第三話
藍色の空に道標の星が瞬く。
寒風に吹かれ茶色に枯れた葉を震わせる商家の垣根、その脇を橙色の提灯を携えた人影が三つ、夜の寒気から逃れるように足早に通り過ぎた。
「―― 始めてで緊張したが、なんとか無事勤められて良かった」
どこかほっとした様子で言った侍、雪之助の隣で提灯を揺らす志狼は、ぐるりと首に巻いた襟巻きの端を風に揺らせて軽く口角を上げる。
男二人のやや後ろを歩く海華も、片手にぶら下げた四角い風呂敷包みを前後に振り、冷気に頬を赤く染めながらニコニコと微笑んだ。
「雪之助様は本当に字がお上手ですから。代筆業には持ってこいだって、ご住職もおっしゃってましたよ」
「いや、文を書くだけであれほど重宝がられるとは思わなかった。場所を貸してくれたご住職にも感謝せねばな」
「そうですね。でも、子供らの相手も嫌がらねぇし、雪之助様はお心も優しいから向こうも二つ返事で承諾してくださったんです。雪之助様の人徳もありますよ」
志狼と海華の言葉に、雪之助はひどく照れ臭そうにはにかみ頭を掻く。
今日、二人は雪之助を長屋近くにある寺へと連れて行った。
そこは中西長屋の子供たちが集う寺子屋でもあり、雪之助を読み書きの師範兼、代筆屋として置いてもらえるように頼んだのだ。
今日始めて会った侍を、いきなり寺へ置いて大丈夫なのか? どこか不安そうな、そして怪訝な表情で雪之助を見遣っていた住職にだったが、雪之助の穏やかで子供好きな性格と美しい文字がすっかり気に入ったようで、快く寺の一室を貸してくれる事となったのだ。
物は試しと今日一日は青っ鼻を垂らした悪ガキの相手をして竹馬だの面子だの、そして習字の手本書きにと慌ただしかった雪之助。
さすがの彼にも疲れの色が見て取れる。
早く長屋に返って美味い飯を食いたい、そう言いながら笑う彼の爪先が、道に転がる小石を軽く蹴飛ばした、その瞬間だった。
道と道とが交差する十字路、商家をグルリと囲む生け垣の陰から、漆黒の人影が数人疾風の如くに飛び出してくる。
足音も聞こえぬ素早い身のこなし、夜の闇をそのまま頭から被ったようにも見える人陰は、黒い頭巾を被った侍だった。
「誰だっ!?」
目の前に立ち塞がる侍達を鋭い目付きで睨み付けて志狼が叫ぶ。
しかし、それに対する答えは帰らぬまま、侍らはあからさまに殺意を込めた眼差しを志狼ではなく、雪之助へと向けた。
「やっと見付けた」
「間違いない、あの時、確かにとどめを……」
頭巾の向こうから聞こえるくぐもった声色、 しかし当の雪之助はキョトンとした様子で小さく小首を傾げている。
「久保田藩、久保田 孝徳様嫡男、小竹 孝俊殿に間違いござらぬか?」
志狼の左前に立つ、一際体躯の大きな侍が野太い声で尋ねる。
「久保田藩? 小竹……? 一体何の事だ?」
ひどく不思議そうな眼差しを侍らに送る雪之助。
そんな彼を庇うように前へ立った海華は、侍らの手が腰の物へ伸びるのを見逃さない。
彼女の背中に、冷たいものが一筋流れた。
「そなたら、私を誰かと見間違って……」
「ええぃっ! 黙れッ! その顔、見間違えるはずはないわっ! 今度こそ……今度こそ、お命頂戴仕るッッ!」
絶叫にも似た叫びを喉の奥から張り上げて、侍らは次々と腰の大刀を引き抜く。
闇に煌めく鋭い刃、天に輝く月光に照らされた白刃を確かめた刹那、志狼は手にしていた提灯を彼方へ放り投げ、電光石火の速さで懐から短刀を引き抜いて、その切っ先を侍らへと向けた。
「海華ッ! 雪之助様を頼むぞっ!」
志狼が一言叫んだと同時、怒号一発、五本の刃が空を斬り裂き三人へ襲い掛かる。
状況が掴めぬまま、呆然とその場に立ち尽くす雪之助の手を海華が力一杯引っ張り、垣根と垣根の間、商家の敷地内へ半ば無理矢理彼の身体を押し込めた。
「海華殿!? 何を……」
「ここの裏を回ってお逃げください、この道を真っ直ぐ走れば、さっきのお寺に着きますからっ!」
言葉自体がはっきり聞き取れぬほどの早口で雪之助にそう告げた海華は、そのまま身を翻し志狼の元へと駆ける。
黒い世界を斜めに裂く白い軌跡、大刀と短刀、金属同士がぶつかり合い殺気立った空気を火花が彩る。
相手は五人、いくら手練れの志狼とは言え一人で相手をさせる訳にはいかなかった。
襲い来る刃を軽い身のこなしで避けながら、雪之助を標的に駆け寄ろうとする侍へ短刀振るう。
真正面から降り下ろされた刀を横に寝かせた短刀で受けた志狼は、歯を食い縛りつつジリジリと後ずさる。
大の男の一撃を片手一本で受ける彼の横から、侍が二人飛び出し、左手を吊る白布を狙って白刃を構える。
頭巾のために表情は見えない、反撃したい、しかし身動きが取れぬまま刃を張り裂けんばかりに見開いた目で追う志狼、細い顎先から一滴の汗が宙に飛んだその時、頭巾を被った顔が激しくぶれた。
ガツッ! と柔らかいものを打ち砕く鈍い響き。
刀を放り出しながら、侍は悲鳴の一つも上げられずに道へと吹き飛び、固い地面に顔から激突する。
土煙にまみれ、ピクピク痙攣する侍の横には四角く黒い物体が転がっている。
唖然とした様子でそれを見詰める志狼と侍。
目を凝らしてよくよく見ると、四角いそれは雪之助が寺で使っていた硯だった。
そして、それが飛んできた方向には、輝く月を背中に仁王立ちとなる海華と、彼女の隣で刀を手にしてこちらを凝視する雪之助の姿があったのだ。
「おの、れ……ッ! 貴様ァ……!」
志狼に刃を振るった侍の手に太い筋が浮かび上がると同時、刀の鍔が鳴る音が不気味に響く。
それを合図としたのか、志狼は思い切り後方へと跳ね飛び、二人へと走り寄った。
「どうして逃げねぇんだっ!」
「志狼さん置いて逃げられる訳ないじゃない!」
海華にしか聞こえないくらいの小声で志狼が言う。
チラリと横目で彼を見た海華は、眉間へ微かな皺を刻ませ、そう答えた。
「どこの何者かは知らぬが、邪魔立てすると容赦はせぬぞっ! 孝俊殿をこちらへ寄越すのだっ!」
「容赦しないは、こちらの台詞だ! 」
凛とした叫びが月光に包まれた闇に飛ぶ。
「貴様らが誰かは知らぬ、そして俺は孝俊などではないっ! 闇討ちとは卑怯な……正々堂々かかってこぬかッ!」
普段の雪之助からは聞いたことがない厳しくも凛々しい声に、海華は勿論、志狼までもが驚きを隠せない。
中段の構えをとり、切っ先を侍らに向けた雪之助の足が、乾いた地面を踏み締める。
「ここで退くか、刀の錆と変わるか、どちらだッ!?」
形のよい眉を限界まで逆立てた雪之助の最後通告。
それが利いたのだろうか、一瞬躊躇うように後ずさる侍らは、抜き身を手にしたまま次々と踵を返して闇の向こうに走り去っていく。
バタバタと慌ただしい足音が次第に小さくなるのを確かめて、雪之助と志狼はそれぞれの凶器を鞘へと納め、腹の底から大きな溜め息を吐き出した。
ぐっしょりと鮮血に濡れた黒頭巾が外され、白目を剥いて泡を吹く侍が戸板に乗せられ運ばれていく。
ムッとする血の臭いに顔をしかめてそれを見送る高橋は、少し離れた場所にしゃがみ、道に散らばった硯箱の中身を広い集める海華へ視線を投げた。
「あの侍は、海華がやったのか?」
ボソリと独り言のように呟いた高橋、その言葉に首を縦に振って答えたのは、彼の隣に立つ志狼と雪之助だ。
突如襲ってきた侍らを撃退した後、志狼は一目散に番屋へと走り忠五郎や留吉を現場に引きずり出してきた。
それは自然と部行所、つまり桐野や高橋らの知るところとなるのだ。
取るものも取らず駆け付けてくれた都筑や高橋達、夜も遅いと言うのに騒ぎを聞き付けあちこちから現れる野次馬達で、現場は騒然とした雰囲気だ。
「しかし、先ほどの海華殿は見事だった。まさか硯を投げ付けるなど、考えもしなかった。しかもあの鮮やかな手並み、畏れ入ったぞ」
わいわいガヤガヤと賑やかな野次馬を一瞥した雪之助は、海華を眺めて感心したように頷く。
『男一人を打ち倒すなど女だてらに出来ることではない』 そんな彼の言葉に志狼が苦笑いを漏らしたその 時、野次馬の人垣が一瞬崩れ、男二人が飛び出してくる。
「おい海華ッ! 雪之助様ッ!」
「志狼! おい志狼!」
「あ、兄様だ」
「旦那様も、っ!」
人混みの中から血相を変えて駆け寄ってくる二人、朱王と桐野を見付けた海華と志狼の口から、すっとんきょうな声が漏れる。
息を切らせて二人の側に走り寄った朱王は、傷一つない彼らを見て腹の底から大きな息を吐き、顔や首に絡まる髪を振り払った。
「どうやら無事だったようだな……。雪之助様も、お怪我はございませんか?」
「私はどこも何ともない。朱王殿、心配を掛けさせてしまって申し訳なかった」
ひどくすまなそうに一礼する雪之助に、朱王は荒い息を整えながら首を横に振る。
それを見ていた桐野は、無言のまま志狼を手招きして、静かにその場から離れた。
「とんだ目に遇ったな。皆、無事でよかった」
「はい、お騒がせしてしまって……申し訳ありません。―― 旦那様、私達を襲った相手なのですが……」
桐野と顔を寄せ合いひそひそと声を潜めた志狼の目が、雪之助へ向けられる。
「雪之助様を、小竹 孝俊殿と、呼んでおりました。十中八九、久保田藩の……」
「そうだろうな。それも弟君の配下の者だろう。だが、今回の一件で雪之助殿が孝俊殿だと決まったようなものだ」
そう言って桐野は黒い羽織を翻し、屈めていた背中を伸ばす。
雪之助の身上が判明したのは何よりの事、しかし今の彼に命の危険が迫っているのもまた、確かなのだ。
硬い表情を崩さない志狼と共に、桐野は胸の前で腕組みしながら雪之助を眺める。
「―― 雪之助殿は、孝俊と呼ばれてどのような反応をした?」
「俺は孝俊などではない、と……。まだ記憶は戻らないようです」
「そうか、まぁ、そう簡単に戻るとは思えぬからな。実は今日、お奉行の所に客人が参ったのだ。自分達は久保田藩の家臣で、行方知れずとなった若君を捜しに参ったとの事。明日にでも雪之助殿と対面させようかと二人で相談していたところだった」
あのおっとりした若侍が一国一城の主となるべき男など、修一郎も桐野もにわかには信じられなかった。
だが、二人の前に現れた侍達が嘘を言っているようにはどうしても思えない。
雪之助の安全が確保される場所で対面させようと話し合っていた矢先の騒ぎだったのだ。
都筑からの知らせを受け、やおら色めき立つ侍達をどうにか宥めて奉行所に押し留め、桐野は途中で朱王と落ち合いこの場へと急ぐ、その道すがら朱王にも大体の事は話したのだが、妹夫婦の身を一番に案じる彼が、しっかり話を聞けていたか、そう言われると桐野も確実な返事が出来ない。
当の朱王は、なんやかんやと海華に小言をこぼしながら、話の端々で『無事でよかった』と何度も口にしている。
取り合えず、今宵は雪之助と朱王を長屋へ帰し、明日改めて奉行所に呼び出そう。
桐野の提案に、志狼は二つ返事で頷く。
そして翌朝、早々と朝飯を終えた朱王と雪之助は、身支度もそこそこに修一郎と桐野らが待ち構える北町奉行所へと向かったのだ。
奉行所の裏口から足音を忍ばせるようにない部へ入り込んだ朱王と雪之助。
事が事だけに、あまり人目につかぬよう足早に裏口を潜り抜けた彼らをを待っていたのは桐野と志狼の二人だった。
「早くに呼び立ててすまぬな」
日に焼けた顔に小さな微笑みを浮かべた桐野へ二人は一礼する。
白く煌めく朝の太陽が広い中庭へ降り注ぎ、葉を落とし、細い枝のみを空っ風に震わせる木々を穏やかに照らした。
「雪之助殿、昨夜はゆっくり休めましたか?」
「はい、お陰様で。朱王殿から聞いたのですが、私の事を知っているという方がここに……」
「はい、もう向こうでお待ちになっております。さ、どうぞ中へ」
心なしか不安そうな表情を浮かべる雪之助を奉行所の中へと案内する桐野。
先を行く二人の背後をつく朱王と志狼。
と、朱王は唐突に隣を歩く志狼の袖を引き歩く速度を遅めさせた。
「ん? どうした?」
「今日、海華は来ているのか?」
「ああ、来てるぜ。修一郎様と部屋で待ってる」
さも当たり前、といった様子で志狼は返す。
やはり、あのじゃじゃ馬が屋敷でおとなしく待っている筈がない。
思っていた通りの展開に、朱王は小さく溜め息をつく。
「そう嫌な顔するなよ。ここへ呼んだのは修一郎様と旦那様なんだ。あいつ、襲ってきた奴等に面がわれてるだろ? 屋敷に一人置いといて何かあったら大変だ、ってな」
「そう、か……。お二人にお気遣い頂いたんだな。ところで、海華が硯ぶち当てた侍はどうなった?」
自分が現場に駆け付けた時は、地面にどす黒い血溜まりが残るだけだった。
「あれか? 心配すんな、生きてるぜ。あいつも上手いこと急所を外したみたいだ。今頃は都筑様方が締め上げてるだろうな」
あっさりと志狼が言い切ったその時、桐野の手が修一郎らがいるであろう部屋の襖へと掛かる。
『失礼致します』その台詞と同時に襖が開く。
桐野の姿が室内へ消え、すぐに雪之助が中へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
「若様ッッ! 若様じゃ、間違いないっ!」
「若様……! 孝俊様ッ! よくぞご無事で……!」
歓喜に満ち満ちた男の叫びが二つ、襖の向こうから突き抜ける。
尋常ではないその声に思わず顔を見合わせた朱王と志狼は、恐る恐る室内を覗き見た。
そこには驚きの表情を浮かべて立つ雪之助の足にしがみつく、初老の侍と年の頃三十路は過ぎているであろう侍の姿があった。
「貴方がたは……一体どなたですか? 私の事を、何か知って……」
「知っているも何も! 若様、いえ孝俊様、この顔を、新兵衛の顔をお忘れですか? 若様がまだ幼い頃よりお側におりました、この新兵衛の顔をお忘れですかっ!?」
ほとんど悲鳴と同じ叫びを上げて、新兵衛と名乗る初老の侍は弾かれるように立ち上がり雪之助の胸ぐらを強く掴んで細身の身体にしがみつく。
目を白黒させながらガクンガクンと首を前後に振られる雪之助は、まるで助けを求めるようにその口をパクつかせる。
『後藤殿、どうか落ち着いて!』そう叫んだ年若い侍は、見るに見兼ねたのか雪之助にすがる侍を後ろから羽交い締めにし無理矢理引き離す。
全ては、一瞬の出来事だった。
「後藤殿! 後藤殿お止め下さいッッ!」
「離せ山崎ッッ! また、またこうして若様にお会いする事が出来たのだぞっ! それなのに……それなのに、っ!」
深い皺の刻まれた顔が苦しげに、悲しげに歪む。
雪之助から引き剥がされた侍は、まるで全身の力を失ってしまったかのようにその場へ崩れ落ち、背を震わせて畳へ突っ伏した。
凍り付いた空気に低い嗚咽が途切れ途切れに漏れる。
目の前で起こった一騒ぎ、それを呆然と見詰めていた朱王と志狼。
ふと視線を侍達から外せば、正面にはどこか呆れた眼差しを三人へと送る修一郎と、小さく咳払いをする桐野、そして丸い目を更に丸くしてこちらを見る海華の姿があった。
「後藤殿、どうぞ落ち着かれよ。孝俊……いや、雪之助殿も戸惑うておられる。朱王、志狼お前達もそこへ座るがよい」
固まった空気を再び動かしたのは、ここの主とも言えるだろう修一郎だった。 その言葉を合図としたかのように、山崎と呼ばれた侍は畳に突っ伏す侍を抱えて後ろへと下がり、突然の事に硬直してしまった雪之助を、部屋の隅からきた海華が誘導するように畳へ座らせる。
「海華殿、この方々は……」
「は、い。私もよくは……」
キョトンとした様子で目を瞬かせる雪之助に問われ、海華は困ったような笑みを見せる。
そんな彼らの前で、ゴホンと一つ咳払いをした修一郎は、いまだ項垂れたままの侍二人へ視線をやった。
「雪之助殿、このお二方は久保田潘、年寄本役、後藤 新兵衛殿と、後藤殿の側付きである 山崎 実唯殿だ」
修一郎の紹介に、二人は朱王らに向かい小さく会釈する。
年寄本役、つまり後藤は家老と同等の地位にある侍だ。
慌ててを居住まいを正した朱王と志狼、そして海華は畳に額を擦り付けるように深々と一礼した。
「どうぞ、顔を上げられよ」
涙に濡れた目元を握り締めた拳で何度か拭い、後藤は朱王らと向き合うように体勢を変える。
深い皺が刻まれる日に焼けた顔は、山猿にそっくりだ。
風雨に曝されたのだろうか、色褪せ、埃に汚れた羽織袴を纏う彼は、家老と言うより流浪人に近く見える。
二人に対する修一郎の態度からして、彼より石高は低いのだろう。
ゆっくりと顔を上げつつそう考える朱王へ、後藤は引き攣ったような笑みを投げ掛けた。
「上条様から、そなたの話は聞いておる。若様……いや、久保田潘当主、小竹 孝俊様のお命をお救い下さり、なんと礼を申してよいか……」
そこまで口にし、再び声を詰まらせた後藤は、身体を二つに折り曲げるように深々と朱王へ向かい頭を下げる。
「そんな、どうぞ顔をお上げください。私は当たり前の事をしたまで。それに、雪之助様……小竹様の記憶が、まだ……」
最後の言葉を濁した朱王は、チラリと雪之助を見る。
その視線に気が付いたのだろう、困ったように肩を落とした雪之助の口から、大きな大きな溜め息が放たれた。
「そうだ、私はまだ記憶が戻らぬ。―― いきなり、久保田潘当主だのと言われても……それに後藤殿、そなたらの事も、全く覚えていない。いや、わからないのだ」
『すまぬ』ひどく申し訳なさそうにうつ向いてしまう雪之助を前に、もはや後藤も山崎も返す言葉が出ない。
再び訪れた哀しくも気不味い沈黙。
沈み込む侍達と雪之助を交互に見ていた海華が、恐る恐るといったように唇を動かす。
「あの……よろしい、ですか?」
「おぉ、なんだ?」
彼女の言葉に逸早く反応したのは、いつもの事ながら修一郎だ。
「はい、畏れながら申し上げます。私はお医者ではありませんので、はっきりした事は申し上げられないのですが、記憶って……一朝一夕 で戻るものではないと思うんです。それで……」
「それで? お前は何が言いたいんだ? 回りくどい言い方は……」
『早く本題に』とばかりに海華を急かす朱王。
この重苦しい空気が耐えられない気持ちがわかる海華は、内心焦りながらも言葉を続けた。
「わかってるわよ、今話すから。――あぁ、すみません。私が言いたいのは、その……雪之助様を、もう少しだけ兄様の所に居させてあげて……」
「なに!? 今しばらく江戸に留まる!? ならん! それはならん!」
海華の台詞が終わらないうちに、引っくり返った叫びが部屋中に響き渡る。
赤黒く日焼けした顔面から血の気を失せさせ、畳から腰を浮かせたのは、今まで後藤と朱王らのやり取りを静観していた山崎だった。




