戸口がガタピシ軋みながら開き、くすんだ橙色の半纏を着た女が一人、顔を覗かせる。

『いらっしゃいまし』そういいながら、店の奥にいた男が慌てて立ち上がる。


 「あ、いたいた!やっと見付けたわ」


 戸口から吹き込む雪混じりの風と共に聞こえた女の声に、志狼は顔を跳ね上げた。

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