第四話
その夜、中西長屋にある朱王の部屋の戸口には、風で飛ばされぬようにしっかりと貼られた破邪の札が夜風にひらひらはためいていた。万が一のために、と海華が無理矢理持たせた物だ。
馬鹿馬鹿しい、とは思いながらも先の一件があったばかり、素直に貼って寝た朱王だが、起きてみれば札は全て、そこに書かれた文字もわからないほど真っ黒に焦げつき、手に取ればボロボロと崩れ落ちる。そして地面には子供のものと思われる小さな足跡が数え切れぬほど刻まれており、これには朱王も寒気を覚えた。
海華や志狼から何か聞いたのだろうか、あれやこれやと詮索し始めるお石を宥めすかして誤魔化して、大急ぎで長屋を後にした朱王が向かったのは、源太郎の住まいだ。
まずは、源太郎が人形を求めた質屋はどこかを家族から聞き出し、休む間もなくそこへと向かう。その質屋は街中から外れた、貧しい者らが集まり暮らす長屋の奥にある今にも潰れてしまいそうな小さな店だ。
なぜこんな人目につかぬ汚い店に源太郎が来たのかはわからない。しかし、応対に出た仙人のような風体の年老いた店主は、確かに源太郎に人形を売ったと認めた。そして、人形はこの近くに住まう建具屋が質草に入れたと話してくれたのだ。その建具屋は、知り合いの草履売りから人形を譲り受け、そして草履売りは、とある高利貸しの女房から人形を安価で買い取った……。
一日中街中を西へ東へ南へ北へと走り回り、普段使わぬ足腰が悲鳴を上げ始めた頃、遂に朱王は辿り着いたのだ。 件の人形、その持ち主だったと思われる人間の住み処へ。そこは、江戸ではどこにでもあるような、ありふれた長屋だった。
狭い小路に軒を突き合わせて建つ、煤けた土壁が並ぶ長屋。賑やかな歓声を上げて湿った石畳を駆け抜ける子供達や、世間話に夢中となる女らの間をすり抜け、朱王が目指すは長屋の最奥にある一室だ。じめじめと黴臭い臭いの充満するそこは、この長屋でも一二を争うほど荒れ果てた部屋だった。あちこち破れた障子から覗く室内からは、人の気配は全くしない。
さて、どうしたものかと戸口の前に佇む朱王。 と、不意に背中をちょんちょんとつつく者がいる。
慌てて振り向けば、そこには達磨に手足が生えたような、丸々太った中年女が怪訝な面持ちでこちらを見上げていた。
「ここは空き部屋だよ。あんた見慣れない人だが、なんか用かいね?」
女にしては太めの声色で女が尋ねてくる。遠くからは、ちらちらとこちらを窺う視線が刺さり、朱王は精一杯の愛想笑いを浮かべて、女へ小さく会釈した。
「空き部屋、ですか。……なら以前こちらにお住まいだった、仁平さんは、今どちらにおられるか……」
「仁平さんなら、とうの昔に死んじまったよ。あんた、借金取りかい? なら残念だったね、ここの家族は、みぃんな死んでるからさぁ」
事も無げに『家族は死んだ』と言い放つ女を唖然とした様子で見下ろしながら、朱王はゆっくりと背後を振り返る。破れた障子、黄ばんで変色した障子紙の隙間から誰かがこちらを見詰めている、そんな気がした。
「そう、でしたか……。亡くなったのは、いつ頃の事でしょうか?」
嫌な汗が全身を濡らすのを感じながら必死に笑顔をつくる朱王に、女は少し考え込みつつ視線を宙にさ迷わす。
「そうだねぇ、仁平さんが酔っ払ってドブに落ちたのが、去年だろ? だから、お米さんは五年前で、お道ちゃんが四年前だね。まぁ、立て続けだったよ」
「お道ちゃん……って、五、六歳くらいでしたか?」
「そうそう、そうだよ。確か六つだった。お米さんの連れ子だったんだけどさ、おっ母さんが死んでからは、可哀想だったよ」
手を頬に当て、はぁっ、と盛大な溜め息を吐く女の後ろから雪のように真っ白な白髪を結い上げた老婆が顔を出す。垂れた瞼から覗く瞳が、じっと朱王を映し出した。
「ちょいと、この人なんなのさ?」
「仁平さんの事を聞きたいんだってさ」
振り向き様に答える女に、老婆は皺だらけの顔に更に皺を刻み、渋い表情を作り出す。
「お米さんとお道ちゃんねぇ、よく千桜堂の近くで練り飴を売ってたっけ。お道ちゃん、おっ母さんの人形大事そうに背負ってさぁ ……」
老婆がしんみりした口調で語り始めた話しに、朱王は時間を忘れ聞き入った。全ての真相はこの場所で解明される。詳しい話しを聞かせてくれた二人に丁重に礼を述べ、朱王は足早にその場を後にした。
「……で、その親子はどうして死んじゃったのよ?」
茶碗に飯を盛りながら、海華は味噌汁に口を付ける朱王を横目で見遣る。 晩の支度に訪れていた海華が朱王と部屋の前で鉢合わせしたのは、西の空に太陽が沈みかけた頃だった。
「母親はもとから身体が弱かったらしい。お道を連れて仁平と一緒になってはみたが、亭主は飲む打つ買うの三拍子、当然家は火の車だ。 だから、お米はあの桜の下で練り飴を売っていた。無理がたたって、ぽっくりだ」
陰鬱な表情で沢庵を口に放り込む朱王へ飯を渡し、襷をほどいた海華が溜め息つきつつ正面へと座る。
「なんだか酷い話しねぇ。おっ母さんが死んだ後、その子はどうしたの?」
「仁平と暮らしていたそうだ。母親の形見の人形を肌身離さず大切にしてな。だが、熱病にかかって、あっという間だ。薬を買う金も無かったんだろう。その後、仁平は女房と娘の着物から何から何まで叩き売って、酒代に変えた挙げ句の果てに泥酔して、ドブに落ちて死んだとさ」
『自業自得だ』そう吐き捨てながら飯を掻き込む朱王を前に、海華はなにも言えぬまま俯いている。
「── おっ母さんの形見の、大切な人形だったのね。だから、返して貰いたくて……」
「化けて出てきたんだろうな。…… 出てくる理由がわかったんだ、あの人形は、返してやるさ。ただし、修理が終わった後でな」
例え幽霊だろうが、未完成な物を渡したくない。そんな人形師としての矜持が言わせた台詞。しかし海華は露骨に嫌な顔を見せた。
「そんな事言ってないでさ、さっさとお堂の所に置いてきちゃえばいいのに」
「いい加減な仕事はしない。人形の事は俺に任せろ。それよりお前、早く帰らなくていいのか?」
もうすぐ辺りは暗闇に包まれる。独りっきりで夜道を帰るのは危険だろう。そんな考えから出た台詞だが、海華はなぜか満面の笑みを浮かべてちょこんと小首を傾げた。
「大丈夫。志狼さんが迎えに来てくれるの。 一応、御札は持ってるんだけどね、心配だからって。優しいでしょ?」
頬を僅かに赤らめながら、そう口にする海華に、朱王はいささか不機嫌そうに顔を歪めて大根の煮付けにかぶりつく。
「そうか、そりゃ良かったな。── 惚気話しは他所でやってくれ」
ぼそりと呟いたその言葉は、幸せに浮かれ上がる海華の耳には既に届いていなかったようだ。夕飯も終わり、海華が片付けを終えた、ちょうどその時、戸口が控えめに叩かれる男と同時に提灯を携えた志狼が顔を覗かせる。
ぱっ、と顔を輝かせ戸口を開け放つ海華とは正反対に、牛蒡の煮付けを肴に酒を啜っていた朱王は、微かに眉をひそめた。
「邪魔するぜ。朱王さんどうだった、何かわかったか?」
提灯を土間へ置いたとすぐに、志狼は心配そうな面持ちでそう口にする。うん、と一度頷いて、口に残る肴を酒で飲み下しながら、朱王の手は無意識に髪へ伸びていた。
「色々と収穫はあったよ。詳細は……海華に全部話してあるから、こいつから聞いてくれ」
「やぁね、ちゃんと話してあげたらいいのに。ごめんなさいね、志狼さん」
前掛けと襷を風呂敷に包み、苦笑いを浮かべる海華へ志狼は小さく微笑み首を横に振る。
「いや、いいんだ。朱王さん、帰りにこの札、戸に貼って帰るからな。朝まで外にゃ出れねぇぜ? 大丈夫か?」
「ああ、平気だ。手間掛けさせてすまないな。海華、そこはもういいから、遅くなるぞ、早く帰れ」
「言われなくても帰りますよ。せっかく志狼さんが迎えに来てくれたんだもの、ねぇ?」
わざとらしくシナを作り、朱王へ見せ付けるように志狼の腕へ己の腕を絡ませる海華。照れ臭そうに、しかしどこか嬉しそうな様子で頭を掻く志狼は、土間へ置いていた提灯へ、ちらりと視線を落とす。
「そりゃあ、な。当たり前だ、お前に何かあったら一大事じゃねぇか」
「あら、嬉しい! やっぱり志狼さんって優しいわ」
きゃあきゃあ舞い上がりつつ、志狼に抱き付かんばかりにじゃれつく海華を前に、朱王は眉間に深い深い皺が刻まれた。
「だから、惚気は他所でやれ! 志狼さん、早くこいつを連れてってくれ!」
湯飲みになみなみ満たした酒を一気に胃袋へ流し込み、悲鳴にも似た叫びを上げる朱王に、もう海華は腹を抱えて大笑い。それを半ば無理矢理部屋から追い出して、戸口の内側にもしっかり御札を貼って、つっかい棒をかける。これで朝まで部屋から出られない。今ここに、朱王の長い長い夜が始まりを告げた。
しん、と静まりかえる春の夜。じりじり燃える行灯の焔が微かに揺らめくたび、土壁に映る朱王の影が微妙にその形を変える。海華達が帰ってからどのくらいの時が過ぎたろう。酒で満たされていた酒瓶は、とうの昔に空となっていた。
耳が痛くなるほどの静寂。すっかり夜も更けた今時分、朱王が起きているのは決して幽霊に怯えている訳ではない。 幽霊を、待っているのだ。
必ずくる、そんな確証はない。しかし、今朝がた部屋の前にあった足跡を考えると、どうしてもこのまま休む気にはなれなかった。お道は、母親の形見を探し求めて未だ現世をさ迷っている。可哀想だとか、気の毒などとは思わない。ただ、これ以上つきまとわれ、命を狙われるなど我慢ならないのだ。
静かに、しかし確実に時は過ぎてゆく。 行灯の油が尽きかけ、芯の焦げるじじじ……と耳障りな音と共に、室内を薄ら闇が包む。その時だった。
とん、とん、とん……と力なく弱々しく戸口が叩かれる音が、静寂の幕を小さく破る。『開けて……』
限らなく透明な、弱々しい響きを鼓膜が拾い上げた時、朱王はゆっくりと顔を上げて鋭い眼差しを戸口へ投げ付けた。
『開けて……お願い、開けてちょうだい……』
とんとん、とんとん、と規則的に戸を叩き、限り無く透明な声が室内に響く。『開けて』『人形を返して』そうひたすらに繰り返すか細い声を黙って聞いていた朱王だったが、やがてその目は机上に置いた作りかけの人形へと向けられた。
「人形は……まだ返せない。修繕が、終わっていないんだ」
ぼそりと呟いた朱王の一言が聞こえたのだろうか、戸口を叩く音が急に止まる。 再び訪れた静寂。
朱王は戸口へと顔を向けた。
「後三日、三日だけ待て。人形を綺麗に直したら、必ずお前に返す。あの桜の下で待っていてくれ」
『……本当に? 約束する?』
疑りを含ませた声色が鼓膜を打つ。
「約束する。これはお前の人形だからな。その代わり、人形を持って早くおっ母さんの所へ帰れ。…… 約束できるか?」
帰るべき場所に帰れ。 それがお前のためなんだ。
そんな意味を含ませ紡いだ台詞。一瞬考え込んだのだろうか、沈黙の時が流れる。
「約束、できるのか?」
『…… うん、約束する』
闇に揺蕩うか細い声。 一度頷いた朱王は、やおらその場から立ち上がり、作業机へと向かう。
「よし、話しは決まった。三日後だ。この時間、桜の下に人形を置く。…… 今日はもう帰れ」
机の前にどかりと胡座をかきながら、朱王は人形と彫刻刀をその手に握る。 戸口の向こうから感じる気配は、いつの間にか消え果てる。この夜、部屋の灯りは一晩中消える事はなかった。
『本当に幽霊が約束守るのかよ? 』
胡散臭げな面持ちでこちらを見上げてくる、志狼はどこか落ち着きなさそうに白い三角布で吊った左手をそっと撫でる。二人が今いる場所、それは綿のような花で野太い枝を重そうにしならせる、一本の桜の木の下だ。
『お道に人形を返しに行く』
昼間、桐野宅を訪れた朱王が開口一番そう告げた瞬間、志狼と海華は顔を見合せ言葉を失う。 幽霊に物を返す、もしかしたら気が触れてしまったのか、と海華は本気で心配し、そして馬鹿な事は止めるようにと必死で止められたが、朱王は全く聞く耳を持たず、二人が引き留めるのも無視して屋敷を後にした。
そして、太陽が西の空に姿を隠し闇が主役となる時間、件の桜の下に人形を携えやってきた朱王を待っていた者、それは、隆々とした桜の幹に寄り掛かる志狼だった。
「あんたの事が心配だったからよ」
そうぶっきらぼうに言いつつこちらへやって来る志狼を前に、朱王はフンとそっぽを向く。
「海華が心配してたぜ?」
「余計なお世話だ。……それにしても、あいつ、よくここへ来なかったな?」
絶対に行く、と駄々を捏ねる、朱王はそう思っていた。だが、ここへ来たのは志狼一人だ。
「最初は行くって言ってたんだがな、何とか止めた。前にも言ったが、あいつに何かあったら大変だからな」
右手に持った提灯をふらふら振りつつ隣に立つ志狼が呟く。 人形を桜の根本に置いて、朱王はちらりと横目で志狼を見た。
「相変わらず優しい事で……。ところで、あいつはきちんとやっているのか? 桐野様にご迷惑なんて……」
「そんな事ないぜ。よく働いてくれてるさ。 桐野様も、前より屋敷が賑やかになったと喜んでるしな」
『賑やかに』その一言に朱王は小さな溜め息をつく。確かに、海華がいればそうなるだろう。桜の大木から離れ、道の反対側へと移る二人の周りを、散り落ちた花弁と朱王の黒髪を巻き上げて、生暖かい夜風が吹き抜ける。
暗闇に浮かぶ二つの提灯の灯りが、静かに佇む桜をぼんやりと照らし出していった。可憐に咲き、刹那に散る桜花が漆黒の中で朧気に浮かぶ。二人が千桜堂を訪れてから、かなりの時が過ぎていた。桜の根本に置いた人形に変化はなく、勿論お道の幽霊も現れない。
「……こねぇな」
髪に舞い落ちた繊細な花弁を指で摘まんあだ、ぽつりと志狼がこぼす。じっと人形を見詰める朱王は何も答えぬまま、小さく息を吐いた。
「あれは必ず来る。化けて出てまで取り戻したい人形なんだ。なんならお前、先に帰ってもいいんだぞ?」
「馬鹿言うな、んなことしたら海華にどやされらぁ。別に怖じけづいてる訳じゃねぇんだぜ?」
鼻の下を擦りつつ、どこか不貞腐れた様子の志狼。と、彼の持つ提灯の灯りが静かに消え去る。何かが焦げた臭いが二人の鼻をついた。
「まいったな、最後までもたなかったか……」
「帰りにうちへ寄れ。代わりの灯りを…… ん?」
視界の端に映る闇が、微かに揺れる。 顔を跳ね上げる朱王と、それにつられるように桜へ目を向ける志狼の前で、陽炎の如くに漆黒が揺れた。ぐにゃぐにゃと蛇のようにのたうちとぐろを巻く闇、二人の目の前で、それは小さな少女の形に変わる。 みすぼらしい絣の着物、擦り切れた草履を履いた色白の少女は、円らな瞳で二人を見詰めた。
朱王が初めて対峙した時の醜悪さやおぞましさは微塵も感じられない。 痩せた、線の細い少女は自らの足元に置かれた人形……朱王が新品同様に修繕した人形を、 そっと抱き上げた。
『返してくれて、ありがとう』
鈴を転がすような声が小さな唇からこぼれ落ちる。
『直してくれて、ありがとう……!』
ぎゅっと、力強く人形を抱き締めて、頭上に咲き誇る桜花に負けぬ満面の笑みを顔一杯に咲かせて、少女は軽やかな足取りでお堂の後ろへ駆けて行く。
提灯の灯りが仄かに光る闇に取り残された二人は、さらさらと降り注ぐ華やかな花吹雪にまみれながら無言のまま顔を見合せる。
『行っちまったな』
唇の端に僅かな笑みを湛えて呟く志狼と同じ表情を作りつつ、朱王は無言のまま首を縦に振った。
『結局、その子はどこ行ったの?』
三つの湯飲みへ少しずつ茶を注ぎ入れ、海華が尋ねる。 ここは八丁堀にある桐野の屋敷、その客間に、いささか眠たげな面持ちの朱王と、この屋敷の使用人夫婦である志狼、海華の姿があった。
「どこ行ったの、って……そんなの知らん。 いちいち追い掛けた訳じゃないからな」
ふぁ、と小さな欠伸を一つ、目尻に涙を浮かべて答える朱王へ、真っ白な湯気が立つ湯飲みが差し出される。 爽やかな香りを放つ濃緑色のそれを一口含めば、気だるい眠気に浸食されていた身体が、やっと目覚めた気がした。
「そのまんま帰ってきちゃったの? あたしなら、気になって追い掛けるけど。まぁ、兄様らしいって言えば兄様らしいわね」
「下手に追い掛けて、喉笛食いちぎられちゃ堪らねぇぜ? もう放っといてやりゃあいいんだよ」
隣に座る志狼が口にした台詞に『そっか』と 納得した様子の海華は、苦笑いしながら湯飲みを唇に当てる。
「とにかく、二人とも無事で良かったわ。あたし、昨夜は心配で心配で、ちっとも眠れなかったんだから」
夜もだいぶ更け、志狼が裏木戸を押し開け帰宅した時は、安堵のために全身から一気に力が抜けたのだ。
「これでもう桜の下に幽霊は出ないだろうよ。海華、安心して朱王さんとこに行けるな」
「そうね。人殺しの下手人をお縄に出来なかったのは残念だけど……さすがの親分さん達も、幽霊は畑違いかしら」
悪戯っぽい笑みを見せて、海華はチラリと赤い舌を覗かせた。
「源太郎さんは気の毒だがな。奉行所だって幽霊は手に負えんだろう。さて、俺はこれで……」
湯飲みの茶を半分以上残して、朱王はその場から腰を上げる。
「あら、兄様もう帰っちゃうの?」
「さっき来たばかりじゃねぇか。もう少しゆっくりしてってくれ」
せっかく来たんだから、と引き留めてくる二人を横目に身支度を済ませ、立ち上がった朱王は、不意にニヤリと意味深な笑みを浮かべて自分を見上げる二人へ顔を向けた。
「いや、もう失礼する。新婚夫婦の家に長居するもんじゃないからな」
そう言い残し、さっさとその場を後にする朱王。 取り残されたのは、顔を真っ赤に染め上げた志狼と海華の二人だけ。彼らの照れくさそうな、そして朗らかな笑い声は春風に乗って黒光りする廊下を渡る朱王の耳にも届く。
庭のあちこちに咲き誇る色とりどりの花々の間を抜け、重厚な門をくぐる朱王の髪に、どこからか舞い降りた薄紅色の花弁が一枚、陽光に艶めく黒髪を飾る。澄み切った青空を駆け巡るように、二羽の目白が朱王の頭上を戯れつつ飛び去って行く。
江戸はまさに、春も闌を迎えていた。
終