第一話
「……で、その男がゆっくーりこっちを振り向いたんだ。その顔には、額んンとこに目がもう一つあって、口は……」
「やだぁぁぁ! もうイヤ! もういいから止めてよぉっ! 」
『耳まで裂けていた』そう続くはずだった志狼の言葉は夜気を震わす海華の悲鳴によって掻き消される。
墨を流したような漆黒の闇は、この部屋に集う者らの顔も判別するのも困難であり、ジットリと肌に張り付くような湿気を帯びた空気のなかで黒い影法師が慌ただしく蠢く。
やがて部屋の片隅にポッ、と柔らかな明かりが灯った。
一瞬のうちに室内へと広がる柿色の光。
下座に座る志狼へきつくしがみつき、身体を丸めて小刻みに震える海華の姿を見た朱王は呆れ果てた面持ちで溜め息をつき、上座にいる修一郎と桐野は、笑いを噛み殺そうと必死だ。
「なんて声出してるんだみっともない。ただの作り話でギャァギャァ騒ぐな」
「ただの作り話って決め付けねぇでくれよ。 その男な、うち出入りしてる八百屋が本当に見たって言ってんだからな」
「だって怖いんだもの、仕方無いじゃない! ねぇ、もう止めてよ志狼さん、あたし、怖くて井戸に近付けなくなるわ!」
朱王の台詞に、志狼の陰から顔を覗かせた海華が眉を逆立てる。
夏虫達が賑やかに羽を震わす蒸し暑い夜、修一郎は朱王を伴って八丁堀にある桐野の屋敷を訪れた。
忙しい合間を縫い、たまの息抜きにと修一郎の提案だったが、海華に会うための口実だろう。
屋敷につき、海華に酌をしてもらいながら上機嫌で酒を楽しんでいた三人だったが、ひょんな事から『怪談話』に花が咲き始めたのだ。
古井戸から這い出してくる女の幽霊に、夜中の道を疾走する人の顔をした犬、そして口が耳まで裂けた三つ目の大男……。
三人があちこちで耳にした化け物やら妖怪やらの話は、気分を出すため明かりを消した室内に不気味に広がる。
元より怖い話し……特に正体不明の幽霊や化け物の類いが大の苦手な海華は、もう生きた心地すらしない。 ただ志狼にピタリと寄り添い、両耳を塞いで話が終わるのを待つしかなかった。
「もうっ! 私が怖い話し嫌いなのおわかりのくせに。修一郎様ってば、酷いわ」
「イヤ、すまんすまん。まさかここまで怖がるとは思わなかった」
酒精のせいだろうか、それとも笑いを耐えていたせいだろうか、真っ赤な顔で目尻ににじむ涙を拭った修一郎は、猪口に半分ほど残っていた酒を一気に飲み干す。
空となったそれに新たな酒を注ぎながら、桐野は困ったような笑みを彼へ向けた。
「これ以上話すと海華の寿命が縮んでしまうぞ。見ろ、青くなっているではないか」
クスン、と小さく鼻を啜りつつ、空になった徳利を盆へ乗せる海華。
そんな彼女へ徳利を渡しながら、朱王は軽く目を細める。
「お前、暑い暑いって文句言ってたからな。少しは涼しくなったんじゃないか?」
「何よ、他人事だと思って! あたしが死ぬほど怖い思いしてるってのに!」
フグよろしく膨れ上がり、朱王を横目で睨み付ける海華の横で志狼は何かを思い出したかのような面持ちで桐野を見た。
「死ぬほど怖いと言えば……両国に出ている化け物屋敷、あれが酷く恐ろしいと瓦版に出ておりました」
「両国の? あぁ、益田屋の出しておるアレか。都筑から聞いていたが、なかなか繁盛しているそうだ。なんでも、途中飛び出してくる化け物で気絶した者もいるとか……」
志狼と桐野の会話に、修一郎はつまみの蒲鉾を口に放り込みながら興味津々といった様子で二人を眺めている。
海華は、と言うと、強張った表情で志狼の隣から立ち上がり、親犬に寄り添う子犬のように静かに朱王の横へと腰を下ろした。
益田屋の化け物屋敷、それは舶来物などを商う益田屋が興行主となり、両国で開かれたお化け屋敷の事だ。
六畳一間より少し大きいくらいある朱王の部屋がいくつも入ってしまうような広大な敷地にこれまた大きな小屋……というには立派な建物を急ごしらえで建て、その中全てがお化け屋敷となっている。
客は入り口で金を払い、薄暗い建物の中を出口目指して歩くわけだが、中には化物に扮した男や女が山のようにおり、そして薄気味悪い人形やら張りぼての墓場までがあるのだと言う。
夏の夜にお化け、正当な組み合わせと言えるだろう。
現に、お化け屋敷は大繁盛となり、連日夜ともなると長蛇の列ができている。
「天井から生首が降ってきたり、墓石の間からのっぺらぼうが顔を出したりと、まぁ趣向を凝らした造りらしい」
「ほぅ、天井から生首が。それはなかなか面白そうだ、俺も一度行ってみたい」
少年のように目を煌めかせ、修一郎が桐野の方へと身を乗り出す。
海華の背中にイヤな汗が流れた。
「確か、化け物屋敷は今年一度限りと聞きました。今行かないと……」
「あの、志狼さん?」
「これこそまさに『怖いもの見たさ』だな、 どうだ、行くなら早速明日出掛けてみようではないか」
「えっ!? あ……修一郎様?」
「海華、お前も当然ついてくるよな?」
朱王の一言で、皆の視線が彼女へと向けられる。
凍りついた笑顔のまま、海華の口許が引き攣った。
「化け物嫌い克服にちょうどいい機会だと思うぞ? 俺達もついて行くんだ、いいだろう?」
「そんなぁ……。嫌よ、あたしそんな所行きたくない!」
何故、わざわざ金を払って恐ろしい目に遭わねばならないのか。
修一郎や朱王の言っている意味がさっぱりわからず、海華は必死に嫌だと首を振る。
今にも泣き出しそうな彼女を哀れに思ったのか、桐野は思いきり眉を寄せて修一郎と朱王を交互に見た。
「よさぬか、嫌がる者を無理矢理引き立てて行くことはないだろう」
やっと出た桐野の助け船。
しかし修一郎と朱王は引き下がらない。
「桐野、なにも戦場に連れて行くと言っている訳ではないのだぞ? 化け物とて、みな造り物だ。命まで取られはせん」
「そうですよ。それに海華、いつまでも化け物だ妖怪だでギャァギャァ騒いでいる年でもないだろう? 」
『一歩大人になるいい機会だ』そうあっさり朱王に言われてしまい、海華はグッと息を詰まらせる。
怖いものは怖い、しかし朱王の言う事も一理ある。
行く気満々の朱王らをなんとか押し止めて欲しい、そんな願いを込めて志狼へ視線を投げた。
この時、海華は完全に忘れてしまっていた。
彼にも多少の酒が入っていた事に。
「そう心配するなよ海華、修一郎様のおっしゃる通りただの造り物じゃねぇか。そんなに怖ぇえなら、夜じゃなくて昼行ってもいいだろ? 俺もついてるんだ、絶対大丈夫だって」
『だから行こうぜ』白い歯を覗かせて、やたら楽しげな彼に、海華はガクリと肩を落とす。
結局、桐野が止めるのも聞かず海華は明日、三人に連れられて化け物屋敷へ同行することとなったのだ……。
噎せ返るような線香の臭いが立ち込める空 間、チラチラと揺れる蝋燭の焔の向こうに、男女の鋭い悲鳴が谺する。
板が打ち付けられただけのデコボコ道を壁に沿って燃える蝋燭の明かりを頼りに進む修一郎の首筋に、ビシャリと濡れた何かが当たった。
「うおおぉぉっ!? おっ!? おーっ!」
「キャァァァッ! なに!? 修一郎様何ですかぁぁっ!?」
首の後ろに両手を回し、暗闇の中でジタバタともがく修一郎の隣で、涙目の海華が甲高い悲鳴をあげる。
『修一郎様、蒟蒻です』そう彼の耳許で小さく囁いた朱王は、彼の側で固まる海華の肩に軽く手を掛け、自分の方へと引き寄せた。
表は、まだ太陽が頭の真上に来るか来ないかの時間帯、しかしこの化け物屋敷の中は蝋燭の光だけが便りの暗闇が支配している。
まだ入り口から数十歩程度しか進んでいないのだが、海華は勿論共に入った朱王や志狼、そして桐野までもが、早くもここへ来た事を後悔し始めていた。
ただのお化け屋敷、子供騙しの出し物と舐めて掛かったのが悪かった。
威勢の良い呼び口上に良い気になって入り口を潜った、その先は地獄への旅路と言っても過言ではない。
入り口を入ってすぐに広がるのは、真っ白な穂を揺らす薄野原、フワリフワリと揺れる綿毛に囲まれた細い道を進む志狼の頬を、綿の海の間から伸びた真っ白な手が撫で擦る。
そこを過ぎればジメジメ湿ったら沼地に変わり、生い茂る芦の間を飛び交う人魂に合わせて、ヒュウ、ドロドロドロ……と鼓膜を打つ音がどこからともなく響き渡った。
あちこちに転がる髑髏に、腹が膨れ上がり腐り果てた死骸からは、蕩けた目玉が地面に落ちる。
微かに感じる腐臭に血生臭さ、頭上から聞こえる烏の叫びと同時、桐野の頭上めがけてザンバラ髪の生首が二つ落下する。
悲鳴もあげられぬまま、ハッと息を飲み素早く首を避けた桐野の顔の前に浮かんだ生首は、紫色に膨れた舌をベロリと垂らし、白目を剥き出しにしてゲラゲラ不気味な笑い声をあげた。
自身へと向かってくる生首を背中を反らせて避けた桐野の身体が後方へグラリとよろめく。
あわや傍らの墓石へ頭を打ち付けそうになる。
そんな彼の背中を後ろから慌てて支えた朱王と志狼、彼らの前では、先を行っていた修一郎が、ひび割れた油壁の後ろよりひょっこり顔を覗かせた一つ目小僧に、『うぉっ!』と、短い悲鳴を上げていた。
「これは……思っていたよりもよく出来ているな」
額に滲む汗を軽く拭いながら桐野が呟く。
ただの人形、ただ人間が化け物に扮しているだけだとタカを括っていたが、造り物とてこの場の雰囲気と薄暗さの中では立派な妖に見えてしまう。
言い得て妙だが、活き活きと蠢き人の悲鳴を糧とする彼らが跳梁跋扈するここは、明らかに人界と隔てられた魔境だった。
「早く出ましょう……ねぇ、早く行きましょうよぉ」
グスグス鼻を啜りながら志狼の袖を引いていた海華。
恐怖に縮み上がる彼女の足首を、冷たく濡れた何かがヒタヒタと触る。
まるで雷に撃たれたかのように一瞬で硬直する海華の身体、油が切れたからくり人形よろしくぎこちない動きで自らの足元を見た海華の目に、すぐ傍にある大木の根元から伸びる紫色の細い腕が映る。
人にしてはやたらと長いその腕は、蛞蝓に似た光沢を放ちながら海華の足首を指先で擦る。
反射的に顔を上げた海華、その途端、大木の陰から額に三角の白布を当て、ボロボロの白装束を纏った『幽霊』がにょきりとその姿を現した。
「お嬢さん……いらっしゃぁぁ……いぃぃ ……」
「ギ……ャ―――――ッッッ! いやぁぁぁっ! イヤ――――ッ! 旦那様ぁぁぁっ!」
「みは……うぉぉぉっ!?」
断末魔の大絶叫を張り上げた海華は足首を触る手を力一杯蹴り飛ばし、自身の前にいる志狼を思い切り前へ突き飛ばして転がるように桐野へ駆け寄る。
「だぁんな様ぁぁ! 触ったァ! 何かに触られたぁぁ……! もうイヤぁぁ……」
「わかった、海華落ち着け。もうすぐ出られるからな。さぁ一緒に行くぞ。傍から離れるな。おい志狼! 朱王! 儂は海華と先に行っているからな。お前達もあまり長居はするなよ?」
ちらりと後ろを振り返った桐野は一言そう言い残し、自分の腕にしがみ付く海華を抱えるように先を急ぐ。
彼女に突き飛ばされて墓石にぶち当たり、顔を顰めて腹を擦る志狼とその横に立つ朱王は無言のままに小さく頷いた。
「っ……みは、なの奴……どうして旦那様なんだ? ここは亭主にしがみ付くのが普通だろ? なぁ、朱王さんそう思わねぇか?」
「まぁ、な……だが、今の海華は形振り構っていられないんだろうさ」
ひどく不服そうな面持ちで何度も首を傾げる志狼に憐みを含ませた視線を向けながら、朱王は慰めるように彼の肩を軽く叩き先を促す。
相変わらず不気味で陰鬱な雰囲気に満ち満ちた内部。
よく耳を澄ませば、桐野と海華が進んで行った方向からも微かに男や女、老人や子供の物だろう悲鳴や叫びが響いてくる。
『おかぁちゃん、おかぁちゃん怖いよう……!』
『うわぁ! 来るな! 来るんじゃねぇよぅ ……』
『きゃぁぁぁ! 待ってぇ! お願い、置いて行かないでちょうだい!』
壁や地面に反射し揺れる声、声、声……。
ふと気が付けば、二人の周りには全く人がいなく、さっき降ってきた生首も知らぬ間に消えている。
余り遅くなれば修一郎たちが心配するだろう、 そんな事が頭に浮かび、二人は足早にその場を後にする。
墓場をようやく過ぎた後は両側に柳の大木がズラリと並ぶ小路となる。
髪の長い女が頭を垂れたようにも見える柳の木々は、多分紙か何かで出来ているだろう葉を寂しげに揺らして二人を出迎えた。
「とことん気味悪りぃ所だなぁ……」
小さく身震いしながら志狼が呟く。
『そうだな』と何気なく返した朱王がふと自身の隣を見ると、柳の木々の間に壊れかけた土塀が一つ、その前に石造りの井戸がポツンと置かれている。
それは一目見ただけで張りぼてとわかる井戸だったが、朱王がその前に足を止めたのを見計らうように、桶をつり上げるための滑車がカラカラ……と微かな音を立てて回り始めた。
誰かが縄を引きもしないのに動き出す滑車、やがて井戸の底から姿を現したのは水汲み用の桶ではなく、薄汚れた白い着物を乱雑に纏い、結い上げ髪も無残に解けた若く小柄な女だった。
薄闇で見ても青白く血の気の失せた頬には解れ髪が張り付き、埃で汚れた着物にはあちこちにどす黒い血を思わせるシミが染み付いている。
解け掛けた帯にグルリと回される荒縄、誰かに殺められ無残に井戸へ棄てられた女。
しかし、それが本物の死骸であるはずはない。
「凄いな、これはよく出来ている。まるで本物みたいだ」
感嘆の溜息をついてそう呟いた朱王は、思わずその女を間近で見ようとフラフラ近寄って行く。
ガクリと垂れた頭、美しく整った顔を覗こうと彼が女の頬に手を添えようとした、その時だった。
すべらかな肌に小さな影を落としていた彼女の長い睫がピクリと動き、円らな目が一瞬で大きく見開かれる。
色褪せ乾いた唇が、三日月型に吊り上がった。
「いやですよお兄さん、そんなに見詰められちゃ、恥ずかしいじゃないですか……」
素早く顔をこちらに向け、朱王をじっと見詰めて女が小さな笑いを漏らす。
状況が飲み込めぬまま、驚きのあまり弾かれるように彼女から離れた朱王の心臓が、薄い胸を突き破らんばかりに早鐘を打ち始めた。
電光石火の勢いで後ろに飛び退る朱王にぶつかられ、またしても志狼は傍にある柳の木に派手にぶつかる。
「いてぇじゃねえかっ! 何しやがんだ!? 」
「喋った! 喋ったんだあの女! 人形じゃない、人間だった!」
不機嫌と怒りに眉を逆立てる志狼へ血相を変えて詰め寄る朱王。
二人がなんだかんだと揉めている間に、井戸から出てきた女は跡形もなくその姿を消してしまう。
後に残されたのは男二人と不気味な静けさだけ、二人は一度お互いの顔を見合わせ、ふぅとほぼ同時に軽い溜息を吐いた。
「ここは、まず落ち着こうぜ」
「そうだな、取り敢えず……ここから出ようか」
これ以上ここで揉めていても仕方がない、本格的に修一郎らを心配させるだけだ。
そう判断した二人は気を取り直して前へと進む。
井戸を過ぎ、顔をさらさら撫でる柳の葉を鬱陶しそうに避ける朱王、と、彼の横を歩いていた志狼が軽く袖を引っ張ってくる。
「どうした?」
「あぁ、あれなんだが……」
どこか怪訝そうな面持ちで言いながら、彼は柳の枝を軽く払って道の先を指さす。
そこは朽ち果て打ち棄てられた墓石が道の端に山となっており、その墓石の山に一人の男が凭れて座り込んでいるのがボンヤリ見えた。
「あれも人形か? 脅かし役の人間か?」
「さぁ、な……もしかすると、仕掛けかお化けに驚いて失神したか、頭でも打って動けないんじゃないか?」
遠巻きから男を眺める二人だが、彼はピクリとも動かない。
お化けでも人間でも、これは見捨てて行くわけにはいかないだろう。
おっかなびっくり……いや、慎重に男へと近寄った二人。
まず男に声を掛けたのは朱王だった。
「もし、あの……大丈夫ですか? どこか具合でも?」
男は何も答えない。
よくよく見れば、両の目はしっかりと閉じられたまま、後ろにある墓石に頭を預けた状態で軽く上を向き、その唇は半開きとなっている。
声を掛けても返事をしないばかりか目すら開けない男へ、志狼は首を捻りながらゆっくり手を伸ばした。
「おいアンタ、こんな所でいつまで寝てる着なんだ? 起きろよ、なぁ、起きろ……」
志狼の右手が男の肩にかかり、グッとその身体を手前に引いたその時、男はガクリと首を前へ倒す。 全く力が入っていない、まるで骨の無い蛸のように、男の身体がグニャリと傾きそのまま床へと倒れ込む。
思わずその場から一歩下がり、男の背中を見下ろす朱王と志狼。
やおら志狼は朱王を横に押しやって、男の首筋 辺りをまさぐり出す。
「……朱王さん、こりゃ呼んでも起きねぇよ」
男の首、丁度顎の斜め下辺りを指先で押さえた志狼の表情が、みるみるうちに固い物へと変化する。
「どうしてだ? ……おい、まさか」
「そのまさかだ。こいつ、もう死んでるぜ」
低く抑えた声色で志狼が告げる。
一見して外傷はない、血の一筋も流れていなければ首に絞められた跡もない。
ただ人形のように地面に転がり動かない男を見下ろしていた二人だったが、やがて朱王は今進んでいた方向へと顔を向けた。
「このままでいる訳にはいかないな。桐野様を呼ばなければ……志狼さん、どっちが呼びに行く?」
どちらかはここで待っていた方がいいだろう、そんな考えで志狼に尋ねると、彼は瞬時に足元に転がる死骸と朱王へ交互に目を遣り、フン、と小さく鼻を鳴らした。
「まさか、化け物だ死骸を俺が怖がってると思ってんじゃねぇよな?」
「まさか。ただ、早く海華に会いたいかなと思っただけだ。どうだ? 行くか?」
「いいや、俺はここで待ってる。朱王さんが呼んできてくれ、それと……わかってると思うが、海華は連れてこねぇでくれよ? これ以上怖ぇえ思いはさせたくねぇ」
「大丈夫だ、来いと言ってもあいつは来ないよ」
あれだけ大騒ぎしていた奴がこんな場所に後戻りしたがるか。
そう心の中で呟きながら、朱王は駆け足で出口へと向かう。
途中、破れ障子の影から飛び出した河童も、長い 舌を垂らしてゲラゲラ笑うお化け提灯も彼は完璧に無視して走り去っていった。
お化け屋敷の中に死体が転がっている、そう中から出てきた朱王に告げられた修一郎と桐野は、キョトンとした顔で目を瞬かせる。
一瞬、朱王の言っている意味がわからなかったのだろう、とにかく一度見て欲しい、と朱王は海華だけをその場に残し男二人を連れて屋敷の中へと逆戻りする。
二人がそこで見たものは、そわそわと落ち着かない様子の志狼と、彼の傍らにうつ伏せで倒れ伏す一人の男の姿、怪訝な面持ちの桐野が呼べど揺すれど男は起きず、勿論すでに脈も無い。
これは一大事だ、と色めき立った二人は、まず桐野が番屋へと走り、修一郎は外で呼び込みをしていた中年男を引っ張ってきて、骸を見せ、早急の人払いを命じた。
普段から賑やかな両国に、どこか不穏な空気が漂い始め、益田屋の者と思われる紺の法被を着た男たちが青い顔で右往左往し始める。
ざわつきが次第に大きくなる中で、道の端につくねんと立ち尽くす海華はひどく不安げな面持ちで屋敷の中から朱王らが出てくるのを待っていた。
「おかしいわねぇ……兄様達何をやってるのかしら?」
落ち着きなく親指に爪を噛み、目の前を行き交う人波の隙間から例のお化け屋敷を眺める海華は、苛立たしそうに足元の小石を軽く蹴り飛ばす。
周囲のざわめきの中から時折聞こえる『化け物に殺られた』『男の死体が……』との何とも物騒な台詞に、いよいよ海華の中の不安は胸いっぱいに膨れ上がる。
そうしているうちに黒羽織を纏った町廻りの侍らや着物を端折った岡っ引きや下っ引きらが慌しく屋敷の中に駆け込んで行くのが見えた。
朱王達は未だ戻らない、これはいよいよおかしい。
眉間に深く皺を寄せて屋敷を睨んだ海華は意を決したようにその場から離れ、人混みに紛れて屋敷へ近寄る。
正面には既に黒羽織の侍が二人立ち、何人も中へ入れぬように鋭い眼光で野次馬らへ視線を向ける。
正面を切って入るのは不可能、そう判断した海華は先ほど出てきたばかりの出口へと足早に向かっていった。
「非番の日に、とんだ災難でしたね」
仰向けに返した骸の上に蝋燭の火を翳して、高橋が小さく呟き桐野へ顔を向ける。
彼の傍で腕組みし、じっと骸を見下ろしていた桐野は困ったように眉を顰めて小さく笑った。
男が倒れていた場所には朱王らを含めて十数人の侍や益田屋の関係者が集まり、狭い通路は肩がぶつかり合うほど狭っ苦しい。
そしてここは周囲を分厚い板壁で囲まれているため、日の光は一筋も入らない。
灯りは各自が持つ蝋燭の光のみである。
「血もない、絞めた痕も殴った痕もない。これではどうやって殺めたのか、さっぱりわからぬな」
不気味な雰囲気に飲まれないように、わざと大きな声で言い放った都築は、自分の肩口から顔を覗かせるお化け提灯を慌てて片手で払い退ける。
『化け物屋敷で死骸が出た』その一報を受けてここへ駆け付けた都築と高橋は、非番のはずの桐野が、そして奉行と朱王、志狼が共にいるのを目にして思わず顔を見合わせた。
男四人で化け物屋敷か? と最初は思ったのだが、桐野からよくよく話を聞けば、共に来ていた海華は表で四人を待っているらしい。
ここは骸を早く片付け事態収拾を図らなければ、表はますます混乱してしまうだろう。
それに、取り敢えずこの骸を明るい場所に移さなければ御検視も出来ぬうえ身元も調べられぬ。
早く戸板を持ってこい! そう都築が出口に向かって叫ぼうとした時だった。
「キャッ! ぎゃ――――っっ!!」
この世の物とは思えない、空気を盛大に震わす大絶叫がその場にいた者全員の鼓膜を打ち震わせる。
がんがんと頭に響く悲鳴に顔を顰めた朱王と志狼。
『品のねぇ悲鳴だぜ』そう志狼がボソリと呟く。
と、出口の方から、脳天を巨大な斧でかち割られた……いや、かち割られたような鬘を被った落ち武者が大慌てでこちらに駆けてくる。
ざんばら髪を振り乱すその頭には、手斧が深々とめり込み、額や首筋は夥しい量の血糊でどす黒く染められていた。
「なんだ、どうした騒がしい」
うんざりした面持ちで修一郎が落ち武者に問う。
息を切らして彼の前に止まった落ち武者は、何度も頭を下げながらオロオロと視線を彷徨わせた。
「へぇ、申し訳ありやせん。その……出口ん所でお河童頭の女とぶつかりやして、へぇ、あっしがこんなナリだったもんですので、びっくりして失神しちまいやした」
へへへっ、と誤魔化すような笑いを見せる落ち武者。
彼の台詞に、修一郎は勿論朱王や志狼も表情を凍り付かせる。
「お河童頭の女って、赤い着物の……?」
「へい、そうでやす。旦那、よくわかりましたね」
「馬鹿野郎っ! そりゃ俺の女房だッッ!」
『赤い着物』と口にした朱王は、そのまま物も言わずに出口へと疾走する。
柳眉を逆立て落ち武者を怒鳴り付けた志狼も、男の骸を飛び越えて朱王の後を追い掛けていった。




