第二章
翌朝、長屋にやって来た海華の右手首に巻かれた包帯を目にした朱王は、土間に立ったまま目を丸くした。
捻った直後はなんともなかった右手首、しかし一夜明けた時には赤くなって大きく腫れ上がり、手首を前に倒すのも困難な状態となっていたのだ。
「お琴さんの言ったこと、本当に当たっちゃったわ」
土間にある水の入った桶を左手一本で持ち上げようとする海華が、唇を尖らせて低く呟く。
そんな彼女の手から桶を取り上げて、朱王は苦笑いを見せた。
「そうボヤくなよ。ただの偶然だろう? それより早く水漏れ場所を探して修繕してもらえ」
「えぇ……。でもね、今まで一度もあんな事無かったのに。なんだかおかしいのよ」
無意識だろう、包帯の部分を擦る海華は眉根を寄せて小首を傾げる。
『あまり気にするな』そう告げて、桶を持ったまま井戸へ向かおうと戸口に手を掛けた朱王。
が、彼の手が届く前に戸が開け放たれ、左腕を吊った志狼が姿を現した。
「あぁ……朱王さんすまねぇな。海華、今日は俺がやるから、お前休んでろ」
着流しを端折った志狼は朱王の手にある桶と海華を交互に見遣り、そう言った志狼は土間に一歩足を踏み入れ朱王から桶を取ろうとする。
しかし彼は志狼の手をさっと避けて、そのまま表へと出た。
「いいさ、水くらい俺が汲むよ。―― 志狼さん、こいつしばらく手が使えないから、迷惑掛けると思うが……よろしく頼んだ」
そう一言志狼に告げた、朱王は井戸へと歩いて行く。
そんな彼の後ろ姿をいささか不服そうな面持ちで眺めていた志狼は、ふぅ、と小さな溜息をついて戸口を閉めた。
「別に、迷惑なんて思っちゃいねぇのによ。 朱王さん、水臭ぇぜ」
「ごめんなさいね、兄様も悪気はないのよ」
小さく項垂れて行った海華の肩を軽く叩いて、志狼は微かに微笑んだ。
「わかってる。きっと照れ臭ぇだけなんだろうな。お前は何も気にすんな。早く手を直す事だけ考えろ」
『家の事は俺が何とかする』と一言付け加えて、彼は部屋に飛び上がると枕屏風の後ろに纏めて置いてあった洗濯物を手に取った。
長屋の奥にある井戸端は、朝の忙しい時間帯には茶碗洗いや洗濯と忙しく働く女達で賑わっている。
朱王が桶を下げてそこに向かった時も、斜向かいに住む大工の女房や蛤売りの女房が野菜や生米を洗いながら世間話に花を咲かせていた。
いつもなら軽い挨拶を交わしてさっさと水を汲んでしまう朱王なのだが、今日は井戸の手前で一度歩みが止まってしまう。
中年を過ぎた二人の女たちに交じって、一人の若い女がコロコロと朗らかな笑い声を上げながら井戸端にしゃがみ込み、世間話に興じている。
彼女は幸太郎の妹、お琴だ。
海華に、『水難の相が出ている』と告げた張本人である。
「あらぁ、朱王さんおはよう」
「どうしたんだい、そんな所に突っ立ちゃってさ」
朱王の姿をいち早く見付けた蛤売りの女房が、ふくよかな頬を緩めて朱王に小さく会釈する。
彼女の後に続いた大工の女房、お君は欠けた前歯を覗かせて腰を浮かせ、朱王を手招きした。
「あ……おはよう、ございます」
しどろもどろの挨拶を返した朱王は、桶を片手に彼女らの方へと近寄る。
日当たりが悪く、ジメジメと湿気が籠る井戸端は近付くにつれてヒンヤリ湿った匂いがした。
「おはようございます……」
朱王の姿を見るなり、今まで顔一面に笑顔を浮かべていたお琴がサッと表情を曇らせる。
そんな彼女に無言で会釈し、井戸で水を汲み始めた朱王に、お君が不思議そうな表情を向けた。
「そうだ朱王さん、さっき海華ちゃんと会ったんだけど、右手怪我したんだって?」
「えぇ、水で滑って転んだようです。大きな怪我ではないようです」
「そうなのかい? ならいいけどねぇ」
「利き手傷めちゃ不自由だろうに。お大事に、って伝えておくれよね」
心配そうに眉を細めて、女二人は野菜や米が入った笊を抱えてその場を去って行く。
そこに残された朱王とお琴の間には、一瞬にして気不味い空気が流れた。
「あの……朱王さん、私……」
ひどく言い難そうに口籠りながら、お琴は胸の前できつく手を握り締める。
「あたしがおかし事を言ってしまったから、 海華さんが……」
今にも泣き出しそうに顔を歪めて、お琴は声を震わせる。
桶一杯に水を汲み入れた朱王は、軽く微笑みながら首を横に振った。
「お琴さん、どうか気にしないで下さい。海華が怪我をしたのは、ただの偶然です。貴女のせいではありませんよ」
妙な事を言われたのは確かだが、それが直接怪我に結び付いたなどとは朱王も思っていない。
彼女に文句を言おうとか、そんな事は毛頭思っていなかった。
「そう仰って頂けると……。でも、あたし本当にわかってしまうんです。目の前の人がこの先どうなってしまうのか。 嫌な事も。良い事も全部、見えてしまうんです」
ひどく悲しげにお琴は呟く。
そして、朱王の目を真っ直ぐに見詰めて、何かを決心したかのように桜色の唇を開いた。
「こんな事を言うの、辛いんです。本当に辛くて……でも、これも海華さんのためなんです。これから先、海華さんの怪我に気を付けて、特に旦那さんと、志狼さんと一緒にいる時は気を付けて、と。海華さんにお伝えください 」
『お願いします』と言い残し、お琴は心底驚いたようなの表情で立ち尽くす朱王の傍を足早に駆けて行く。
一人井戸端に残された朱王の手元で、並々満たされた桶の水が、チャプンと小さな音を上げた。
お琴からまたもや不可解な一言を受けた朱王。
しかしこの音は勿論、志狼や海華たちには内緒にしていた。
海華の怪我が志狼のせい、などと言えば、志狼が気を悪くすることは間違いないし、海華が烈火の如く怒り出すのは目に見えている。
『全てが分かってしまう』という彼女の言葉が嘘か真かはわからぬが、ここ数日、お琴ら兄妹が住む部屋にひっきりなしに人が出入りしている事に、朱王は内心不思議に思っていた。
ここの長屋の住人は勿論、この辺りでは見ない顔まで、老若男女が酒やら野菜やらを携えてあの一室に出入りしている。
時には激しく泣き喚く声や歓喜の叫びが朱王の部屋まで聞こえてくる始末、普段は他人の事にあまり関心を持たない朱王ですら、気になって仕方がない。
ある時、真っ赤に泣きはらした目で彼女の部屋から出てきた大工の女房、お君が自室の前を通り、朱王はとうとう自身の中で頭をもたげる疑問を抑えきれなくなった。
「もし、お君さん。……お君さん!」
「へぇ? あぁ、朱王さん……」
グスグス鼻を啜り、手拭いでしきりに目元を拭うお君がこちらを振り向き、朱王の前で足を止める。
その間も、大きな風呂敷包みを抱えた中年の男が、何か思いつめた表情で二人の前を通り過ぎお琴の部屋へと消えて行った。
「どうしたんです、そんなに泣いて? お琴さんと、なにか?」
「何もかにもアンタ、お琴さんはウチの人の命を助けてくれたんだよ、命の恩人なんだよ」
微かに震える涙声で彼女は言い、充血した目を瞬かせて朱王を見上げた。
「命の恩人って、旦那さん身体の具合でも?」
「違うよぉ、つい三日前だね、お琴さんと表で話していた時、ウチの人が仕事から戻ってきたんだよ。そうしたら……」
お君の亭主の後ろ姿を見たお琴は、サッと顔色を変え、お君に『旦那さんが仕事場で怪我をする、しばらく仕事を休ませるか、高い足場に上らせないほうがいい』と耳打ちしたのだ。
「あたしも、最初は何を言ってんだと思ったよ、でもね、なんだか気になって……ウチの人に、出来るだけ高い足場で仕事はするなってぇ言ったんだ、そうしたら昨日、ウチの人の仕事場で足場が崩れて、何人も丸太の下敷きになって、大怪我を……」
そこまで言って、お君はボロボロ涙をこぼす。
濃茶の粗末な着物に滴ったその雫は、あっという間に黒いシミと化した。
「それで、旦那さんは?」
お君の話に引き込まれてしまった朱王は、生唾を飲んで彼女の方へ身を乗り出す。
引き攣った笑みを朱王に見せて、彼女は緩く首を振った。
「無事だった。怪我一つなかったよ。あたしの言う事聞いて、足場には上らなかったって。お琴さんのお告げが無ければ、ウチの人も大怪我……うぅん、下手したら死んでたんじゃないかと思ってさぁ。あの人、お稲荷様を降ろせるんだってね? うちは、お狐様に助けられたんだ。だから、今お礼を言ってきたところさ」
『一度朱王さんも見てもらったらいいよ』そう言って、お君は軽く頭を下げて、自室へと向かう。
彼女につられるように一礼して、朱王はじっと彼女の後ろ姿を見詰めた。
彼女らの部屋になぜ人が集まるのか、大体の理由は分かった。
皆『お稲荷様のお告げ』とやらを聞きに来ているのだろう。
こんな噂はとかく広まるのが早いのだ。
しばしお琴の部屋へ視線を向けていた朱王だったが、やがて何かを決めたかのように自室へ戻り、そしてすぐにどこかへ出掛けて行く。
傾いた長屋門を通り過ぎたその時、白い狐の面をかぶり、藍色の絣着物を纏った子供が飛び跳ねるような足取りで彼の横を駆け抜けて行った。
朱王がその足で向かったのは八丁堀、そう、志狼と海華の住まいだった。
朝餉の支度が終わり、部屋の片付けも済ませてくれた彼らは、既に屋敷へと帰っていたのだ。
お君の話を聞いた以上、なんだかあの二人の事が気になってしまう。
しばらくは身辺に気を付けろ、それだけ言って帰ろうと思いながら朱王は屋敷へ向かった。
八丁堀の中でも一番奥まった場所にある桐野の屋敷、重厚な表門が護る正面玄関を通り過 ぎ、屋敷の裏手へと向かった朱王の頭上には薄い灰色の雲で覆われた空が広がり、道を吹き抜ける風もどことなく肌寒い。
透き通る薄羽根を小刻みに震えわせる蜻蛉に道案内されるよう裏門へと着いた朱王は、修繕したばかりだと思われる真新しい戸へ手を掛けた。
キィ、と微かに軋みながら開く戸の向こうには、広々とした中庭が広がっている。
大きく太い幹を威風堂々うねらせる松の大木の下には、五弁の白く可憐な花が恥じらうように葉を揺らせうつ向きがちに咲いている。
周囲を見渡せど人の姿はどこにもない。
きっと屋敷の中にあの二人はいるのだろう、そう考えて母屋へと足を向けた、その時だった。
中庭に近い、ちょうど縁側に面した辺りで微かに人の笑い声が聞こえたような気がしたのだ。
「―― あっちか?」
そう一人ごちながら松の木を左へと曲がり、屋敷では奥手にあたる縁側へと向かう。
朱王の背丈ほどもある紅葉の木を正面に、赤く色付き始めた葉の間から、縁側に並んで座る志狼と海華の姿を認めた朱王が軽く手を上げ、 彼らに声を掛けようとした時だった。
「おい、どうした? せっかくの頂き物だぜ?」
右手に湯飲みを持った志狼が、隣に座る海華を不思議そうな顔で見遣り、一言尋ねる。
彼女は膝の上に何が盛られた小鉢を置いて、微かに眉を寄せ微笑んだ。
「右手がこんなでしょ? 左手じゃ、なかなか取れなくて……」
「あ、そうか。悪りぃ、気が付かなかった」
そう言うと、志狼は海華から小鉢を取り、そこにある木製の楊枝で何かをブスリと刺す。
遠目から見ると黄色がかった橙色に見える半月状のそれを、彼は海華の口許へと向ける。
「ほら、口開けろ」
ニヤ、と悪戯っぽく笑う彼を見て、海華は驚いたように一瞬目を見開く、が、すぐに彼女はホンノリと頬を赤らめ笑いながら彼の膝を軽く叩いた。
「いいわよ、そんな……恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしいって、誰かに見られてる訳じゃねぇんだ。ほら、アーンしろ」
「そ、う? じゃあ……」
少しばかり戸惑いながらも、海華は軽く口を開ける。
仲睦まじく寄り添う二人の周囲を包む幸せいっぱいの空気、傍らで一人取り残された朱王は今更ながらここへ来たことをひどく後悔し、そして腹の底からせり上がってくる形の無い怒り に強く拳を握り締める。
「どうだ、美味いだろ?」
「うん、美味しい。たまには、怪我してみるのもいいかも」
にっこりと幸せそうに微笑む海華の口から出た、自分にはついぞ聞かせた事のない甘い声色に、朱王の眉間に深い皺が刻まれたその時、足元に落ちていた紅葉の小枝を誤って踏み締めてしまう。
バキ、と乾いた音が静かな庭に響いた途端、縁側にいた二人が弾かれるようにこちらに顔を向けた。
「誰だッ!?」
「志狼さん、あそこ! って……兄様!?」
小鉢を連側へ放り出し、志狼は今までの穏やかな表情を一変させ射抜くような眼差しを庭へ目を向ける。
そして紅葉の影で肩を竦める人影をいち早く発見し、それが朱王だとわかった瞬間、海華は素っ頓狂な叫びを上げて腰掛けていた縁側から飛び降りた。
「朱王さん! な、にやってんだ、そんな所で!?」
志狼も驚愕に目を見開いて紅葉の陰から姿を現す朱王を凝視する。
気不味そうに視線を二人から外した朱王は、『用事があってな』と聞き取れるか聞き取れないかの小声で答えた。
「用事があったって、……もしかして、今の見て、たのか?」
みるみるうちに志狼の顔が髪の生え際まで真っ赤になる。
恥ずかしいやら腹立たしいやら、もう朱王は破れかぶれだ。
「ああ、見ていたさ! そうか、今が幸せか、良かったな海華! 心配して来てみたが、もういい、俺は帰るぞ、邪魔したな!」
心配していた自分が馬鹿のようだ。
もうどうでもいい、そんな気持ちに駆られた朱王はクルリと踵を返す。
しかし、そんな彼の背中に海華は『待って!』と大声で呼び掛け、小走りにこちらへ駆け寄ってきた。
「ちょっと待ってよ! いきなり来ていきなり帰るなんておかしいじゃない! ほら、こっちに来て」
膨れてしまった朱王の袖を強く引いて、海華は彼を縁側へ座らせる。
その間、志狼は大慌てで茶の支度をしようと台所へ走る。
朱王が招かれた縁側、そこには瑞々しい切り口をさらす柿が、小鉢に盛られ置かれていた。
「で? どうしたのよいきなり来るなんて。 向こうで何かあったの?」
柿の入った小鉢を傍らに押し遣り、海華は怪訝な顔で朱王を見上げる。
どこから話を始めてよいか一瞬迷った朱王だが、志狼のいない今の方がいいだろう、と考え、先日井戸端でお琴から言われた内容と、先ほど長屋でお君から聞いた事を手短に海華へ話して聞かせた。
「じゃぁ、なによ。あたしの怪我は志狼さんのせいだって言いたいの? 馬鹿馬鹿しいわ、ただ転んだだけなのに」
朱王の話を聞いた海華は案の定、眉間にシワを刻ませ口をへの字に曲げる。
「いや、俺はそんな事思っていないさ。お琴さんが勝手に……だが、気を付けるに越したことはないだろう? それを、言いに来たんだ」
「それはどうもありがとう。心に留めておくわ。それと……今度ここに来る時は、表から入ってくれていいですから」
むっつりした顔でフイと横を向いてしまう海華。
返す言葉も見付からず、ただ『あぁ』とか『うん』とか曖昧に返す朱王は、己の膝先に視線を落としてボリボリ頭を掻く。
「な、ら……話も済んだし、俺はこれで……」
「今、志狼さんがお茶持ってくるから。せっかく来たんだもの、それ飲んでから帰ってよ」
「そうか? なら、もう少し……」
こほ、と一つ咳払いをし、浮かしかけた腰を再び下ろしたと同時だった。
廊下の奥から軽い足音が聞こえ、盆の上に湯気の立つ湯飲みと柿が乗っているであろう小鉢を置いた志狼が、やたらと緊張した面持ちでこちらに来るのが見える。
「お、遅くなってすまねぇ、柿の皮がなかなか……ウッ、!」
あと数歩で二人の元へ到着する、その時、志狼はきつく目を瞑り顔を歪めてその場で急に立ち止まる。 何かを避けるよう斜めに傾ぐ身体、彼の手にあった盆が激しく揺れ、湯飲みがゆっくり傾く。
「危ないッ!」
「え、? キャァァッッ!」
耳をつんざく叫びと共に、朱王は海華を肩に手を掛け思い切り自分の方へと引き寄せる。
海華の身体が吹き飛ぶ勢いで朱王の胸に倒れ込んだ瞬間、彼女が今まで座っていた場所に、熱い茶を撒き散らしながら湯飲みが落下した。
縁側にぶち当たり粉々に砕け散る湯飲みの悲鳴、湯気を立ててこぼれ、広がる茶の雫が掛かったのだろう朱王は軽く顔を歪めて着流しの膝の部分へと手を伸ばす。
何が起こったのかわからぬ海華は、張り裂けんばかりに大きく目を見開き、朱王の胸から身を起こした。
「すまんッ! 大丈夫……大丈夫かッ!?」
「やだ! 兄様、兄様大丈夫!?」
慌てて朱王の側にしゃがみ込み、盆を放り出す志狼と、朱王の顔や手を覗き込む海華。
真っ青に血の気の引いた顔で『すまん』と繰り返す志狼に引き攣った表情を見せて、朱王は小さく首を縦に振った。
「俺は平気だ……。海華、お前は?」
「あたしは大丈夫よ」
怪我の一つ、火傷の一つもない二人を前に、志狼は全身の力が抜けてしまったかのようにヘナヘナとその場にヘタリ込んでしまう。
「よかった……。顔に火傷なんかさせちまったら、どうしようかと思った……」
ガックリ頭を垂れて大きく息を吐く志狼。
冷たい縁側の板に熱を奪われたのだろう、その場に広がった茶は瞬く間に冷えていく。
海華はそれを拭うべく、急いで自室へ戻ると古い手拭いを何枚か手にして、すぐにこの場へ戻ってきた。
「どうしたの志狼さん、どこかに躓いた?」
手拭いで茶を拭き取り、海華は志狼を見上げる。
しかし彼は彼女の言葉を否定するように首を振って、自らも手拭いを取った。
「いや、俺もよくわからねぇんだ、目が…… 急に目が眩んで、庭の奥で何かが光ったんだと思う」
自分でも訳がわからない、と言いたい様子で志狼が言う。
彼の言葉を受けて、朱王は先程まで自分がいた庭をグルリと見渡すが、そこには光るものなど何もない。 植えられた木々が青葉を繁らせ、花々が秋風に揺れているだけだ。
長い髪を撫でていく爽やかな秋風、鼻をくすぐる茶の香り、そして未だ固い表情のまま懸命に縁側を拭く志狼の姿……。
顎に手をやり、じっと彼の姿を眺める朱王の脳裏に、『志狼さんには気を付けて』と、お琴の言葉が甦る。
その翌日、彼ら三人の姿は、中西長屋にある幸太郎兄妹の部屋にあった。
朱王らの姿を見たお琴は、満面の笑みで彼らを室内へと迎え入れた。
大人二人が身を寄せあって暮らす狭い室内には、お琴の予言を聞きに来た者達が持参した『貢物』で溢れ返り、足の踏み場に困るほどだ。
菓子折りや大きな風呂敷包みを部屋の傍らに無理矢理押し遣り、三人に座布団を勧めたお琴は、まず、海華の顔を見てどこか安心したような微笑みを浮かべた。
「海華さん、よかった。あれから大きな怪我はしていないんですね?」
「ええ……大怪我しそうにはなりましたけど、今はなんとか……」
暗い表情をつくり、彼女らしくないボソボソと小さな声で答える海華は、無意識に怪我をした右手を擦る。
そんな彼女から視線を志狼に移したお琴は、途端に円らな目をスッと細く変えた。
「志狼さん、よく来てくださいました。ここへ来たならもう大丈夫、海華さんに、これ以上大きな災いが降り掛かる事はないでしょう。但し……」
―― 私の言う事をしっかり聞いて頂けたら、の話ですが ――
志狼に向かい一言告げたお琴。
志狼は固く唇を結んだまま、微かに頷く。
するとお琴は、その場で静かに目を閉じ、先日見せたのと同じように胸の前で両手を組む。
長い睫毛が小刻みに震え、薄く紅を塗った唇が何かを囁くように蠢く。
きつく組んだ手を額へくっつけるように、上体を前へ折り曲げたお琴の背中が、ワナワナと震えた。
「志狼さん、貴方……お狐様に関する何かを持っていませんか? しかも……『完全』ではないものです。……あぁ、それは遥か昔に造られたモノ、たくさんの怨みや哀しみ……そして人の欲が染み付いた忌まわしいモノ……」
踞ったまま、ボソボソ低い声で語るお琴に、三人の視線が集中する。
が、志狼は彼女が言っている『モノ』の正体がわからぬ様子で、しきりに小首を傾げながら眉根を寄せている。
「それは、貴方が誰かから貰ったもの……そう、きっと母親から譲り受けたものです」
『母親から譲り受けたもの』その台詞を聞いた瞬間、志狼は大きく目を見開き己の胸元を力一杯握り締める。
そんな彼の様子を前に、朱王と海華は互いの顔を見合わせる。
二人にも、『それ』が何なのかがわかったのだ。
「―― わかりましたか? 貴方が持つ、お狐様が」
コクリと一度頷いて、志狼は震える手を懐に突っ込み首から下げていた古い御守り袋を取り出す。
あちこち解れ、片隅に継ぎが当たった深い紺色のそれの口を指先で開いた志狼は、中から御守り袋と同じ色の布切れに包まれた小さな板のようなものを摘まみ出す。
その布切れをゆっくり開くと、中から黒漆で塗られた一枚の板が姿を現した。
それは御守り袋より一回りほど小さな板であり、漆黒の艶を放つ表面には、鈍く光る金で狐の絵が……天に向かって顔を上げ、口から火炎を吐き出す狐の横顔が金細工で施されている。
それは、志狼の母親が、彼に唯一残した片身だった。
「そう、それです! それが全ての元凶…… これのせいで海華さんは怪我を……いえ、怪我ならまだいいのです。下手をすれば……命を落としますよ」
睨むような目付きで志狼を見詰め、解れ髪をこめかみに張り付かせたお琴が、身体全体を使って大きく息をする。
あまりに鬼気迫る様子の彼女に圧倒されたのか、海華は勿論、志狼までもが顔を青くして黙り込んだ。
これのせいで、海華は怪我をした、熱い茶を頭からかぶるところだった、全てはこれのせいだ……。
呆然とした面持ちで狐の描かれた板を見詰める志狼。
そんな彼へお琴は一度居住まいを正した、小さく咳払いをした。
「これ以上海華さんを、いえ、貴方の周りにいる方を不幸にさせたくないのなら、それを私に引き取らせてください。お狐様の念も、そしてそれに染み付い怨み辛みはかなりのもの、このまま放っておく訳にはいきません。私が責任 を持って、お狐様の念を鎮めさせて頂きます」
そうきっぱり言い切った彼女は、志狼に向かってスッと右手を差し出す。
しかし、志狼は板を握ったままうつむいてしまった。
そのまま動くこともなく、一言も発しない彼を見兼ねたのか、朱王はお琴を真っ直ぐに見詰めて小さく唇を開いた。




