第三話
カシャン! と乾いた悲鳴を上げて、猪口が床へ転がり落ちる。暗いシミとなってじわじわ広がる酒を目で追う寺村の眉がつり上がり、眉間に深い皺が寄った。酔客の談笑が響く酒場、一瞬でその場の空気が凍り付き、赤ら顔の男達、白粉でめかし込んだ女達が表情を引き攣らせつつ、男と寺村へ視線を向けた。
一触即発、不穏な空気と気まずさが支配する空間。志狼がちらりと男へ視線を投げたその時だった。
「こりゃあとんだご無礼を、お侍様、申し訳ございやせん」
やたらと軽い笑いを見せる男が、寺村へペコペコ頭を下げる。『次は気を付けろ』そうぶっきらぼうに返し、頬杖をついて顔を背ける寺村へ男はひたすら謝りながら、そそくさとその場を後にした。勘定終え、縄暖簾の向こうへ男が姿を消した、それと同時に狭い店内に充満していた緊張感は雲散霧消し、空気が一気に緩みだす。
一騒動あるか、と身構えていた志狼だが、あまりの呆気無さに思わず拍子抜けし、徳利に残っていた酒を残らず猪口へ注ぐと、それを一気に飲み干した。再び店内を彩りだす笑い声と歓声、鼓膜に感じる賑やかさ。代金を飯台に放り出し、その華やかな空気から逃げ出すかのように寺村は酒場を出て行く。
慌てて後を追う志狼に気付く事もなく、彼は提灯の明かりを頼りに八丁堀とは反対の方向へと歩みを進めた。
「あいつ……どこ行く気だ?」
いつもとは異なる動きをみせる寺村。月明かりに長く伸びる影を引き連れ、足音を忍ばせ志狼はその後を追う。やがて寺村は大通りを外れた小路へ身を滑らせた。川の近く、小さな船着き場になった場所で足を止めた寺村を待っていたのは、先ほど酒場で猪口を跳ね飛ばした、あのみすぼらしい身なりの男であった。
「先……は、……んだ失礼を」
乱杭歯を剥き出しに、にやけ顔で男はこちらに近寄ってくる。船着き場から少し離れ、陸に引き上げられた船の陰に身を隠す志狼には、二人の話しは断片的にしか聞こえてこない。『明後日』 『いつも通り』 『篠田屋へ……』こんな台詞を耳にし、志狼は前後の文脈を推測しつつ船の陰で気配を殺して暗闇で密談する二人をじっと見詰めた。
天空から舞い降りる月光。その無機質で冷たい光に照らされ男が寺村へ白く、小さな包みを手渡す様が見える。 寺村は、当たり前のようにそれを受け取り、袂へ押し込むと、くるりと踵を返した。それと同時に素早く顔を引っ込め、息を殺しこれ以上ないと言うくらい小さく身体を縮めて船の陰に隠れる志狼のすぐ近くを、何も気付かぬ寺村が歩き去って行く。
鼻唄混じりに川へ向かい立ち小便を始めた男をそのままに、志狼は再び寺村の後を追った。人気の途絶えた夜道を、提灯を揺らし寺村は八丁堀、つまりは自らの屋敷へと戻る。
男から渡された小さな包み、遠目から見ても金包みだろうそれは、酒をこぼした詫び両としてはいささか高額に思えるだろう大きさだ。
妙な金を渡す、あの男はいったい何者か?寺村宅の屋根裏に忍び込み、中の様子を窺おうかとも考えたのだが、まずは先程聞いた話しを桐野へ伝えるのが先、寺村の自室に明かりがついたのを確認して志狼はその場を離れる事にした。
「おっ、と……忘れてた」
踏み出した足をピタリと止めて後ろを振り返る志狼は、唐突に寺村宅の近くにある雑木林へ向かって走る。そこは太陽の光も射さないためか日中も湿気が立ち込め、小さな沼地があちこちにできたような場所だ。生い茂る木々の間から射す月光を頼りに、雑木林へ入り込んだ志狼は漆黒に変わる柔らかな大地に目当ての物を見付け、そっとその場へ屈み込む。
志狼の指先が優しく手折ったもの、それは暗闇に純白の花弁を開く一輪の鷺草だった。紙切り細工を思わせる切れ込みが入った繊細な花弁を温い夜風に震わせ、墨を流したような夜の空を舞う姿の可憐な野草。湿地に群生するそれを一本、根本から折って手拭いに挟む。 始めてこれを見付けたのは、寺村を尾行して最初の夜のことだ。その繊細な、しかし凛として美しい姿に惹き付けられ、海華への手土産として持ち帰った。
たった一本の野花を海華は喜んで受け取ってくれた。その弾けるような笑顔がもう一度見たい、その一心で志狼は毎晩花を摘み帰った。万が一、自分の身に何かあったなら、この花が生きた鷺と化し自分の魂をつれて海華の元へ飛んでいくかもしれない。以前ならばそんな事など露ほども思いはしなかった。馬鹿馬鹿しいと一笑に付していたはず。だが、今は自分の気持ちを海華に伝えることが出来るなら、野花の一本にでも頼りたい。
手折った土産をそっと懐にしまって、志狼は足音を忍ばせつつその場から駆け出す。満点の星空の下、額から飛び散る汗が闇夜に消えた。
息を切らして屋敷へ帰り、真っ先に向かったのは、主、桐野の自室だった。既に床についていた桐野は志狼の気配を感じてすぐに飛び起きてくれたのだ。そんな彼に寺村と接触した件の男の存在を告げて人の口から出た篠田屋の名を告げる。 篠田屋は江戸でも五本の指に入る海鮮問屋だと桐野は答えた。次に狙われるのは篠田屋の可能性が高い、それだけはなんとしても阻止せねば。眠気も一気に吹き飛び、鼻息荒くそう言う桐野に志狼はこのまま一晩、寺村宅を張ると申し出た。
「よいのか? そう無理せずとも……」
案じるような眼差しを向けてくる桐野へ、志狼は小さく笑って首を横に振る。
「私なら大丈夫です。一日やら二日、なんてて事はありません」
「そうか……なら、頼んだぞ。行く前に、海華に顔を見せてやれ。お前を一番案じているのは海華なのだからな」
そういいつつ桐野にポンと肩を叩かれ、思わず志狼は苦笑い。だが、せっかくの好意を無駄にする理由はない。桐野へ深く一礼し、志狼は早速離れへ向かった。 よく磨かれた廊下を渡り、部屋の近くまで来てみれば、襖の隙間から橙色の光が細い線となって漏れ出ているのが見えた。
「海華、今帰った。── 開けるぞ?」
音も立てず、するすると襖を開けば、室内に置かれた行灯が暖かな光をもって出迎える。真ん中に敷かれた一組の布団に彼女の姿はなかった。ふと、顔を左に、ちょうど丸窓の下に置かれた文机の方へやれば、そこには寝巻きを纏った丸い背中が、ゆっくりと上下に揺れている。
文机に凭れ掛かり、静かな寝息を立てる海華。どうやら、志狼を待っているうちに夢の世界に旅立ったようだ。その傍らに静かに座った志狼は、きれいに畳み置かれていた自らの寝巻きを手に取り、大きく広げたそれをそっと彼女の背中へかける。
ぴったりと閉じられた瞼、長い睫毛が、小さく震えた。
「── こんなとこで寝ちゃぁ、風邪引くぜ?」
そう小さく言葉を掛けるが、海華が起きる気配はない。自分を待って、待って、待って……そして、力尽きてしまったのだろうか。そう考えると申し訳なさが先に立ち、志狼はくしゃくしゃっ、と乱暴に髪を掻き乱してその場に胡座をかいた。
月光に浮かぶ海華の寝顔は、心持ち寂しげだ。 思えば、この数日ろくろく話しも出来ないでいた。いくら先に休めと言っても、彼女は夜中遅く帰る自分を待っている。そして、顔を合わせると安心するのか、糸が切れたように眠ってしまうのだ。
離れている間は永遠の如く感じる時間も、二人きりでいる間は、矢のように早く過ぎ去っていく。
「ほったらかしで、すまねぇ……」
薄い唇が紡ぐ謝罪の言葉が、海華の意識に届く事はない。柔らかな髪をそっと撫で、己の懐に手を突っ込んだ志狼が取り出したのは、二つに折られた手拭いだった。畳まれたそれをそっと開けば、先刻手折ったばかりの鷺草が透けるほどに薄い花弁を震わせる。まだ瑞々しさを失わず、微かに甘い香りを放つ純白の野花。自分が無事に帰宅した、その証しを文机へ置いて、再び志狼の指先が艶やかな髪を優しく撫でる。
「また、行かなきゃならなねぇんだ。明日も……必ず帰ってくるからな」
明日も、この花を土産に帰ってくる。静かに眠り続ける海華にそう誓って、志狼は部屋を後にする。 去り際、音もなく吹き消された行灯から揺蕩たう白い煙が、静寂に満ちた室内へ消えていった。
命短い蝉たちが放つ狂った羽音が闇の向うで響く。肌に絡み付くじっとりと湿気を含んだ空気が灰を満たし、その苦しさに引き摺られるよう意識が覚醒していく。開いた瞼の向うには霞がかった天井が広がっていた。
寺村宅を一昼夜張り込んだ志狼は、結局何事も起きず朝を迎える。数え切れないほどの欠伸を放ち、赤く充血した目を仕切りに擦り屋敷を見張る志狼の元に都筑が訪れたのは、太陽が昇りしばらくたった頃だ。
桐野の命でやって来た都筑に、後は任せろ、そう言われ有り難く見張りを交代し、屋敷へ帰って桐野が勤めに出たのを海華に確認した後、志狼は離れに転がり込んで失神するように眠ってしまったのだ。鼾もかかず、死んだように爆睡していたのだ。
からからに乾いた喉、苦しさに小さく呻いて身動ぎすると、『大丈夫?』と声がして視界の端から海華がひょこりと顔を出す。
「ぁ……海華、か」
「えぇ。志狼さん起きれる? 大丈夫?」
「平気だ。それより、今は……昼か?」
よろめきながら布団から身を起こした時、志狼は寝巻を腰まで肌蹴ている事に気が付く。どうやら暑さに耐えきれず脱いでしまったらしい。汗にまみれた肌がべたつき、酷く気持ちが悪かった。そんな志狼の気持ちを察してか、海華は手拭いを一本と真新しい寝巻を長持ちの中から取り出し、彼の前へと置く。
「汗、流してらっしゃいよ。それとも、先にお食事にする?」
「そうだな、腹も減ったが……先に汗、流してくるか」
充血した目を瞬かせ、手拭いを手に立ち上がった志狼だが、不意に視界が大きく回り危うく転びそうになる。慌てて立ち上がった海華に体を支えられて、どうにか体勢を立て直した志狼は自嘲気味な笑みを海華に見せた。
「みっともねぇだろ? 体も、だいぶ鈍っちまった。……気合入れ直さねぇとな」
自身で気が付かないうちに、体力は落ちていたようだ。以前ならば、一日二日の徹夜でヘタる事などなかったのに。こんな様で密偵が務まるのか、しっかりしろと心の中で自分を叱咤する志狼へ、海華はいつもの柔らかな微笑みを向け、緩く首を横に振る。
「大丈夫よ志狼さん、まだ、身体が慣れないだけ。徹夜だって久し振りなんだから疲れるのは当たり前よ。あまり自分を苛めちゃダメ。あたしは、志狼さんが病気も怪我もしないで、無事に帰ってきてくれればいいんだから」
そう言いながら力なく垂れた左腕を撫でる海華に心の底から愛おしさが湧いてくるのを感じて、志狼は彼女をそっと抱き寄せる。
「心配かけてすまねぇ。お前が待っていてくれるから……俺、毎晩必ず帰ろうって思えるんだ」
彼女の帆帆に右手を添えて自分の方を向かせれば、互いの視線が深く絡み合う。頭が痛くなるほどの蝉しぐれと夏特有の濃密な空気に包まれて、二人の身体はより強く密着した。
「あたしね、毎晩志狼さんの夢を見るのよ。毎晩、必ずね。だから、いつもすごく幸せなの。でもね、朝起きて、志狼さんが隣に寝ているのを見た時は、もっと、ずっと幸せな気持ちになるのよ」
志狼の肩に手を掛けて、海華が笑う。胸の中いっぱいに広がる幸福感とくすぐったいような気恥しさに包まれながら、志狼も唇を綻ばせた。身体が宙に浮いてしまいそうだ、このまま時が止まってしまえばいいのに。海華も同じ気持ちでいてくれる事を願いつつ、志狼は彼女の唇へ己が唇を近付ける。しかし、間合いの神はどこまでも残酷だった。
「御免! 志狼はいるか!」
玄関方向から響いた甲高い男の声に、海華はあからさまに不機嫌な面持ちに変わる。
「どうして毎回毎回……」
「俺達、とことんツイてねぇな」
もはや笑うしかない、そう言いたげに苦笑いする志狼は、軽く海華の肩を一つ叩き、そっと身を離す。 玄関へ向かおうとする彼を、海華は慌てて止めた。
「やだ、そんな格好で出ないでよ。用件なら、あたしが聞いてくるから」
声の主が誰なのか既にわかっていた海華は、そう言うが早いか玄関へと駆け出していく。急な用事ならば、すぐに出られるようにしなければ、との思いから、志狼も客人と海華の話し声が聞こえる渡り廊下の中間まで出た。
「高橋様、いらっしゃいませ!」
「これは海華殿、しばらくだったな、変わりはないか?」
声こらして誰だか予想はついていたが、やはり客人は同心の高橋だったようだ。
「はい、お陰様で。高橋様もお元気そうですね。あ、と……申し訳ありません、志狼さんまだ休んでいて……」
優しい嘘をついてくれた海華の、申し訳なさそうな声を聞きながら志狼は壁にもたれ掛かり、小さな溜め息をつく。
「いや、よいのだ。一日徹夜の後だから仕方あるまい。海華殿、すまぬが言伝てを頼まれてくれるか?」
「はい、承知致しました。どのような言伝てでしょう?」
「うむ、今晩四つ(十時頃)に篠田屋まで来るようにと伝えてくれ」
四つ刻とは随分と遅い時間だ。そんな事を頭の片隅で思いながらも、志狼は庭にちらつく木漏れ日を眺めながら考える。もしや桐野は今夜、篠田屋で寺村をお縄にするつもりではないのか、と。
「ところで海華殿、志狼とはどうだ? 楽しくやっておるか?」
今夜で片がつくかもしれない、腕組みしながらそう思った志狼の耳に、今までと若干異なる柔らかさを帯びた高橋の声が聞こえてきた。妙なからかいや詮索をする気など無いのだろう、その声の調子に海華の返事がわずかに遅れる。
「はい、お陰様で……桐野様にも志狼さんにも、大切にして頂いております」
「そうかそうか、それは何よりだ。二人で楽しく過ごせるのは、新婚の今時期だけだからなぁ。それ過ぎれば、早く子を成せと周りがうるさくなるぞ?」
玄関先から聞こえる、姿の見えない高橋から放たれた台詞に志狼は盛大に苦笑しつつガクリと頭を垂れる。可哀想に、海華は今どんな顔をしているだろう。こっちだって、海華とは一緒にいたいし、うるさく言われるまでもなく子は欲しいのだ。
「そりゃ、こっちだってさ、二人で楽しく過ごしてぇよ……」
苦笑混じりの呟きが口からこぼれる。誰に向けられたものでもないそれは、青空の下、世界を震わせる蝉の恋唄に、あっという間に掻き消されていった。




