第五話
騒乱の夜から三日余りが過ぎた。
肩を切り付けられ、小石川に担ぎ込まれた後藤だったが、傷は思っていたより浅く、大事には至らぬと翌日には療養所から出る事ができた。
孝俊を襲った侍……菅山の手先達も桐野や駆け付けた都筑らによってあっと言う間にお縄にされ、牢屋にぶち込まれた。
これで孝俊の命を狙う者は江戸から消えたわけだが、肝心の『記憶』が戻った訳ではないのも確かだ。
さて、これからどうするべきか。
後藤や山崎は勿論だが、修一郎や桐野、そして朱王も頭を抱えたくなる状況である。
当の孝俊も、自分の事で皆を煩わせて申し訳無いと口にする。
しかし、記憶が戻らぬのは彼に責任がある訳ではない。
出羽に戻れぬ今は、ただの浪人のふりをして朱王の元で生活してもらうしかないのだ。
この日も、孝俊は朝から寺へと向かい長屋には、早々と仕事に取り掛かる朱王の姿しかなかった。
昨日完成した両腕と両足に胡粉を塗る支度を始めようと、朱王が腰を上げた時だった。
「朱王、朱王はいるか?」
戸口の向こうから響くくぐもった声に、朱王の動きがピタと止まる。
それは間違いなく桐野の声だ。
『はい、どうぞ』そう短く答えて戸口が開くのを待つ。
カラカラと小気味良い音を立てて開いた戸口、そこには桐野ともう一人、薄鼠色の羽織を纏った若い侍が遠慮がちに立っていた。
「これは桐野様、それに……山崎様も」
「急に来てしまってすまない。上がらせてもらうぞ」
「どうぞ。こんなに散らかっておりますが」
部屋の片隅から座布団を二枚引っ張り出す朱王は、どこか恥ずかしげに微笑み二人を中へ招き入れる。 作業机の上に無造作に転がる人形の足や腕に一瞬驚いたように目を見開いた山崎だったが、すぐに朱王へ小さく会釈し継ぎはぎだけらけの座布団へ座った。
「先日の件で、山崎様がどうしてもお前に礼を、とおっしゃられるのでな。こうしてお連れしたのだ」
「この度は、若様や後藤殿の命を救って頂き、本当になんと礼を言ってよいか……」
畳に額を擦り付けんばかりに深々と頭を下げる山崎を前に、朱王は慌てて腰を浮かす。
「山崎様、どうぞ頭をお上げください。私は……いえ、私共は当たり前の事をしたまで。ですから……」
「いや、決して当たり前などではない。そなたらがいなければ、今頃は若様も我々もどうなっていたことか……。後藤様もあの程度の怪我では済まなかっただろう」
そう一息に言い切って、山崎は大きく息を吐く。
あの夜、彼は後藤が孝俊の後を付けているなど全く知らなかったのだ。
もし、万が一二人揃って相手方に殺られてしまったら、これから先孝俊を守る者はいなくなる。
残るなら年若い山崎を、と後藤からの申し出があり、修一郎や桐野はそれを承諾したのだった。
「―― ところで、その後、後藤様はどうしておられますか?」
俯きがちとなった山崎に朱王が問い掛ける。
ゆっくりと顔を上げた山崎の表現が、わずかだが緩んだ。
「痛みもだいぶ和らいだと仰っていた。今は、若様と共に寺におられる」
「そうでしたか、それは良かった。孝俊様は、まだ後藤様や山崎様の事を思い出されては?」
「いや、それはまだのようだ。だが……後藤様の事が懐かしいと。共にいると落ち着くと仰られる」
言葉には言い表せない感情が孝俊の中に芽生えているのだろう。
それが『記憶』と呼べるものかどうか、それは 朱王にはわからなかった。
「我々はこれからお二人の様子を見に寺へまいるところだ。朱王よ、お前もよかったら一緒にどうだ?」
二人の話を黙って聞いていた桐野が朗らかな笑みで問う。
勿論、朱王の返事は決まっていた。
「はい、ぜひご一緒させて頂きます」
桐野と同じ表現で朱王は首を縦に振る。
身支度もそこそこに侍二人に連れられた朱王が長屋を後にしたのは、それからすぐの事だった。
鉛色の空から、チラチラと白い花が舞う。
風はない、ただ冷えきった空間に散る雪花は寺へと急ぐ三人の頭や肩に触れると同時に跡形もなく消え去っていく。
中西長屋の子供達が寺子屋として通う寺は、歩いてそう時間が掛からない場所にある。
他愛ない会話を交わしながら歩く朱王らの耳に、賑やかな、そして甲高い子供らの歓声が届き始めた。
「寺子屋が賑やかなのは出羽も江戸も変わりませんね」
寺門の前に立ち、頬を緩めながらそう口にする山崎。
『せんせーっ!』と威勢良く響く少年の声に重なり、後藤と思われる嗄れた、そしてひどく慌てた叫びが三人の鼓膜を打った。
「コラッ! 若様に何をしておるか無礼者! 降りろ! 早く降りぬか!」
「なに、よいのだ。そう怒ることはない。そら、平助こっちにこい」
賑やかさの中から聞こえる孝俊の声。
寺門を潜った三人が見たのは、小さな子供たちに囲まれて満面の笑みを浮かべる孝俊と、そんな彼の横でオロオロ声を出し、子供らを押し退けようとする後藤の姿だ。
「若様! 後藤様!」
「ん? おぉ!山崎ではないか! それに桐野殿に朱王殿も!」
鼻水を垂らした男の子を傍らへ避け、後藤が 白い歯を覗かせる。 それに気付いた孝俊も、胸に子供を抱いたまま こちらへ手を振って見せた。
「お忙しいところを失礼致します孝俊様」
軽く会釈する桐野と朱王、そして山崎を、周りにいる子供達が不思議そうな眼差しで見上げてくる。
「あれー、朱王さんだぁ」
「ほんとだぁ! 朱王さんだ!」
同じ長屋に住まう兄弟が、朱王の姿を見付けて本堂の中から駆け出してくる。
あっと言う間に大人五人が数多の子供にグルリと周りを囲まれてしまった。
「これだけの人数を相手では、孝俊様もさぞかし大変でしょう」
たくさんの小さな瞳に見詰められ、苦笑いしながら朱王が口を開く。
しかし、孝俊は穏やかな笑みのまま首を振った。
「いいや、全くだ。ここの子供達は皆揃って聞き分けがいいし、覚えも早いのでな。今日は……まぁ、読み書きそろばんも良いが、たまには遊ばせてやるのも必要だ、と思ってな」
『いつもこうではない』そう一言付け加えて、孝俊は小さけ肩をそびやかす。
その時、本堂の裏手辺りから、ワァァッ! と引き攣ったような子供の泣き声が響き、孝俊の顔色が一瞬で変わった。
「なんだ!? 何事だ!?」
「先生、あれ、三郎の声だよ」
林檎のように頬を赤く染めた女の子が孝俊の袖口を引きながら、寺の奥を指差す。
抱えていた子を一度地面に降ろし、孝俊は脱兎の如く鳴き声のした方向へと走った。
「若様! 若様お待ちください!」
慌てて彼の後を追いかける後藤と山崎。
一歩遅れて桐野と朱王も走り出し、その後を子供達がチョコチョコと小走りに追いかける。
次第に泣き声は大きくなり、朱王が裏手へついた時には殆ど泣き叫ぶようなけたたましい物へと変わっていた。
尋常ではない声、一体何があったのかと心中で思いながら孝俊を追った朱王。
寺の奥は広い裏庭となっており、庭の端には一本の大きな柿の木が植えられている。
その木の根本で、孝俊は泣きじゃくる一人の子供の前に膝を着き、何事かを問い質している。
どうしたのだ、どこか怪我をしたのかと、涙で汚れる子供の顔を覗き込み、心配そうに問い掛ける孝俊。
継ぎはぎのあたった紺の着物を着た五つくらいの男の子は、涙と鼻水でグシャグシャに汚れた顔を上げ、何度もしゃくり上げながら無言で柿の木の上を指差した。
「竹とんぼが……」
「なに? 竹とんぼ?」
『取れなくなった』そう涙声で呟いて、三郎と呼ばれた子供は柿の木の一番上を指差す。
孝俊らが一斉にその方向へ顔を上げ、目を凝らしてよくよく見れば、なるほど、木の先端の細い枝に竹とんぼが一つ引っ掛かっている。
「そうか、遊んでいたら引っ掛かったのか?」
「うん、あれね、じっちゃんが作ってくれたんだ……。先生、取れるかな?」
今にも新たな涙が溢れそうな目で孝俊をじっと見詰める。
遥か頭上にある竹とんぼと三郎の泣き顔を交互に見た孝俊は、やおら下駄と足袋を脱ぎ捨てて木の幹にガシリとしがみ付いた。
「若様!? 何をなさいます!」
「決まっているだろう。あれを取ってくるんだ」
そう答えた孝俊は、左右に伸びた太い枝に手足をかけ、勢いを付けて身体を上へと引き上げる。
さぁ、木の下は大騒ぎだ。
「若様危ない! お止めください、私が参ります!」
「それは無理です後藤様! 傷口が……」
「離せ山崎! 離さぬか!」
『離せ』『駄目です』そんな押し問答を繰り返す御付き二人を他所に、孝俊はするすると木の中程まで登ってしまう。
「先生頑張れー!」
「先生、もっと上ー! 右だよ右ー!」
キャァキャァわいわいと無邪気な声援を送る子供らと、気が気ではない様子で彼を見上げる桐野に朱王。
走行しているうちに、孝俊は竹とんぼが引っ掛かる枝のすぐ真下、ちょうど大人の太股程の太さがあるだろう枝へとよじ登っていった。
「孝俊様、どうか後無理なさらずに……」
「大丈夫、だ。朱王殿。もう少しだ……よし、届いた! ッ!? うわ……う わぁぁぁっ!」
思い切り伸ばした指先が竹とんぼの羽に届いたその刹那、足場にしていた枝がミシミシしなり、その反動で孝俊の足が斜めに傾ぐ。
一瞬で彼の身体は宙へと投げ出された。
間延びした悲鳴を上げて、真っ逆さまに落ちていく孝俊の身体。
ポカンと口を開けてそれを凝視する子供達。
時が凍り付いた世界を打ち壊したのは、彼の身を一番に案じる者だった。
「若様ァァァッ!」
皆の鼓膜を突き破らんばかりの絶叫を張り上げ、放物線を描いて墜落する孝俊を抱き止めようと走る。 声にならない悲鳴を上げて後藤を追い掛ける山崎。
朱王達の目の前で、三つの身体は鈍い衝突音ともうもうたる土煙を巻き上げて地面へ叩き付けられた。
「後藤様……! 孝俊様ッ!」
血相を変えた桐野が脱兎の如く地面へ折り重なる三人へと走り寄る。
辺りに響くのは子供達の悲鳴と孝俊を呼ぶ叫び。
尋常ではない地響きに気が付いたのか、腰が曲がりかけたこの寺の住職までもが本堂から飛び出してくる。
一番下にはうつ伏せで呻く山崎、その上には同じくうつ伏せで山崎の尻辺りに顔を埋める後藤、そして後藤の大腿部に背中を乗せて、仰向けで倒れる孝俊の姿が土煙の中にあった。
「後藤様! しっかり……大丈夫ですか?」
顔をしかめて起き上がろうともがく後藤を助け起こす桐野、その横ではぐったりと動かない孝俊を、朱王がその胸に抱えている。
顔中を埃まみれにした山崎がその身を起こし、痛みに眉をしかめながら孝俊へにじり寄った。
「若様…若様は、ご無事か!?」
「どうやら頭を打ったようです。息はしっかりしていますが……念のため、医者に。桐野様、後藤様は……」
「腰を打ったようだ。このままでは動けん。孝俊殿と一緒に診てもらおう」
低い唸りを上げて腰を押さえる後藤と、未だ意識を失ったままの孝俊。
後藤を山崎が背負い、孝俊を朱王が背負って三人は小石川へと走る。
彼らが走り去った後、柿の木の根本には埃にまみれた竹とんぼが一つ、吹き抜ける風に薄い羽を揺らし転がっていた。
「孝俊様が怪我したって本当!?」
バタバタと療養所の廊下を駆け抜ける騒々しい足音と共に、弾かれるように障子が跳ね開けられる。
孝俊を囲んでいた全員の目が二人へと向けられた。
大きな目を更に大きく見開いて部屋に飛び込んできた海華とその後ろから顔を出した志狼は、部屋に延べられた布団に横たわる孝俊の姿 を見て息を飲む。
「静かにしないか、孝俊様は、まだお休みなんだ」
あまりに騒がしい有り様に、朱王は眉を逆立てて海華らを睨む。
慌てて口を手で押さえ、そろそろと足音までも忍ばせて部屋に入った海華達は、遠慮がちに朱王の隣へと座った。
「お前達、どうしてここに? 孝俊様の事を誰に聞いたんだ?」
「松坊からよ。お洗濯しようと思って長屋まで行ったら、お寺の方から松坊が泣きながら走ってきてね。訳を聞いたら、先生が木から落ちたって。あたしビックリしちゃって、すぐ志狼さんに」
「小石川に担ぎ込まれたって聞いてよ、とにかく行ってみようって事になってな。孝俊様はどうだ?」
声を潜めて朱王に尋ねる志狼は、上座で肩を 落とし、孝俊の横に座する後藤と山崎へ向けら れる。
「命に別状はないようだ。時期に目も覚ますだろうと」
「そう良かったわ。あ、と……旦那様はどこなの?」
この場に姿がない桐野を探すようにキョロキョロと室内を見回す海華。
『清蘭先生とお話し中だ』そう朱王が答えた時だった。
うぅ、と地の底から上がるような低い呻きが孝俊の口から漏れ、蒼白の顔が苦痛に歪む。
「おぉ、若様……!」
「若様っ! しっかりなさいませ!」
布団へ飛び掛からんばかりに近付き、懸命に孝俊へ声を掛ける山崎と後藤。
痛みから逃れるように二、三度頭を左右に振った孝俊、その薄い瞼が小刻みに震えながら開いていく。
「兄様……!」
「俺、清蘭先生を呼んでくる」
そう一言、素早く腰を上げた志狼が部屋から飛び出し廊下を走る。
突如騒がしくなった室内、固唾を飲んで事の成り行きを見守る朱王と海華の目の前で、孝俊はようやくその目を覚ました。
「若様! 若様、ご無事ですか?」
「ご、とう……か? 私は、一体……ここは、どこなの、だ?」
虚ろな光を湛えた瞳をさ迷わせて、孝俊が掠れ声で呟く。
後藤と山崎、二人の顔に歓喜の色が浮かんだ。
「良かった、お気が付かれましたか! ここは療養所……小石川の療養所でございます」
「小石川? 療養所……? 後藤、我々は、確か江戸へと急いでいたはず……そうだ、川縁で、何者かに襲われて……」
弱々しい声で後藤に話し掛けながら、身を起こそうともがく孝俊。
そんな彼を山崎が慌てて抱え上げる。
後藤は信じられないものを見るような眼差しを孝俊へと向けていた。
「若様……おわかりになるのですか? あの夜の事も……私や山崎の事も、おわかりになるのですか?」
「お主や山崎の事を? 当たり前ではないか、お主達を忘れるなど……後藤、山崎も、どうしたのだ?」
怪訝な顔付きで二人を交互に見遣りながら、頭の後ろを擦る孝俊を前に後藤は顔を真っ赤に染めて歓喜に身を戦慄かせる。
同じく喜びの表情を顔一面に浮かばせる山崎の肩も、小刻みに震えていた。
「どうして私は療養所などにいるのだ? それに、この者達は? 」
下座に座する朱王と海華を不思議そうな眼差しで見て、孝俊は小さく首を傾げる。
感激に言葉を詰まらせながらも、今までの経緯を後藤は語り出す。
「兄様、記憶……戻ったのかしら?」
後藤の話が終わるまでその場を離れる訳にもいかず、じっと正座したままの海華が、朱王の耳許に唇を寄せて囁いた。
「どうやら、そうらしい。気のせいか……顔付きが違うように感じるな」
「そうね……。あたし達の事も忘れてるのかしら? 」
『なんだか寂しいわ』そうポツリと呟いて苦笑いする海華へ同調するかのように、彼女と同じ表情をした朱王が頷く。
やがて、足音も荒く部屋へ駆け込んできた清蘭と桐野。
その時、後藤の話しはまだ半分ほども終わってはいなかった。




