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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十五章 神無月奇譚
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第一話

 ヒィヒィと癇癪女の泣き声に似た音を響かせ空っ風が吹き荒ぶ。

秋は足早に過ぎ去り、早くも冬将軍のお出ましか、と思わせるような寒気が襲来した江戸の街、夜ともなれば、殆どの者が寒さから逃れようと自宅に引っ込んでしまう。


 辻行灯が灯る頃ともなれば、道には殆どといっていいほど人の姿はない。

商売人……取り分け赤提灯をぶら下げる飲み屋や食い物屋、そして屋体で商売をする者らは堪ったものではない、まさに商売上がったりである。


 軒先に下げた古提灯が寒風に激しく揺れる。

『ふくや』と書かれたそれは、今にも吹き飛ばされてしまいそう。

こんな時に店を開けても閑古鳥は確実だろう。

だが、その一件の蕎麦屋にはただ独り寂しく……いや、のんびりと熱燗を舐める朱王の姿があった。


 「今夜は朱王さんが最初で最後のお客さんだねぇ」


 そう言いつつ、藍色の前掛けで手を拭いながら肥太った女が一人、猪口を手にする朱王の横を通り過ぎる。

彼女はガタガタ揺れる戸口を開き、表に吊るしていた提灯を回収した。


 酒樽に手足が生えた、と例えるのはいささか失礼だろうか。

たっぷりと全身に肉を蓄えた丸顔の女は、この蕎麦屋の女将、お福だ。


 二人が中西長屋に住み始めた頃から通っているこの店、つきたての餅を想像させる艶やかな肌、ふっくらとした頬に小さな目をしたお福は、まさにお福人形と瓜二つ。


 穏やかで気立ての良い彼女を二人も慕っていた。

そして海華が嫁いでいってから、朱王はよく夕飯を食いにここを訪れているのだ。


 「こんな天気だ、わざわざ出掛けようなんて物好きはいないさ。―― 俺みたいな物好きはな」


 自嘲気味に呟いて焼いた厚揚げに箸を入れる朱王。

『天気だけのせいじゃないかもよ』と、何やら意味深な台詞と共に彼へ微笑みかける。


 「他に理由なんてあるのか?」


 「いやだ朱王さん、知らないんですか? 神隠しですよ、神隠し」


 お福と朱王の二人だけしかいない店内、彼の正面に腰掛けたお福は、半分ほど中身の減った徳利を白い手で持ち朱王へ差し出す。

ありがたくその酌を受けた朱王は、なにかを考えるかのように軽く首を傾げた。


 「神隠し……あぁ、思い出した。逢魔ヶ刻の人拐いの事だろう?」


 飯台に片肘をつき、猪口に満たされた酒を一息に飲み干して朱王は顔にかかる髪を大きく掻き上げる。

『その通り』と言いたげに、お福は小さな目を更に小さく細めた。


 朱王が口にした『逢魔ヶ刻の神隠し』とは、最近、江戸市中を騒がせている人攫いの事を指す。

昼から夕方に移り変わり、薄い闇が世界を包み込む時、小さな子供や年若い娘が忽然と姿を消すのだ。


 女子供が姿を消した場所、そこに一貫性はなく、ある子供は住んでいた長屋の門の前で、ある娘は三味線の師匠の元からの帰り道、雑木林を背にした地蔵堂の前で、他にも河原や自宅の裏、湯屋からの帰り道等々、多種多様な場所で姿が見えなくなっている。


 髪の毛一本、下駄の片割れも残すことなく、まるで溶けるように姿を消してしまった幼子や娘らを家族はもとより

奉行所の与力以下、同心らも目を皿のようにして探し回ったのだが、手掛かり一つ見つけ出す事は出来なかった。


 そして、誰が言うともなくこの失踪事件は人ならざるモノの仕業、悪鬼に魔物、妖怪の仕業と噂されるようになったのだ。


 「最近はこの辺りでも、昼を過ぎると子供の遊ぶ姿を見掛けなくなったよ。少しでも日が傾きゃぁ、若い人らは泡喰って家に戻っちまうしねぇ……。神無月はさ、八百万の神様が揃いも揃って出雲大社へお出掛けになるんだろう? 神様が留守をいいことに、鬼や妖怪が好き放題に悪さをし出すんだよ」


 半ば真剣な眼差し、そして真剣な面持ちで言い切ってこちらを見る彼女に、朱王は思わず口に含んでいた酒を吹き出すところだ。

流行り病や天変地異ならばともかく、人攫い罪までおっ被されては鬼も妖怪も堪らないだろう。

姿かたちの無い物が、生身の人間を浚うなど有り得ない、かどわかしは、生きた人間の所業である。


 「そうか……なら、早い事、神様方にお戻りになってもらわないとな」


 苦笑いを見せつつ揚げを口に放り込む朱王に、お福は大きく頷き『そう言えば』と何か思い出したかのように紅を塗った厚い唇を蠢かす


 「海華ちゃんにも気を付けるように言っておきなよ?」


 「海華か……。それなら心配いらないよ。あいつはしばらく外には出られないさ」


 あっさりと言いのけた朱王に、今度はお福が小首を傾げる。


 「あら、海華ちゃんどうかしたのかい?」


 「二日前から、風邪ひいて寝付いてるんだとさ。飯を作ってくれる奴がいないから、ここにきたんだよ」


 季節が移り変わる頃、特に秋から冬に移り変わる頃に、海華は決まって熱を出す。

それを聞いたお福は、気の毒そうな表情を朱王に向けた。


 「あれまぁ可哀想に。婿さんは? 確か志狼さんてぇたっけ? あの人はきてくんないのかい?」


 「海華の熱が下がるまで、傍にいてやりたいんだとさ」


 ケッ、と小さく吐き捨てて、朱王は思いきり顔を顰める。

反対に、お福はコロコロと鈴が転がるような笑い声を上げた。


 「あらぁ、優しい旦那じゃないかぁ! 海華ちゃんもよかったねぇ、そんな優しいひとに貰われてさぁ、朱王さんも、なぁんにも心配しなくていいじゃないか」


 『心配ない以前に呆れ果てるぞ』そう小さく吐き捨てながら満面の笑みを向けるお福から視線を背け、朱王はふて腐れたように飯台に頬杖をついた。






 お福の店から帰った翌日、朱王は昼を過ぎた頃、久し振りに自室から出掛けてある場所へと向かおうとしていた。


 この数日、いつもの如く仕事に追われて部屋に詰めていた朱王、彼の手には竹で編まれた小さな篭がぶら下げられていた。


 その中には、よく熟れた梨と無花果が詰められている。

昨日、長屋前を通った果物売りから買い求めたもの、それを携えて彼が向かうところ……それは言うまでもないだろう、八丁堀だ。


 夕べ、お福にああは言ったものの、やはり朱王とて人の子、たった独りの妹が病に伏せているとなれば、そしてそれがいつもの事だろうが、心配にならない筈がない。


 あまり長居するのも志狼に迷惑が掛かる、少しだけ顔を見たら帰ってこよう、そう考えつつ朱王が部屋の戸口を閉めた途端、後ろから『ちゃん!』と甲高い声が響く。

やたら低い所から聞こえた声に驚き目を瞬かせた朱王が背後を振り返ると、すぐ後ろに小さな人影が立っているのが見える。


 「ちゃん!」


 「……お嬢ちゃん、お仙さんの?」


 自分の足元に佇む、茜色の絣を着た少女。

綺麗に纏められた細く柔らかな髪が日の光を受けて栗色に輝く。

ふっくらした桃色の頬を緩ませて、朱王へ向かい一杯に腕を伸ばし紅葉の両手を広げる少女に、ニコニコと屈託のない笑顔を見せる彼女に、自然と朱王の表情も緩んだ。


 「おはな! おはな、一人で行っては駄目よ!」


 長屋門の方から響く聞き覚えのある女の声に、朱王は反射的にそちらへ顔をやる。

傾きかけた門から小走りでこちらにくる一人の女、彼女の姿を目にした途端、少女は『おかぁちゃん!』と叫んで生えたての小さな歯を覗かせた。


 「これは、やはりお仙さんでしたか」


 女の顔を確かめた朱王の顔に、少女へ向けたものと同じ微笑みが浮かぶ。

彼の近くに掛けてきた深緑色の着物を纏った細身の女は唇を綻ばせて立ち止まり、朱王へ深く頭を下げた。


 「朱王さん、ご無沙汰しておりました」


 「こちらこそ、お元気そうで何よりです。このお嬢ちゃんは、やはりおはなちゃんだ」


 ぱたぱたと跳ねるように走りながら女に飛び付いた少女、身を屈ませて彼女を抱き上げた女は『はい』と言いながら首を縦に振る。


 年のころ三十手前だろうこの女は、乾物屋の女将であるお仙だ。

以前、盗賊団の引き込み役だった彼女を、縁あって堅気の世界へ引き戻したのが朱王と海華であり、陰間茶屋で色子をしていた彼女の兄、惣太郎も朱王が『身請け』し、今や香桜屋という江戸でも五本の指に入る薬種問屋の番頭として働いている。


 惣太郎とお仙にとってまさに朱王は自分たちの人生を変えてくれた大恩人といっても過言ではない。

堅気に戻った彼女は新たに勤め始めた乾物屋の若旦那に見初められ、はれて夫婦となった。

そして生まれたのが、今彼女の腕に抱かれてにこやかな笑みを振り撒いている少女、おはなだ。


 真ん丸な顔に一重の涼やかな目は母親であるお仙に、そして形の良い富士額は父親に似たのだろう、人見知りもせず、大きな目をクリクリ動かして朱王を見る彼女は、『可愛らしい』を絵に描いたような少女だった。

『はな』の名前は、お仙が『お世話になった海華ちゃんから一字借りたい』として付けられたものであり、海華もまるで本物の妹のように彼女を可愛がっている。


 「おはなちゃん、大きくなりましたね」


 「えぇ、今年で三つになりました。お転婆で困ってしまいますわ。おはな、ほら、これを忘れちゃダメじゃない」


 おはなのふくよかな頬に己の顔を近付け、片手に持っていた小さな人形を彼女へと渡す。

するとおはなはニコニコ笑ってそれを受け取り、胸の前で強く人形を抱き締めた。


 柔らかな綿がたっぷり詰る少女の形をした子守人形、それはおはなが生まれた時、朱王がお祝いにと造り渡した人形だ。


 「おはなはこの人形が大のお気に入りなんです。これがないと夜も寝ないんですよ」


 「そうですか、いや、気に入ってもらえて何よりです。ところでお仙さん、今日は惣太郎さんの所へ?」


 「はい、これから主人と出掛けなければならないので、兄さんにおはなを一日預かってもらおうと思いまして。長屋の前を通った時に、この子が『お人形のちゃんだ!』って走り出して行きまして」


 稀代の天才も、子供にかかれば『ちゃん』になるようだ。

頭を掻き掻き困ったように笑う朱王に一礼したお仙は、『またお店へいらして下さいね』と言い残し、惣太郎の元へ向かうべく踵を返す。


 そんな彼女の肩に顔を置き、おはなは『バイバイ』と小さく叫んで小さな手を朱王へと振る。

軽く片手を振って二人を見送る朱王の姿を、大家の部屋の前で世間話に花を咲かせていたこの長屋に住まう女達が、微笑ましそうに眺めていた。


 お仙親子と別れた朱王は、その足で八丁堀へと向かった。

志狼から、海華が熱を出したと聞かされたのも今から三日か四日前、きっと今頃は熱も下がり体調も落ち着いているだろう。

そんな事をつらつら考えながら歩みを勧め、桐野の屋敷についた朱王は、依然海華から言われていた通り表門から敷地内へ、そして玄関へ入り奥へ向かって声を掛ける。


 広い三和土に『ごめん下さい』と朱王の大きな声が三度ほど響き、やがて屋敷の奥からバタバタと若干慌しい足音が聞こえ、そしていつもと同じ、白い布で左腕を吊った志狼がひょこりと姿を現した。


 「あ、朱王さん」


 驚いたような、どこかきょとんとした面持ちでこちらを見る志狼に、朱王は軽く片手を上げて応える。


 「邪魔するぞ、海華の具合はどうかと思ってな」


 「あぁ、そうか。心配掛けてすまねぇ。熱はすっかり下がった訳じゃねぇんだが、起きれるくらいにはなったぜ。どうぞ、入ってくれ」


 日に焼けた浅黒い顔に小さな笑みを浮かべて朱王を中へと案内する志狼、彼に梨と無花果の入った篭を手渡して、海華が熱を出した経緯を聞くと、なぜか志狼は申し訳なさそうに顔を伏せ、ボリボリ頭を掻きむしる。


 「海華が熱出したのは、きっと俺のせいなんだ。最近急に冷えてきただろ? どうも左腕の調子が悪くて……痛むんだ。だから、水汲みや洗濯なんかを全部海華に任せちまって……」


 「そうか……。まぁ、そうしょげるな。寒い時期の水仕事なんてあいつにゃ慣れっこだ。熱も下がっているのなら、そう大事にはならないさ」


 その適度でどうにかなるほど海華はヤワじゃない。

そう抜け加えつつ、志狼に連れられ離れへと向かう朱王。

やがて渡り廊下と室内を隔てる襖の前まで辿り着き、志狼は小さく襖を開けて『入るぞ』と中へ声を掛ける。


 朱王の耳には聞こえないが、中から海華が返事をしたのだろう。

志狼は襖に手を掛け静かに横へと引く。

四角い世界のなかにいたのは、敷かれた布団から身を起こそうとする寝巻き姿の海華だった。


 「海華、朱王さん来てくれたぞ」


 「え? あら、兄様」


 「具合はどうだ? 顔色は良さそうだな?」


 顔だけをこちらへ向けた海華は、一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐにニコリと口許を綻ばせる。

彼女の隣に座った朱王は、持参した果物入りの篭を差し出した。


 「これ、見舞いだ。後で志狼さんに食わせてもらえ」


 「あら、ありがとう。気を使わせちゃってごめんなさい」


 ニコニコ笑って篭を受け取った海華は、それを膝の上に置くと、口許に手を当て軽く咳き込む。

すぐさま彼女の背中に半纏を掛ける志狼は、果物の篭を手にして朱王へと向いた。


 「たくさん頂いてすまねぇ。すまねぇついでに、一つ頼みたい事があるんだが……」


「頼み? なんだ?」


 「うん、ちょっと用事足しに街へ行きてぇんだかわ、俺が戻るまで海華の事、みててくんねぇかな? そう遅くならずに帰るから……」


 チラチラ朱王と海華へ交互に視線を送り、ひどくすまなそうに頭を下げる彼を前に、朱王はすぐに首を縦に振った。


 「あぁ、構わないぞ。別に子供じゃないんだ、一人置いて行ったって……」


 「そりゃ駄目だ。客なんか来たら困るし、だいたい急に具合が悪くなったら大変だ。えぇっと……薬はそこの棚の二番目の引き出しに入れてあるから、一包みだけ飲ませてくれ。後は……」


 「ちょっと志狼さん、ほんとに子供じゃないのよ? あたしは大丈夫だから、早く行ってきて」


  今度は海華が苦笑いだ。

それなら、と志狼は『よろしく頼む』と朱王へ念を押し、後ろ髪を引かれるように何度も後ろを振り向きながら襖の向こうに消えていく。

彼の足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、二人は顔を見合わせ再び苦笑いを交わした。


 「お前、俺といた時とは比べ物にならんくらい大事にされてるな。まるでおひぃ様だ」


 「いやね、志狼さんは、ただ心配性なだけよ。―― ま、大事にされてる、ってのは確かだけど。でも、留守番もさせてくれないんだから、まるっきり子供扱いね」


 志狼の掛けてくれた半纏を胸の前で掻き会わせてクスクス笑う海華。

そんな彼女に篭から一つ取り出した無花果を渡して、懐から取り出した懐紙を広げてやりながら、朱王は、何かを思い出したように『あぁ』と小さくこぼす。


 「さっき、長屋にお仙さんとおはなちゃんが来たんだ」


 懐紙を汁受けに、無花果の皮を指先で丁寧に剥いていた海華の手がピタリと止まった。


 「あら、珍しいわ、お仙さんが長屋に来るなんて」


 「惣太郎さんの所へおはなちゃんを預けに行く途中だったとさ。おはなちゃん、少し見ない間に大きくなったな」


 出産祝いの人形を渡しに行った時、彼女はまだ大人の両手にすっぽり納まる程に小さな赤ん坊だった。

それが今は、笑い、喋り、走るまでになったのだ。


 「子供なんて、あっという間に大きくなるのよ。おはなちゃんね、『お父ちゃん』『おかぁちゃん』以外の人は、みぃんな『ちゃん』なの。可愛いわよね」


 彼女の顔を脳裏に思い浮かべているのだろうか、海華は頬を緩めて無花果を一口齧る。

あっさりした甘味が、熱で乾いた口へ、そして喉へと広がっていく。


 「美味しい。兄様ありがとう、一緒にどう?」


 「いや、それは土産だからな。それに、俺はどこぞの誰かさんが急変しないように見張ってなきゃならん」


 わざとらしくそう言って、胡座をかいた足を組み直す朱王へ、海華は小さく吹き出しながら小刻みに肩を震わせた。


 「しまった、ずいぶん遅くなっちまったな……」


 西の空に沈むギラギラ輝く夕日に目を細めて、右手に大きな風呂敷包みを携えた志狼がポツリと呟く。

日本橋周辺で食糧やら日用品の買い出しを済ませた志狼は、家路につく人々の間をすり抜けて八丁堀へと急いでいた。


海華が熱を出してから、屋敷を開ける訳にはいかないと必要最低限の外出しかしていなかった彼は、朱王に留守番を頼み、久し振りの買い出しにでかけた。

野菜や魚など、食料品は『ぼて振り』の商人連中から買えばいい、しかし街中に出なければ買えない物もあり、あちらの店こちらの店と顔を出しているうちに太陽は西に傾き始めてしまった。


 早く帰らなければ主の帰宅に間に合わず、夕餉の支度も満足に出来はしないし、何より留守を守ってくれている朱王に迷惑が掛かってしまう。


一刻も早く屋敷に帰ろう、そう頭の中で思いながら大通りを急ぐ志狼は、ふとある事を思い出す。

このまま通りを行くより、ここから少し言ったところにある裏道、川沿いを通る小路を行く方が八丁堀へ向かうには近道なのだ。


 このまま大通りを行けば確実に日は水平線の彼方に沈んでしまう、この近道を使わない手はない。

気が付けば、彼は大通りを右に曲がりさ、更にその奥にある人気のない小道へと駆け込んでいた。


そこは周囲を木塀で囲まれた人家の裏、細く薄暗い道を走る彼の視界はある場所に来て一気に開ける。

目の前に流れる大川、滔々と流れゆく川面は天から降る夕日を受けて眩しく輝き、ざぁざぁと鼓膜を揺する水の音は焦る気持ちを落ち着けるかのように全身を包み込んだ。


 大きな風呂敷を背負った物売り男に、三味線を携えた若い女、そして茣蓙を抱えたみすぼらしい、きっと河原乞食

だろう汚い身なりの男が朱王の前を通り過ぎる。

街から道一本離れた所だけあり、人の通りは驚くほど少ない。


 志狼はが出てきた小路、その両脇に広がる雑木林の向こうでは、ねぐらに帰るだろう烏がけたたましい声で鳴き喚き、細い木の枝を黒い身体が激しく揺らす。


 さて、ここから走れば八丁堀はすぐそこだ。

大きく息をついて右手の風呂敷包みを持ち直した志狼は小路から駆け出し川の流れに沿って足早に道を行く。

乾いた道に伸びる影法師をお供に帰路を急ぐ志狼、と、彼の目指す方向から、何やら人が叫ぶような、怒鳴るような声が微かに響く。


 まだ酒を飲んで騒ぐには早い、酔っ払いの喧嘩ではなさそうだ。

怪訝な面持ちで首を傾げ、それでも歩みを止めない志狼の視界に広がるのは、川に沿って緩やかに左へ曲がる道が一本。


 と、志狼の目が道の向こうで右往左往する一人の人影を捉える。

辺りは紫がかった薄闇に包まれ、その人物の顔まではよく見えない。

無意識に歩く速度を速めた志狼の耳に、『おはな!』と必死に女の名前を叫ぶ男の声が届いた。


 「もし、もし、あんた。どうかしたのかい?」


 あまりに必死な男の声に、思わず志狼は傍に駆けより声を掛ける。

藍色の羽織に薄鼠の着流しを纏った男……暗い中では一見若そうなその男は、顔に浮かぶ脂汗でこめかみに解れ毛をベタリと貼り付かせ、大きな二重の目を張り裂けんばかりに見開き勢いよく志狼へと振り返る。


 体全体を使って大きく呼吸をする男の鬼気迫る様子に、志狼は一瞬ウッと息を詰め、一、二歩後ずさった。


 「あ……子供、子供を見掛けませんでしたか? 三つの女の子で……茜の着物を、あぁ、名前はおはなって言います、この辺りで見掛けませんでしたか?」


 必死なのか、今にも泣き出しそうに顔を歪めて志狼に詰め寄る男、どうやら迷子を捜しているようだ。


 「子供……いや、俺は見なかったが、どの辺りでいなくなったんだ?」


 「ここで、ここでです。私がちょっと目を離した隙にいなくなって……おはなっ! おはな――ッッ!! どこだ!? どこにいるんだ――っ!?」


 まるで発狂したかのように、着流しの裾を乱し再びその場を駆けずり回る男は、雑木林の茂みを必死で掻き分け、

かと思うと河原へ走り出し必死に川面を凝視し子供を探す。

余りに必死な、傍から見れば異常とも思える男の様子に唖然としながらも、志狼は夕闇迫る雑木林を掻き分け子供の姿を探し始める。


 遠くで響く子供の名を呼ぶ悲痛な絶叫、それを聞いてしまえば、そのまま知らぬ存ぜぬで通り過ぎる訳にはいかなかった。


 おはな、おはなと子供の名前を呼び必死に辺りを駆ける男二人を、側を行く人々は不思議そうな、気味悪そうな顔をして足早に通り過ぎていく。

やがて、志狼は風呂敷包みを道の片側に置きそこに繁る藪を片手で掻き分け始めた。

すると、そこにうっすらと何かが通った跡、つまり獣道のような痕跡を見付けたのだ。


 踏み付けられた草の様子からしてまだ何かが通って幾ばくも経っていないだろう。

足元に注意しながらそこを歩く志狼、と、彼の足に何かグニャリと柔らかな物が絡み付く。

まさか子供の身体では?

そう思い、瞬時に跳び跳ねた志狼は直ぐ様そこへ屈み込み右手で草の間をまさぐる。


 「…… こりゃ、なんだ?」


 自分の手が探り当てた物、それを見詰める彼の口から漏れた静かな声。

草の倒れた青臭い匂いに包まれる志狼の手に握れていたのは、あちこち埃で汚れた小さな子守り人形だった。

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