第二話
「兄様が言いたいことくらい分かるわよ。お洗濯だってお料理だって、一人も二人も変わらないわ。志狼さんにも、訳は話しておくから」
兄なりに迷ったのであろう事は海華にもよくわかるし、何より反対を聞き入れる男ではない。
頑固なのは兄妹一緒だ。
「手間かけさせてすまないな」
どこかホッとした表情を見せて朱王が微笑む。
家事がからっきし駄目な彼にとって海華と志狼の協力は欠かせない。
『いいのよ』そう一言言った海華は、雨風に曝され変色した長屋の壁に身を凭れ掛けさせた。
「志狼さんだって、わかってくれるわ。それより……奉行所には届けたんでしょうね?」
「勿論だ。行方不明で誰かが探しているかもしれないからな。―― 着ていた物は粗末だが、それなりに身分のあるお人に違いない」
襲われた時に着ていた着物は、水浸しのうえに、あちこち切り裂かれ、もはや使い物にならない。
棄ててしまう前に改めて見たのだが、着物も袴もそこらの古着屋で扱われている物と同じだった。
「どこかの食い詰め浪人かなんかじゃないの? 大方、お酒に酔って喧嘩でもして……」
「いや、俺にはどうしてもそうは思えないんだ。お前も一度話してみればわかる。まずは、俺からお前と志狼の事を説明しないとな。少し待ってろ」
そう言い置いて、朱王は一人部屋へと戻っていく。
ヒュゥヒュゥと長屋を吹き抜ける空っ風に身を縮め、朱王が戻ってくるのを待つ海華。
やがて、『入っていいぞ』との声と共に、朱王が再びその姿を現した。
「失礼致します。あ……始めまして」
勝手知ったる部屋の中、ペコリとお辞儀をして足を踏み入れる、なんだか妙な気分に気分になりながらも、海華はそろそろ頭を上げる。
それと同時、部屋の中に静かに正座する侍と視線がかち合った。
「朱王殿から話しは聞いた。海華殿、と言ったな? これから……どうかよろしく頼む」
青白く、細面の顔が小さな笑みを浮かべる。
年の頃は二十歳前半、すっきり通った鼻筋と二重の瞼、紅を塗ったように赤い唇は、どこか歌舞伎役者を思わせる顔立ち。
世間で言うなら色男の部類に入るだろう。
「私はどこぞの某だ、と……名乗りたいのだが、それすらもわからぬのだ、すまぬな」
困ったように笑いながら頭を掻く侍、間に合わせで朱王の着流しを纏っているのだが、なにしろ背丈が朱王とは違いすぎる。
ダブダブの袖や胸元から覗く肌は遠目から見ても滑らかで女と見間違うほど、透き通るように白かった。
「どうぞお気になさらずに、兄から全て聞いております。こんな狭っ苦しい所ですが、どうぞ養生なさって下さいませ。あぁ、それと……」
ふと何かを思い出したように、海華は侍の隣に座る兄へ目を向ける。
「いつまでも『お侍様』じゃぁ、何かと不便だわ。ここにいる間だけでも、仮の名前をお付けして差し上げたらどうかしら?」
「名前、か……。そうだな、いつまでも『お侍様』では、何かと面倒だ。もしよければ、二人に新しい名前を考えてもらいたいのだが……」
海華の提案にポンと一つ手を打って、侍は赤い唇を綻ばせる。
しかし、朱王は小さく眉をひそめて侍と海華を交互に見た。
「ですが、私達が名付けなど、本当によろしいのですか?」
「是非ともお願いしたい。今、便りになるのはそなた達しかいないのだ」
『頼む』そう言って頭を下げられてしまっては、朱王とて嫌とは言えない。 早速、彼は畳の上に一枚の紙を広げて筆を持ち、侍と海華は額を寄せるようにその紙を覗き込む。
「あまり厳つい名前じゃ駄目ね。川端 太郎……全然駄目か」
「もう少し響きの良い名前にしろよ。柳町で見付かったんだから、柳……そうだな、柳 冬之助はどうだ?」
「冬之助かぁ……それなら、柳 雪之助、はどう? あたし、お侍様にピッタリだと思うわ」
ニコニコ笑いながら、紙に書かれた『柳 雪之助』の名前を見詰める海華。
確かに響きも字面もそれなりに綺麗だ。
侍も満更ではないように表情を緩めて何度か頷く。
この日、『柳 雪之助』なる侍が一人、中西長屋の新たなる住人となったのだ。
さて、翌日より『お侍様』改め『柳 雪之助』なる侍と朱王、男二人の同居生活が始まった。
突然長屋に住まうことになった身元のわからぬ男に、最初は長屋の住人らも幾分警戒してはいたが、どこかおっとりと、そして気心の優しい雪之助はすんなりと、長屋暮らしに溶け込んでいく。
しかし、彼には一つだけ大きな問題があった。
「朱王殿、朱王殿、これは一体何と言う物なのだ?」
「これですか? これは井戸です。この桶を下ろして、こう水を汲む……」
「ほう、水とはこうして汲むものなのか……。お!? そこの奥方! そなたが持っている布地はなんだ?」
「これですかぁ? うちの子のムツキでございますよ。これから洗って……あぁ! 触っちゃダメですよ! 汚いってば!」
……と、毎日がこの感じ。
見るもの触るもの聞くものを『これはなんだ』と誰彼構わず尋ねて回るのだから堪らない。
朱王にしてみれば幼い子供を相手にしているようなものだ。
「―― いくら記憶がねぇと言ってもな…… まさかあそこまでとは思わなかったぜ」
井戸端で米を研ぎながら、志狼がポツリとこぼす。
それに同調するかのように、すぐ隣で大根を洗っていた海華が溜め息混じりに頷いた。
「これはなんだ、あれはなんだ、って兄様朝から晩まで質問攻めよ。後は、顔洗うところから寝巻きに着替えるまで、全部教えて上げないと出来ないの。刀の手入れだけは自分で出来るみたいだけどね」
「そりゃ、武士にとっちゃぁ命だからな。それも忘れてんなら、いっそのこと町人として暮らしゃあいいんだ。……火吹き竹覗いて空眺めてるお侍ってぇのを、俺は初めて見たぜ」
米の入った笊を抱え、呆れ半分でそう口にする志狼に苦笑いを見せる海華。 ふと後ろを振り返れば、長屋門の横で子供らに囲まれた雪之助が慣れない手付きで駒を回しているのが見える。
「あっという間になつかれちゃったわね。子供がそのまま大きくなったようなお方だけど……食事に文句付けられないだけありがたいかしら」
「そうだな。朱王さんが言うにはそれなり身分のあるお方らしいからな。メザシでも大根の葉でも喜んで食ってくれるから、こっちも助かるぜ」
きっと口は肥えているに違いない、自分達が食べている物と同じで大丈夫だろうか、と恐る恐る朱王と同じ料理を出してみたのだが、美味い美味いと喜んで食べてくれる。
身の回りの事は使用人が全て行っていたのか、それならば、身仕度一つとっても手間が掛かるのは仕方ないだろう。
上げ膳据え膳でないのなら、そこらの下級役人でないのは確か、きっと家族が探しているはずだ。
身元が判明するのは早いだろう。
どうやら、志狼はあまり深刻には考えていないようだ。
「でもな海華、いつまでもああやって遊ばせておく訳にもいかねぇんじゃねぇか? まぁ、 朱王さんなら二人分の食い扶持稼ぐのは簡単かもしれねぇけどよ」
「あたしもそう思うのよ。お金の事もそうだけど、何かやっていた方が気が紛れると思っ て……。子供が嫌いじゃないのなら、寺子屋の先生とかはどうかしら?」
大根の葉に付いた水滴を手で払いながら海華が立ち上がる。
つられるように立ち上がった志狼も、子供達の歓声に囲まれ微笑む雪之助を見ながら小さく唇を綻ばせた。
「そうだなぁ、適職かもしれねぇ。一度、朱王さんにも話ししてみようぜ。―― さ、俺達は早いとこ飯炊きしちまおうか」
笊から滴る水を手早くきって、志狼は部屋へと向かう。
彼の後をついて海華が一歩足を踏み出したその時、長屋門近くにある部屋から大家の女房、お石がひょこりと顔を覗かせた。
「あら、丁度良いところにいたよ。ねぇ海華ちゃん、今さぁ、朱王さんは忙しいかい?」
海華の顔を見るなりそう発したお石。
彼女の手には綺麗に折り畳まれた紙のような物が覗いている。
「ううん、大丈夫だと思うわ。お石さん、代筆?」
「そうなのさ。朱王さんは字が綺麗だからねぇ。うちの人やあたしみたいに、マズイ字で文を出すのは恥ずかしいからさ」
欠けた前歯を覗かせて、お石はどこか照れ臭そうに笑い、海華と志狼について朱王が待つ部屋へ向かっていった。
「兄様! 兄様入るわよ!」
水の滴る大根を抱えた海華が勢いよく戸口を引き開ける。
作業机の前で人形の腕に胡粉を塗っていた朱王は、志狼の後から入ってきたお石の姿になぜか小さく眉をひそめた。
「お石さん、お気持ちはありがたいが、もう見合い話しは……」
「あら嫌だ、違うよ朱王さん。今日は見合い の話じゃないんだよ。あたしの代わりに文を書 いて欲しいのさ」
困ったように笑いながらお石は手にした紙をヒラヒラ振る。
「あぁ……代筆です、か。それは申し訳無い、早とちりでした。まぁ、中へどうぞ」
気恥ずかしそうに頭を掻きつつお石を中へ招き入れた朱王。
彼の差し出した継ぎはぎだらけの座布団に彼女が腰を下ろした時、片手に小さな独楽を握った雪之助が、ひょこりと顔を覗かせる。
「海華殿、朱王殿は何をしているのだ?」
「手紙の代筆ですよ。お石さんの代わりに、兄様が手紙を書くんです」
まな板の上に乗せた大根を真ん中から真っ二つに切りわけて、海華は硯箱から墨や筆を取り出す朱王を横目で見遣る。
『代筆か』そう小声で呟いた雪之助は、やおら独楽を懐に押し込み、部屋へと上がった。
「お石殿、もし良ければ、その文を私に書かせて貰えないだろうか?」
子供のように目を輝かせて己を指差す雪之助を、その場にいた全員が驚きに目を丸くして見詰めた。
「雪之助様が、代筆を?」
「そうだ。私だって字くらいはかけるぞ。朱王殿より達筆かどうかはわからぬが……一度書かかせてくれぬか?」
じりじりとお石、そして朱王へにじりよる雪之助。
そこまで言うならば、と、朱王は墨を含ませた筆と紙を彼へ手渡した。
「さて、お石殿。文を出す相手は誰だ?どんな内容を書けばよいかな?」
「あー……相手はあたしの妹なんですよ。内容は……そうですねぇ、先日は便りをありがとう。皆、恙無く暮らしているようで何よりです……」
視線を宙に走らせながら手紙の内容を話していくお石と、畳に広げた紙に筆を走らせていく雪之助。
彼が書き記していく文字に、朱王は勿論、海華、いつの間にか彼女の背後より顔を覗かせていた志狼までもが釘付けとなる。
「―― 字、上手ぇな……」
「本当、綺麗ね」
感心するように頷きながら志狼と海華は雪之助の手元へ目を遣る。
朱王が達筆なのは海華は勿論、志狼も知っていたが、雪之助も同じ……いや、それ以上かもしれない。
紙の上にしたためられる流れるような墨文字は、誰が見ても『美しい』ものだ。
最早、達筆の域を越えており、どことなく雪之助も楽しげに筆を滑らせていた。
「凄いねぇ、雪之助様。いつも書いてもらってる朱王さんにゃぁ悪いけど、あたしゃここまで綺麗な字は始めて見たよ。出羽(秋田)にいる妹もビックリするんじゃないかねぇ」
自分の発した言葉が文字に変わっていくのを目を細めて眺めるお石、彼女が何気無く口にしたその台詞を聞いた途端、雪之助の筆がピタリと止まる。
微かに震える筆先。
紙面に接したままのそこから墨が滲み、書きかけの文に黒い水溜まりが生まれ、広がっていく。
「……雪之助様? 雪之助様、どうなさいました?」
まるで金縛りにあったように動きを止めてしまった彼の異変に気付いた朱王が、不思議そうに目を瞬かせながら問い掛ける。
しかし、雪之助は朱王の呼び掛けに答えず、『出羽……久保田……』とぶつぶつ呟くだけだ。
「あらやだ、どうしちゃったんだろうねぇ、 雪之助様」
突然様子が変わってしまった彼を、怪訝そうに見詰めるお石を『文はまた後で書くから』と、なんとか言いくるめて帰した朱王は、部屋の戸口をしっかり閉め切った後、恐る恐るといったように雪之助の肩を軽く叩いた。
「朱王殿……私は……私は戻らねばならぬ……だが、どこへ戻ればよいのだ?」
震える手から筆を取り落とし、雪之助は呻く。
震える息を吐き、文の上へ覆い被さるように踞る雪之助の両手が、墨で汚れた文をグシャリと握り締めた。
「……そうか、あと一歩で自分が何者かを思い出せたところだったのに、惜しいな」
夕餉の後、湯気の立つ茶を啜りながら、桐野が残念そうにこぼす。
彼の正面に座する志狼と海華も、それに同調するように首を縦に振った。
雪之助の様子がおかしくなった、その日の夜、早速二人は今日、中西長屋であった出来事を桐野に伝えたのだ。
「ところで、柳殿はその後どうしておる? 気落ちしたままなのか?」
「いいえ、お夕飯ができる頃にはすっかり元気になられました。お米粒一つ残さず召し上がられました」
丸いお盆を自らの隣へ置いた海華がにこやかに微笑む。
一時はひどく思い悩む様子を見せていた雪之助、このまま臥せってしまったらどうしよう、と本気で心配した海華だったが、それは杞憂に終わった。
畳に頭を擦り付けたかと思えば、部屋の中を唸りつつウロウロ歩き回った雪之助は、夕餉の支度ができたと同時に『ここまで悩んで思い出せぬものは仕方が無い』と一言、志狼が出したお膳の前に胡座をかいたのだ。
後はいつもと同じ、白飯を茶碗に山盛り、味噌汁は美味い美味いと二杯もおかわりし、意気揚々と湯屋へ出掛けていった。
これには志狼は勿論、朱王も目が点状態である。
「まぁ、能天気と言うかめげないと言うか……。私も驚きました」
口許に手を当ててクスクス笑う海華。
桐野も湯飲みを傾けながら困ったように笑う。
そんな二人に挟まれて、志狼は肩からずり落ちそうになる三角巾を強く引き上げた。
「旦那様、雪之助様は出羽に久保田とおっしゃいました。あの方には、微かですがお国訛りがございます。あちらの方に間違いはないかと」
「うむ、しかし出羽の名前が出ただけで、そうと決め付ける事はできまい。その可能性がある、というだけだ。―― しかし、最近は久保田の名前をよく聞くな……」
湯飲みの茶を飲み干した後、何気無く呟いた桐野の言葉を志狼は聞き逃さない。
志狼にも『久保田』の名前は聞き覚えがあったのだ。
「旦那様、それはもしや……久保田藩の御家騒動の事では?」
「うむ、まぁそうだ。大っぴらにはなっていないが、お前、よく、知っているではないか」
『風の噂でございます』そう言って、志狼は僅かに目元を緩める。
人の口に戸板はかけられぬ、どんな秘密でも一度人の口に上ってしまえば隠し通すことなど不可能に近いのだ。
「家臣、領民を巻き込んだ兄弟喧嘩、と聞いております」
「簡単に言えばそうだな、しかし、兄弟喧嘩と言うには、ちと血生臭い」
なにやら意味深な会話を交わす二人。
置き去りにされた状態の海華は、志狼と桐野へ交互に視線を送りつつ、彼女は頬を膨らませる。
「ズルいです、二人だけで話し進めて。私は置いてきぼりですか?」
「ん? あ、いや、すまねぇ。別に除け者にするつもりはねぇんだ。お前もてっきり知ってるかと思ったんだよ」
自分より顔も広く人付き合いも苦にしない海華、自然と人の噂話も耳に入るのは早いのだ。
「私だって、前みたいに始終街に出ている訳じゃないのよ? それに、そこまで地獄耳でもないんだから。で、久保田藩の兄弟喧嘩って、一体なんなの?」
興味に目を輝かせ、志狼の方へ身を乗り出す海華に桐野はまたもや苦笑い。
ごほん、と一つ咳払いをした後、その唇を開いた。
「今から二つきほど前の事だったか。出羽藩主、小竹 孝徳殿が逝去された。 元より病弱な方だったと聞いておるが、周囲も予想だにしない、まぁ、急死だったようだ。葬儀も済んだ、ここまではいい。誰が藩を相続するか、そこで大揉めに揉めたのだ」
藩主である孝徳には息子が二人いた。 長男の孝俊と次男の徳雅だ。
長男である孝俊が家督を継ぐのが当たり前、しかし、ここで次男の徳雅を推す家臣らが現れたのだ。
「城内が真っ二つに割れての大騒動、長男か次男か……まぁ、等の本人達はどう思っていたのかわからぬが……。そうこうしているうち、 兄の様子がだんだんとおかしくなっていった」
次第に桐野の表情が曇りだす。
彼の口からどんな言葉が出るのか、海華は固唾を飲んで彼を見詰めた。
「何が引き金になったのかはわからぬが、夜中に兄が突然発狂したらしい。側付きの女中と侍を三人ばかり切り捨てて、そのまま城内から逃走したと聞いた」
ふう、と小さく息を吐き、胡座をかいた足を組み直す桐野を前に志狼と海華はパチクリ目を瞬かせて互いに顔を見合わせる。
「家臣切り殺して逃げた……。なら、兄貴の方はそのまま?」
「そうだ。城を出たきり行方知れず、兄方についていた取り巻きの者らが逃走の手助けをしたとの噂がある。―― まぁ、噂ではなく真実なのだと思うがな」
たった一人で城から出たこともない人間が、こうも長い時間表で姿をくらませていられる訳がない。 あっという間に見付かるか、野垂れ死にするのが関の山だろう。
「もしかして、雪之助様が、その逃げた孝俊様なんじゃ……。そうだったとしたら、兄様が……」
口許を両手で覆い隠した海華の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
もし、雪之助が孝俊だったなら、記憶が戻った途端に狂暴な性格が顔を覗かせるかもしれない。
いや、とうに記憶は戻っており、あの長屋を隠れ家としているのやもしれぬ。
そんな最悪な考えばかりが頭に浮かび、もう海華は声を出す事もできないでいる。
そんな彼女に向かい、少し困ったよう桐野が微笑んだ。
「なに、そう案じるな。朱王は簡単に寝首を掻かれるような男ではない」
「そうだ。それに、人を何人も殺めているような奴を、朱王さんが見分けられねぇはずねぇよ」
「志狼の言う通りだ。孝俊殿について共に逃げた侍らも何人かいたようだからな。雪之助殿は、孝俊殿の家臣、という可能性もあるだろう」
桐野と志狼から代わる代わるそう言われ、まだ納得いかない表情を崩さないながらも、海華は小さく頷く。 『心配ならば、明日は早めに長屋へ行ってみたらいい』空の湯飲みを差し出しながら、そう言ってくれた桐野に、彼女はようやく微笑みの形に変えた口許から白い歯を覗かせたのだ。
長屋門の一番地書くにある部屋、そこに灯っていた明かりが一瞬で消える。
端と端を重ねるように敷かれた二組の布団、こんもりと盛り上がる掛け布団の一つが、ごそごそ落ち着きなく蠢いた。
「―― 柳様。雪之助様」
土間側に敷かれた布団の中から、朱王が顔だけを隣に、雪之助が眠る布団の方へ向ける。
「もうお休みですか?」
「いや……まだ起きている。なんだか目がさえてしまってな」
苦笑混じりに返った返事に、朱王も思わず口角を緩めてしまう。
「あんな事があったばかりですから。今日はお疲れになったでしょう、ゆっくりお休みください」
「―― なんだかみっともないところを見せてしまったな。後少しで、何かを思い出せそうなのだが……」
フゥゥッ、と盛大な溜め息が夜の闇に放たれる。
隣で寝返りを打つ気配を感じた朱王は、顎辺りまで上がっていた掛布を引き下ろす。
しばしの静寂、夜の闇に浮かぶ一際黒い影が、ごそりと一度身動ぎした。
「みっともないついでに聞いて欲しいのだが、こうして朱王殿と枕を並べていると……どうも不思議な気分になる。なんだか、夢を見ているような気さえするのだ」
どこか照れ臭そうに響く雪之助の声。
どんな表情をしているのかはわからない、しかし、その柔らかな声色には、昼間見せた深刻さは微塵も感じられなかった。
「夢、ですか?」
「あぁ、そうだ。誰かと枕を並べるなど、今までなかったような気がする。新鮮な気持ちさえするのだ。このヒビの入った天井も、薄い布団もなにもかも……私には始めての物だ」
ヒビの入った天井に薄い布団、その台詞に思わず苦笑を漏らす朱王を横目に雪之助は続ける。
「全てが新鮮なのだ。見るもの聞くもの全てが。―― 勿論、このままでいいとは思っていない。朱王殿や、海華殿には感謝している。感謝してもしきれない程だ」
「感謝などと……袖触り合うのも多生の縁と申します。雪之助様、まずはゆっくり養生してください。身体が癒えれば、自然と記憶も戻りましょう」
せっかく命を助けた相手、今さら放り出すなどできはしない。
なにより、この行き場のない男を何とかしたい、どうにかして居るべき場所へ帰したい、そんな気持ちが朱王の中で日々高まっていく。
それが『お節介』なのか、それとも『独りよがりに近い親切』なのか、それは朱王にもわからないままだ。
『明日は明日の風が吹きます』そう一言言った朱王に、雪之助は『そうだな』と、短く返す。
朱王が何気無く口にしたその台詞は、思いもよらぬ形で現実のものとなる。
風は、誰もが思ってもみない方向から吹き抜けて来たのだ。




