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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十三章 怪談は漆闇に活きる
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第三話

 『早くこれを見て見ろ』そう二人を急かしながら朱王は手にしていた絵草子を作業机の上へと広げる。 それはかなり古い物なのだろう、所々破れ、シミが付き、黄色く変色した紙面。

開かれた紙面の半分には、ごちゃごちゃした説明書きと共に一人の女の絵が細い線で描かれていた。


 川縁に佇む一人の若い女。

彼女は長い髪を一纏めに背中で結わえ、腰巻だけを纏った半裸で人気のいない川縁に立っている。

骨の浮いた脇腹、黒く煤けた腰巻、それは多分血を表しているのだろう。

背中を丸め、片手を額に当てて苦痛に瓜実顔を歪める女、その胸元には、まだ生まれたばかりだろうと思われる臍の緒が付いたままの小さな赤子が抱かれていた。


 「……この人が、ウブメ?」


 絵草子を上から覗き込む海華が呟く。

その隣では、眉間に薄い皺を寄せた志狼が絵の隣に書かれた文章を目で追っていた。


 「産のうえにて身まかりたりしおなご ……か、へぇ、子供を身籠ったまま死んだ女が化けて出たもんか。 姑獲鳥たぁ、やたらと読み難い字を付けたもんだ」


 所々掠れた文字を追っていた志狼が顔を上げると、土壁に凭れて座っていた朱王が乱れた髪をワサリと掻き上げ、ゆっくり身体をこちらへと起こす。


 「井戸の女は自分の事を『姑獲鳥うぶめ』だと言ったんだ。どの名前がどうも気になってな、化け 物屋敷にいる女が名乗った名前だ、もしかして化け物や妖怪の類じゃないかと思ってな」


 「だからあたしにこんな本ばかり借りさせたのね? ところで、井戸の女って誰の事?」


 不思議そうに朱王の顔を見詰める海華の横で、『井戸の女』が誰を指すのかわかっている志狼は、そっと朱王に目配せする。


 「それは……後で説明する。もしかしたら、化け物屋敷で殺された男と何か関係が……」


 「あら、その人ならどこの誰だか身元がわかったのよ、ねぇ、志狼さん?」


 作業机の横に腰を下ろして海華が言う。 弾かれんばかりの勢いで彼女へと顔を向けた朱王の喉が、ゴクリと鳴った。


 「身元が分かったって、本当か?」


 「あ、あぁ。化け物屋敷の近くに住んでる町医者の息子だ。どうも素行の悪ぃ奴だったみてぇで、多分旦那様がこれからお調べになるはずだ」


 畳の上に胡坐をかいて志狼は戸惑いがちに朱王へ向かう。

なぜ、彼があの井戸の女に、そして死んだ男の事に固執するのか二人にはさっぱりわからない。

そんな二人を余所に、グッと眉を顰めた朱王は急に無言となったまま作業机に上に広げられたままの絵草子を凝視し、まるで何かを考え込むように動きを止めてしまう。


 「なぁ、朱王さん一体何があったんだ? あの女と、死んだ男と……それから姑獲鳥だ、これが何の関係があるってんだ?」


 絵草子に視線を落としたままの朱王、その顔を覗き込むようにして志狼が尋ねる。

彼に同調するかのように、横に座っていた海華も胸の前で腕を組み、真っ直ぐに 朱王を睨み付けた。


 「そうよ兄様、ここまであたしの事……勿論志狼さんの事も振り回したんだから、いい加減何があったのか教えてちょうだい」


 人には余計な事に首を突っ込むなと言ったくせに、そんな気持ちも込められた海華の棘を含んだ一言に、ようやく朱王は絵草子から顔を上げ、交互に二人へ視線を向けた。


 「いや……すまん。別に隠すつもりはなかったんだ。実は……」


 ポリポリと頭を掻きながら、朱王は今まであったことを全て二人に話して聞かせる。

昨日、今一度あの化け物屋敷に言った事、そしてそこで再開した『ウブメ』と名乗る不思議な女の事を。


 「まぁ、呆れた。兄様ったらそんな事に首を突っ込んでいたの? 」


 心底呆れ果てた、といった面持ちで声を上げた海華は、おもむろにそこから立ち上がり、急須に湯飲み、そして茶筒を盆に載せ始める。


 「とにかく一度落ち着きましょ、あたしが思うに、兄様はただ益田屋の人にかつがれたのよ。そのウブメさんだって、きっとお化け役の人だわ。たまたま近くで死人が出たから、話題作りにって出ているのよ」


 急須に茶葉を入れる海華の口角がわずかに上がる。

確かにその可能性もある、その場合、自分が話 聞いた河童達は皆、口裏を合わせて朱王を騙していた事になる。

だが、幽霊話をしたときに男の一人が見せた、あのひどく不愉快な表情は嘘や誤魔化しで出せるものではないように思うのだ。


 「嘘なら嘘でいいんだ。だが、俺はどうしても気になる」


 言葉ではうまく言い表せないこの気持ち悪さ、このまま放って置けない、そう朱王の中の本能が声を上げる。

鉄瓶で湯が沸くのを待ちながら、海華は志狼と顔を見合わせた。

ここまで真剣な面持ちで話す朱王の言葉を、無下に否定もできないのだ。


 「まぁ、ね。そこまで気になるんだったら、兄様の納得がいくまで調べればいいわ。ただし、旦那様のご迷惑になるような事だけはしない、これだけ守ってくれればいいわ。ねぇ、志狼さん?」


 にこ、と小さく微笑んで海華が言う。

あぁ、と一つ頷いて、志狼は広げたままの絵草子をパタンと閉じた。


 「海華の言う通りだ。このままうやむやじゃ、朱王さんも落ち着かねぇだろう? 俺でいいなら、いつでもあの屋敷ん中までついてってやるぜ」


 心強い彼の言葉を受け、朱王の表情はやっと柔らかな物へと変わる。

そうと決まれば朱王の動きは早かった。

翌日、彼は朝も早いうちから朝飯を作り終わった海華と街へ出掛け、山のように借りた本を二人で手分けして返す傍ら一枚の瓦版を買い求め、そのまま志狼がいる八丁堀へと向かったのだ。


 遅鳴きの蝉の賑やか合唱が木霊する八丁堀。

志狼が手直ししたばかりの真新しい裏木戸の横からは、名前もわからぬ蔦が幾本も垂れ去がり純白の小花を暖かな風に揺らせている。

微かに甘い香りを風に放つその花を一度見上げて、海華は白木で出来た取っ手へと手を掛けた。


 「志狼さん! 志狼さんただいま!」


 裏木戸を潜りに抜け、小綺麗に手入れされた中庭を掛ける海華の頭上では、突然現れた彼女に驚いたのか数羽の雀が木の陰から慌てて飛び去っていく。

表から見れば黒光りする冠木門に頑丈な白壁の門、そして敷地の奥に立つ堅牢で豪奢な組屋敷と、どこか威圧感を感じさせる住まいだが、普段人目に付かぬ裏庭は色とりどりの花々が咲き乱れ、松や楓に桜、そして躑躅つつじと季節ごとに人の目を楽しませてくれる植物、そして花の蜜や実を糧とする動植物の楽園だ。


 燦々と降り注ぐ陽光を受けて生き生きとした表情を見せる花々、それらを心置きなく愛でられるこの場所は、朱王にとってどこか落ち着き、心が洗い清められるような気さえする場所だった。


 「志狼さん! いないの?」


 一向に返事が返ってこない事を不思議に思ったのか、海華は自分たちが寝起きする離れに向かい一際大きく声を張り上げる。

しかし、志狼と思われる声が返ってきたのは、離れとは全く反対の方向、台所からだった。


 「こっちだ! こっち!」


 「あら、そっちにいたの、ごめんなさい!」


 パチパチと目を瞬かせ、慌てて台所の方へと走る海華の後を追う朱王、と、勝手口の方でボンヤリとした人影が動いた。


 「あ、朱王さん。いらっしゃい」


 勝手口から出てきた朱王は、左手に紺色の前掛けを下げている。

彼のその姿を見るなり、朱王は一瞬戸惑いの表情を浮かべて言葉を詰まらせた。


 「どうしたんだ、朱王さん? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔してよ」


 「あ……いや、なんでもない、その……突然押し掛けてすまん」


 何とかその場を取り繕い、半ば無理矢理な笑顔を見せる朱王に、志狼は微かに小首を傾げ、前掛けを右手に持ち変える。


 「片付け頼んじゃってごめんなさいね。今、 兄様と本を返してきたの、それで瓦版も買ったんだけど、殺された人の事、随分詳しく書いてあったわ」


 懐から畳んだ瓦版を取り出した海華は、それを目の前でヒラヒラ振って見せる。


 「俺も、旦那様から少しばかり聞いてるぜ。 海華、朱王さんを立たせたままじゃいけねぇや。 俺は茶の用意をしてから行くから、お前は先に客間に行ってろ」


 『俺もすぐ行く』そう言って志狼は再び台所へと消えて行く。

海華について屋敷の中に上がり、客間へ向かう朱王。

磨き上げられ黒光する廊下の中頃で、彼は目の前を行く海華を小声で呼び止めた。


 「何? どうしたの?」


 きょとんとした面持ちで彼女が振り返る。


 「志狼の左手……動くようになったのか?」


 窺うような低い声色で朱王が尋ねる。

すると、海華は軽く口元を綻ばせて首を縦に振った。


 「まだ、すっかり治った訳じゃないの。でも、だんだん動くようになって……はり が効いてきたのかしらね? 今は、御茶碗を拭いたり片付けたりする時に、左手も使うようにしてる」


 一日の内に数度だが、白い布から解放される左腕。

昔に比べてかなり筋肉は落ちてしまったが、皿を拭くなどのおおまかな動きは出来るまでになったのだ。


 「そうか、良かったな。時期に元通りになるんじゃないか?」


 「そうだと良いんだけど……でも、きっと良くなるわ」


 ニコ、と微笑み海華は再び前を向く。

庭から差し込む柔らかな日が当たり、白く染まる彼女の背中を見詰めて、朱王も無意識に表情を和らげていた。


 「遅くなってすまねぇ」


 廊下に面した障子がガラリと開き、茶の乗った盆を持つ志狼が姿を現す。

その左腕は、既にいつもと同じ白い布で吊られていた。

彼から盆を受け取り、白い湯気の立つ湯呑を朱王の前に置く海華は、その盆を自ら後ろに置く。

彼女の左横に志狼が腰を下ろしたのを確かめて、朱王は彼の前に瓦版を広げた。


 「この瓦版に書かれている事、本当なのか? 俄かには信じられないんだが……」


 「どうやら本当らしいぜ。まぁ……瓦版だから、多少は脚色して書いてはあるが、俺も旦那様からこれと同じ話を聞いた。いや……これよりもっと酷ぇ話もな」


 眉を顰めて話す志狼は、畳に広げてあった瓦版を手に取り、内容を確認するように視線を紙面に走らせる。

そこには、化け物屋敷で殺された男がこれまで行ってきた悪行が、これでもかと言うほど書き連ねられていた。

父親が町医者、母方の祖父は漢方や南蛮渡来の妙薬を商う江戸でも指折りの薬種問屋を営んでいるという、大層恵まれた境遇に育った男は、物心ついた頃より親の金で遊ぶ事を覚え、今や飲む打つ買うの三拍子、特に女遊びは実の親も眉を顰めるほど酷いものだったようだ。


 しかも、吉原遊郭辺りで女を買うのではない、彼は全くの素人……つまり町人の娘ばかりに手をつけたのだ。

『金と身分で女を惹き付け甘い台詞を囁いて』そう瓦版に書かれている。

どうやら力づくで手込めにした訳ではないのだろう。

もしかすると、将来はお前と一緒になりたい……などと言ったのやもしれぬ。


 「筋金入りのタラシだな」


 「本当。この人に泣かされた人、一体何人いるのかしら?」


 瓦版を覗き込みブツブツ言う二人を余所に、朱王は紙面の続きを読み始める。

金と甘い言葉で女を骨抜きにし、散々弄んで飽きれば捨てる、そんな事を繰り返す男は女が自分の子を孕んだ際には堕胎を強要していた、その時には自身の親や祖父の店から調達した堕胎薬を使っていたようだ。


 そして、最期に書かれていた一文に、朱王の目が釘付けとなる。

その一文とは……


 『男は、女には内密に堕胎した胎児を持ち帰っていた』というものだった。


 「…… おい、この堕胎(おろ)した赤ん坊を持ち帰った、って本当か?」


 顔をしかめてそう言った朱王は、一度瓦版から視線を戻す。

畳に右手をついて瓦版を覗き込んでいた志狼も朱王へ向かって顔を上げ、小さく頷いた。


 「ああ、どうやらそれは本当らしい。旦那様から聞いたんだが、こいつが懇意にしてる医者……といっても子堕し専門の奴だが、そいつが吐いたんだと」


 女が……海華がいる前でこんな事を言いたくはないが、既に瓦版に書かれている物を彼女も目にしてしまっている。

あからさまに嫌な顔をする彼女を横目でチラチラ見遣りながら、志狼は更に言葉を続けた。


 「それが、よ、こいつ、女が孕んですぐに堕胎(おろ)すんじゃなくて、腹がでかくなってからやらせるんだと聞いた。それまでは一緒になるだのなんだのと、ノラリクラリ話を先延ばしにして、結局は……」


 出来る限り顔を朱王に近付け声を潜ませた志狼だが、すぐ横にいる海華に聞こえない筈はない。

みるみるうちに、彼女の顔が紅潮し、柳眉が逆立ち始める。


 「何なのそれ!? 酷い……酷いわそんなのッ! 女を何だと思ってるのよあの男! どうしたらそんな惨い事が出来るの!?」


 すっかり頭に血が昇っているのだろう、腰を浮かせて隣にいる志狼の胸ぐらを掴み上げんばかりに憤り、先程まで穏やかな空気が流れていた中庭にまで彼女の怒声が響き渡る。


 「ちょっ……待て、落ち着けよ海華……」


 「これが落ち着いていられる!? 志狼さんは、あの男の事許せるの!? ねぇ、兄様はどうなのよ!」


 志狼の制止も聞かず、遂には目の前にいる朱王にまで喰って掛かり出した海華。

そんな彼女を『いい加減にしろ!』と一喝し、朱王はうんざりした顔で彼女を睨んだ。


 「俺があの男を許せるかだって? そんなはずないだろう! それに、なぜそんな事をしたのか聞かれても、そんなもん俺にわかるはずないじゃないか! ギャァギャァ喚くのは止めろ!」


 一度大きく怒鳴られて、海華は渋々口を閉じて再び志狼の横に腰を下ろす。

頬を膨らませ不服そうに朱王を睨む彼女を横目に、志狼はコホンと小さな咳払いをした。


 「まぁ、朱王さん。そう怒るなよ。海華が怒るのも無理ねぇぜ。俺だってあの男は許せねぇよ。こう言っちゃあなんだが、死んで当然だな」


 「そうよ、志狼さんの言う通りだわ! …… ところで、この人は何で死んだの? 身体に傷が付いていないって聞いたから、もしかして毒を飲まされたとか?」


 真ん丸の目を何度か瞬かせ、海華が尋ねる。

確かに、瓦版には男の死因まで書かれていないのだ。


 「それがな、毒でもねぇらしいんだ。お医者の先生の話じゃ、奴の心臓は自然に止まったんじゃねぇか、とさ。何かとんでもなく恐ろしいモンや吃驚びっくりするような事が突然起きるとな、心の臓ッてぇのは止まっちまう事があるんだとよ。まぁ、『ぽっくり逝っちまった』ってぇやつだな」


 『旦那様が、そう仰っていた』そう志狼は言い置いて、既に冷めかけてしまった湯飲みを手に取る。

彼の話を半信半疑で聞いていた朱王と海華だったが、あの桐野が嘘や思い込みで話をする訳はないし、死骸を検視した医者も、そこらにいる藪ではない。


 あまりの衝撃に心臓が止まってしまう、全くあり得ない話ではない、そう朱王は感じた。

  

 「そうなると、あの化け物屋敷の中で心臓が止まるくらい怖い物を見た、って事よね? 確かにあそこのお化けは怖かったけど……」


 「あんなもんで心臓が止まってたら、お前なんかとっくの昔にお陀仏だな」


 軽い笑みを浮かべた朱王にそう言われ、海華はいよいよ膨れてそっぽを向いてしまう。


 「何よ、兄様の意地悪! お化けに驚いたんじゃないなら、何に驚いたって……え? まさか……」


 朱王の顔を凝視していた海華。

見る間に青ざめて行く彼女に一度頷きながら、朱王は顔にかかる眺めの前髪を掻き上げる。


 「姑獲鳥だ。俺は、きっとそうだと思っている。昨日、絵草子で見た姑獲鳥はどんな格好をしていたか思えてるか?」


 急に朱王にそう問われ、志狼は考えるように宙へ視線を移し、すぐにポンと一つ手を打った。


 「思い出したぞ、血まみれの腰巻き付けて、紙は乱れてて……それと、赤ん坊を抱えてた」


 「そうだ、その通りだ。でもな、俺が見た姑獲鳥は着物を着ていた。それに、赤ん坊なんか抱いていなかった」


 『子供を盗られたんだ』そう小さく引くい声で朱王が呟いた刹那、三人がいる部屋の温度が一気に下がり、海華のはだが一気に粟立つ。

凍り付いたように固まった空気、白い陽光が射し込み明るいはずの室内に、招かれざる静寂が訪れた。


 「じゃぁ……兄様は、姑獲鳥があの人を殺したって言うの? 自分の赤ちゃんを盗られたから?」


 微かに震える声で海華が言う。

それに答えるように、朱王は軽く首を縦に振った。


 「ってぇ事はだ、朱王さん。その姑獲鳥って女はもう死んでる事になるのか? この男は、女ぶち殺して赤ん坊奪うほど度胸のある奴じゃねぇぜ? 堕胎(おろ)しも全部、医者任せ薬任せだったんだからな」


 それに、男の周辺で誰かが怪しい死を遂げた、なんて話しはどこからも出ていない。

あの姑獲鳥は男と何らかの関係があるのか、そして男を殺めたのは彼女なのか……。

はっきりとした確信も証拠もない、しかし朱王はどうしても彼女が気になってしまう。


 「兄様、随分そのひとの事を気にするわね? 兄様好みの美人だったの?」


 この場の雰囲気を変えたいのか、茶化すような口調で朱王へと向いた海華。

そんな彼女を朱王はキョトンとした面持ちで見詰め、やがて何かを考え込むように腕を組み、うぅ、と唸る。


 「美人、だったのかな? まぁ、確かに目の形も唇の形もなかなか良かった。だが、俺としては、もう少し頬の膨らみが……」


 真剣な眼差しでブツブツと呟く朱王を呆気に取られた顔で見る志狼の横で、海華は『あぁ、またね』とこぼして溜め息をついた。


 「なぁ、朱王さん……」


 「いいのよ、いつもの事だから。兄様ね、女の顔を、やれ、目の形がいいとか鼻筋が整ってるとか、部分部分でしか見ないの。で、美人か、って聞くと、『そうでもない』なのよ」


 美人だの醜女だの、そんなものは個人個人が決めること、朱王にはなんの関係もない。

美人だって全体を見れば醜い部分はあるし、醜女だって部分的に美しい部分はある。

朱王にとって、顔はただの顔でしかない。


 「まぁ、綺麗でも醜女でもない、普通の女だったよ」


 「ほらね、兄様にかかれば、どんな傾国もこんな言われようよ」


 フッ、と鼻で笑って湯飲みの茶を飲み干す海華。

こんな男と長年一緒に暮らしてたのだ、化粧や着物で美しく装うのが馬鹿馬鹿しく感じるのも当たり前だろう。

そんな事を考え、思わず苦笑いする志狼は、空となった湯飲みを自身の傍らに纏めて寄せる。

さぁ、問題はこれからだ。


 「もうこれ以上首を突っ込むのは止めましょうよ。後は旦那様にお任せして……」


 「なんだ御前、さっきまであの男は許せないって鼻息荒くしていたくせに。まぁ、いい。 お前達はこのまま手を引け。後は俺一人でやる」


 そうきっぱり言い切って、朱王はその場から腰を浮かす。

これには海華は勿論、志狼も驚きに目を見開いた。


 「おい、ちょっと待てよ朱王さん! 朱王さん一人で何をしようってんだ!?」


 「そうよ! まさか、また姑獲鳥に会いに行くんじゃないでしょうね!?」


 部屋一杯に響く海華の厳しい叫び声。

その通りだ、と言わんばかりに二人の方を振い向いた朱王は、身体の前で軽く腕を組み、真っ 直ぐな視線を注ぐ二人を交互に見遣った。


 「お前達や、勿論桐野様にも絶対に迷惑は掛けない。だから……ここは俺の好きにさせてくれ。―― 頼む」


 やたらと真剣な声色で言う朱王に、二人は返す言葉もなく顔を見合わせる。

その間に、朱王は部屋を出て行ってしまった。


 「兄様! 兄様待って! ……ッッ! 何なのよ、もうッ!」


 慌てて廊下へ飛び出し、去り行く後ろ姿に何度も呼び掛けるが、彼は振り向きもしないまま姿を消してしまう。

これにはさすがの海華も怒りを露にし、両手を固く握り締めた。


 「いつもいつも勝手な事ばかりするんだから! もう知らないわ! 姑獲鳥にでも化け猫にでも……好きなモンに会えばいいのよ!」


 怒りに顔を紅潮させ、足音も荒く室内へ戻ってきた海華を前に、ふぅ、と小さな溜め息を吐いた志狼は一先ず彼女を手招きし、自分の前に座るよう促す。

柳眉を逆立てながらも彼の前に正座した海華。

再び畳へ胡座をかいた志狼は、苦笑いを見せながら己の癖のある髪をくしゃくしゃと掻き回した。


 「そう怒るなよ、朱王さんは朱王さんなりに、なにか思うところがあるんだぜ? 考え無しに動く人じゃねぇのは、お前もよくわかってるだろう?」


 諭すような志狼の言葉に、海華は無言のまま頷く。

と、怒りに歪んでいた彼女の顔がみるみるうちに悲しげな表情へと変わり、己の膝先へ視線を落としてしょんぼりと項垂れてしまった。


 「それはわかってるわ。でも……心配なの。 あたし、本当に心配なのよ」


 泣き出しそうな面持ちで顔を上げた彼女に、志狼は小さく微笑みながら何度も頷く。


 「それもわかってる。だから、朱王さんの事は俺に任せろ。化け物屋敷にもう一度行くってぇなら、俺がついて行くさ。お前、もうあんな所に入るのは嫌だろう?」


 また失神でもされたら大事、それこそ桐野に叱られてしまう。

そんな考えも頭の片隅に置いて、志狼が発した台詞に、海華はわずかに目を潤ませ、軽く唇を噛み締めた。


 「ありがとう……志狼さん、ありがとう! いつもごめんなさい、あたしや兄様の事で迷惑掛けて……」


 正座したまま、畳に手をついて志狼ににじり寄った海華は、彼の膝の上に置かれた手に、そっと自身の手を重ねる。

柔らかな感触を心地よく感じながら志狼はその手を握り、彼女の身体を軽く引いて己の胸の中へと抱き込んだ。


 「朱王さんがいちゃぁ、絶対に出来ねぇからな……」


 「そうね。―― ねぇ、志狼さん。今夜……」


 『旦那様がお休みになるまで、ずっと起きて待っていて……』


 赤く色付いた彼女の唇が耳許で囁いた台詞に、志狼は盛大に破顔し首を縦に振っていた……。

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