第五話
天井の一角が爆音と供に粉々に砕け散り、真っ白な埃が部屋に充満する。
驚愕の表情を作り振り返った恋幸の顔面に、大人の拳ほどはある砕けた天井板の破片がぶち当たる。 『ぎゃぁ!』と鋭い悲鳴を張り上げ、両手で顔を覆い海華の上から転がり落ちた恋幸の指の間を、深紅の帯が流れ伝った。
剥ぎ取られた寝巻きを掻き合わせ、目の前で踞り呻く恋幸から離れようと無意識に海華はその場から腰を浮かしてもがく。
そんな彼女の肩を、もうもうと立ち込める埃の向こうから飛び出してきた人影が、力一杯掴み上げた。
「イヤ! い、やァァア……! 離して、ヤダァッ!」
「海華! 俺だ、海華ッッ!」
混乱し、泣きながらその手を振りほどこうと暴れる海華の耳に、緊迫した男の声が届く。
ピタリと止まる彼女の手、それをしっかり握り締めたのは、今一番会いたい男の顔だった。
「し、ろ……さん……」
「そうだ、俺だ。もう大丈夫だ、大丈夫だからな」
全身を瘧にかかったように激しく震わせ、志狼にしがみついた海華は声も上げられないまま彼の胸に顔を埋める。
固く抱き合う二人の背後では、額から滴る血で顔面を朱に染めた恋幸が、低く呻きながら畳の上を這いずり、部屋から逃げ出そうとしている。
ずるずると畳が擦れる音に気が付いたのか、志狼はそっと海華を押しやって、恋幸の方へ顔を向ける。
彼の双眸に、激しい怒りの焔が灯った。
「やい! ……てめぇ、ちょっと待ちやがれ!」
怒声一発、志狼の手は恋幸の襟首を鷲掴んで、逃げようとする彼をその場に引き摺り戻す。
赤に汚れた顔を恐怖に引き攣らせ、陸に上がった魚よろしく口をパクつかせる彼を見下ろした志狼のこめかみに、青筋が一本浮かび上がった。
「てめぇ、人の女房に……随分手荒な真似してくれたなぁ?」
恋幸の胸ぐらを掴み、ギリギリまで顔を近づける志狼から放たれるのは、痛いくらいの殺気だ。
『違う』だの、『許して』だのと掠れた声で懇 願する恋幸に、志狼は口角をわずかに上げただけの冷笑を投げ付けた……。
さて、その頃。
純香院の玄関先ではお登代以下、信者の女ら数人と黒羽織の侍、そして長い黒髪を汗で首元に張り付かせる男との間で激しい言い合いが勃発していた。
「奉行所の御方が、こんな夜中になんのご用です? 」
「ここは男子禁制、いくらお侍様でも中に立ち入るなど、恋幸様がお許しになりませんっ!」
柳眉を逆立て食って掛かるお登代の横では、 相撲取りのように丸々太った女が肉に埋もれた目を細め、分厚い唇から唾を飛ばす。
敵意と不信感を剥き出しにした彼女らに圧倒される男二人……桐野と朱王は、ここで引く訳にはいかぬ、とばかりに『恋幸を呼べ』『とにかく中へ入れろ』と繰り返すが、勿論承諾する女は誰一人としていない。
早くしなければ海華の身が危ない、こうなったら力ずくで中へ押し入ろう。
そんな考えが桐野の頭の中に浮かんだ、その時だった。
寺の奥から、まるで化け物とでも遭遇したかのような女の悲鳴、もはや絶叫と言っていいだろうけたたましい叫びが響き渡り、その場にいた者全ての鼓膜を直撃する。
「キャーッッ! 恋幸様ァァッ! 誰か……誰か来てぇェェッッ! だれか――ッ! 」
「逃げんじゃねぇこの野郎ッッ! よくも海華を……ぶち殺してやらぁぁッ! 」
「止めて……志狼さん止めてっ! 死んじゃう……本当に死んじゃうからぁっ!」
寺中に響く女の悲鳴の間からは、志狼の怒号と海華の悲鳴じみた叫びが飛ぶ。
それを聞いた途端、桐野と朱王はお登代らを押し退けて寺の中へと飛び込み、悲鳴の元へ向かって全速力で廊下を走る。
彼らの後ろを、同じく血相を変えたお登代らが恋幸の名前を叫びながら追い掛けてきた。
「志狼っ! 海華! どこだ? どこにいるっ!?」
切羽詰まった様子で二人を呼ぶ桐野。
彼の声に逸早く答えたのは、海華だった。
「旦那様……! こっち! こっちです、早く ――っ!」
「助けてくれぇ! 悪かった……俺が悪かッ ……ギャーッッ!」
海華の声を掻き消す悲鳴。
それと時を同じくして、必死に廊下を駆ける二人の目の前に、ぼろ布を纏った男が一人、廊下の突き当たりから這いずり出てくる。
ズタズタに引き裂かれているのは、きっと着流しだろう。
顔は勿論、手や胸までを夥しい血で染め上げた男はまさに血達磨、歯が数本折れた口から血の泡を噴き出し、地獄の亡者よろしくこちらへ這いずってくる男の背後から姿を現したのは、左腕を吊った白い布を返り血でどす黒く汚し、阿修羅の如き殺気を撒き散らす志狼と、引き裂かれた寝巻きを申し訳程度に身に纏う、あられもない姿を現した海華だった。
「海華に何吸わせたんだ? えぇ? 言ってみろッ! 何吸わせたんだッッ!?」
腹の底から沸き上がる怒りを吐き出すように怒鳴り、志狼が足元で這いずる恋幸の背中を思い切り踏みにじった瞬間、場に居合わせた女達から鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が迸る。
「止めてっ! あなた……恋幸様になんて事を!」
「やかましいッ!! ……てめぇ、お登代だなッ! 貴様が妙なモンに海華を引き込みやがったから……! 全部てめぇのせいだっ!」
お登代の姿を確かめた志狼は、恋幸を蹴り飛ばしながら彼女へに殴り掛かろうと右腕を振り上げる。 さぁ、現場は混乱の坩堝と化した。
泣き叫ぶ女の甲高い悲鳴、逃げ惑う足音は地響きとなって朱王らを襲う。
揺れる視界、飛び交う怒号に金切り声、そして鼻をつく血の臭い……、そして目の前でお登代に飛び掛かるのを、間一髪桐野に止められた志狼が目を血走らせて獣の如き彷徨を放つ。
もはや自分ではどうする事もできない事態に追いやられ、張り詰めていた気持ちの糸がプツリと切れてしまった海華が、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
「海華っ! おい……おい! しっかりしろ!」
廊下にへたり込む彼女の横を、青ざめた顔をした年増女が足音も荒く駆け抜け、脱兎の如く逃げていく。
危うく踏み付けられそうになった彼女の元へ朱王は慌てて駆け寄り、その身体を強く腕に抱き締めた。
「海華、大丈夫か? こっちを見ろ……海華!」
ボンヤリと虚ろに目を開いたままの彼女の頬を二、三度軽く叩けば、涙で汚れた顔が微かに歪む。
やっとこちらを向いた彼女は、朱王の顔をその瞳に映したと同時、乾いた唇を戦慄かせた。
「にぃ、さま……ぁ。兄様……」
「無事でよかった。すぐに来れなくてすまなかったな」
泣きながらしがみついてくる海華をもう一度強く抱き、紫色の痣が浮かぶ胸元や肩口をへ目を落とした朱王は、桐野に羽交い締めにされながらもなお、お登代や女達を口汚く罵る志狼へ睨むような眼差しを向けた。
「志狼っ! お前、いつまでそんな者相手にしてる気だ!? 」
そんな朱王の一言に、振り上げた志狼の右手がピタリと止まる。
ゆっくり下ろされる手、桐野の拘束も外され、そろそろとこちらを振り向いた彼と海華の視線が宙で混じり合う。
「しろ……さん……」
「海華……!」
朱王の腕の中から身を起こし、玉の涙を転がしながら志狼へ向かって両手を差し伸べた海華。
苦し気に顔を歪めた志狼は、その手に誘われるように廊下を蹴って一直線に彼女へと駆け寄る。
互いの身体をぶつけるように固く、深く抱き合う二人。
志狼の腕が背中に回ったその瞬間、海華は火が付いたようにワンワン泣きじゃくる。
海華を志狼へ引き渡した朱王は、そこから腰を上げて桐野の元へ向かった。
「やれやれ、どうやら一段落付いたようだ。 それにしても、都筑や高橋は遅い。一体何をやっておるのだ」
眉間に深い皺を寄せた桐野は廊下に倒れ付し、呻く恋幸と呆然とその様子を見詰める女らを腕組みしながら交互に見遣る。
そう、彼は都筑と高橋に、すぐにここへ来るよう言い付け、自分は一足先に朱王と駆け付けたのだ。
「時期にいらっしゃることでしょう。それより……あの男は、いかがいたしますか?」
汚いものを見るような眼差しを恋幸に送る朱王。
うむ、と一度頷いた桐野は、わざとだろう、足音も荒く恋幸へと歩み寄り、朱王と同じく冷淡な眼差しで彼を見下ろした。
「今更逃げる気力も無いだろうが……このままにしてはおけんな? そこにいる女共々、一 旦部屋まで運んでおくか」
『お前達にも話があるのでな』そう一言放った桐野にジロリと睨まれ、女らは口答えもできずしょんぼりと下を向くだけだ。
さっさと起きろ、とばかりに恋幸を足で小突く朱王の横では、ふらつきながら立ち上がる海華を志狼が右手一本で支え、助け起こす。
どす黒く変色した血潮で顔面や破れた着流しを飾る恋幸は、膝を戦慄かせながら何とか立ち上がり、壁に血の手形を付けつつ志狼と海華を凝視した。
ふとした途端に志狼と視線が合った恋幸は、切れて腫れ上がった唇を笑みの形に歪める。
「なんだ……? 何がおかしい!?」
「いいや……何も。ただ……あんたの女房、なかなか『イイ味』だったぜ? 」
ニヤニヤといやらしい笑みを腫れた顔面一杯に浮かばせて、恋幸は志狼の足元目掛けて血反吐を吐き出す。
その台詞が鼓膜を揺らした刹那、志狼の視界が真っ赤に染まり、たぎる怒りが血潮を沸騰させた。
「な、んだとぉッ!? てめぇッ! 言わせておけば……!」
火に油を注がれる形となった志狼は、もはや言葉も失い蒼白となった海華を脇へ押しやり恋幸に掴みかかる。
鬼のような形相の彼に胸ぐらを掴まれてもなお、恋幸はゲラゲラとさも、おかしそうに笑い狂うのだ。
「この、野郎……ぶち殺してやる……! 今すぐここで、殺してやるッ!」
「止めぬか志狼! こんな挑発に乗ってどうするのだ!」
「殺れるもんなら殺ってみな! このカタワの腰抜け……! 女房寝取られて喚き散らして、いいザマだ!」
志狼の右手を掴んで桐野の制止と恋幸の暴言が夜の中で重なり合う。
桐野の手を振り払った志狼が片手で恋幸の首をきつく絞め始めた、その時だった。
電光石火の勢いで、朱王の手が志狼の手を強く叩き付け、その痛みに顔をしかめた志狼の腕から一瞬力が抜ける。
「ッッ! 何すんだ朱王さ……」
「もういい加減にしろ。このままじゃ本当に死んじまうだろうが。まぁ……こいつが死のうが俺の知ったことではないがな。―― 殺す前に……」
その台詞が終わらないうち、朱王の拳がどす黒く痣の浮かんだ恋幸の頬に力一杯撃ち込まれる。
風を切る鋭い音、そして肉を打つ重い響きが辺りに木霊し、無様に顔を変形させた恋幸の身体は木偶人形のように軽々と宙を舞い、冷たい廊下に叩き付けられた。
「―― 殺す前に、俺にも一発殴らせろ」
恋幸の血が付いた拳を忌々しそうに一瞥し、朱王は柳眉を逆立てたまま痙攣を繰り返す恋幸の襟首を掴んで一番近い部屋へと引き摺って行く。
突然の出来事に桐野は勿論、志狼までもが声を上げられず、去り行く朱王の後ろ姿を茫然と眺めていた。
朱王の放った渾身の一撃に白目を剥き、完全に意識を飛ばした恋幸を部屋に放り込むのと、都筑や高橋が他の同心らを従えて寺に雪崩れ込んでくるのとはほぼ同時だった。
嘆き悲しみ涙にくれる女らと気絶したままの恋幸を彼らに任せて、朱王達は海華を連れて足早にそこを後にする。
一先ず海華を屋敷へ運び、小石川から医者を呼んで怪我の具合を診てもらったが、幸いなことに痣以外、大きな怪我はなかった。
恋幸以下、お登代や信者の女らは一人残らず奉行所へ引き立てられ、その日のうちに寺は寺社奉行の手によって固く門が閉ざされ、もう二度とそれが開くことはないだろう、と専らの噂となった……。
「おい桐野、志狼と海華はどうだ? 少しは落ち着いたか?」
猪口を傾けつつ、胡座をかいた修一郎が桐野に問う。
夜の帳に包まれた修一郎の邸宅には、今宵桐野と朱王の二人が呼ばれ、共に酒を酌み交わしていた。
海華が寺から助け出されて二日が経った。
今しばらく、静かに休ませておく方がいいだろう、そんな修一郎の考えもあり、今日ここに志狼と海華は呼ばれていない。
「うむ、海華は……もう大丈夫だろう。志狼もついておるからな」
「そうか、それはよかった。なぁ、朱王」
軽く微笑み、徳利を差し出してくる修一郎。
その酌をありがたく受ける朱王の表情も穏やかなものだ。
「はい、本当に。桐野様には、この度も色々とお世話になりました」
「なに、世話になったのはこちらの方だ。海華がいなければ、もっとたくさんの女達が恋幸の毒牙に掛かっていただろう。その恋幸だが……牢屋暮らしがよほど堪えたのか、それとも都筑の尋問がそれなり厳しかったのかはわからぬが……」
『全てを話したぞ』そう口にするなり猪口に満たした酒を桐野は一息に飲み下す。
「やはり、阿片だったか?」
「なんだ、先に言ってしまっては面白くなかろう。―― お主の言う通り、阿片だった。しかもとびきり上質のな。数度吸えば、立派な中毒者だ。アレ無しでは生きていけんようになる」
「長崎商人が出入りしていると聞いて、もしやと思っていたのだが……。なら、件の干からびて死んだ娘らも?」
「ああ。阿片の吸いすぎで衰弱死だな。恋幸め、引き取りに来た家族に、『娘は前世の業のせいで死んだ』と言ったらしい。娘は酷い有り様だし、仏罰が当たったと言われれば、家族も世間体を気にして御上には届けられん」
『どこまでも悪知恵の働く奴だ』そう吐き捨てて修一郎に酌をした桐野の横で、朱王は二人の話に黙って耳を傾ける。
その端正な顔立ちと穏やかな物腰で女達に慈愛の微笑みを送っていた恋幸、そんな彼は、実は上方から流れてきた破落戸であり、重度の阿片中毒者だった。
女達の恋心と阿片を巧みに使って金を引き出させ、若い娘らを仲間と共に毒牙にかける。
骨の髄まで阿片漬けとなった女は、もはや恋幸の奴隷同然、阿片欲しさに何でも言う事を聞いたのだ。
そう、お登代やお牧のように……。
女をたぶらかし、阿片で破滅させて金を奪い、恋幸と取り巻き達は江戸までやってきた。
「……海華に怪しいと思われたのが、運の尽きだったのでしょう」
無意識に朱王の唇からこぼれた台詞に、修一郎は元より桐野も首を縦に振る。
しかし、朱王には一つだけ心配な事があった。
「桐野様、海華の事なのですが……」
「あぁ、やはりお前も気になっていたか。いや……当然だろうな」
何が言いたいのかはわかっている、そう言いたげに顎の下を擦り何度か頷く桐野は、一度修一郎と視線を合わせ、軽く口角を上げる。
そう、海華も恋幸の部屋で二度、阿片を吸わされているのだ。
もしや、もう中毒になっているのではないか、身体のどこかに異変が出てくるのではないか。
彼女の身が、今の朱王にとって一番気がかりだ。
「清蘭殿に診てもらった限りで身体に異常はない。この二日も、穏やかに過ごしている。それに……志狼もついているからな。阿片の事なんざ、すぐに綺麗サッパリ忘れるだろう。後は……志狼に任せておけばよい」
そう言って自分達へ交互に視線を向けてくる桐野に、朱王はいささか戸惑いながらも頷き、修一郎はヒョイと肩をそびやかし、口を閉じてしまう。
刹那に訪れた静寂。
口数も少なく酒を酌み交わす三人の影が部屋の壁に大きく映し出され、それは蝋燭の揺らぎに合わせてフラフラと震え続けた。
ユラユラ揺蕩たう意識、ゆっくり瞼を開いた途端、薄暗い影を纏う天井が視界の中で朧気に霞む。
気怠い熱を孕んだままの身体を小さく動かせば、頭の下に差し込まれた逞しい腕がピクリと痙攣を起こした。
「―― 起きたのか?」
自分の横から聞こえたひどく眠たげな声色。
夢現をさ迷っていた海華の意識が瞬時に覚醒していく。
「うん……。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや……いいんだ」
大きな欠伸を一つだけ放ち、腕枕をしていた海華を軽く引き寄せた志狼は、そのまま彼女の髪に顔を埋める。
耳元に感じる穏やかな息遣いに、海華はくすぐったそうに身を捩った。
「ん……動くなよ」
「だって、くすぐったいんだもの。それに、もうすぐ旦那様がお戻りに……」
「心配するな。今夜は遅いとおっしゃっていた。きっと、明け方になるだろう、とさ。だから、まだこうしていられる……」
ギュゥ、と一度強く彼女を抱き締めた志狼。
その暖かな拘束をやんわり解いた海華は、寝乱れた寝巻きを直しながら布団の上に身を起こす。
「―― 志狼さん、一つだけ、聴いて欲しい事があるの」
こちらに背中を向けてしまった海華を見上げて、志狼は右手の甲を額に置き、数度目を瞬かせる。
「なんだ、話してみろよ」
「うん、あのね……。あいつが言った事…… 恋幸が言った事ね、みんな嘘だから……あたし、本当にあいつとは、何もないから。それだけは……」
恋幸に無理矢理とはいえ身体は許していない、それだけは信じて欲しかった。
「―― お前、馬鹿だ」
抑揚のない声が背中から聞こえ、海華は怯えるように寝巻きの肩口をきつく掴む。
背中越しに感じる志狼が身を起こす気配。
その途端、背後から包み込まれるように抱き締められて、海華は驚きと戸惑いに大きく目を見開いた。
「志狼、さ……」
「そんな事心配してたなんて、お前は本当に馬鹿だ。俺が、お前を信じてないとでも思ってたのかよ? あの野郎には何もされてねぇ。それは……今しがた、しっかり確認させてもらった」
首筋に唇を押し当て、そう呟く志狼に海華は顔から耳までを赤く染めて小さく頷く。
そんな彼女を自分の方へと向かせて、正面から改めて抱き締めれば、細い腕がしっかり背中に回された。
「恐い目に遭わせて、すまなかった。もう少し早く助けてやれれば……」
「いいの。絶対来てくれるって、信じてたから」
志狼は約束を違わず助けに来てくれた。
そしてまた、こうして枕を並べて同じ時を過ごす事ができるのだ。
共にいる事がどれだけ幸せなのかを、海華は、そして志狼も改めて思い知らされた。
「あ……ねぇ、志狼さん。お登代さんと、お牧さんは、あれからどうなったの?」
丸い目をクルクル動かして自分を見上げてくる海華に、志狼はひどく不機嫌そうな面持ちで前髪を掻き上げ、布団の上に胡座をかく。
「どっちも牢屋にぶち込まれた。あいつら、薬欲しさに恋幸と結託して女を集めていやがったんだ」
「そう、なの……。そう言えば、あたし一度お牧さんに聞いた事があったの。どうしてあんなにたくさんお香を焚くの、って。お牧さんね、幸せになる薬は臭いがきついから、他の人にバレると困るからって。―― 二人とも、あれが阿片だってわかってたのね……」
「多分な。幸せの秘薬とはよく言ったもんだ。吸った奴は軒並み痩せ衰えて幽霊みてぇになっちまうのによ。涎垂らしてヘラヘラ笑って……ありゃぁ完璧な狂人だ」
肩まで伸びた髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜ、志狼は忌々しそうに吐き捨てる。
「確かに、嫌なことは忘れられただろうよ。だが、それも一瞬だ。薬が切れれば地獄が待ってる。嫌なことから逃げた者の末路が、阿片中毒だ。まぁ、自業自得だろうな」
自業自得、どこか冷たい台詞だが、志狼にはどうしても彼女らを、特にお登代を許せない理由があった。
高橋から聞かされたのだが、どうやらお登代は最初から海華に目を付けていたらしい。
自分より年増のくせに、よい亭主の元へ嫁いで、なに不自由なく幸せに暮らしている彼女が憎かった。
自分は嫁ぎ先から叩き出されて肩身の狭い思いをしているのに……一人だけ幸せな彼女が許せない、今の生活を滅茶苦茶にしてやる……。
完全な逆恨みだが、お登代は海華を道連れにできなかった事が一番悔しいと喚き散らしていると言うのだ。
もちろん、海華には話せる筈もなく、高橋にも内密にしてくれるよう志狼が頭を下げた。
「あんな奴等の事なんざ、さっさと忘れろ。 もう名前も聞きたくねぇ。それより、せっかく旦那様からお暇を頂いたんだ。時は有効に使わなきゃぁな」
「そう、ね……。せっかくのご厚意を、無駄にしちゃ申し訳ないわ」
ニッ、と唇をつり上げつつ海華を布団へ押し倒し、志狼は再び柔らかな身体に沈み込む。
与えられる熱にうっとり目を閉じ受け入れる海華。
一つになった二人の影は、行灯の炎に黒い影となり壁に映る。
極限の状態から海華を救ってくれたのは、神でも仏でも、ましてや怪しげな薬でもなく、心の底から信頼し、そして深愛する『家族』だった。
終




