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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第二章 『二人きり』は難しき
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第一話

 蝉時雨が空気を震わす。かんかんと照り付ける太陽の光が陽炎を生み、生い茂る庭木の向こうが歪に変わる、そんな世界の真ん中で洗濯に精を出す海華と志狼の姿があった。夏場とはいえ、汲んだばかりの井戸水は、手が切れるかと思うほどに冷たく、大きな盥の中で汚れ物を洗濯板に擦り付ける海華の手は、みるみるうちに赤く変わる。


 海華が洗い清め、きつく絞られた洗濯物を片手で器用に物干し竿にかけていく志狼は、こめかみから滴る汗を拭き、井戸端に屈み込む海華へ顔を向けた。


「おい、少し休もうぜ」


「うん……でも、まだ残ってるから……」


 ふぅ、と小さく息を吐き、傍らに山と積まれた汚れ物に海華は目をやる。このところ雨が続き、今日はやっと太陽が顔を覗かせたのだ。今のうちに片付けてしまいたいのだろう、肌着を盥に放り込んだ海華の隣へ、眉を八の字にした志狼が屈み込んだ


「しばらく雨は降らねぇよ。今から飛ばしてたら、後がもたねぇぜ? 手も、少し休ませてやれ」


 『また切れちまうぞ』そう言いながら、志狼は作務衣の腰に下げていた手拭いをこちらへ差し出す。

 また切れる、それは彼女の手に走るあかぎれの事をさしている、それがすぐにわかったのか、海華は素直に頷き肌着を手放した。


「そうね……、なら、少しだけ」


「そうしろ。今、茶でも持ってくるから」


 手拭いを受け取り、汗を拭う海華へ『縁側で待ってろ』と告げて志狼は所へ向かう。この天気だ、一日あれば洗い物は乾くだろう。そんな事を考えながら二人分の麦茶と水羊羹を盆に乗せ、海華が待つ縁側へ向かう。涼やかな艶を放つ羊羹を渡すと、海華の顔に笑顔の花が咲いた。


「旦那様のお土産だ。せっかくだから、頂こうぜ」


「そうね、有難く頂きましょう」


 喜色満面に羊羹を口に含む海華の横で、志狼も湯飲みを手のひらに包む。冷えた手全体にじんわりと熱が染み込んでいくのを心地よく思いながら、早速羊羮を口に放り込めば、その柔らかな甘さに思わず頬が緩んでいくのがわかった。麦茶と羊羹をもう一口ずつ味わった志狼は、やおら湯呑を盆の上に置くとその場にゴロリと寝ころび、自身の隣に座る海華の太腿へ当たり前のように頭を乗せる。


「ちょっと志狼さん、まだ明るいのよ?」


「いいじゃねぇか、ちょっとくれぇ。今は、二人っきりなんだからよ」


 太股に頬を擦り寄せ、膝枕を堪能する志狼に苦笑いしながらも、海華は満更ではない様子で癖毛に指を通ぢてくる。忙しない家事から逃れて得られた、束の間の安らぎ。 ゆっくりと時が流れ、煌めく光が新緑の間を音もなく通り抜ける。夫婦水入らずで過ごせる一時、志狼の右手が、海華の細い指先をやんわり握り、滑らかな手の甲にそっと唇を寄せると、くすぐったそうに身を捩り笑みを堪える海華の手が、志狼の頬をゆるゆる撫でていく。


 柔らかい太股を撫でる手は次第に大胆になり、明確な意思を持って着物の合わせめから中へ滑り込み、膝頭を撫でる。直接的な刺激に、海華が息を詰めた瞬間だった。


 表から響いた『ごめんくださいませ!』との呼び掛けに、足をまさぐっていた手がピタリと止まる。露骨に不機嫌な表情を見せ、志狼は小さな舌打ちをしつつ、その身を起こした。







「……ったく、いいところを邪魔しやがって」


 不機嫌な表情を崩さないまま、湯上がりの濡れた髪を手拭いで乱暴に拭き上げる志狼の隣では、床の支度をする海華が苦笑いを浮かべている。家事を全て片付け向かえた夜、一番ホッと出来る時間帯だが、昼間の来客時から、志狼の機嫌は悪化したままだった。


「仕方無いじゃない、お隣さんだって悪気があった訳じゃないんだから」


 掛布を整え、そう口にする海華の脇へ、どかりと胡座をかきつつ『まぁな』と呟く志狼。そう、昼間の来客は隣家の奥方だったのだ。


「暇潰しに顔出されても困るんだが…… まぁ、いいか」


「そうよ。それに、これからはお客も来ないわよ?」


 桐野も自室へ下がり、後は眠りにつくだけ。


「── それもそうだな。じゃ、昼間の続きでもさせてもらうか」


 険しかった面持ちから一転、海華の言葉に頬を緩ませて、志狼は部屋の片隅に灯る行灯の炎を一息に拭き消す。 一瞬で薄い闇が君臨する室内。褥へ座る寝間着姿の海華をそっと抱き寄せて、自身の胸に彼女を収め、目元に軽く口づける。


 志狼の首に腕を廻した海華は肩に顔を乗せて静かに目を閉じた。身体ごと預けてくる彼女の腰や背中を手のひらで愛撫すれば、甘ったるい吐息が首筋に掛かる。そんな海華の唇を己が唇で塞ぎ、寝間着の紐をほどき始め刹那、何者かの気配を感じた身体が、ピクッと小さく跳ね上がる。弾かれんばかりの勢いで志狼が背後を振り向いたのと、襖が微かに揺れるのは、ほぼ同時だった。


「── 志狼すまん、その……まだ起きておるか?」


「だん、な様、っ!」


「え? やだ……!」


 突然襖の向こうに現れた桐野、目を白黒させつつ志狼の抱擁を振りほどいた海華は、寝間着の前を掻き合わせるなり布団へ身を伏せる。俯せになった海華の上へ掛け布団をひっ被せ、よたつきながら立ち上がった志狼は、目の前にある襖を力一杯跳ね開けた。


「だん……旦那様、? 何かご用で……」


「あぁ、お前に少し話しがあってな、これから修一郎がまいるのだ」


 ひどくすまなそうに顔を歪め、着流し姿の桐野が頭を掻く。主の口から出た人物の名に、志狼は男にしては大きめの目を何度か瞬かせた。


「修一郎様が、私に?」


「そうだ、お前に頼みたい事がある。海華は……もう寝ておるのか?」


「いえ、……あ、いや、はい!先に、休んでおります」


 ちらりと室内へ視線を投げる桐野へ、ぎくしゃくながら志狼はがくがく首を縦に振る。そうか、と短く答え、桐野はバツが悪そうに再び頭を掻いた。


「そう長くはかからん話しだ。茶の支度だけしてくれれば良い。── 取り込み中のところをすまぬな」


 早口でそう告げ、視線を宙へさ迷わす桐野。そんな彼の台詞に顔を真っ赤に染め上げて、志狼は乱れた浴衣の胸元を電光石火の速さで掻き合わせ、ゴニョゴニョと言葉にならない言い訳を口内で呟いていた。




修一郎が来たことを告げると、海華は自分も行くと言い出した。しかし志狼は『お相手は俺がする』と、半ば無理矢理引き留める。北町奉行である上条 修一郎は海華の異母兄であり、志狼にとっては朱王と同じ義兄にあたるのだ。いくら公に出来ない間柄とはいえ、海華は大切な妹、日頃から何かと気を掛けている。ここで海華が顔を出しては、また話しが長引くだろう事は容易に想像できる。


 こんな事を言えば桐野に叱られるだろう、しかし重要な内容だろうが、そうでなかろうが、早く話しを切り上げて海華の所へ戻りたい。今、志狼の頭の中にはそんな考えしか浮かばなかった。台所で手早く入れた茶を二人分盆に乗せ、客間へ向かう志狼の顔の側を、斑目まだらめ模様の大きな蛾が羽を震わせ飛び去って行く。多少緊張しながら客間の障子前に正座し、『失礼致します』と声を掛ければ、すぐに中から桐野の返事が返る。障子を開き、深く一礼し静かに顔を上げれば、そこにはやたらと難しい面持ちを作る桐野と修一郎の姿があった。


「いらっしゃいませ、上条様、ご無沙汰しておりました」


 片手をついて、不自由ながらも頭を下げ、そろそろと顔を上げれば、眉間に深い皺を寄せたままの修一郎がどこか無理矢理な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。


「夜分に押し掛けてすまぬな、志狼よ、海華とは仲良くやっておるか?」


「はい、お陰さまで……」


 なぜだか気まずい気持ちに襲われて、志狼は再び俯いてしまう。まさか、先ほどの事を桐野が話しているはずはないのだが、それでも気まずい事に変わりはないのだ、恐る恐るといった様子で目の前に座する桐野と修一郎に湯気の立つ湯飲みを差し出した時にわかったが、修一郎の顔色はいつもと何ら変わらず、どうやら素面のようだった。


「今日まいったのは、他でもない。志狼、お前に頼みたい事があるのだ」


「頼み、と申しますと…?」


 畳みに手を着いたまま、そろそろ頭を上げる志狼と、修一郎の視線が宙で交わる。


「── 俺の、密偵となって欲しい」


 真剣な面持ちで唇を動かす修一郎からでた台詞に、志狼は思わずその場に固まる。見開かれた目はまるで助けを求めるように桐野へと向けられた。


「みっ、密偵……と、申しますと……旦那様、これは一体どういう……」


「どうもこうもない、志狼。お前を北町奉行専属の忍として迎えたいと、お奉行はそう申しておるのだ」


 『ただし、ほんの一時だけの話だが』


 そう小さく付け加え、胸の前で腕を組む桐野は微かな溜め息と共に修一郎を横目で見遣る。気まずげに下を向き、ゴホンと一つ咳払いをする修一郎と桐野を交互に見つめるが、彼らの顔に答えが書いてあるはずもなく、結局志狼は何が何だかわからぬといった様子で小さく小首を傾げてしまった。



 『密偵』その響きが志狼の心に重くのし掛かる。


 今までは、桐野の使用人としての立場で主の仕事を手助けしていた自分。誰かに雇われ、影の手足、主の犬として任務を遂行する。忍としての本格的な依頼を受けるのは、これが初めてだ。


 将軍家直属の密偵とはいかないまでも、北町奉行直属となれば、かなりの名誉、伏して喜ぶべきなのだろう。しかし、その名誉以上に行動には危険が付きまとい、任務中に命を落としたとしても、その死は決して公になることはない。まさに影の影、空気と同じ存在となる。


「修一郎様……いえ、お奉行様、なぜ……私なのでしょう?」


 じっと修一郎を見詰め、薄い唇を動かす。その視線は、すっと自らの左腕へ向いていた。


「私は、確かに忍です。しかし下忍も下忍、 最下級の半端者に変わりはありません。ましてや……こんな不自由な身体、とても重要なお役目をこなす自信は……」


「あまり自分を卑下致すな。お前がただの半端者ならば、こんな話しを最初からするものか」


 むっつりとした表情で自分を射るように睨む修一郎の、その視線から逃れるように志狼は己が膝先を見詰める。


「片腕が動かぬとて、お前は立派につとめを果たせる、そう思ったからこそ、俺はこうしてまいったのだ。…… お前以外、真に信頼出来る者が見付からんかったのだ」


 最後にポツリとこぼれた台詞は、どこか照れ臭さが混ざったように志狼の耳に届く。 二人の会話をじっと聞いていた桐野は、フッ、と息を吐き、口角をわずかにつり上げた。


「お奉行はな、持てる限りのツテを使って密偵を探していたのだ。だが、とうとう見付からなかった。儂は最初反対したのだがなぁ ……」


「妻を娶ったばかりの志狼を危険な目に遭わせるのか、と散々な。俺だって、それはすまぬと思うておる」


 叱られた子供よろしく肩を落とし、修一郎はシュンと項垂れる。 そこにお白州で恐れられる『鬼修』の面影はどこにもない。


「妹の連れ合いは、俺にとっても大事な義弟おとうと。好き好んで危ない勤めをさせたい訳はな い」


 湯気も立たなくなった茶を一口含み、そう言い切る修一郎を前に志狼はじっと畳の一点を見詰める。


「── お勤めと申しますのは、具体的にどういったものなのでしょう?」


 引き受けるか断るか、心が揺れる。 しかし、勤めの内容だけでも聞いておかねば、このまま答えが出せないままだ。


「ああ、そうだった、中身を話さずに決めろと申すのも、酷な話だ。だが、今回は奉行所内で出てきた話し、今の時点で全てを公にするのは不味いのだ。なぁ、桐野?」


「そうだな。下手に表へ漏れれば、余計面倒なことになる。今教えられるのは、志狼、お前には奉行所に勤めるある同心の動向を探って欲しい、今は、これだけだ」


 難しい面持ちで顎の下を擦りつつ、そう口にした桐野。 奉行所に勤める同心、つまりは自分らの同僚、仲間の様子を探れとの内容に志狼は桐野と同じ表情を作り出し、きつく唇を噛み締めた。


 『少しだけ、考える時間を頂けますか?』


 呻くように呟いた志狼に修一郎と桐野は無言のままに頷く。近日中に答えを聞かせてくれ、そう言い残し、 屋敷を後にする修一郎を見送ってから、桐野と志狼はそれぞれ自室へと戻った。屋敷内の一番奥、渡り廊下で母屋と繋がった離れの襖に手を掛け、聞こえるか聞こえないかの微かな溜め息を、生温い夜気に放つ。


「……あ、お帰りなさい」


 襖を開いた途端、耳に届いた海華の声に、客間を出てからずっと固かった志狼の表情が、幾分和らいだ。 再び小さな明かりが灯された行灯、暖かなその光に浮かぶ海華は、寝間着の前を指先で整えて静かな笑みをこぼした。


「起きていたのか? 先に寝てても良かったんだぞ?」


「何だか気になっちゃって。修一郎様、お帰りになったの? また長くなっちゃうと思ったから行かなかったけれど、あたし、顔出せば良かったかしら?」


 どうやら彼女も自分と同じことを考えていたようだ。その事がなぜか嬉しくて、志狼は小さく微笑みながら首を振る。


「うん……いや、大丈夫だ。修一郎様も、気にしてはおられなかったしな。お前に宜しく伝えてくれと……」


「志狼さん、何かあったの?」


 再び寝間着に着替えようと帯に手を掛ける志狼の言葉を遮るように、海華が口を開く。 その瞬間、ピタリと志狼の動きが止まった。


「どうして、そう思う?」


「左手ね、肘の所が赤くなってるの。……志狼さん、不安な時や機嫌が悪い時に、そこをつねる癖があるのよ」


 真ん丸な目を見開いてこちらを見上げる海華の台詞に、志狼は無意識に三角布で吊られた左肘へ目を遣る。 確かに、そこは三日月形の爪の痕が刻まれ、赤く染まっていた。自分にそんな癖があるなど知るよしもない、ばつが悪そうに頬を掻けば、その場から腰を上がった海華が微笑みを浮かべつつ寝巻きを差し出した。


「手伝うわ。話は、それからゆっくり聞かせてもらうから」


 彼女の言葉に甘えて三角布を一度ほどき、着物を脱いで寝巻きを纏う。 着物と一緒に気の張りを脱ぎ捨てたように、志狼は微かな溜め息を吐きつつ布団の上へ胡座をかいた。


「お疲れ様でした。修一郎様と一体何を話してたの? ……話せないなら、それでもいいわ。あまり深くは聞かないであげる」


 悪戯っぽい笑みを見せ、上目遣いで見上げてくる海華の手を、志狼はそっと握る。 今、彼は迷っているのだ。 修一郎からの依頼を海華に話して良いのか、それとも隠し通すべきなのか……。修一郎や桐野から、口止めされた訳ではない。 しかし、あの事を話せば、海華は修一郎に対して決して良い感情は抱かないだろう。 二人の間に、溝を作るような事だけはなんとしても避けたかった。


 戸惑い、そして考え込んで唇を強く噛み締める志狼の横顔を見詰める海華は、何も言わずに三角布を緩め、動かぬ左腕に、ゆっくり手のひらを滑らせる。


「言えないなら良いのよ。だからそんなに怖い顔しないで」


 冷たくなりかけた手を揉みほぐされる心地良さに、強張っていた志狼の表情も徐々に和らいでいく。

 緩く曲がった指先に海華の細い指が触れたと同時、志狼の右手が海華の肩を抱き、静かに己の方へと引き寄せた。

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