表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十三章 怪談は漆闇に活きる
63/227

第二話

 化け物屋敷の裏口で倒れていたのは、やはり海華だった。

幸い頭などは打っておらず、周囲にいたお化け……いや、一つ目小僧や幽霊の格好をした人々が彼女を助け起こし、濡らした手拭いを額に当てるだのなんだのと介抱をしてくれていたのだ。

ワイワイガヤガヤと騒ぐおどろおどろしい妖怪達が一所に固まっているのを見た時は、さすがの朱王もギョッとしたが、今はそんな事を言っている場合でない。


 「申し訳ありません! ちょっと失礼、それは私の妹で……」


 「ちょっと退いてくれ! 海華! おい海華!」


 人垣……いや、化け物垣を掻き分けて、二人はやっと海華の元へと辿り着く。

うぅ、と小さく呻いて軽く身動ぎする彼女を一つ目から受け取り、志狼は引き攣った笑みを彼らへ向けた。


 「手間掛けさせて申し訳ねぇ、こいつぁ俺の女房で……」


 「あぁ、そうでしたか。いやぁこちらこそ申し訳ありません、中のお侍様に早く外へ出ろと急かされまして、着替える間もなく出てしまったので」


 バサバサの乱れ髪をふりさばき、片目を紫色に大きく腫らせた白装束の幽霊が、愛想のよい笑顔を見せる。

その横には深緑をした甲羅を背負った小肥りの河童、口が耳まで裂けた大女は、破れた着物を鬱陶しそうに手で払い、心配そうな面持ちで海華を覗き込む。

もう何がなんだかわからない状況だが、唯一わかるのは、ここで海華を起こしてはいけない、それだけだ。


 ぐったりと横たわる彼女を朱王に背負わせ、 二人はお化け達に何度も頭を下げて足早にその場を後にした。







 「だから黙って待ってろと言っただろうが!」


 そう低い声で怒鳴り、両の眦を吊り上げた朱王が自らの斜め前に座る海華を思い切り睨み付ける。

これ以上ないくらい背中を小さく丸め、飯台を見詰めるようにしょんぼり項垂れる海華の口から、『ごめんなさい』と掠れた謝罪の言葉が漏れた。


 化け物屋敷で失神した海華は朱王の背中の上でやっと目を覚ます。

ぼやける視界、しかし自分の目の前絵にあるのが恐ろしい化け物や妖怪ではなく、志狼と修一郎だとわかった途端、彼女の目からは安堵の涙が一粒転がり落ちた。


 桐野は高橋らと御検視に立ち会わねばならない、北町奉行である修一郎が殺しの現場でウロウロしていては何かと都合が悪かろう、と、桐野は秘密裏に修一郎を屋敷から脱出させ朱王らと共に帰路に着よう勧めたのだ。


 目を覚ましたばかりの海華の事もある、ここは茶屋で一休みしようとの修一郎の提案を受け、四人は近くの茶屋に立ち寄り、そこで海華は早速説教を喰らう事となったのだ。


 「だって……仕方ないじゃない。兄様達がいつまで経っても戻ってこないんだから……」


 そう呟いて小さく鼻を啜る海華、彼女の恨み節は狭い店内に溢れかえる喧騒に掻き消され、朱王らの耳には届かない。

胸の前で深く腕を組み、未だ海華を睨む朱王を宥めるように隣に座る修一郎は肘で彼を軽く突いた。


 「朱王、そう怒るな。海華とて悪気があった訳じゃない。あんな恐ろしい恰好で公衆の面前に出てくる方が悪いのだ」


 「そうだぜ、こちとら気絶までさせられたんだ。向こうから詫びの一つや二つあってもいいってぇもんだ。 それなのに……海華ばっかり叱っちゃ可哀想じゃねぇか」


 修一郎の言葉に迎合し、苦笑いを浮かべた志狼が唇を動かす。

だいぶ前に飯台に置かれ、既にぬるくなってしまった茶を一口啜り、海華は泣き笑いの表情で志狼にそっと身を摺り寄せた。


 「――へぇ、そうか。修一郎様はもとより志狼、お前も海華の肩を持つんだな?」


 『下品な悲鳴ってどの口が言ったんだか……』わざと周囲に聞こえるよう、大きな独り言を放つ朱王は、何食わぬ顔で手元にあった湯飲みの茶を煽る。

そんな彼を前に、志狼はサッと青褪め何やら口内で弁解の独り言を呟き始めた。

その隣では朱王の言った意味が分からない海華が、不思議そうな面持ちで両目を瞬かせている。


 「もう良い、二人ともそのくらいにしておけ」


 慌てる志狼とむっつり顔の朱王を見比べ、修一郎がやっと二人の間に割って入る。

ちょっとした息抜き、面白半分に化け物屋敷に来たはいいが、何やら面倒事に巻き込まれてしまったようだ。


 「……ところで修一郎様、あの骸の身元は分かったのでしょうか?」


 ふと思い出したかのように、朱王は湯飲みを飯台に置き修一郎へ尋ねる。

小皿に乗った羊羹を黙って海華へ勧めながら、修一郎は小さく小首を傾げた。


 「いや、桐野はまだわからぬと申していたぞ。何しろ身分を示す物を何も持っていなかったようだ。財布も消えていたらしい」


 「あら、お財布も? それじゃ、物盗りなのかしら?」


 小皿に乗った羊羹、深く、限り開く黒い紫色をしたその四角い一切れを竹匙で押切り、海華は丸い目を更に丸くする。

好奇心と言う名の光が宿り始めた瞳、いち早くそれを見抜いた朱王は『お前は黙れ』と一言、 低く吐き捨てた。


 『犯人探しなんて、余計な真似は絶対にするな』別れ際、海華にきつくきつくそう言い渡した朱王、数日後、彼の姿はあの事件現場となった両国の化け物屋敷の前にあった。

もとより人通りが多く、活気に溢れるその場所は、つい先日人殺しがあったとは思えぬほどに賑わい、まだ昼間だと言うのに、次々と人々が化け物屋敷の中へ消えていく。


 人が一人殺された場所だ、本来ならば気味悪がられ、人も入らず看板を下ろしてしまうのだが、皮肉なことにあの事件があってから、ここは以前にも増して繁盛しているのだ。

殺しの現場をその目で見たい、という好奇心もあるだろうが、何より人々を引き寄せるのは八百八町を一瞬で駆け巡ったある噂にあった。


 化け物屋敷のなかで、白装束を纏った女の幽霊が出る、と言うのだ。


 それは薄汚れた着物を纏い、長い髪を一束ねにした若い女で、独りボンヤリと薄暗がりの中に立ち尽くしているという。

場所が場所だ、きっと怖くて足が竦み動けなくなっているのだろうと思った客が声を掛けると、女は風に揺らぐ蝋燭のように静かに、儚げにこちらを振り返ると、スッと空気に溶けるように姿を消してしまうらしい。


 女が出る場所は決まって張りぼてで造られた柳の大木の近くであり、こちらに背中を向けていたと言う者もいれば、柳の幹に凭れ掛かりじっとこちらを見詰めていた、または地面に蹲りさめざめと泣いていた、柳の木に挟まれた枯れ井戸の中から顔だけを半分覗かせていた等々、目撃談は多数ある。


 共通点は、幽霊は女である事、そして目撃者は全員が男性だ。


 先日殺された男と何か関係があるのか、もしや男の霊が成仏できずに屋敷の中を彷徨い、新たな霊を呼んでしまったのか……。

興味本位の噂は風に乗って瞬く間に広がる。

朱王もその話を長屋の女達から聞かされ、今日ここに足を運んだ訳だが、決して怖いもの見たさで訪れたのではない。

彼は確かめたかった、自分があの井戸で見た女が『幽霊』などではないと。

元より神仏や狐狸妖怪の類を信じていない、いや信じたくない朱王である。

あれは人間だ、幽霊に化けた人間の女だ、そう信じたいが如何せん、一度気になると自分の目で確かめるまでどうも気持ちが落ち着かないのだ。


 海華には『余計な事に首を突っ込むな』と厳しく言い付けている手前、ここへ来たのは秘密にしなければならない。

勿論志狼にも、そして桐野にもだ。

先日、海華を介抱してもらった礼もしなくてはならない、無理矢理にそんな理由を付けて化け物屋敷を訪れた朱王がまず向かったのは、屋敷の裏口、海華が落ち武者と鉢合わせした場所だ。


 普段客が訪れる事はないだろう裏口には、人目を遮るように大きな黒い幕が四方に下げられた十畳ほどの空間があり、そこは真っ直ぐ屋敷の裏口へと続いている。


 「御免下さい、どなたか……」


 「あぁお客さん! そこは入っちゃダメダメ、入り口はこっち……おや?」


 突然後ろから呼び止められ、驚いて振り向いた朱王の目の前には、全身は深緑色、背中には大鍋をかぶせたように丸く大きな甲羅を背負う小太りの河童……いや、河童の格好をした中年男が立っていた。


 「お客さん、こないだ来てたお人だね? あの失神したお姉さんはどうしたぃ? 」


 「あ…… お陰様で、すっかり元気になりました。その節はご迷惑をお掛けして」


 「なぁにいいんだよ。こっちこそ、あんなに怖がらせちまって悪かったと思ってたんだ。 ―― 怖がらせるのが俺達の仕事なんだがねぇ」


 ぽつりと独りごち、河童は太鼓腹を抱えてケラケラ笑う。

そう、彼は海華を介抱してくれたうちの一人だったのだ。


 「控え場所はここですか?」


 「そうだよ、お客さんなら入ってもらって構わねぇさ。俺らの正体、とっくの昔にバレちまったからな」


 頭に乗せた紙のお皿と甲羅の他は褌を締めているだけの河童は、立派な腹を揺らして垂れていた黒布を持ち上げる。

その中を覗いた瞬間、朱王は海華を連れてこなくてよかったと心底感じた。


 「あら、源さんお疲れ様~」


 顔が半分爛れた旅装束姿の女が目の前を通りすぎ、朱王の顔を一瞥する。

見るに耐えないほど崩れた……崩れたように見える化粧を施した彼女の顔に、ニコ、とどこか色っぽい笑みが浮かんだ。


 「おう、お疲れさん! 今日の客入りもなかなかなもんだろう?」


 「こっちが驚かし疲れちゃうよ」


 けらけら笑いながら言ったのは、傍らの腰掛けに座り水瓶から水を汲む豆腐小僧の姿をした少年だ。

漆黒の布に囲まれたこの空間には、『お化け役』の人間達が控えとして使っている場所である。

周囲を囲む布に沿って置かれた長い腰掛けには、額に三角の布を付けた幽霊が座って煙管をふかし、山姥と口裂け女が茶を飲み飲み世間話に花を咲かせている。

その奥では、子泣き爺ぃと一つ目入道が真剣な面持ちで将棋をさしていた。


 右を見ても左を見ても化け物と妖怪、そして幽霊が視界に入る。

一番奥にある鏡台の前で、若い女がこれでもかと白粉を顔に叩き込む。

空気に舞う白く細かい粒子に朱王が軽く噎せた時、屋敷の裏口側にある幕がバサリと捲れ上がり、髑髏しゃれこうべを小脇に抱える痩せ衰えた老人が微かな溜め息と共に姿を表した。


 「おぅ! 重ちゃんお疲れ!」


 「おぉ源さん、お疲れ。ん? 隣にいるのは……こないだぶっ倒れたネェさんの?」


 「その節は妹がお世話になりました。……皆さん、よく私の事を覚えておいでですね?」


 痩せた身体に薄汚いぼろ布を巻き付けた男に向かい、朱王は軽く頭を下げ、朱王は苦笑いしながら言う。


 「そりゃぁな、おにぃさんみてぇに綺麗な顔は、そうそう忘れやしねぇよ。ところで今日はなんだい、おにぃさんだけかい?」


 そう言いながら、男は持っていた髑髏を腰掛けの上に置き、腰からぶら下げていた手拭いで汗の浮かぶ顔をゴシゴシ吹き始める。

汚れや汗が綺麗に取れたその顔は、なんとシワだらけの老人から三十路程度だと思われる男の顔へと変わっていく。

化粧の威力は凄まじい、そう朱王は改めて感じた。


 「実は、先日少し気になったことがありましたので、それを確かめに。井戸の中から女性が……」


 「なんでぇ、アンタも幽霊の事聞くのかよ?」


 しげと呼ばれた男は朱王の話を聞いた途端、露骨に嫌な顔をする。

何か気に触る事を言ってしまったか、と一瞬焦る朱王の前で、男は豆腐小僧の格好をした少年をよび、水の入った湯飲みを持って来させた。


 「来る客来る客みんなそれだ。こっちがりき入れて驚かしても『本物の幽霊はどこですか?』なんて聞かれるんだぜ? 全く、こっちが興醒めしちまわぁ」


 ふてくされた顔で水を飲み干す男を前にして、朱王は申し訳無さげに僅かに背中を丸める。

そんな彼を気の毒に思ったのか、横から河童が『そう怒るなよ』と助け船を出してくれたのだ。


 「偽モンのお化けと本物の幽霊じゃ、本物が勝つに決まってんじゃねぇか。俺だって一辺拝んでみてぇよ、なぁ、お客さん?」


 「いえ、違うのです。その……実は私、先日井戸の中から出てきた女性に会いまして。きっとこちらにいらっしゃるどなたかだと思うのですが。場所は、大きな柳の間にある井戸です」


 朱王の言葉を聞いて、男二人は怪訝な面持ちで顔を見合わせる。


 「柳ん所にある井戸? 確かにあるが、ありゃあ張りぼてだったよな? 人が隠れられるほど深くねぇぜ?」


 「そうだ、人なんて隠れられる筈はねぇ。 ―― と、なると……おい、お里!」


 くるりと後ろを振り返った男が、先ほど白粉を塗り込んでいた女を呼ぶ。 『なぁに?』と気だるげな返事と共に、こめかみ辺りの解れ毛を指先に絡めていた女がこちらを向いた。


 「おめぇ、柳の間の井戸に入ったことあるか? 」


 「やだねぇ、ある訳ないじゃない。あんな狭い所、子供が屈んでも頭が見えちゃうよ。それにお菊サンの井戸は重さん、あんたが骸骨持ってボーッと立ってるすぐ近くさ。あたしがいなかった事なんて、一度でもあったかい?」


 疑うなんて心外だ、とばかりに女は青く色を付けた唇を尖らせる。


 「大方、お客の誰かが悪戯してたんだろうさ。お客さん、あたしは出口近くの井戸ん中にいるからさ、今度覗いてってね」


 鏡台の前から立ち上がった女は、艶っぽい微笑みを一つ朱王へ投げ掛け、黒幕を捲り上げて仕事場、つまり屋敷の中へと駆け込んでいく。


 「ケッ、お里の奴、妙な色目使いやがって。 でも、あいつでもねぇとなりゃぁ、いよいよおかしな話だぜ」


 難しい面持ちで首を傾げる男、その横で河童は己の頭から皿を取り外しながら、『やっぱり本物の幽霊なんだぜ』そう小さく呟いた。


 『あの井戸を確かめてぇなら、こっから入んなよ』そう言って河童は黒幕を捲って屋敷内への裏口を指す。

しかし朱王はそれを固辞し、その場にいた者達に丁寧に礼を述べてその場を後にする。

そのまま彼が向かったのは、化け物屋敷の入り口だった。


 一度井戸を確かめてみたい、それならばきちんと払う物を払って入るのが道理だろう。

あれ以上、河童達の好意に甘えてしまっては悪い気がしたのだ。


 入り口で幾らかの金を払い、内部に足を踏み入れると、そこは先日訪れたのと同じく薄暗く、これ以上ないくらい不気味で陰鬱な雰囲気を醸し出している。

頭上を飛び交う火の玉、墓石の裏や大きな石の陰、そして草むらの中から化け物になりきった益田屋の雇い人だろう者らが、おどろおどろしい声を上げて飛び出してくる。

ここを歩くのは二度目だと言うのに、やはり雰囲気に飲まれてしまうのだろうか、闇の中から異形の者が飛び出してくる度に、ハッと息が、そして足が止まってしまう。


 草むらから伸びる紫色の手が着物の袖を掴む。

それを慌てて振り払い、小走りにそこを駆け抜けて、先にある柳の並びへと急いだら朱王。

やがて、彼を手招くように若緑の葉を揺らす木々が視界に入り込んだ。

どこからか吹き込む風に、ざわざわざわ……と、大勢の人が囁くような音を立て、柳の葉が擦れ合う。

項垂れ、長い黒髪をたなびかせる女のようにも見える木々の前を行く朱王の鼓動は、件の井戸に近付く程に高鳴り、背中や胸元をじっとりと汗が濡らす。


 隆々とした幹、竹の骨組みと和紙を張り重ねて造られた二本の大木の間に、その井戸はあった。

先程、控え場所で聞いたのは、あの井戸は張りぼてであり、外見こそ井戸だが中は浅く子供が屈んで隠れても頭が見えてしまう程に浅いものという事、そしてこの井戸の近くに隠れているお化け役は誰一人としていない、という事だった。


 確かに、周囲に人の気配はない。

お化け役どころか、朱王と共に入ってきた他の客、そして彼の前に入って行ったはずの曲の姿も彼らが上げる甲高い悲鳴も聞こえない。

そう、朱王の周りは今、完全なる静寂に包まれている。

彼が今感じるのは、空気中を漂う線香の匂いと己の鼓動だけ。


 柳の大木の間に不自然に置かれたその井戸は、木が落とす影に紛れて目を凝らさなければよく見ることが出来ない。

未だ暗闇になれない目を無意識に擦り、そろそろと井戸へ近づく朱王、と、その時、突然拭き抜けた一陣の風が長い柳の葉を天井へ向けて吹き上げる。

まるで周囲の壁が壊れてしまったかのように強い風、紙でできた柳に葉に強か頬を叩かれて、思わず小さく呻いた朱王の足が二、三歩よろける。


 固く瞑った目をゆっくりと開いた途端、朱王の表情が一気に凍り付く。

井戸の端に、薄汚れた白装束を纏った若い女が、ちょこんと座っているのだ。

瓜実顔に貼り付く一筋の解れ髪、血の気の失せた真っ白い頬に青ざめた唇。

形の良い蛾眉にすらりと通った鼻筋、美しく整ったその顔立ちが恐怖を一層際立たせる。

そして、先日は井戸に隠れて見ることが出来なかった彼女の下半身は、夥しい血潮で白装束がどす黒く染まっていた。


 「……あら、お兄さん。また来て下さったんですねぇ」


 『嬉しいですよ』そう言って、女は血の気の失せた唇を笑みの形に歪める。

得体の知れないその女と向き合って、朱王一言も口を利けないままその場に立ち尽くす。

穴が開くほど見詰められ、女はどこか困ったように微笑み薄汚れた袖で己の口元を覆った。


 「嫌ですよお兄さん、前も言ったじゃありませんか。そんなに見詰められちゃ照れちゃいますよ」


 くすくす、と小さな笑い声が朱王の鼓膜を揺らす。

今、目の前にいる女が人間なのか幽霊なのか、もう朱王には見分けがつかない。

乾いた血のこびり付いた両足をふらふら揺らし、女はちょこんと小首を傾げて、朱王を見詰めた。


 「あ、んた……いや、貴女は、一体……」


 「あたしですか? あたしはお化けですよ。ここは化け物屋敷ですからね」


 新緑の木々の間を吹き抜ける風の如き声色が朱王を包む。

穏やかな、それでいて幽玄な響きを持つその声色に、強張っていた朱王の表情が徐々に緩んでいく。


 「お化け……か。確かに、そうですね。 そのお化けに名前を尋ねる私は……とんだ野暮天かな?」


 「そりゃ、他の男ならそうですよ。でもお兄さんになら特別に教えてあげますよ。あたしの名前は、『ウブメ』です」


 『ウブメ』そんな聞き慣れない名前をきいて、今度は朱王が首を傾げる。


 「ウブメ、さんか。ではウブメさん、貴女はずっと、この井戸に?」


 「えぇ、そうですよ。あたしはいつでもここにいます」


 解れ髪を一筋口の端に咥えて、ウブメは小さく頷く。

朱王が屋敷の中に入ってから、もうかなりの時間が過ぎたはず、しかし客はおろかお化け役の者らも一向にこの場所へ来る気配はない。

ここは現世から切り取られた世界、そう、朱王とウブメだけが存在する世界なのだ。


 「この近くで、人が殺された時も、貴女は……」


 「はい、ここにおりました。 殺された人の顔も、よぉく覚えておりますよ。あたしの顔を見て、目の玉が飛び出すんじゃないかってくらい驚いてましたからねぇ。よほど……見たくない顔だったんでしょう」


 ふふふ、と、どこか寂しげに笑い、女はスッと俯いてしまう。

その様子がどこか儚げで、そして悲しげで、思わず朱王は数歩彼女へ歩み寄った。


 「ウブメさん、もしや貴女、誰がその人を殺したかを知っているのでは?」


 朱王の問い掛けにゆっくり顔を上げたウブメは、円らな瞳を意味ありげに細める。

彼女の周りを包む闇が、急に濃くなったように朱王は感じた。


 「そうですねぇ、知っていると言えば…… 知っております。でも、それは教えてあげない。もし知りたければ、また、ここへいらしてくださいな」


 『お待ちしております』そう言って青白い唇を三日月型に歪めたウブメを、周囲の闇が、そして造り物の柳葉があっと言う間に覆い隠していく。

待ってくれ、そう朱王が叫んだ時には、もう彼女の姿は跡形もなく消え去っていた。






 「兄様ー、頼まれた物、借りてきたわよー」


 間延びした声と共にガラリと戸口が引き開けられ、四、五冊の本を胸の前に抱えた海華がよろめきながら室内へと入ってくる。

朝も早いうちにこの長屋を訪れた海華、そして志狼の手によって綺麗に整えられた室内、掃き清められたその畳の上には、朱王自身が貸本屋から借りた絵草子やら黄本が数冊無造作に放り出され、その借主は作業机の前に背中を丸めて座り、戯本を真剣な眼差しで読み耽っている。


 『兄様』そう呼びかけれど返事もしなければ顔も上げない彼に、海華は頬を小さく膨らませ、抱えていた本を作業机の横にドンと置いた。

朝飯の支度をしに訪問した海華の顔を見るなり、まだ寝間着姿だった朱王は開口一番『ウブメについて知りたい』と何やら訳のわからない事を言う。

怪訝そうな顔で見詰めてくる海華を急き立てるように、彼は出来るだけ多くの貸本屋を廻り、妖怪や古今東西の化け物を記した絵草子、戯本など何でもいいからあるだけ借りてきてくれ、と真剣な面持ちで頼んだのだ。


 理由を聞いても、とにかく借りてこいとの一点張り、大急ぎで飯の支度と掃除を済ませた彼女はその足で街へ飛び出し、知っている限りの貸本屋を周って言われた通りの本を借りてきたのだ。

夏至を過ぎてもなお日は高い。

戸口から差し込む日の光が宙に舞う誇りをキラキラ輝かせ、投げ出されていた本を片付ける海華の髪も光の髪飾りが彩る。


 表から聞こえてくる子供の感性や、女達の世間話と姦しい笑い声、しかし室内は朱王が本を捲る乾いた音と、海華が時折漏らす溜息しか聞こえない。

そんな静かな時を打ち壊したのは、戸口に映る一つの影、その持ち主だった。


 「邪魔するぜ」


 ガラ、と鈍い響きを立てて戸口が開く。


 「あら、志狼さん。どうしたの?」


 白っ茶けたとの向こうから姿を現した志狼に、海華は本を片付けていた手を一瞬止めた。


 「ちょっと近くに用事があってさ。……朱王さん、どうしたんだこれ?」


 作業机の周辺に散らかる本を一目見て、志狼は目を丸くする。

しかし、彼の問いにも答えることなく、朱王はチラリとこちらを一瞥するとすぐに目を紙面へと戻してしまった。

色の変わった古畳に広がりる、赤や黄色に彩色された鮮やかな表紙、百鬼夜行が表紙に描かれた一冊の本を些か乱暴に積み重ね、海華は眉を顰めてその場から立ち上がった。


 「またいつもの気まぐれよ。何聞いても答えてくれないんだから。志狼さん、外に出ましょう」


 『埃っぽくて息が詰まりそう』そうブツブツ言いながら、海華は土間へ降りると志狼を伴い表へと出る。


 「どうしたんだ朱王さん、いきなり本なんざ読み始めるなんて、学者の先生にでもなるつもりかよ?」


 「学者の先生って、兄様が読んでるのは子供騙しの戯本よ?今朝来たら、いきなり妖怪や化け物の事が書いてある本を借りてこいだってさ。 ウブメがどうとかこうとか言ってね。もう、訳がわからないわ」


 「ウブメ? 何だそりゃ、聞いたことねぇな。 そういう化け物がいるってぇのか?」


 締め切った戸の前でしきりに首を傾げる二人。

と、海華は何かを思い出したかのように志狼へ向き直る。


 「そう言えば志狼さん、この間お化け屋敷で殺され人、誰だかわかったみたいね。さっき瓦版が出ていたわ。あたし、急いでたからよく見なかったけど」


 「あぁ、どうやらあの近くに住む医者坊の息子だったみてぇだ。俺も、ここに来る時にちらっと瓦版を見た。なかなか派手な身形だと思ったが、町医者の息子とはな」


 左腕を吊っていた白布を指先でいじくり、志狼が呟く。

そんな二人の目の前を、背中に赤ん坊を背負った少女が一人、二人に小さく会釈しながら通り過ぎた。


 「あの子は、そこの向かいの部屋の娘だろう? また子供が生まれたのか?」


 「そうよ、あの子……お千ちゃんを頭に今の赤ちゃんで七人目。一人生まれたと思ったら、もう次が出来てるの」


 感心するように長屋門を抜けて行く少女を眺めながら海華が言う。

『うちはいつなのかしら……』無意識に彼女の口から零れた台詞を耳にした途端、志狼は反射的に俯き、どこか恥ずかしそうに己の爪先へ視線を落とす。

そんな彼を見て、海華は口元に手をあてクスクス笑った。


 「あらいやだ、志狼さんそんなに気にしないで? 子供は授かり物なんだから」


 「あぁ……いや、確かにそうだ。――なぁ、 海華、朱王さんの用事はもう済んだんだろ? 他になにもないなら、このまま……」


 『一緒に帰ろう』海華の手を取った志狼がそう告げようとしたと同時、戸口の向こうが、やおらドスンバタンと騒がしくなる。

畳を踏み鳴らす地響きにも似た音、そしてバサバサと紙同士が擦れ合う乾いた響き。


 「海華――っ! あった! あったぞ!」


 わずかな歓喜を含ませた叫びと共に、二人の目の前で戸口が弾き開けられる。

ポカンと口を半開き、呆然とした表情を向ける志狼と海華の前で、片手に絵草子を引っ掴んだ朱王が髪を振り乱し、素足のままで飛び出してきた。


 「海華! あった、やっと見付けた!」


 「見付けた?何……を?」


 志狼に手を掴まれたまま、海華はヒクリと頬を引き攣らせる。


 「何がって、ウブメに決まってるじゃないか! 見せてやるから、早く中へ入れ。 ん? 志狼さん、いつ来てたんだ?」


 奥二重の目を張り裂けんばかりに見開く彼を見て、朱王は不思議そうな面持ちを作り出す。


 「いつ、って、今さっき……」


 「そうか? すまん、気が付かなかった。 まぁ、いい丁度良かった。志狼さんにも見てもらいたいんだ。さぁ、早く中へ入ってくれ」


 丁重にお断りして海華と帰りたい、それが本心なのだが、勿論口に出して言えるはずもなく、志狼はガックリ肩を落として海華と共に室内へと向かう。

背中一面に重たい雰囲気を貼り付かせる彼に注がれたのは、長屋門の前で世間話に興じていた女達の憐みを含んだ眼差しだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ