第六話
海華が無事に息を吹き返し、日の落ちた河原 で喜びに浸っていた朱王と志狼だが、いつまでもここに居座っている時間はない、三人とも負ってはいるものの命に関わりはない掠り傷だ。
未だ気絶したままの琴音の見張りを志狼と海華に任せ、朱王は近くの番屋へと走る。
事の次第はすぐさま奉行所へと伝えられ、完全に日の落ちた河原はあっと言う間に提灯をぶら下げた同心らや何事かと集まってきた野次馬連中でごった返し、上を下への大騒ぎだ。
普段は人通りも少ない橋の上も、今は河原を覗き込む人々でごった返し、ワイワイガヤガヤと賑やかなものだ。
しかし、橋から見下ろす河原は凄惨を極め、あちこちに転がる黒装束の骸にはぞんざいに蓆がかぶせられ、揺れる提灯の灯りに照らされた河原に飛び散った黒い血飛沫は鈍い艶と生臭さを放ち、風下にいる野次馬は顔を顰めて着物の袖で鼻を覆っている。
突然の知らせに何が何だかわからず、血相を変えて番屋に飛び込んできた桐野は志狼の口から事の次第を全て聞いたと同時、こめかみに青筋を浮かべ、番屋にいた者の目を憚ることなく大声で彼を怒鳴り付けた。
その怒りは、決して志狼が騒動を起こした事から生まれたものではない。
どうしてそんな大事を自分に話さなかったのか、相談しなかったのか、海華までをも命の危険に曝すなどお前は何を考えている。
普段は温厚を絵に描いたような彼が鬼のような形相で烈火の如く怒るのを、志狼は勿論、番屋に連れてこられた朱王や海華も初めて目にする。
当の志狼は桐野の心の内が分かっているのだろう、ただ反論も言い訳もせず『申し訳ありません』とひたすら畳に額を擦り付けていた。
その日の夜はきつい叱責を受けただけでそれぞれの住まいへと帰された三人は翌日改めて北町奉行所……奉行である修一郎の部屋へと呼ばれ、そこでまたしも志狼は、そして朱王までもが怒りで顔を紅潮させた修一郎から雷を落とされ、その怒号は障子を軽々と突き破り廊下の端まで響き渡る。
ひとつ間違えば、今ここに海華の姿はなかった。
なぜ、康二郎らが怪しいと思った時点でこちらに相談の一つもしなかったのだ。
二人揃ってなんて浅はかな、そう厳しい台詞を頭から浴びせられる朱王と志狼はガチガチに固まった状態で正座したまま、じっと自分の膝先に視線を落としたまま『申し訳ございません』 と繰り返すのみ。
その横で背中を丸めて縮み上がる海華も、まるで自身が怒鳴り付けられているように真っ青な顔でじっと息を殺している。
一通りの怒りを吐き出したのだのだろう、修一郎は障子の前に座していた桐野と一度視線を交わし、ゴホン、と咳払いをする。
未だ厳しい表情を崩さないままの修一郎と桐野、二人の視線はほぼ同時に三人へと向けられた。
「まぁ、今回はこの程度にしておくが…… 次、このような事があれば俺も桐野も容赦はせぬぞ」
「仏の顔は三度だが、儂らの顔は二度までだ。よく覚えておくように」
低い声色で言い放たれて、三人は揃って『わかりました』と深く深く頭を下げる。
『面を上げろ』修一郎の一声に操られるが如くに顔を上げた三人、顔色は蒼白、いつにも増して固い表情、そして怯えた眼差しで自分達を見る彼らに、思わず修一郎と桐野は顔を見合わせ 苦笑いだ。
「なんだお前達、まるで墓の中から這いずり出たような顔をして」
「もうお小言は終わりだ。そう固くならなくてもよい。―― それよりも海華、お前ココの傷は痛まぬのか?」
自身の胸元を軽く叩いて桐野が問う。
ここを訪れて初めて小さく微笑んだ海華は、着物の合わせ目に手を当て、大丈夫だと言いたげに軽く頷く。
「痛みは殆ど……痣ができただけですから」
あの河原で苦無の一撃を受けた海華は、衝撃で一時気を失ったものの命に別状はなかった。
苦無は彼女の着物を貫き、首から下げていた御守袋を切り裂き『狐の合わせ絵』にぶつかり止まっていたのだ。
それ故、彼女は胸元に小さな痣が出来たもだけ、そして合わせ絵には微かに傷が付いただけだった。
「あの御守袋が無ければ、あたし死んでいました。あの絵に、助けられたんですね」
にっこり笑って口元に手を当てる海華に、今まで厳しい面持ちだった修一郎も思わず頬を緩める。
幼い子供か想い人に見せるようなその笑みに、今の今まで怒鳴りつけられていた志狼は小さく肩を聳やかし、朱王は二人から視線を逸らしていた。
海華の命を守った御守袋は、正真正銘志狼の持ち物だ。
彼が河原で琴音に渡した御守は偽物、そこらの神社で買い求めた物をわざと古臭く手を加え、中には木の板切れを忍ばせたのだ。
もし、自分が琴音の手に掛かったら、その時のことを考えて志狼は御守袋と狐の合わせ絵を海華に託した。
はからずも、それが彼女の命を救ったのだ。
「修一郎様、一つ窺いたい事があるのですが……」
海華ににこやかな笑みを向ける修一郎に、志狼が恐る恐る声を掛ける。
「うむ、なんだ?」
「はい、その……河原でお縄にした女のことなのですが……」
「あぁ、あのくノ一か。今は小伝馬の牢に叩き込んでいた筈だが。桐野、あ奴は口を割ったのか?」
右手を左の袂に差し込みつつ桐野へと振り向く。
「それが、なかなかしぶとい女でな。まぁ、そうでなくてはくノ一などやってはおれんだろうが……かなり厳しく調べをしたが、首謀者は誰かすらも言わぬ。唯一喋った事は、海華の『水難の相』についてだな」
顎に舌を指先で擦りながらそう口にした桐野に、修一郎は怪訝な顔で小首を傾げる。
水難の相、それは琴音こと、お琴がお狐様からのご神託だとのたまった、あれだ。
「ですが桐野様、水難のと言いましても、海華の怪我はただの偶然では?」
「いやいや、あれも全て康二郎と琴音が仕組んだものだった」
朱王の問いにそう答えた桐野は、おもむろにその場から立ち上がり障子戸を開け放つ。
閉め切っていた室内に吹き込む秋の風は若干冷たく、日本晴れの空を飛ぶ赤蜻蛉の羽根が陽光に煌めき、まるで空気自体が煌めいているように朱王の目に映る。
「海華よ、お前が廊下で足を滑らせ転んだのはな、康二郎が廊下に水を撒いたからだ。あたかも雨漏りしたように思わせてな。奴は、屋敷に戻るお前達の後を追い掛けて、屋敷の縁の下に身を隠して機会を狙っていた」
「じゃぁ、あの水溜りはわざと……でも旦那 様、もう一つの水難の相はどうやって? 志狼 さんがお茶を零すように、どうやって……」
縁側で志狼が海華にお茶をぶちまけそうになったのも、康二郎達の仕業だと桐野は言いたいのだろうか?
しかし、意図的に志狼の足を躓かせた訳ではない、あの時彼は自分からよろめいたのだ。
「うむ、それもカラクリがあってな。志狼、お前が茶を運んできた時の事を覚えておるか?」
にや、と口角をつり上げた桐野に向かって、 志狼は小さく頷く。
「はい、私が茶を持って縁側を歩いている時……庭の向こうで何かが光ったんです。何が光ったのかはわかりません、一瞬目が眩んで、足元がふらついて……」
「その光は、琴音が放ったものだった。琴音は塀の向こうで鏡を持ち、光を反射させてお前の目を眩ませた。ついでに朱王、お前と同じ長屋に住む大工が、琴音の予言とやらで一命を取り留めたとか、あれは事前に康二郎が足場の結わえを緩めていた。だからお琴は『足場に昇るな』と言ったのだ。足場が崩れることを予め知っていたのだよ」
「とんだインチキですね。お狐様まで持ち出して、罰当たりだわ」
わずかに頬を膨らませる海華。
全てはあの二人のでっち上げ、嘘のご神託だの予言だのに三人は、そして長屋の大部分の人々が踊らされていた。
それほどまでに、志狼の持つ合わせ絵を奪いたかったのだろう。
「葛ノ葉の連中にとって、合わせ絵は金銀財宝と同等の価値を持つようだな」
桐野の台詞に、志狼は一つ頷いて首から下げた御守袋を軽く握る。
そんな彼を見ていた朱王の頭の中に、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「ところで志狼、お前どうして海華に守袋を預けたんだ?」
奴らの目的が合わせ絵だとわかっているなら、なぜそんな危ない物を海華に預けたのか。
彼からしてみれば、わざと海華を危険に曝しているように感じてしまう。
微かに眉を顰めて自分へ視線を向けてくる朱王に、志狼はバツが悪そうに頬を指先で掻き、ウッと言葉を詰まらせる。
「それは……その、秘密、だ」
「なに?」
「だから、秘密だ。すまねぇ」
まるで幼い子供のような返事を返す志狼に、 朱王はもとより修一郎までもが目を点にして彼を凝視する。
その視線に居た堪れなくなったのか、志狼は背中を丸めて俯いてしまった。
「おい志狼、秘密ってそりゃお前、答えにも何もなっていないじゃないか。だいたいな……」
「もう止めてよ兄様」
いよいよ眉をつり上げて志狼にいささか厳しい口調で詰め寄り始める朱王、彼の袖を横から引っ張って、海華は軽く彼を睨む。
「志狼さんだって話したくない事の一つや二つはあるわよ。無理矢理聞き出さなくてもいいじゃない。あたしは絵を無理に押し付けられたわけじゃないんだから」
彼女としては志狼を庇いたいのだろう、しかし朱王は納得いかない様子で口をへの字に曲げて志狼にきつい視線を投げ続ける。
志狼からこんな歯切れの悪い返答が帰る事など未だかつてなかった、もしや二人は都合の悪い事実を口裏合わせて隠しているのではないか。
小さな疑問が心の中であっと言う間に巨大な疑惑として膨れ上がる。
現に海華は死にかけたのだ、キッチリ納得いく答えを聞かせて欲しい。
そんな朱王の心中を察したのであろう、三人を静観していた桐野が志狼に顔を向けつつ静かに口を開いた。
「志狼よ、お前が何をそこまで隠したいのかはわからぬが……儂らに聞かれては困るような後ろめたい事なのか?」
「い、えっ!そんな、俺は人に後ろ指刺されるような真似は決して!」
伏せていた顔を跳ね上げ、必死の形相で腰を浮かせて一言叫ぶ志狼、そんな彼に『なら、どうして話さないんだ!』と朱王が声を荒らげる。
そんな二人の間に割って入った海華は、もうどうしてよいやらわからず今にも泣きそうだ。
見るに見兼ねた修一郎が『止めろ!』野太い声を張り上げかけた、その時だった。
「志狼さんが言ったのよ! 『これは俺が大事にしている物だ、だから一番大事なお前にやる』って! きっとあたしを守ってくれるから、って! 志狼さんが言ったのよ! 」
その場から跳ねるように立ち上がった海華は、志狼の胸ぐらを掴まんばかりの勢いを見せる朱王へ怒鳴るように言い放つ。
一瞬でその場を静寂が包み込む。
膝立ち状態だった志狼の顔がみるみるうちに髪の生え際まで真っ赤に染まり、ポカンと口を半開きにした朱王と修一郎、そして唖然とした面持ちの桐野の目が赤面する志狼へと向けられた。
「あ……あぁ、そう、か。大事なお前に、か。あぁ、そうかそうか。それならば……言えぬのも無理はない、なぁ、朱王よ」
今度は男三人がバツの悪そうな面持ちで、助け舟を出した桐野までもが視線を宙に彷徨わせ、修一郎は恥ずかしげに顔を赤らめてボリボリ首筋を掻く。
どうして彼が『秘密だ』と言ったのか、その理由が三人には痛いほどわかったようだ。
「ごめん、なさい志狼さん、あたしつい……」
「いや、いい……。いいんだ、気にするな。 あ……朱王さん、その、そういう事で、別に疚 しい考えじゃ……」
「わかった、もういい。―― お前、意外と恰好つけなんだな」
顔から火が出んばかりの志狼を横目で見遣り、朱王はボソリと呟く。
しかしその呟きは、隣に座する海華の耳にも彼女の隣に座る志狼の耳にも届く事は無かった……。
恥ずかしさで悶絶する志狼を一刻も早くこの状況から解放してやりたい、そんな桐野の計らいもあり、三人は早々に奉行所を後にする。
その後、特に彼らの周りに変わった事は無かった、強いて言うなら康二郎達が住んでいた部屋をどうするか、でお石夫婦が揉め、結局取り損ねた家賃の足しにとお石が残っていた日用品一 式を売り飛ばした、この程度だろう。
万が一、康二郎らと共に江戸へきていた葛ノ葉の残党が志狼達の命を、そして合わせ絵を狙い襲撃してくるかもしれない、そんな考えから数日は気の抜けない生活を続けていた朱王だが、そうやらその心配は杞憂に終わったようだ。
自分達の近くに忍が住んでいた、その事実にしばらく長屋は騒然としていたが、それも時の流れと共に過去の出来事に変わり、いつしか幸太郎、お琴の名前も住人達の口に昇らなくなった頃、事態は急変する。
小伝馬の牢屋から、琴音ともう一人生け捕りにしていた忍の姿が忽然と消えたのだ。
一言で言ってしまえば『牢抜け』だろう。
番人が早朝、牢屋の中を確認すると人数が足りない、慌てて確認したところ姿を消したのは琴音らだという事が判明したのだ。
最後に二人の姿を見たのは昨夜遅く、深夜から早朝にかけて逃げたのだろうと推測されたが、どこから逃げ出したのか全くわからないのだ。
牢を破った形跡もなければ天井板をずらした跡もない。
まるで霞みか影の如く二人は姿を消してしまった。
さて、これにはさすがの桐野も修一郎も動揺を隠せない。
志狼達がいつ何時襲われるかわからない、もっと早くお白洲に引き立て鈴ヶ森辺りで磔にしておけばよかったものを、と修一郎は歯噛みして悔しがった。
それ以来、三人は極力外出を控え息を殺し、身を隠すように生活していたのだが、彼らの周囲には琴音の影えどころか特に変わった事も起こらない。
正に平々凡々とした時が流れていく。
たった二人では不利と考え、一度隠里に舞い戻ったのだろうか?
それとも援軍を待ちひっそりとどこかに身を潜めているのだろうか?
様々な考えが三人の頭の中を巡りに巡る。
志狼と桐野がいるから大丈夫、そう自分に言い聞かせていた朱王だが、やはりたった一人の妹だ、海華のことが気になって仕方がない。
琴音の姿が消えた、と報じられてから十日余りが過ぎたこの日、朱王は八丁堀へ彼女を訪ねて行った。
秋の気配は日を追うごとに深まり、雑木林に生える木々の葉は徐々に黄色や赤に色付き、夏の虫と交代するかのように秋虫が羽を震わせて涼やかな、どこか寂しげな音色を奏でだす。
抜けるように青い空に浮かぶ薄い綿の雲、斜めに射し込む日差しを眩しそうに目を細めてやり過ごしつつ、八丁堀の奥、桐野の屋敷へと急ぐ。
自然と裏口に足が向いた朱王だが、そこで以前、海華に言われて事をふと思い出し屋敷の正面へと向き直る。
広々とした間口の玄関に足を踏み入れ、綺麗に掃き清められた三和土や磨き上げられた上がり框に視線をやりつつ返事が返るのを待つ。
やがて、廊下の向こうからパタパタッと軽い足音が聞こえ、焦った様子で着物の合わせ目を指先で整えながら海華が姿を現した。
「お待たせ致しました……あら、兄様」
突然現れた朱王に驚きながらも、海華はいつもの笑顔で彼を出迎える。
「どうしたの? 何かあった?」
「いや、別に……お前達がどうしているかと思って見にきたんだ。志狼はどうした?」
海華の様子にどことなく不自然さを感じながらも、朱王は何食わぬ顔で問う。
すると彼女は口元をわずかに引き攣らせて一瞬ぎこちなく微笑み、チラと背後を振り返った。
「志狼さん? いるわよ、今……ご不浄に行ってるわ」
「ふぅん……ご不浄ね。お前ら、まさかまた暇持て余して乳繰りあってたわけじゃ……」
ジロリと睨むような目付きで朱王に見られ、海華は頬を赤く染めて眉を逆立てる。
しかし、彼女の口からいつも出てくる怒涛の反論はない、きっと朱王の言葉は図星だったのだろう。
「別に、暇だったんじゃないわ、あたし達だって結構忙しいんだから。で? 兄様は何しに来たのよ? 様子見に来ただけならもういいでしょ? それとも……お琴さんの事も聞きにきたの?」
「うん、その両方だな。桐野様から何かお話があったのか?」
海華の口から出たお琴の名前に、朱王は興味深げに目を瞬かせながら頷く。
二人だけしかいない玄関で、二人の視線が静かに交わった。
「……昨日ね、ちょっと動きがあったみたい。ここじゃなんだから入って。志狼さんもきっと……ご不浄から戻ってると思うから」
『ご不浄』その部分を強調した海華は、ニヤリと口角をつり上げ朱王を中へと招き入れた。
足の裏に感じる廊下の冷たさに一度だけ小さく身を震わせる朱王は、海華に連れられ客間へ向かう。
日中この屋敷には志狼と海華の二人だけしかいないためか、広い屋敷内はシンと静まりかえっており、くノ一一人に忍び込まれても気付くのは容易でないだろう。
余計に二人の身を案じる気持ちが大きくなるのを感じながら勧められた座布団に座る朱王、彼をそのままに海華は茶を用意するため勝手へ下がって行く。
何をするでもなく、ただ正面に下げられた鷹の掛け軸やどこぞの名工が手掛けたのだろう、違い棚に飾られた壷や花瓶に目を遣る朱王、と、廊下に面する障子に一つの影が浮かび上がり、 そろそろと音もなく純白の障子戸が開かれていく。
「失礼します。朱王さん、いらっしゃい」
こちらを窺うような声色を出し軽く頭を下げて志狼が姿を現す。
彼には似合わない随分と静かな、そして引き攣ったような愛想笑いを前にして、朱王はフンと小さく鼻を鳴らした。
「いつもいつも『忙しい』時に邪魔をしてすまないな」
皮肉たっぷりにそう言った瞬間、志狼はビクリと肩を跳ねさせ口内で弁解なのか返事なのかわからない呟きをゴニョゴニョ籠らせる。
随分わかりやすい反応をする、と心の中で思いながら、朱王は軽い咳払いをした。
「まぁ、無駄な話はこれくらいにしておいて、と。あれからどうだ、変わった事はないか?」
「あぁ、お陰様で。何とか無事に過ごしてる。昨日、桐野様から琴音について話があって、どうやら江戸から逃げたらしい」
今ままでの狼狽えた様子から真剣な面持ちにガラリと変わった志狼は、まるで内緒話のように囁く。
「逃げたって、その情報はどこから?」
「箱根関からだ。女の三味線弾きと盲按摩の二人連れだとさ。どうも様子がおかしいってんで、引き留めている間に二人とも姿を消したと。もう関所は大騒ぎだったらしいぜ。多分、牢抜けした二人だろうと旦那様が」
箱根の席で姿を消した男女の二人連れ、それが本当に牢抜けした琴音達であるならば、今日明日自分達が襲われる可能性は低いだろう。 しかし……
「きっと、また来るだろうな。体勢を整えて、また……」
じっと志狼を見詰めてそう呟く朱王、彼の言葉に同調するように志狼も無言で頷く。
客間に広がる静けさ、それを破ったのは盆に三つの湯飲みを乗せ障子を開いた海華だった。
「遅くなってごめんなさい。―― 兄様、志狼さんから話、聞いた?」
朱王の隣に膝をつき、熱い茶を満たした湯飲みを前に置く海華は、大きな目をクリクリ動かしながら小首を傾げる。
「あぁ、聞いた。しばらくは大丈夫そうだが、まだまだ気は抜けないぞ」
「わかってるわ、あたしは旦那様も志狼さんもいるから大丈夫だけど……兄様も気を付けてよ?」
軽く眉を顰めて朱王にそう言いながら、海華は志狼に湯飲みを渡して彼の隣へ移動する。
彼女を目で追いつつ湯飲みに口を付けた朱王は、またしてもフンと小さく鼻を鳴らす。
「まぁ……お前らもな、仲が良いのは結構だが昼の日中からイチャついてると、奴らが来たのも気付かんぞ? 大概にしておけよ?」
またしても皮肉と嫌味をたっぷり利かせた朱王の台詞が二人を直撃する。
茶を飲み込む寸前だった志狼が盛大に咽込み、慌てた海華がその背中をバンバン叩いた。
「ヘンな事言わないでよ! 兄様の意地悪ッ!」
「意地悪? 俺はただ忠告したまでだ。――さてと、邪魔者はこれで退散するか。後はお前達、好きにやれ」
ニヤ、と意味深な笑みを一つ、背中を丸めて咳き込む志狼達に投げ掛けて、朱王はさっさとその場を後にする。
背後からは、海華がこちらに向けてだろう、なにやら叫ぶ声が聞こえるが、そんなものは気にしない。 『しばらく来ないで!』玄関を出る瞬間聞こえた叫びに、思わず吹き出してしまいながら朱王は頭上に広がる秋空を仰ぎ見た。
千切れた雲が流れる空は、吸い込まれてしまいそうに高く、青く世界を包む。
居もしない狐のお告げに振り回された日々は終わりを告げた。
しかし葛ノ葉の一族が滅んだ訳ではない、きっとまた自分達を襲いに来るだろう。
一日でも長く、一刻でも長くこの幸せで穏やかな日々が続くことを願わない者などいない。
『稲荷明神にでも祈願してみるか』冗談交じりにポツンと呟き、朱王は長屋へと向かうべく屋敷の表門を潜る。
彼を見送ったのは、海華でも志狼でもない、中庭の楓の枝に一匹止まった小さな雀だけだった。
終




