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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十六章 花散らす氷雨
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第二話

 幸吉からの貰い物は、そのまま夕餉の支度をしに来た海華の手に渡り、彼女は大喜びでそれを持ち八丁堀に帰って行った。

それ以降、饅頭の事も竹治夫婦の事もすっかり忘れていた朱王は、その翌日、朝餉の支度をしに再び長屋を訪れた海華は、酷く浮かない顔、そして言い難そうに言葉を濁しながら志狼が夕べより臥せっている事を聞かされたのだ。


 「あいつが寝込んでるって? どうしてだ、風邪でも引いたのか?」


 「違うのよ。その……兄様には言うな、って志狼さんから言われたんだけどね。昨日貰ったお饅頭を食べてからお腹具合が悪くなったの。急にお腹が痛いって言い出して、夜中もまでご不浄に籠りっきりよ。ほんと、大変だったのよ」


 洗濯を終え、赤くなった手を膝の上で擦りつつ俯き加減で海華が話す。

まさか、自分があげたあの饅頭のせいなのか、即座にそう思った朱王は、微かに顔を顰めて彫刻刀を動かしていた手を止めた。


 「吐いたって、アレを食ってからか?もしかして腐っていたとか……」


 「うん……でもね、あたしも旦那様も食べたのよ、一日経つけど何ともないのよね。一つだけがお腹壊すくらい傷んでいたなんておかしいと思わない?」


 「まぁ……確かにな。だが、志狼さんは他に変わった物を食ってはいないんだろう?」


 海華の言い分は最もだが、それでも酷い嘔吐を繰り返す程だ、何かしら原因がある事は確かだろう。

「それで、志狼さんを一人置いてきて大丈夫なのか?」


「うん。今朝方には落ち着いたから、大丈夫だって言ってくれて。それでも心配だから、今日は早めに帰ってもいいかしら?」


 ちょこんと小首を傾げ上目遣いでこちらを見る海華へ一も二もなく頷いて、朱王は作業机に頬杖をつく。

朱王も実際にあの饅頭を見ているが、あの艶やかな皮といい匂いといい、どうしても傷んでいたようには思えない。

仮に中の餡が悪くなっていたのなら、一緒に食べた海華や桐野も志狼と同じく腹を壊しているはずだ。


 「志狼さんはね、きっと自分が風邪気味だったんだろうって。だから誰にも知らせるなって言うのよ。だけどあたし、なんだか気になっちゃって。兄様、ごめんなさい」


 「お前が謝る必要はないよ。もし饅頭が原因だとしたら、謝るのは俺のほうだ。ただ、幸吉さんには言うなよ。嫌な思いをさせちまうからな」


 心根の優しい幸吉の事だ、きっと青い顔をして己を責めるに違いない。

そして何より、饅頭を幸吉に贈った竹治夫婦にも気を遣わせてしまうだろう。

それをわかっている海華は、朱王の言葉に素直に頷いた。


 「頼むぞ。それと、志狼に大事にするよう伝えてくれ。無理しないで身体を治せとな」


 「わかったわ、ありがとう。兄様も風邪は引かないでね。病気をしてちゃお仕事もできないんだから」


 ニコリと笑って膝立ちとなり、火鉢へ炭を足し始める海華。

そんな彼女の後ろ姿を眺めて、朱王は『わかった』と短い返事をする。


 丸一日嘔吐と腹痛に苦しみ厠と床を往復していた志狼がようやく重湯を口に出来るようになったのは、それから三日後の事だった。










 「志狼さん、……志狼さん入るわね」


 廊下と自室に通じる襖の前に立ち、奥へ向かって海華が声を掛けると、『あぁ』と些か気だるげな返事がする。

なるべく音を立てないように、静かに含まを開いた海華の目線の先には布団へ仰向けに横たわり疲れ果てた表情で目を閉じる志狼の姿があった。


 「志狼さん、具合はどう?」


 寝間着姿で寝付く彼の隣へ腰を下ろした海華は、ぐったりと力無く横たわる彼の顔を覗き込む。

解かれた癖のある髪に薄らと生えた髭、わずかに痩けてしまった頬には、いつもの艶も張りもない。


 ウトウト微睡んでいたのだろうか、志狼は乾いた唇を何度か動かし静かに瞼を開けた。


 「あぁ……もう平気だ。心配掛けて、すまねぇな」


 「水臭い事言わないで。あたし、お買い物に行ってきます。何か欲しい物はない?」


 すっかり弱ってしまった志狼、その額に張り付く髪を指先で払ってやり、熱の有無を確かめるように額へ手のひらを当てると、志狼は気持ちよさそうに再び目を閉じ手のひらの冷たさを楽しむ。


 「欲しい物は……ねぇな。ただ、早く帰ってきて欲しい。ダメか?」


 「なによ、甘えちゃって。わかりました、すぐに帰ってくるから」


 軽く笑って志狼の髪をくしゃくしゃ撫で、その場から腰を上げた海華に『気を付けてな』と一言声を掛け。志狼は再び目を閉じる。

次第に遠くなってゆく海華の足音、それを聞きながら、彼は再び微睡の世界に足を踏み入れて行った。





 全身を巻き込むように吹き抜ける空っ風、志狼から借りた灰色の襟巻をしっかりと巻き、それを鼻先まで引き上げて肩を竦める海華は、足早に街を行き買い物を片付けて帰路につく。

片手に酒瓶、そして片手には冬野菜が詰め込まれた編み籠を下げて道の端を歩く海華の足元を渦を巻いた風が吹き荒び、巻き上がった小石や砂がバチバチと着物の裾や足に当たる。


 弾かれるような痛みに顔を顰め、着物の裾を払った海華の口から白い吐息が生まれ空気に溶けた。

彼女の傍を行く人々も一様にしかめっ面を崩さず、身を打つ風に立ち向かうように進んで行く。

早く帰って火鉢に当たりたい、そして志狼と一緒に暖かい生姜湯でも啜りたい、そんな事ばかりを考え家路を急ぐ海華の視界に、ふと見覚えのある男が映った。


 「あら? 幸吉さんじゃないかしら……?」


 分厚い半纏を羽織り、首を縮めてこちらへと歩いてくる男は、確かに錺物屋の幸吉だ。


 「幸吉さん! 幸吉さんってば!」


 「ん? なんだ、海華ちゃんじゃねぇか。久し振りだなぁ」


 寒風に曝され真っ赤に染まった頬を緩め、幸吉はこちらに向かい片手を軽く上げると、小走りに近寄ってくる。

志狼と同じ、頭の後ろで束ねた髪が埃っぽい空気にヒラリと舞った。


 「久し振りだなぁ、この寒いのに買い物かい? 大変だな海華ちゃん」


 ニコニコと愛想の良い笑みを向ける幸吉に、海華も同じく微笑みで返しながらちょこんと小首を傾げる。


 「これくらい何てことないわ。それより幸吉さんこそ、こんな時にお出掛け?」


 仕事だろうか、そう思いながら何気なく口にした一言に、幸吉は突然顔を曇らせる。


 「実は……これから朱王さんとこに行く途中だったんだ。なぁ海華ちゃん、朱王さん、最近身体の具合を悪くした事はなかったか? 」


 「身体を? ―― ううん、あたしは何も聞いていないわ。どうして?」


 おかしなことを聞くものだ、そう心中で思った海華に、幸吉は鼻の下を軽く擦りつつ軽く俯いた。


 「それがな、俺、朱王さんに同じ長屋の人から貰った饅頭を渡したんだよ。よかったら食べてくれ、って。でな、同じ饅頭を食べたその人の女房が、急に腹痛起こして七転八倒でよ、御医者に運ばれたんだ」


 「お饅頭を食べて、お腹を!?」


 幸吉から聞いた話に、海華は驚愕の表情を浮かべて目を見開く。

そんな彼女に、幸吉は眉を顰めながら頷いた。


 「そうなんだ、もし海華ちゃんが食べてたらとも思ったんだが、どうやら大丈夫みてぇだな。朱王さんも平気だってぇ事は、あの饅頭は食べなかったのか?」


 「い、え……あたしが美味しく頂いたわ。あたしのお腹は大丈夫だったんだけれど……」


 酷く言い難そうに口籠りながら、口元に手を当てる海華。

そんな彼女を不思議そうに眺めて、幸吉は小さく首を傾げる。


 「大丈夫、だったけど?」


 「えぇ、あたしはね。ただ……志狼さん、あっと、うちの人なんだけど、お饅頭を食べてから、お腹を壊して……今も、寝付いてるの」


 尻すぼみになる海華の台詞。

幸吉の顔を直視できず、俯いたまま海華は身体の前で握った両手を忙しなく握り締める。

しゅんと項垂れてしまった彼女の前で、幸吉の顔からみるみるうちに血の気が引いて行き、寒さとは関係のない脂汗が額から滲み出た。





 「本当に、申し訳ありませんでしたぁぁぁっ!!」


 腹の底から悲痛な大絶叫を張り上げる幸吉は、畳を掘り返す勢いで額を擦り付け、桐野と志狼に向かって何度も何度も頭を下げる。

海華から志狼の事を聞いた幸吉は、まるで世界が終わりを告げたかのように真っ青となり、取る物も取り敢えず桐野が帰ってくる時刻を見計らって八丁堀の桐野邸へ詫びを入れに訪れたのだ。


 布団からやっとの事で起き出してきてきた志狼と、急遽海華に呼び出され屋敷を訪れた朱王、そしてここの主である桐野は、取り乱した様子の幸吉に戸惑いの様子を隠し切れず、とにかく頭を上げろと何度も告げた。


 「幸吉とやら、もう頭を上げよ。下ばかり向かれては話もできぬ」


 「へぇ、でも俺……いや、私のせいで志狼さんを死ぬような目に遭わせてしまって……」


 黒羽織から着流しに着替え、上座に座る桐野はすっかり困り顔だ。

顎の下を擦りつつ幸吉に声を蛙が、彼は相変わらず背中を丸めたまま、時折ビクビクと身体を震わせて頭を下げ続ける。


 これでは埒が開かない、そう考えた海華は隣に座する志狼と顔を見合わせコホンと一つ咳払いをした。


 「幸吉さん、幸吉さんお願いだから顔を上げて?」


 「幸吉さん、俺はもう何ともねぇんだ。死ぬような目だなんて大袈裟な……唯の食当たりなんだぜ?」


 分厚いどてらを纏った志狼は、やつれた顔ながらも小さな笑みを幸吉へと向ける。

二人の台詞に、幸吉はやっと畳から顔を上げ、桐野らを見渡した。

興奮に上気した顔、額には畳の目跡がくっきりと付いている。


 「志狼さん……海華ちゃん、本当にすまねぇ。桐野様、朱王さんこの通り! 許して下さい!!」


 「幸吉さん、何も幸吉さんが悪い訳じゃない。もう謝るのはよしてくれ」


 苦笑いしながら朱王が言えば、桐野も唇を微かに上げて大きく頷く。


 「朱王の言う通りだ。お前がわざと傷んだ饅頭を寄越したとは思うておらん。そう固い顔をするな。海華よ、悪いが茶を淹れ代えてくれぬか?」


 「はい、わかりました、ただいま」


 そう言って海華はすぐさま腰を上げ、茶の支度をしに部屋の外へ出て行く。

明々燃える火鉢を四人で囲む形へと変わりながら、桐野は真っ赤な隅にこびり付く白い灰を火箸で突いた。


 「志狼の調子もだんだん良くなっておるな。それで幸吉、お前の長屋で饅頭に当たった女がいたと聞いたが、具合はどうなのだ?」


 「へぇ、それがどうも芳しくないようで、まだ臥せたまんまでございます。亭主が付きっ切りで看病しておりやすが……」


 火鉢の上で翳していた両手を軽く擦りながら幸吉が答える。

どうやら、容態は志狼よりずっと悪いようだ。


 「傷んだ物あげちまって申し訳ねぇって竹治さんもお詫びに行きてぇと言ってはくれたんだが、女房がその調子だからな、竹治さんの分も俺が代わりに謝ろうと思ってたんだ」


 どこか恥ずかしそうに俯く幸吉に、三人は思わず小さく笑う。


 その後、志狼の体調は日に日に回復し、家の仕事ができるとなった。

だが、『傷んだ饅頭騒動』は、この後、思わぬ方向へと進むことになったのだ。





 「おい海華、洗濯物頼むぞ!」


 「わかったわ、今取り込んで来るから!」


 昼も過ぎた中西長屋に志狼と海華の声が響く。

幸吉が八丁堀を訪れて十日余りが立った。

この頃には志狼の体調も回復し、簡単な家事もこなせるまでになっていた。

この日も、仕事に精を出す志狼の横で洗濯物を畳んでいた志狼は、干していた分を取り込むよう表を掃いていた海華に声を掛ける。


 部屋の裏手にある物干し場に走った海華は。いつまでたっても部屋に戻ってこなかった。


 「……海華、遅いな」


 「どうせ誰かと世間話でもしてるんだろうよ……」


 畳み終えた襦袢や着流しをポンポンと叩き志狼が呟く。

それに対し、幸吉の作り上げた簪を慎重な眼差しで人形の結い上げた髪に差し込んでいた朱王は、視線も動かさないまま、ポツリと答えた。


 きっと彼の言う通りだろう、そう考えながらせんたくものを長持ちに片付けていた志狼の耳に、小さな足音が二人分聞こえる。

次第に近付いてくる足音、志狼が何気なく戸口の方を振り向いたとほぼ同時だった。


 「兄様、幸吉さんよ」


 開けっ放しの戸口から両腕に山と洗濯物を抱えた海華がひょこりと顔を覗かせる。

彼女の背後には、冷えた空気で鼻の頭を赤くした幸吉の顔があった。


 「こんにちは。朱王さん、今いいかい?」


 口笛に似た風の音に乗って幸吉の声が朱王の耳に届く。

朱王の顔が、やっと戸口へ向けられた。


 「あぁ、幸吉さんどうかしたのか?」


 人形の頭を作業机の上に敷いた布の上に置いて、朱王は大きく背伸びをする。

洗濯物を志狼に手渡した海華は幸吉を室内へと招き入れ、茶の支度をしようと茶筒と急須を手にする。

志狼は洗濯物を部屋の片隅に押しやり、幸吉に座布団を勧める志狼は幸吉のために火鉢の炭を掻き廻し火力を強めた。


 「忙しいところすまねぇなぁ。海華ちゃんと志狼さんも来ていたのか、ちょうど良かった。実は……」


 『竹治さんの女房が死んだんだ』


 火鉢に両手のひらを翳す幸吉の唇から漏れた台詞に、三人はほぼ同時にその場に固まる。

表情を強張らせる彼らから集中して浴びせられる視線に気まずそうな表情を見せ、幸吉は仕事柄だろう、丸まった背中を更に丸める。


 「今朝方早くに竹治さんから報せがあって……ずっと寝付いてたんだが、とうとう駄目でしたと」


 「そう、か……。可哀想に、まだ若かったのにな」


 竹治の女房、おセツを目にしたことがある朱王の声が暗く沈む。

ふくよかで明るい、健康そのものだったあの女が呆気なく死んでしまった。

竹治にとっては立て続けに三回も恋女房を亡くしたのだ。

その悲しみは計り知れない、きっと自分が同じ目に遭ったなら……女房の後を追おうと考えるかもしれない。


 「そう、奥さん亡くなったの。可哀想ねぇ。その旦那さん……竹治さんって言ったっけ?その人はどうしてるの?」


 幸吉に湯気の立つ湯呑を差し出しつつ海華が眉を顰める。


そんな彼女に『うん』と小さく頷いて幸吉は湯飲みに唇を付けた。


 「見てるこっちが辛くなるくれぇだよ。泣き喚いてひどかった。今もおセツさんの骸に寄り添って離れねぇぜ。

三回所帯もって三回とも先に死なれるなんざ、竹治さんも運が悪いってぇのか……。とにかく気の毒でならねぇや」


 はぁ、と微かな溜息をつきつつ肩を落とす幸吉。そんな彼の横で茶を啜っていた志狼の頬がヒクリと蠢く。


 「三回……その竹治って男、三回も女房に死なれたのか?」


 「あぁ、そうだよ。……確か、他の二人も病気死んだはずだな」


今思い出した、と言うように天井へ視線を向ける幸吉、そんな彼の横顔を眺めながら眉間に深い皺を寄せた。

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