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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十一章 淫艶仏の微笑
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第四話

 全てのものが穏やかな眠りについた真夜中、漆闇に塗り潰された寺の裏手に厠の陰に蠢く一つの人影がある。

天高く上った下弦の月が眠たげな光で影を照らし、その白い月光は癖のある髪の毛をやんわりと輝かせた。


 「どうしたんだ、あいつ……。今日はやたらと遅いな」


 吊った左腕を手持ちぶさたに撫でながら、渡り廊下の方を眺めた影……志狼がポソリと呟く。

今夜もいつもと同じ時間、ここで海華と待ち合わせたのだが、いつもなら少し早めにここを訪れ、自分を待っていてくれる彼女の姿が、今宵は見えないのだ。

時間を間違えているはずはない、何か急な用事でもできたのだろうか?

そんな事をつらつら考えながら足元に生える青草を足先で弄ぶ志狼。

そんな彼の目が、渡り廊下の遥か向こうで静かに揺れる蝋燭の灯りを捉える。

反射的に厠の陰へ身を隠し、じっと彼方を見詰めて息を殺す彼の前に、浴衣に身を包んだ海華が現れた。


 「海華! おい、海華ッ」


 「―― 志狼さん……」


 彼の呼び声に気付き、顔を上げた海華は小走りにこちらへ駆け寄ってくる。


 「遅くなってごめんなさい」


 「いや、いいんだ。―― お前、何かあったか?」


 忙しなくさ迷う視線、そしてオドオドと怯えるように背けられる顔……いつもとどこか違う彼女の様子にいち早く気付き、そう尋ねる志狼へ海華はしどろもどろに言葉を濁す。


 「それが……わからない、の。恋幸様の部屋に入ったら、頭が変になって……あの匂いが……」


 必死に何かを思い出そうとするように、頭を抱えて唇を動かす海華。

彼女の肩をきつく掴み、無理矢理自分の方を向かせた。


 「落ち着けよ、ゆっくりでいいから、ちゃんと話してみろ。恋幸がどうしたんだ? お前、あいつの部屋に行ったのか?」


 あの坊主の部屋に何をしに行ったのか? 志狼の言葉にわずかな棘が混ざり込む。

海華の肩が、ビクリと跳ねた。


 「ごめん、なさい……あたし、断れなくて……。毎晩、一人ずつ呼ばれるの。一昨日はと今日はお牧さん、明日は、誰が呼ばれるのかしら……」


 自分と同じ部屋にいる彼女たちも、一人ずつ、ほぼ毎晩恋幸の部屋に呼ばれるのだ。

そして二人共、夜更け近くに恍惚の表情を浮かべて部屋に戻ってくるのだ。

あの、鼻につく甘ったるい匂いを纏わり付かせて。


 「二人共、おかしいの。訳のわからない事を言って、ヘラヘラ笑ってるわ。そうかと思えば一日中寝付いたり、泣いたりしてるの。きっと、恋幸様に『幸せになれる秘薬』を吸わされてるのよ……」


 小刻みに身体を震わせて言葉を紡ぐ海華は、怯える子供のように志狼にしがみつく。

自分も一度、あの薬を吸わされた。

あの日の夜、恋幸に差し出された煙管。

その中身を彼女は吸ってしまったのだ。

断ればいつまで経っても部屋から帰してもらえないだろう、そんな予測はついていたのだ。

 

 苦い白煙が肺の中に入り込んだ刹那、頭の中が白く弾けて全身の力が抜けていく。

まるで雲の中を歩いているような、世界が豆腐のように柔らかくなってしまったような……なんとも心許なく、そしてフワフワと心地よい感覚に包まれた。

そして、気が付いた時には、自室の、布団の中で眠っていたのだ。


 自分がどうやって帰ったのかも覚えていない、何をされたかもわからない。

ひどく取り乱す海華を安心させるように緩く抱き締めて、お登代は耳許で囁く。

大丈夫、これからもっと良い思いができる。

極楽が見られる、と。


 もう一度あの薬を吸ってしまったら、自分はどうなってしまうのか。

恋幸の顔を見るのも怖い、しかし、また呼ばれたらあの部屋に行かなければならないだろう。

次第につのる不安と恐怖、だが、この寺でこんな事を相談できる相手がいるはずはない。

そして今、志狼と言葉を交わした途端、今まで押さえていた気持ちが堰を切ったようにあふれ出したのだ。


 今にも泣き出しそうに顔を歪める海華を胸に抱き寄せて、じっとその目を見詰めた志狼。

背後から射す月光に目を細める海華の頭を一、 二度ポンポンと撫でた彼は、静かに彼女から身を離した。


 「大丈夫だ、これからは毎晩、俺が天井裏で見張ってやるから。何かあれば、すぐ助けてやる。―― そうだ、今から恋幸の部屋を覗きに行ってるぜ。場所は……この奥か?」


 渡り廊下の向こうを見る志狼に、海華は小さく頷く。


 「そう、ここを行って右に曲がるの。一本奥の部屋よ」


 「わかった。あの坊主、絶対なにか隠してやがるな。 ―― もし、おかしな事されそうになったら、形振り構わず逃げろ、いいな?」


 「うん、わかったわ」


 「お前さえ無事なら、俺はそれでいいんだ。 あと少しで一緒に家へ帰れるからな。 ―― ほら、そんな顔してると怪しまれるぜ?」


 にや、と口角を上げた志狼は、未だ不安そうな面持ちの海華の頬を軽くつつく。

くすぐったいその感覚に、自然と海華の頬も緩んだ。


 「そうね、普通通りにしてなくちゃ……。あと少しなら、あたし頑張るわ。ここで逃げ帰ってちゃ、何しにここへ来たのかわからないもの。―― それじゃぁ、あたし行くね。志狼さんも気を付けて」


 名残惜しそうに彼の手を一度握り、海華は踵を返す。

何度かこちらを振り返りつつ、部屋へ戻っていく彼女を見送ってから、志狼は恋幸の部屋を目指して寺へ忍び込み、最奥にある部屋へと向かった……。






 『早く海華を連れ戻して下さいッ!』


 悲鳴にも似た叫びが、燦々と朝の光が射し込む中庭に響く。

爽やかな朝には似合わぬその叫びに驚いたのか、池の縁で餌を啄んでいた雀の群れが、小さな羽を羽ばたかせて一斉に飛び立った。


 ここは北町奉行所、修一郎のいる奥の間に桐野と志狼、そして朱王の姿があった。


 「お願いします修一郎様、このままじゃ、あいつ何をされるかわからねぇ。今からでもいい、早くあの寺から連れ出して下さい! 」


 畳みに手をつき必死の形相で修一郎に訴える志狼、その両隣に座る桐野と朱王、そして彼らの前に座する修一郎も、皆一様に眉間に深いシワを寄せ、じっと緘黙かんもくしたままだ。

昨夜、海華と別れた後に恋幸の部屋の屋根裏に忍び込んだ志狼は、天井板の節を指で押し退け、下を覗いた。

親指の先ほどの大きさにくり貫かれた世界、そこにあったのは、口にするのも憚られる男女の狂態だった。


 脱ぎ捨てられた着物に襦袢、汗ばみ絡まる二人分の四肢……。

天井まで届く、胸が悪くなるような甘い香りの中で行われる淫らな行為は、ここが神聖な寺だということをきれいさっぱり忘れさせてくれる。


 さしずめ、遊郭か場末の売春宿だ。

耳障りな嬌声と気持ちの悪い男の息遣いを堪えつつ、節穴から顔を離した志狼は埃だらけの屋根裏を足音を忍ばせて移動し、梁一本隔てた所にある節穴へと移動する。

身を屈め、静かにそれを覗いた志狼の目は、白い寝巻きを身に纏った数人の女……いや、少女達の姿と、監視するように鋭い眼差しを彼女らに注ぐ三人の屈強な男達の姿を映し出す。


 もうもうと立ち込める煙の中で、まだ年端もいかぬ少女らは、不馴れな手つきで煙管をふかしているのだ。

鼻をつく、物が焦げる苦さと香の甘い匂い。

深呼吸をするように胸一杯に煙を吸い込んだ一人の少女が激しく噎せ込みながら煙管を取り落とす。

その様を見てゲラゲラ笑う男達、彼らの前では、唇の端から涎を垂らすもう一人の少女が、呆けた微笑みを浮かべて煙管の吸い口を舐めていた。


 目の前に広がる異様な光景に言葉を失った志狼は、来た時と同じく忍び足で屋根裏から脱出し一目散に桐野が待つ屋敷へと駆け戻ったのだ。

そして朝一番で朱王を奉行所まで呼び出し、修一郎の前で昨夜自分が目撃した事全てを話したのである。

ここまで話せば、修一郎はすぐに海華をあの寺から連れ戻してくれる。

そう確信してここへ来たのだが、いったいどうしたことだろう、修一郎も桐野も、果ては朱王までもが難しい表情を崩さず、無言を貫いたままなのである。


 「修一郎様、旦那様……朱王さんッ! 早く……、いや、これからすぐにでも海華の所に行かねぇと! 」


 「わかった、わかったから落ち着け」


 ガリガリと頭の後ろを掻きながら、修一郎は片手を上げて志狼を留める。

興奮に息も荒い志狼はその場から立ち上がりたいのをぐっと堪え、膝の上に揃えた両手を強く握り締めた。


 「誰も海華を見殺しにするなど言うておらぬ。―― そんな事、絶対にさせるものか。ただな、物には順序があるのだ」


 脇息きょうそくに肘を置き頬杖をつく修一郎は苦虫を噛み潰したような面持ちで志狼を見る。


 「順序……!? お言葉ですが修一郎様、今は、そんな悠長な事を……」


 「だから最後まで話を聞け。よいか、今すぐあの寺に乗り込んだ所で、坊主が怪しげな薬を吸わせていた、との証拠は上がらぬだろう。 信者共は坊主……恋幸か? そ奴に心酔しておると聞いておる。そう簡単に口は割らぬぞ?」


 「そうだ。それに、その薬を吸っているのは夜だ。昼間はどこか……恋幸しかわからぬ場所に隠しておるのだろう。寺の敷地一帯を草の根分けて探すとなれば、それなりの証拠がいるのだ」


 修一郎と桐野、二人にそう告げられて、志狼は強く唇を噛んだまま己の膝先をじっと見詰める。

そんな彼をチラと横目で見ながら、朱王は小さく息を吐いた。


 「―― 確かに修一郎様や桐野様のおっしゃる通りです、しかし……私としても、早く危険な状態から海華を救い出したい。気持ちは志狼さんと同じです。それで……このような案はどうでしょう。海華に、恋幸の隙をついて秘薬を少量持ち出させる、それを志狼さんが受け取ってから、改めて寺へ乗り込む……」


 『そうすれば証拠も手に入れられる』そう口にした朱王に、その場にいた全員の視線が彼に注がれる。


 「朱王さん、あんた……海華に、そんな危なねぇことさせる気か?」


 「あいつがやらなきゃ、誰がやるんだ? 怖い思いをして……何も掴めませんでした、じゃ、あいつが一番可哀想だ」


 本当ならば、朱王だっていますぐにでも海華を迎えに行きたい。

だが、事が中途半端に終わる、彼女がそれを一番嫌うのを一番知っているのも、また、朱王なのだ。

いささか不機嫌そうな面持ちの朱王と、彼を睨む志狼。

一気に険悪な雰囲気と変わる室内、重苦しいその空気を変えようと思ったのか、桐野はゴホンと一度咳払いをし、朱王と志狼を交互に見遣った。


 「まぁ、朱王の言うことにも志狼の言うことにも一理ある。しかし、急いては事を仕損じるとも言うからな。―― それにあの寺には、長崎商人も出入りしているとの噂も聞く、あの恋幸とか言う坊主は胡散臭いからな、裏で何をしているかわからぬ」


 「そうだ、寺社奉行の手前もある、前にも申したが、こちらから勝手に乗り込む訳には行かぬのだ。段取り付けは俺達に任せて、朱王、志狼、海華を頼んだぞ」


 脇息きょうそくから身を起こし、修一郎の力強い眼差しが二人に注がれる。

そしてその日の夜、志狼は再び海華に会うべく純香院へと向かったのだ。






 湯屋から戻り、洗い髪を手拭いで拭きながら、海華は西の空を見上げる。

完全に日が暮れてしまうまで、まだ時はある。

早く、あのギラつく夕日が地平線の彼方へ沈んでしまわないだろうか、今、海華の中にある思いはそれだけだ。


 真夜中になれば、また志狼に会える。

それだけが、心の支えだ。

夜が来るのが待ち遠しい、こんな気持ちになるのはいつ以来だろう。

巣に帰るだろう烏の群れを眺め、微かな溜め息をついた海華は立ち尽くしていた渡り廊下から、自分の部屋に戻ろうと踵を返す。


 クルリと背後を振り向いた瞬間、自分の前に立つ男の姿に、海華は小さな叫びを放ち、持っていた手拭いを取り落とした。


 「れん……こう、様…」


 「おや、ずいぶん驚かせてしまいましたね、 申し訳ありません」


 花の唇を綻ばせ、恋幸はペコリと頭を下げる。

慌てて頭を下げ返した海華は、恐る恐る顔を上げ恋幸を見た。


 「いえ、こちらこそ……。あの、私に何か?」


 「えぇ、特に急ぎではないのですが……今夜、先日と同じ刻に私の部屋へ来てください」


 菩薩の如く微笑む恋幸の口から放たれたのは、海華にとって絶望的な台詞だった。


 「こん、や、これから……ですか?」


 「はい、そうです。お牧さんが体調を崩したようで、今、お登代さんが様子を見ているのです。ですから……今夜は、人が足りないのですよ」


 『必ず部屋に来てください』そう一言言い残した恋幸は、海華の答えも聞かずにその場を去っていく。 一人残された海華の顔が、みるみうちに青ざ めていった。

お牧の代わりに自分が選ばれたのは間違いない。

お登代に話してあるという事は、拒んでもまた、無理矢理彼女に追い立てられるだろう。


 志狼に会い、助けを求める時間はない。

これからどうすればよいか、海華は混乱する頭の中で必死に考えた。

どうにかして外と、志狼と連絡を取る方法はないものか……。

緊張と焦りに早鐘を打ち鳴らす心臓をなんとかなだめ、ふと足元に視線を落とした海華、彼女の視界にあったのは、先ほど手から落とした一枚の手拭いだった。


 星屑も姿を潜めた暗闇に浮かぶ、巨大な寺門の影。

人気も途絶えたその前に、息を潜める数人の男の姿があった。

生温い夜風にはためく漆黒の羽織と、同じ色をした長い髪が夜に溶ける。

鋭い眼差しを寺門、いや、その向こうにある寺へと向けていた一つの影が、足音を忍ばせてその場から離れ、寺門の中へと消えていく。

それを追うように、長髪をたなびかせた細身の影も寺の中へ吸い込まれていった。


 「―― 来るのは俺一人でよかったんだぜ? なんなら、旦那様と待ってても……」


 「悪いが、俺だって海華の事が心配なんだ」


 声を圧し殺して言葉を交わす影、志狼と朱王は障子や襖の間から漏れる女達の談笑や笑い声を耳にしながら、厠のある裏手へと走る。

志狼と海華がいつも落ち合う場所、厠裏は闇がこごり、シンと静まり返って人の姿はどこにもなかった。


 「……今日もまた遅れてるのか 」


 厠の影に身を隠した二人は、海華が来るのを息を潜めて待つ。

しかし、いくら待っても他の女が一人、厠を使いに来ただけで、海華は姿を現さない。


 「おい、本当にここで間違いないのか?」


 「間違いねぇよ。いつもここであいつと会ってたんだ。―― ちょっと様子見てくるか」


 そろりと、猫のように静かに厠の陰から出た志狼は、磨き上げられた渡り廊下へと上がり、厠の外から中を入念に調べていく。

刻々と流れていく時間。

やがて、痺れを切らしたのか、朱王も渡り廊下の下や辺りの草むらを捜索し始めた。


 「―― おい、おい志狼! これ……」


 渡り廊下の下、つまり縁の下に顔を突っ込 んでいた朱王が突然くぐもった叫びを上げる。

黒髪のあちこちに白い埃をまとわらせ、体を屈めてそこから出てきた彼の右手には、煤けた布切れが握られていた。


 「朱王さん、そりゃなんだ?」


 「わからん……あぁ、これは手拭いだ。なぜこんな物が床下に?」


 微かに湿ったそれは、まだ新しい手拭いだ。

不自然な場所に結び付けられていたそれを覗き込む二人。

ふと、朱王は半分ほどに畳まれていたそれを開くと、中には一枚の和紙が挟められている。

そこには、掠れ薄くなった墨文字で、『たすけて』と殴り書きされていた。


 形が整わない、斜めに歪んだその文字は、よほど慌てて書かれたのか、それとも誰かの目を盗み書かれたものか……。

夜の闇の中でようやく読み取れるほどに乱れた文字を書いた人物が誰か、朱王と志狼、二人の脳裏には同じ女の顔が浮かんでいた。


 「朱王さん! これは……!」


 「間違いない、海華だ。あいつ……今、どこにいるんだ?」


 手拭いを握り締め、緊迫した面持ちで二人は互いに顔を見合わせる。


 「きっと恋幸の部屋だ……。あの糞坊主がッ! 」


 ギリギリ眦をつり上げた志狼は、勢いよくその場から立ち上がり、朱王へと背中を向ける。


 「おい! お前、待て……」


 「朱王さん、俺は屋根裏から恋幸の部屋に行く。朱王さんは、すぐに旦那様を呼んできてくれ」


 声を低く抑えた志狼の台詞に、朱王は素直に頷く。

天井裏を行くのは背丈のある自分には骨が折れる、ここは慣れた彼に任せるに限るだろう。

『気を付けてな』そう互いに言葉を交わして、朱王は今来た道を逆戻りし、志狼は天井裏へと消えていった……。





 薄絹のようにたなびく白煙が満ちる部屋。

ここを訪れたばかりの海華は、頭が痛くなるほどの甘い匂いと気だるい空気の中で差し出された煙管を凝視して、緩く首を横に振った。


 「おや、どうしました?」


 先日と同じ着流し姿で煙管を持つ恋幸は、海華の拒絶に驚いたように目を見開き、彼女を見る。

膝の上に揃えた手を強く握り、海華は顔をうつ向かせたままもう一度顔を振った。


 「こんな物、もういらない。これを吸うと……頭が変になるんです。ボーッとして、何も考えられなくなって……自分が自分じゃ無いみたい」


 「でも、嫌なことは忘れられるでしょう? 家族の事も、世間の事も、何もかも」


 そう言いながら煙の揺蕩う煙管を無理矢理握らされた瞬間、海華は力一杯その手を振り払う。

ガチャ! と鋭い悲鳴を上げて、煙管は恋幸の手から吹き飛び壁にぶち当たった。


 「何をするんだ!」


温厚を絵に書いたような恋幸の顔が怒りで歪み、骨が折れんばかりの力で手首を鷲掴まれる。

爆発しそうな恐怖に身体を硬直させ、悲鳴すら上げられない海華を畳へ引き摺り倒して、恋幸は足音も荒くその場から立ち上がった。


 「これがいくらすると思ってるんだッ!」


 「知らない、わよっ! ちょ……離して…… 離してッ! 痛い……ッ!!」


 手首を掴まれたまま、渾身の力で海華を引き摺りながら、恋幸は隣室へと続く襖を叩き開け、部屋の中へ彼女を突き飛ばす。

胸から畳に激しく叩き付けられ痛みと苦しさに小さく呻いて顔を歪めた海華、彼女の前に仁王立ちとなった恋幸は、その端整な顔に怒りを張り付けたまま、口角だけをニヤリと上げた。


 「手間ぁかけさせやがって……。四の五の言わずにコレ吸って、阿呆になってりゃ楽だったのによぉ」


 今までの恋幸からは考えられない、そして僧侶とは思えぬ乱暴で下衆な言葉遣いで凶悪な笑みを浮かべて一歩、また一歩とこちらへ歩み寄る。

無様に、ただ後退りするしかない海華は、思い切り恋幸を睨み据え唇を開いた。


 「なにが……幸せになる秘薬よ! こんな、訳のわからない物吸わせて……っ!」


 「嘘は言ってねぇさ。 お登代やお牧はな、コレを吸う度に『幸せ』だと言ってたぜ? もっと吸わせて、なんでもやるから、ってな。 俺に自分から股開いたよ」


 ニヤニヤいやらしい笑みを作る恋幸は、形の良い唇を一度舐めて着流しの袖を捲り上げる。

薄い寝巻きに包まれた身体を舐めるように移動していく視線。

それを感じた刹那、海華の背中に冷たいものが流れた。


 「薬を断ったのはお前ぇだ。酷ぇ目に遇っても、文句言えねぇぜ?」


 その台詞が終わらないうち、恋幸は獲物に飛び掛かる獣よろしく海華へと襲い掛かる。

悲鳴すら上げる暇もなく、顔を畳へ押し付けられた海華の胸元に、汗ばんだ手のひらが突っ込まれた。


 「や……だぁっ! やめ! 止めてぇ、ぇぇっ!」


 「おとなしく、しろ、ッ! どうせ……てめぇも亭主に放っておかれたクチなんだろ? ここに来る女供は、みんなそうなんだよ、!」


 肩口を握り潰さんばかりの力で掴まれて、白い肌に紫色をした指の痕が刻まれる。

暴れれば暴れるほどに寝巻きは乱れ、他者に見せてはいけない場所までが露となっていく。

やがて、ばたつく下肢の間に恋幸の腰が割り込まれた。


 「止めて……お願い、だから、ぁ……!」


 露となった片側の乳房に爪を立てられ、痛みと羞恥にまみれた悲痛な叫びが迸る。

異常な興奮に両の目をギラつかせ、顔を紅潮させる恋幸が、そんな哀願など聞くはずもなく、無理に開かれた太股の内側をベタついた手が擦るように撫でていく。


 「イヤだの止めてだの、最初はみんなそう言うぜ? でもな、すぐにイイ声上げて腰振るのさ。てめぇら女は元が淫乱なんだ。おとなしくしてたら、少しはイイ思いさせてやるぜ?」


 「イヤァァッ! いや! 助けて……志狼さん助けてェェッ!」


 死に物狂いで志狼の名を呼び、狂ったように手足をバタつかせてみるが、男一人にのし掛かられている状態では、たいした抵抗にならない。

全身を襲う気持ち悪い手の感触と志狼への罪悪感、そして犯される恐怖と羞恥がない交ぜになり、それは涙の玉と化して目尻からこぼれ落ちる。


 『離して!』そう一言叫んで思い切り振った海華の手のひらが、恋幸のこめかみ辺りを直撃する。

パン! と乾いた破裂音と同時に、狂乱に満ちた室内に雷鳴にも似た轟音が響き渡り、涙に歪む海華の視界が、白一色に染まっていった。

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