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第四話

 「これ以上時間がないのだ! 若様には、一刻も早く城へお戻り頂かなければ……!」


 怒鳴り付けられた子供よろしく首を竦めて縮み上がる海華。

そんな彼女を横目に、精悍な顔に焦りの色をありありと浮かべた山崎はドンと低い音を立てて畳へ片膝をついて声を張り上げる。


 「山崎! もうよい、止めぬか!」


 「しかし後藤様! このままでは菅山すがやま殿の思う壺、今この瞬間も民の生活が、このままでは……!」


 「黙れと言っておろうがッ! そのような事、貴様に言われんでもわかっておるわッ!」


 白髪混じりの太い眉を逆立てた後藤の怒号が鼓膜をつんざく。

ぐぅ、と小さく唸ったまま、山崎は力なくその場に座り直して埃に白く汚れた袴を強く握り締めた。

二人の話がよく見えず、朱王は考え込むように眉間へ皺を寄せ、志狼と桐野はほぼ同時に己の顎先を指先で擦り小首を傾げている。

どうやら、藩を巻き込んだ、ただの兄弟喧嘩という単純な話ではなさそうだ。

そんな言葉が朱王の頭に浮かんだ。


 「申し訳、ありません、っ……私、余計な事を……」


 「いや、こちらこそすまなかった。見苦しい真似を……しかし山崎が言うのも一理あるのだ」


 最後の方は完全に口ごもり、朱王や志狼には全く聞こえない。

己が膝先に視線を落としたまま、貝の如く口を閉ざしてしまった二人を交互に見ていた修一郎は、右手で無意識に弄んでいた扇を懐へと押し込んだ。


 「後藤殿、そなたらにも色々と訳があるのは重々わかっておる。しかし、このまま孝俊様を強引に連れ帰れど、記憶が戻らぬ以上は藩の騒動は治まらぬ。しかも一度お命を狙われておるのだ。そうなった時、お二人で太刀打ち出来るのだろうか?」


 諭すような口調の修一郎を見詰めて、後藤はグッと息を飲み、山崎は耳までを紅潮させて悔しげに唇を噛み締める。


 「藩のゴタゴタを口にするのは心苦しいだろう。しかし今は孝俊様のお命を守る事が先決。そのためならば我々も是非、お力になりたいのだ。どうだろう、ここで事の全てを話しては貰えぬだろうか?」


 彼の提案に、後藤は一瞬戸惑ったように朱王らを見る。

修一郎には、その視線が語る意味が痛いほどにわかった。


 「後藤殿、この者らの身元は私が保証する。 桐野は勿論だが、朱王達も決して口は軽くない。何より信頼できる者達だ。何も案ずる事はない」


 『必ず力になってくれる』そう言い切った修一郎の顔に微笑みが浮かぶ。

隣に座する山崎と『大丈夫か?』と言いたげに一度顔を見合わせた後藤だったが、やがて意を決したのか、乾いた唇を舌で湿らせた。


 「承知、致しました。上条様のお心遣い真に有り難く……。先代当主孝徳様がご逝去なさった時から、全ては始まりました」


 低く陰鬱な声で語り始めた後藤へ皆の視線が集中する。

以前より重い胸の病を患っていた久保田藩当主、小竹 孝徳たかのりには二人の息子がいた。 兄である孝俊たかとしと弟の徳雅のりまさだ。


 年が四つ離れた兄弟、兄は文武両道を絵に描いたよう、次期当主として非の打ち所がない優秀な男であった。

弟も兄には及ばないが、優秀な兄を目標に学業に打ち込む姿勢は真剣そのもの、心根も穏やかな男だった。

しかし、徳雅には一つだけ兄とは決定的に違う面があったのだ。


 「生まれつきでしょうか、徳雅様は本当にお身体の弱いお方でした。季節の変わり目には必ず高熱を出して臥せられる。狐に憑かれたかのようにひきつけを起こされた事も、一度や二度ではなかった……」


 その時の事が頭に浮かんだのだろうか、後藤はひどく苦しげに歪み、一瞬言葉が詰まる。

そんな彼を前にする海華は、微かに眉を寄せてすぐ隣に座る孝俊に心配そうな眼差しを投げ掛けていた。


 「徳雅様には本当に申し訳ないが、あのお身体ではとても当主は務められない。これからは場内で養生しながら兄上様の補佐役に、それが徳雅様にとっても一番いい、と。話しは決まりかけておりました。しかし……」


 「どこぞの誰かが、徳雅殿に良からぬ話を吹き込んだ、と?」


 後藤の話を沈黙のまま聞いていた修一郎が、その唇を動かす。

後藤はガクガクと激しく首を縦に振った。


 「その通り、その通りでございます。筆頭家老、菅山すがやま様が諸悪の根元とでも申しましょう。 徳雅様に『兄上様は徳雅様を本心では疎ましく思っている。いずれは城からも、果ては出羽の国からも追い出そうと考えている』と」


 勿論そんな事は口から出任せ嘘八百。

しかし、先代から遣えている、しかも筆頭家老が嘘を言うはずはない。

そう徳雅は思い込んでしまったのだ。

周囲に相談しようにも、既に菅山の息が掛かった者らばかりが徳雅の周りを固めている始末。

実の兄が自分の失脚を企てている、そう聞かされ続けた徳雅が心労のため病に倒れるのは、そう時間が掛からなかった。


 「菅山は病に臥せる徳雅様を奥の間へ半ば軟禁しました。そして、病の原因は全て孝俊様が徳雅様を軽んじ、邪険にしたせいだと周囲にふれまわったのです。そして、あの日の夜……」


 孝俊の側付きである侍が場内で斬り殺され、血に濡れた孝俊の刀が彼の部屋に放り出されていた。

それを発見し、大騒ぎとなっていた場内を更に撹乱し、久保田藩を混乱の渦に巻き込んだのは他でもない、菅山だったのだ。


 「このままでは孝俊様のお命が危ない。あの時は、どんな言い訳も釈明も誰にも通じなかった……」


 山崎と共に秘密利に城を抜け出し、江戸へ向かった。

逃走につぐ逃走、一時たりとも気を抜けない旅路。

兄はひたすら弟の身を案じた。

しかし、もはや彼らは戻れない所まで来ていたのである。

命からがら江戸郊外まで辿り着いた三人、しかし菅山の放った刺客は人気ひとけの無い寂しい夜道で遂にその牙を剥いたのである。


 「何人いたのか、はっきりとはわかりません。灯りも消えたまま暗がりで次々に斬り付けられ、気付いた時にはもう、孝俊様のお姿はどこにも……」


 影も形もなくなっていた、そんな表現がピッタリだった。

凶刃を交わして体勢を崩した孝俊は、そのまま川に転落し流された。

そんな彼を発見したのが、朱王だったのだ。


 「孝俊様は死んではいない。必ずどこかで生きている。そう信じて、毎日必死にお探ししました。ご無事で……ご無事で、本当によかった、ッ!」


 最後は涙に咽び、叫ぶように言った後藤は握り締めた拳で乱暴に目元を拭う。

しかし、当の孝俊は困りきった表情で後藤と山崎を見ていた。

自分が『孝俊』であるとわからぬ以上、困るのも無理はない。

が、彼はすぐにひどく難しい面持ちで小首を傾げた。


 「その話が真実ならば、先日私や志狼殿を襲ったのは、その菅山と言う者の手先なのか。 ―― それならば、今一度私を狙う可能性もある、と言う事だな?」


 「まぁ、確かにそうですね。……って、一体何をお考えです?」


 どこか意味深な孝俊の台詞に、海華は彼と同じくちょこんと首を傾げて彼を見る。


 「いや、私を探しているのなら、こちらから出て行ってやろうと思ってな」


 さも当たり前、という風に口にする孝俊。

今日何度目か、室内の空気が一瞬で凍り付いた。







 夜の闇に響く北風の啜り泣き。

足元をクルクル舞う枯れ葉を軽やかに避けながら、たった一人道を行く侍の姿があった。

片手には提灯、もう片手に揺れるのは、紫色の風呂敷に包まれた文箱。

吹き抜ける風に首を縮めて家路を急ぐ侍、左右に揺れる提灯の光が乾いた地面に彼の影を不規則に映し出す。


 商家が並ぶ表通りを抜けた彼は、そこから横道にそれて、更に歩みを進める。

未知の両側を雑木林に挟まれた寂しい場所。

昼間は近道として通る者も多いが、夜ともなれば人はおろか、猫すらも通るのを躊躇う程に暗い道だ。

たった一つの提灯を頼りに、恐ろしく暗い夜道を歩く侍。

道の中ば辺りまで来たときだろうか、不意に彼の足がピタリと止まり、何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回した。


 「そこにいるのは誰だ? 先刻から、人の周りをウロウロと……」


 『いい加減出てこい』その台詞に答えるかのように、目の前にある草むら、そして低い木の枝がザワザワざわめく。

あちこちで闇が蠢き、侍の前に六つあまりの人影が深淵の黒の中に浮かび上がった。

黒い頭巾に黒の羽織袴。

全身を一色に統一した六人は頭巾から覗く両眼をギラつかせ、射抜くような眼差しで侍を睨んだ。


 「貴様ら、先日の輩だな?」


 正体は全てお見通しだ、と言わんばかりの台詞に、一瞬黒ずくめ達の動きが止まる。


 「―― 久保田藩、小竹 孝俊殿……。間違いないか?」


 「うむ、如何にも」


 くぐもった問い掛けに、飄々と侍が返す。

それと同時、目の前の六人が一斉に腰の太刀を引き抜いた。

提灯の光に、白刃が煌めく。


 「お命、頂戴致す」


 「その台詞、先日も聞いたぞ?」


 そう言うが早いか、侍……いや、孝俊は文箱と提灯を道の傍らに投げ捨て、太刀を抜く。

シャッ! と鋭い擦過音を響かせ姿を現した凶刃は、道の端で焔の柱を立ち上らせる提灯の光に妖しい輝きを放った。


 「おのれッ! 徳雅様の御命令だ! 斬れ…… とっとと斬り捨てろッッ!」


 先頭に立つ大柄な侍が空気を震わせる怒号を放つ。

止まっていた空気が瞬時に乱れて撹拌され、一寸先も見えないような闇に濃厚な殺気が広がっていく。

足元の土を踏み締める乾いた音を引き連れて、六人の黒影はジリジリと孝俊との間合いを詰め始める。

人一人がやっと擦れ違えるか、の狭い道。

先を塞がれれば、後は後ろへ退くしかない。

黒ずくめ達の気迫に押されるかの如く、刀を真っ直ぐに構えたまま後退る孝俊。


 睨み合いの時はどれくらい続いただろうか、先頭に立つ一人の影が気合い一発、ギラつく太刀を振り翳し孝俊へと突進する。

渦巻く土煙と激しく揺らめく提灯の焔。

全身を雷鳴が突き抜けたと思わんばかりの震えが孝俊に襲い掛かる。


 自らを襲う刃、その太刀筋を素早く見極め自身の刀を返し、刃と刃が火花を上げてぶつかり合う。 ガッッ! と鼓膜をつんざく金属同士の悲鳴が夜を切り裂き空気に溶ける。

一人の動きを皮切りに次々と孝俊に斬り掛かる黒影の群れ。


 上下左右斜めへと、激しく刀を振り翳し一太刀一太刀攻撃をかわしていた孝俊の顔に、ほんの一瞬焦りの色が浮かんだ、その刹那。

彼の耳許、そして頭上を、空気を切り裂く鋭い音を立てて鈍色の光が飛ぶ。


 それが何か、孝俊にも黒影達にもわからない。

目視する暇を与えぬまま、その光は孝俊の頭目掛けて天高く掲げられた太刀を爆音と共に真っ二つに折り、その隣で突きの構えを取る影の頬を切り裂いて、血生臭い深紅の花を闇へと咲かせる。

脳髄までを揺るがす絶叫を聞きながら、孝俊は目の前の光景が歪に歪んでいくのを感じていた。


 顔半分から夥しい量の血を噴き出して黒影が地面に叩き付けられるのと、孝俊が後ろ向きに地へ転がるのとは、ほぼ同時だった。

声にならない悲鳴を上げて自らの前をのたうち回る人影を呆然と見詰める孝俊。

そんな彼の背後、つまり雑木林の木陰から次々と人らしき影が飛び出してくる。

そのうちの一つは、孝俊へ飛び掛からんばかりの勢いで近付き、素早く彼を助け起こした。


 「若様! 若様、ご無事ですかッ!? どこかお怪我は……!?」


 「私は大丈夫だ。それより、今のは……」


 誰が自分を助けてくれたのか、そう問いたげに後ろを振り返った孝俊が目にしたのは、右手に鋭い輝きを放った苦無くないを二本持った志狼の姿だった。

そして彼の周りには、黒羽織を風にたなびかせる桐野や朱王、海華の姿がある。

しかし、黒影達の視線は、孝俊の側に立つ初老の男、後藤へと集中していた。


 「後藤、様……」


 「やはり、ひと月前に我らを……いや、若様を襲ったのは貴様らだったかッ! 刀を収めぬか! この無礼者めがっ!」


 阿修羅の如き形相で一喝され、影たちは一瞬怯む。

きっと彼らは菅山に唆されて孝俊の命を狙ったのだろう。

木陰に隠れていた朱王らが耳にした『徳雅様の御命令』の意味は、きっとそういう事なのだ。

だが、それは真実ではなく背後で糸を引いているのは他でもない、菅山である。

『とっとと失せろ』そう顔を真っ赤に染めて怒鳴る後藤だが、影達も、もう引き下がれないところまで来ているのは朱王達から見ても明らか。

このまま引いたとて、のこのこ出羽に帰れはしない。


 「だっ……黙れッ! 黙れ! この老いぼれ狸めっ!!」


 進むも地獄、引くも地獄の黒影。

その一人から悲鳴にも似た絶叫が夜空へ放たれる。

ガチャ、と不気味な音を立て、抜き身の尖端が孝俊、そして後藤へと向けられた。


 「このまま引けると思うてかっ! こうなったら……貴様ら全員刀の錆にしてくれるわっ!」


 道に転がり動かない一人を他所に、残りの五人が刀を振りかざして大地を駆ける。

慌てて太刀を引き抜いた後藤が立ち向かうも、当たり前だが一人では部が悪い。


 「ま……! 待たれよ! 後藤殿……!」


 雄叫びを上げて突進して行く彼を咄嗟に引き留めようとした孝俊。

しかし彼の手はすんでの所で後藤には届かず、逆に背後から思いきり羽織の袖口を引っ張られる。

驚いて振り返った彼の前には、にや、と意味ありげな笑みを浮かべた志狼の顔と、いつの間にか右手に太刀を握り締めた朱王の姿が迫っていた。


 「ここは俺達にお任せを」


 そう一言呟いて、大地を一蹴り疾風の如く走り去る志狼と、彼の後を追い掛ける朱王。

懐に突っ込まれた志狼の右手が短刀を握り、襲い掛かる黒影の頭巾を鮮やかな手付きで切り裂き、その隣では研ぎ澄まされた太刀を踊るような身のこなしで振るう朱王が、中段の構えで切りかかろうとした影の太刀を一撃の元に叩き落とす。


 相手は五人にこちらは三人、負けるはずなど無い。

桐野の隣に立ち、二人の戦いを見守っていた海華だったが、実際は相手が五人にこちらは『二人』だった。いの一番に飛び出していった後藤、掛け声や気合いだけは勇ましいが、繰り出す攻撃はことごとく外れ、端から見ていると闇を相手にじたばたと暴れているようだ。


 「―― 実戦には縁遠い御方だとは思ったけど……」


 右頬に手を当て、少しばかりの呆れを含ませた声色で海華が呟く。

武士なのだから剣術の心得はあるだろう。

しかし、以前志狼が言っていたように、道場で木刀を振るうのと、血飛沫舞う実戦とは雲泥の差だ。

年のせいもあるのだろうか、次第に足元がふらつき息も激しくなる後藤。

しかし、滅茶苦茶に振り回す太刀は思いのほかかわすのが困難であり、彼と対峙する影も反撃の機会を掴めないでいるようだった。


 「桐野殿! 海華殿! 後藤殿は大丈夫であろうか?」


 よたつく彼の姿を前に、さすがに心配になったのだろう、孝俊は戸惑いの表情を浮かべて桐野の元へ駆け寄る。


 「そう御心配なされますな。こちらには朱王と志狼、あの二人がおります。あの二人は腕も確か、時期に全て片付く……」


 「しかし……しかし! 私のために、朱王殿や、後藤殿の身を危険に曝すなど……! ここで傍観してはいられないっ!」


 まるで自分に言い聞かせるよう叫んだ孝俊の顔が、みるみる厳しい面持ちに変わっていく。

桐野と海華にとって、これは予想外の事態だった。


 「若様!? 孝俊様! お待ちください、何を……!?」


 「決まっているだろう桐野殿! 後藤殿の助太刀を致すのだ!」


 桐野の静止を振り切って、孝俊は一度収めていた太刀を再び引き抜き、クルリと踵を返す。

海華の口から放たれる声になら無い叫び。

無言の雄叫びを上げる孝俊が駆けてくるのを、後藤はおろか朱王や志狼も全く気付いていなかった……。


 『今行くぞ!』遠くから聞こえた孝俊の叫び。

驚いて背後を振り返った朱王、志狼、そして後藤の目が、太刀を振りかざしてこちらへ駆けてくる孝俊の姿を捉える。


 「こりゃマズイぜ!」


 「海華は何をやっているんだ!?」


 思いもよらぬ彼の行動に、志狼と朱王がほぼ同時に叫ぶ。

孝俊にとっては皆の力になりたいがため、後藤を助けたいがための行動なのだろうが、朱王らにしてみれば『足手まとい』が一人増えたようなものだ。

今すぐ走り出て彼を止めたいのは山々だが、 二人ともに敵と刃を交わらせている最中だ。

渾身の力でそれぞれの相手と鍔迫り合いを交わしていた二人は、一瞬の隙をついて力一杯相志狼手を突き放し、志狼は鳩尾へ、そして朱王は首筋へとそれぞれ一撃を食らわせて、黒影らを黙らせる。


 二つの身体が足元に崩れ落ちたとほぼ同時、朱王の視界の片隅で煌めく何かが宙を飛んだ。


 「若様危ないッ! お逃げ下さい……お逃げ下さいませッ!!」


 発狂したかと思うほどの金切り声をほとばしらせ、後藤は太刀を放り出し孝俊へと踵を返す。

勿論、敵に背を向ける格好となる。

敵が、この好機を見逃すはずはなかった。

全ては一瞬の出来事。

朱王や志狼が加勢する間も無く、敵の刃が後藤の背中目掛けて振り下ろされ、海老茶色の羽織、その右肩辺りが斜めに切り裂かれる。

張り裂けんばかりに目を見開いたまま孝俊の胸へと倒れ込む後藤。


 素早く体勢を整えた黒影が大きく足を踏み込み、後藤の心臓へとどめの一撃を打ち込もうとした刹那、黒影のこめかみ、そのすぐ上辺りに銀色の光が一直線に突き刺さる。

グシャ、と卵が割れるような鈍い音を響かせて、黒影の頭巾が奇妙に歪む。

悲鳴など無い、ただ大きな体躯を痙攣させて黒影は太刀を握ったまま、土煙を上げて大地へ倒れた。


 黒頭巾から染み出る鮮血は、歪な形となって辺りに広がり、鉄臭い異臭を辺りに拡散させた。


 「やった……! 間に合った!」


 彼方から聞こえたのは歓喜を含ませた海華の声。

彼女の手元で何かが微弱な光を反射しながら揺れている。

しかし、朱王らの意識はすぐに海華から、孝俊に抱えられ倒れ伏す後藤へと戻された。


 「後藤様!」


 「後藤殿っ! しっかりなされよ!」


 青白い顔をして自らの腕の中で横たわる後藤の身体を激しく揺さぶり、必死の形相で叫ぶ孝俊と、側にひざまづき首の脈を取る桐野。

しかし、呼べど叫べど後藤はピクリとも動かない。

これは一刻も早く医者に運ばねば、そう誰もが思ったその時、乾いてひび割れた彼の唇から、ウゥ、と小さな呻きが漏れた。


 「後藤殿! 大丈夫か、しっかりしろ!」


 「若、様……ご無事、ですか……?」


 虚ろな瞳で孝俊を見上げる後藤が、掠れた弱々しい声色で問う。

大丈夫だ、そう言わんばかりに何度も頷いた孝俊は、先ほど自分がされた時のように後藤を抱え起こす。 羽織は右肩辺りがザックリ切り裂かれているようだが、目立つような出血はないようだ。

とにかく医者の元へ、と桐野に促されて、後藤は孝俊と桐野に身体を支えられながらその場を後にする。 『都筑達が来るまで見張りを頼む』そう桐野に命じられた朱王らは、三人でこの場に残る事となった。


 「危ないところだったわねぇ。まさか孝俊様が、あんな真似するとは思わなかったわ」


 大地に転がる男らを見下ろしながら、海華が言う。


 「本当だな。だが……お前がいてくれて助かったよ」


 「あら、そう? 珍しいわねぇ、兄様がそんなに誉めてくれるなん……て……」


 朱王の言葉を嬉しそうに聞きながら、クルリと彼の方を振り返った海華。

しかしその顔は、冷たい氷のような眼差しを向け、腕組みして仁王立ちとなる朱王を見た刹那、笑顔のままに凍りつく。


 「よくやったついでに、よーく見せてもらおうか? お前が『ぶっ放した物』をな?」


 口許だけを笑みの形に歪ませて、朱王は海華へ右手を突き出す。

相変わらず目だけは笑っていない。

これを拒めば大変なことになる、そう海華は悟覚ったのだろう、引き攣った表現のまま震える手で袂をまさぐった彼女が取り出した物、それは朱王の読み通り、深紅に染められた組紐だった。

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