第四話
志狼が手に入れたツキヨタケは、その日のうちに桐野の手に渡った。
しかし、その日から朱王や志狼、そして海華の口から『竹治』の名前が出る事はなくなったのだ。
あれほど竹治の事を怪しいと口にしていた志狼も、まるで彼の存在など最初から無かったかのように振る舞い、海華と共に元通りの毎日、屋敷の仕事をこなし朱王の世話をする毎日へと戻る。
そんな三人に小さな変化があったのは、朱王と志狼が幸吉の長屋を訪れてから十日余りが過ぎた日の事だった。
その日は朝からどんよりとした曇り空が広がり、昼を過ぎた頃には身を凍らすように冷たい雨、氷雨が降り始める。
音もなく静かに大地を濡らす冷たい涙は屋根に当たり透明な雫と化して軒先からシトシトと滴った。
出掛けるのも億劫となる寒気の元、とある長屋の一室からは気が滅入るような天気を吹き飛ばすような男と女が楽しげに笑い語らう賑やかな声が響いている。
神社裏にあるボロ長屋、そこに住まう錺職人の幸吉の部屋には朱王と海華、そして志狼が朝から顔を出していた。
三人揃い踏みでこの部屋に集まるのはおそらく初めてだろう、日のあるうちから酒宴を催しているような賑やかさは彼らのものだ。
寒気を遮るようにピタリと閉じきられた戸口、その白茶けた戸を背中を丸めて忙しなく叩く一人の男の姿があった。
「ごめんください! 幸吉さん、幸吉さんはいらっしゃいますか?」
ヒタヒタと肩口を濡らす冷たい雨に身を縮ませる男の声は微かに震えている。
「はーい、ちょっとお待ちくださいね」
透き通るような女の声が戸口の向こうから聞こえる。
明らかに幸吉の物とは異なるその声に、男は小さく首を傾げた。
『お待たせしました』との台詞と同時に勢いよく戸口が開き、見覚えのないお河童頭の女がひょこりと顔を覗かせる。
「え、えぇと……。幸吉さん、は?」
「中におります。どうぞ」
にこにこ人懐っこい笑顔を見せる女の背後から、左腕を真っ白な三角巾で吊った男がひょこっと顔を覗かせた。
「どうした海華、お客さん……、あぁ、こりゃぁ竹治さん」
「あなたは、志狼さん。いらしていたんですか?」
寒さに頬を赤く染めた男、竹治の一言に志狼は一度頷き彼を中へと招く。
そこには、ここの主である幸吉のと、こちらも以前この部屋で顔を合わせた事のある長髪の男が向かい合い室内に座していた。
「竹治さん、こいつぁ俺の女房で海華と、義兄さんだ」
志狼が二人を紹介すると、朱王と海華はそれぞれ自分の名を名乗り軽く会釈する。
『はじめまして』そう簡単に挨拶を交わした竹治は、少しばかり緊張した面持ちで幸吉に向かった。
「幸吉さん。今日は簪のお代を払いに……」
「あ、お代ね。早々にありがとうございます。あ、ちょいと待って下さい」
そう言って袂を弄りだす竹治を片手で制し、幸吉はニヤリと白い歯を覗かせた。
「この寒い中、わざわざ来て頂いて申し訳ありません。お詫びと言っちゃあなんだが、ちょうど海華ちゃんが茸汁を作ってくれたもんで、食べてってください」
満面の笑顔のまま竈を指差す幸吉、その指の先には真っ白い湯気を立ててグツグツ煮える大きな鉄鍋がある。
今更ながら、狭い室内を満たす香ばしい醤油の香りに竹治の鼻がひくついた。
「茸汁です、か。いや……しかしご迷惑では」
「ご迷惑だなんて、たくさん作りましたから、どうぞ召し上がってください」
紺色の前掛けを掛けた海華が鍋の木蓋を開け、お玉で中身をグルグル掻き回す。
濃い茶色の汁から顔を出す黒っぽい茸、そして銀杏切りにされた大根や人参、そして短冊切りにされた油揚げにささが牛蒡とたくさんの具がお玉に合わせてクルクル渦を巻く熱々の汁の中で踊っていた。
「兄の私が言うのもなんですが、海華の腕はなかなかなものです。味見だと思ってどうぞ召し上がっていってください」
室内で胡坐を書いたまま、前髪を掻き上げつつ朱王が一言こぼす。
薄暗い室内で放たれる彼の視線、互いの目が合わさった刹那、竹治は何かに操られるように首を縦に振っていた。
朱王の隣へ誘われるように座した竹治に、海華はお盆に乗せたお椀をサッと差し出す。
黒い塗りがあちこち剥げた粗末なお椀には、茸の他、じっくり煮詰められた具が山ほど盛られ真っ白な湯気を立てていた。
「はい、どうぞ。冷めないうちに召し上がれ」
「あ、ありがとうございます……」
醤油の匂いが鼻を擽る茸汁、しかし竹治の顔はなぜか曇ったままだ。
そんな彼にお構いなし、と言うように箸を渡し、朱王達の分も汁をお椀によそう海華。
彼女を横目で見つつ志狼は上がり框、ちょうど幸吉の前に腰を下ろした。
「どうしたんでぇ竹治さん、食べねぇのか?」
「えぇ……。いや、ちょっと」
「もしかして茸がお嫌いでしたか?」
志狼と朱王から立て続けに浴びせられる質問に、竹治は焦った様子で首を横に振る。
そして右手に持った箸をお椀に恐る恐るいれると、飴色に煮られた大根を一欠けら摘み上げた。
「はい幸吉さん、志狼さんもどうぞ」
「あぁ、すまねぇ。海華ちゃん美味そうだなぁ」
「美味そうだ、じゃなくて美味しいのよ。ねぇ兄様?」
コロコロ笑いながらお椀を朱王に手渡しする海華へ一度頷いて、朱王は箸を手に取る。
彼の横では、視線をお椀の中身へ釘付けにしたまま微動だにしない竹治が額に玉の汗を浮かべていた。
「そうだな、お前の料理はそこそこいけるからな。ところで……この茸はどこから採ってきたんだ?」
彼の何気ない一言に、竹治はビクリと肩を跳ねさせる。
それを見て、志狼と朱王は互いに目配せし、幸吉は緊張した面持ちで生唾を飲み込んだ。
「これ? あたしがいつもお世話になってる八百屋さんよ。山に行ったらあちこちに生えていたんですって。これね、とっても美味しい茸らしいわ」
『あたしも食べよう』そう言って残った汁や具を皆より一回り小さなお椀に盛った海華は、そのまま竹治の横に腰を下ろす。
志狼と海華に挟まれる形となった竹治の箸を持つ手が微かに震えた。
「あら、どうしたの竹治さん、どうぞ召し上がってくださいな」
そんな一言と共に笑顔を一つ彼に向け海華はお椀を口へ運ぶ。
彼女の細い喉がゴクリと微かに鳴り、茶色の汁を飲み下す。
彼女に続くように、朱王や志狼、そして幸吉も一斉に箸を動かした。
「お、こりゃ美味ぇや。いい出汁が出てるぞ」
汁を一口飲み、茸や具を次々口に放り込む幸吉の頬が大きく緩む。
朱王、そして志狼も次々にお椀の中身を平らげて行く。
彼らを凝視していた竹治は、おずおずと自分のお椀に唇を付けた。
「―― ん、美味しい」
舌に染み込む出汁の風味に、緊張していた竹治の表情がほんの少し和らぐ。
箸の進みも早くなり、彼のお椀の中身はあっという間に半分近くに減った。
「海華、今日は特別美味いぜ」
人参を口に放り込みながら言った志狼は、自身のお椀から茶色の破片を一つ摘み上げる。
それは具として入っていた茸だ。
「ところで、この茸はなんてぇ名前なんだ?」
「名前?えぇっと……何だったけ?忘れちゃった」
ペロ、と舌先を覗かせて海華は恥ずかしそうに笑う。
すると、朱王はお椀に残っていた汁をグッと飲み欲し小さく溜息をついた。
「なんだ、お前もう忘れたのか?」
『ツキヨタケだと言ったじゃないか』
朱王の唇からその台詞が飛び出した瞬間、竹治の手から箸が滑り落ちた。
「頂いたツキヨタケをたっぷり入れてあるのよ」
海華が止めとも言える一言を放った瞬間、竹治はお椀を放り出し土間へと転がり落ちる。
そして這いずるように土間の隅に置かれた水瓶へ向かうと顎が外れんばかりに大きく口を開けて人差し指と中指を纏めて深々と喉の奥へ突っ込んだ。
「ぐぇ……ゲッッ!!ゲエエェェェッッ!!」
丸めた身体を何度も跳ねさせ、胃袋の中の物を土間へぶちまける竹治の血走った両目からボロボロ涙が零れる。
室内に広がる酸っぱい胃液の臭いに幸吉は顔を顰めて明後日の方を向き、朱王と志狼は冷たい視線を竹治の背中に向ける。
唯一人、海華だけはニコニコと場違いな笑みを浮かべた海華はその場からすっくと立ち上がり、水瓶の横に置いていた湯飲みを手に取ると無理矢理な嘔吐を繰り返す竹治の隣へしゃがみ込んだ。
「ごめんなさいね、お口に合わなかったかしら。はい、これを飲んで落ち着いて」
そう言いながら彼女が差し出した湯飲みを引ったくり、がぶがぶと一息に飲み干す。
口の端から胃液と水が入り混じった液体を滴らせ、嵐の息を付き身体を起こした竹治。
食べかけのお椀を傍らに置いた志狼は、癖のある髪の毛を無造作に掻き乱した。
「おい海華、それを飲ませちゃ駄目じゃねぇか」
「あら、どうして?」
志狼の台詞にちょこんと小首を傾げて訊ねる海華は、空になった湯飲みの中身を覗き込む。
その中には、何やら灰色がかった砂のようなものが少量こびり付いていた。
「それには鼠殺しを溶かしてあったんだ。毒団子を作ろうと思ってな。この部屋、やたらと鼠が多いから……」
「ねっ、ねず……うわぁ!ウワアァァァァァァッッ!!ア――――ッ!!」
首元を力の限りに押さえ付け、吐瀉物の中を右へ左へ転げ回りのた打ち回る竹治はまるで正気を失ったかのよう、その端整な顔を醜く歪ませ汚物に塗れる彼を、部屋から土間に降りた朱王と志狼が無表情な面持ちで見下ろす。
先程まで笑顔を湛えていた海華も、今は汚い物を見るような眼差しを竹治へと向けている。
「どうした竹治さん?何を慌てている、これは……」
「全部、アンタがやった事じゃねぇか」
朱王、そして志狼が順に吐き捨てる。
叩き潰された虫よろしく土間に突っ伏す竹治、彼が汚物まみれの顔をノロノロ上げた、それとほぼ同時、部屋の戸口が勢いよく開き、黒羽織を纏った男が三人飛び込んできた。
「邪魔をするぞ」
些か低めの声色でそう言った細身の侍、桐野に、朱王達は深く一礼する。
土間に伏したままの竹治は一体何が起こったのだ、とでも言いたげに二つの眼を真ん丸に見開いて侍らを凝視した。
「北町奉行所の者だ。竹治と申すのはお前か?」
朱王らを一瞥した桐野は自身の足元に蹲る竹治に鋭い視線を投げる。
唇を戦慄かせたまま返事もできず、ただ無言のままに頷く竹治。
そんな彼を、桐野は自身の左右にひかえていた侍、都築と高橋に命じて竹治を土間から引き立たせ、半ば無理矢理志狼と朱王の間へと座らせる。
蛇に睨まれた蛙よろしく身を縮ませて、竹治は口元にこびり付いた胃液を拭った。
「お前の女房だったおセツの事で、聞きたい事があるのだ。いや、おセツだけではないな。前と、その前の女房についてももう一度話を聞きたいのだ」
「おセツと、その前の女房の? お侍様、それは一体どういう事で? 私なんかに話を聞いているより、まずはこの人方をお調べになって下さい、人に毒茸だの鼠取りだのを食わせようとするなんて、頭がどうかしているとしか思えません」
怒りを含ませた声色で吐き捨てながら朱王や志狼を睨む竹治の言葉を耳にした途端、海華の柳眉がこれ以上ないくらいに逆立った。
「頭がどうかしているのはアンタの方じゃないの!? 自分の女房に毒茸食べさせて殺すなんて……人間のする事じゃないわっ!!」
「俺が!?おセツに毒茸喰わせただと!?冗談じゃないっ!!あいつは……おセツは饅頭に当たって死んだんだ!前も、その前の女房もそうだ!みんな病で死んだっ!俺が殺した証拠が何処にある!いい加減な事を言うと承知しないぞっ!!」
眉間に青筋を浮かべ、目を血走らせた竹治は海華に掴み掛からんばかりの勢いでその場に仁王立ちとなる。
その勢いに思わず二、三歩後ずさった彼女と竹治の間に割って入った都築は、その大柄な身体を壁のようにして彼の前に立ちはだかる。
上から睨み付けらる圧迫感と恐怖に、竹治はグッと唇を噛み視線を彷徨わせた。
「そう証拠証拠と喚き散らすな。お前に言われんでも、ここにちゃんと用意してあるわ」
野太い声で吐き捨てた都築の言葉が終わるか終らないかのうちに、高橋は羽織の袂から一つの小さな紙袋を引っ張り出し、その中に片手を突っ込む。
彼の男にしては細く白い手が取り出したのは、黒く干からびた茸の欠片、それを目の当たりにした刹那、怒りに赤く染まっていた竹治の頬から、みるみるうちに血の気が引いて行った。
「コレが何だかわかるか? いや、お前にわからぬはずはないな?お前、毎月のように南山へ出向いて、この茸を採っていただろう?」
そう淡々と言いながらその茸を再び袋に戻した高橋は、何を思ったのかそれを海華へと手渡す。
微かに頷き袋を受け取った海華は、徐に鍋へと向いた。
「それは……確かに私は茸を採りに行っていました。でも私はツキヨタケなんて茸は知らない、私はヒラタケやシメジを採って……」
しどろももどろに竹治が弁解を始める、だが、高橋は彼の言葉を鼻で笑って一蹴した。
「それは嘘だ、お前、以前に山の麓に住む百姓に採っているのは毒茸だ、と注意された事があっただろう。お前はその時、これは鼠殺しに使う物だと答えたらしいな。毎回毒茸だけを採りにくるお前を、よく覚えていたぞ」
「昨年死んだ女房も髪結いの女房にこぼしていたそうだ、『旦那の作る料理を食べると、必ず体調が悪くなる』とな」
フン、と力強い鼻息と共に言った都築、その丸太の如き太い腕が胸の前で組まれたのを呆然と見遣る竹治の手、
硬く握り締められた拳がワナワナ震えだす。
その時だった、竈の方から『できました』との一言と共に海華がこちらを振り向く。
彼女の手には、真っ白な湯気が立つ小さなお椀が一つ持たれていた。
「桐野様、出来上がました」
微かに表情を強張らせる海華に、桐野は薄い笑みを見せる。
「そうか、ご苦労だった。竹治よ、先程高橋が出した茸で造った茸汁だ。ここで食ってみろ」
有無を言わせぬ、そんな雰囲気を醸し出しながら竹治に向かう桐野は、海華から受け取ったお椀を彼に向かい付き出す。
それは出汁汁に茸を放り込み似ただけの粗末な汁物、みるみるうちに青ざめて行く竹治の顔から玉の汗が噴き出した。
「どうした、食って見ろ。お前がいつも採って女房に食わせていた茸だぞ。先程、毒茸ではないと言ったばかりではないか。何も疚しい事がないなら、食えるはずだ」
抑揚のない声色で詰め寄る桐野、鼻先ギリギリに突き出されたお椀を振るえる手で受け取り、竹治は食い入るようにその中身を凝視する。
茶色い汁と柔らかく煮られた茸が浮かぶ水面に、鼻先から垂れた彼の汗が落ち小さな波紋を作り出して行った。
「ねぇ兄様、あの後の事、幸吉さんから聞いた?」
畳の水拭きをしていた海華が朱王に背中を向けたまま問う。
自分へと向けられた背中に『あぁ』と気のない返事をし、朱王は先刻彼女がいれてくれた茶を口にした。
「あの男、あれから奉行所で全部吐いたんだってな。前の女房二人もあの毒茸で殺したんだろう?」
「うん、正確に言えば茸で弱らせて鼠殺しで殺したのよ。あ、お茶変えるわね」
そう言いながら土間へと降り、雑巾を水を張った桶に放り投げた海華は、軽く手を洗い前掛けで手を拭う。
パタパタ急いで部屋に上がろうとする彼女を片手で制して、朱王は火鉢の近くにあった急須を取った。
「いい、茶くらい自分でやる。それより、話の続きは?」
「あ、そうだったわね。志狼さんから聞いたんだけど、あの人、奥さんの食べる物に少しずつ茸の粉や煮汁を混ぜていたみたい。で、身体を壊して寝込むと甲斐甲斐しく世話をして、食べ物に混ぜ込む茸の量を増やしていくの。で、いよいよ弱りました、って時に鼠殺しを飲ませて殺すのよ。目当ては、やっぱりお金だったみたいね。」
竹治は、女房の持参金は元より家財一式、着物やら簪までをも、古道具屋に叩き売っていたようだ。
まさか女房想いの優しい亭主が毒を盛っているなどとは誰も思わないし、当の女房も亭主が怪しいなど騒ぎ立てもしないだろう。
夫婦二人きりの家族、他所から人の目が入ることも少ない、一度臥せってしまえば、他所に助けを求めることも難しい。
その結果、女が三人も死んだのだ。
「志狼が腹を壊したのも、竹治の仕業か?」
「そうよ、あの人、おセツさんが身体悪くしたのは饅頭のせいって事にしたかったのね。一人だけ具合悪くなった、ってのは不自然だから、茸の粉を餡に混ぜた饅頭を他の人にも配ったんだって」
頬を膨らませて朱王の隣に座った海華の眉がわずかにつり上がる。
勿論、毒の量は僅かであり、おセツの他に死人は出なかった。
志狼と同じく腹を壊したり嘔吐した者が数人出ただけである。
だが、少しでも毒の量が多かったなら……志狼は今頃鬼籍の人になっていたかもしれない。
「桐野様に連れて行かれる前に、一発二発ぶん殴ってやればよかったわ。あたしの志狼さんに何て事するのよ、全く……」
唇を尖らせつつ呟いた台詞に、ハッと我に返った海華だが時すでに遅し。
自身の横から感じるジトッとした朱王の視線に頬が引き攣る。
軋む動きで朱王の方を振り向けば、両岸を細めた彼と視線がかち合った。
「へぇ……『あたしの志狼さん』ねぇ」
「な、によっ! なんか文句ある!? 間違った事言ってないじゃない!」
耳朶まで真っ赤にした海華は『水を汲みに行く!』と甲高い声で一言叫び、逃げるように部屋を飛び出していく。
ガタン、ピシャン!と乾いた悲鳴を上げる戸口を見遣りつつ、苦笑いして茶を含む朱王。
と、今しがた閉じられたばかりの戸が、先程とは打って変わり、カラリと静かに開かれた。
「朱王さん、邪魔するぜ」
冷えた空気を引き連れて姿を現したのは志狼その人だ。
「あぁ、志狼さん、いらっしゃい。海華の事を迎えに来たのか?」
「そうなんだ。帰りにちょいと用事があってさ。海華、まだいるんだろう?」
この部屋で交わされていた会話の内容など知る筈もない志狼は、小さく笑って土間に立つ。
偶然とはいえあまりにも出来すぎた展開に笑いたいのを堪えつつ彼と対峙した朱王は、やおらその場から立ち上がり、志狼の側を抜けて土間に降りると、戸口に手を掛けた。
「今呼んでやるから、少し待ってくれ」
そう言った次の瞬間には、もう戸口は開け放たれる。
口から大きく息を吸い込んだ朱王は、長屋中、いや、表通りにまで響き渡らんばかりの大声を張り上げた。
「海華――ッッ! お前の大事な志狼さんが迎えに来たぞ――ッッ! 」
ガンガンと響く朱王の叫びに、表に出ていた長屋の住人達は驚き、目を真ん丸にして朱王の部屋へ顔を向ける。
呆気に取られた人々の顔、それは朱王の隣に立ち尽くす志狼も同じだった。
「兄様なに言ってるのよ――!」
絹を引き裂くような悲鳴とは、まさにこの事を示すのだろう、それくらい派手な悲鳴を張り上げ、井戸端から飛び出した海華の顔は、火が出んばかりに真っ赤っか。
桶をそのままにこちらへ駆け出そうとするのをみるやいなや、朱王は自身の隣に立つ志狼の腕を引き、表へ放り出した。
「後は頼むぞ」
「え!? あ……! ちょっと朱王さ……っ!」
ニヤ、と悪戯坊主の笑みを残し、朱王は戸口をピシャリと閉め切る。
訳もわからないままオタオタ狼狽える志狼と、内側からつっかい棒が掛かった戸口を、開けろとばかりに叩き、大声で喚き立てる海華。
そんな二人の姿を微笑ましく、または苦笑しながら眺める長屋の住人達。
この二人の食卓には、これからも毒入り料理が並ぶことはないだろう。
可憐に咲いた一輪の花が無惨に散った初冬、どこまでも高く晴れ上がった蒼い空の下で、羞恥に上擦った海華の叫びが空気を震わせ続けた。
終




