第一話
茶色く萎れた紅葉が、薄い雪化粧をその身に纏う。
北から吹き抜ける冷たい風を頬に受けながら、 朱王は長屋へと急いでいた。
季節は既に冬の始まり、太陽が西の空に姿を 隠すのも早くなり、先ほどまで紫がかっていた空は、あっという間に墨色へと変わる。
柳の大木が立ち並ぶ川端、細い葉を寂しげに揺らす柳の横を肩を竦めて歩く朱王の髪を、突如吹き抜けた空っ風が暗い宙へと巻き上げた。
完成した人形を問屋に納めたまではいいが、そこから主の長話に付き合わされてしまった。
気が付けば、烏がねぐらに帰ろうとする時間になってしまったのだ。
夕飯の支度をしに来てくれる妹夫婦は、もう帰ってしまっただろう。
今宵は一人寂しい夕餉となるようだ。
きっと海華は膨れているだろうな、と、そんな 事を考えつつ辻行灯の真下を通った、その時だった。
ヒュウヒュウと口笛に似た音を立てて吹き抜ける北風の合間に、獣の唸り声を思わせる低く、今にも消え入りそうな音が混じる。
朱王の足が、その場で止まった。
「―― なんだ?」
怪訝な面持ちで小首を傾げ、薄暗い闇が覆う周囲を見渡してみるか、そこには朱王以外誰もいない。
辺りには長い長い葉を風にたなびかす柳の木が立ち並ぶばかり。
それは、まるで俯いた女が長い黒髪をなびかせているようにひどく陰鬱で寂しい光景が広がるばかりだ。
きっと風の音を聞き違えたのだろう。
そう自身に言い聞かせ、再び歩みを進めようとした時だった。
ふと、目の前にある柳の根本に視線が行く。
相撲取りが一人、すっぽり隠れてしまうほどの太さを持つ柳の幹に、べたりと何かが張り付いている。
隆々とした瘤を持つ漆黒の大木へきつくしがみつくのは、細い五本の指。
まるで作り物のように血の気のない、蒼白な五指、それを確かめた途端、朱王はハッと息を飲みその場に立ち尽くす。
『うぅ……』と、先ほどと同じ掠れた呻きが風に乗り、朱王の鼓膜を震わせた。
恐る恐る、本当にそろそろとした足取りで朱王はその柳へ近寄る。
頬を打つ冷たい風には、いつの間にか白い風花が混じっているが、今の朱王はそんな事を気付く余裕はない。
ピクリとも動かない指、生唾を飲み込みながら大木の向こうを覗き込んだ朱王の目に飛び込んできたのは、頭の天辺から爪先までずぶ濡れとなり倒れ伏す一人の侍の姿だった。
たっぷり冷たい水を含んだ紺色の着物や袴が四肢に絡み付き、髷は乱れ、解れた黒髪が張り付く頬は蝋細工の如く蒼白だ。
泥まみれの右手には行灯の光を受けて鈍い輝きを放つ大刀がしっかり握られたまま、肩口や背中からはどす黒い血潮が滲み、霜の立つ地べたに鮮烈な赤い模様を描き出す。
『どうなさいました!?』と、朱王の口から放たれた緊迫の叫びは、冷たい白が散る夜空に吸い込まれ消えていった。
柳下の行き倒れ。
呼べど揺すれど一向に目を覚まさない侍を担ぎ上げ、朱王はすぐ近く、柳町通りの角にある番屋へ駆け込んだ。
そこは顔見知りでもあり、何かと世話にもなっている岡っ引き、忠五郎が在所している場所なのだ。
本来ならば町医者の元へ走ればよいのだが、生憎、近くに医者がいるかなど朱王にはわからないし、小石川まで雨雪でぬかるむ道を男一人担いで走るなど無理に近い。
けたたましく戸口を叩き付ける音と共にびしょ濡れの男を担いで飛び込んできたのは朱王に、プカプカと煙管をふかしていた忠五郎は小さい目を一杯に見開き、その傍らで茶を啜って いた下っ引きの留吉は、危うく湯飲みを手から取り落としそうになった。
さぁ、そこからこの狭い番屋は大騒ぎ、忠五郎は侍の濡れた着物や袴を剥ぎ取り、朱王はここにあるだけの手拭いを引っ張り出してその身体を拭いていく。
そして、浴衣やら半纏やらとにかくあるだけの着物類を着せて上から布団をかぶせ、氷の如く冷えきった身体を暖めた。
男二人が汗だくになり侍の介抱に追われている間、留吉は提灯片手に小石川へ医師である清蘭を呼びに走る。
丸い顔に玉の汗を浮かばせた留吉に連れられ、清蘭が番屋に到着した頃には、布団蒸し状態となった侍の頬はほんのりと赤みを帯び、乾いて皮の剥けた唇からは、些か苦し気な吐息が漏れていた。
「わざわざ御足労頂いてすいやせん先生。とにかく身体ぁ暖めなきゃと思ったもんでしてね、濡れた物は身ぐるみ剥がしてみたんですが……」
角火鉢に次々と炭を放り足し、火鉢でかき混ぜ火力を強める忠五郎は、日に焼けた顔をわずかにしかめて侍から脱がせた着物へ視線を投げる。
彼の視線を追ってそれを見た清蘭は、濡れた着物からわずかに滲む赤い水を確認すると同時、軽く頷いて侍に被せていた布団を捲りだした。
「これは……刀傷ですね」
「へい。身体中に切られたり突かれたりした痕が点々と。そこまで深い傷ではなかったので、一応血止めはしておきやした」
火箸を炭の中に突き立て、そう言った忠五郎の隣では、心配そうな面持ちの朱王が清蘭の手元を見詰めている。
透き通るような肌をした胸元や脇腹に走る赤い筋の数々に、彼の目が静かに細められた。
「一つ一つは深くありませんが……場所からするに、これは脅しなんかではない、殺る気で切り付けたものでしょうね」
「ええ、確かに。どうやら……頭も打っているようですね。気を失って川に落ちたか突き落とされたか……。どちらにしても、朱王さんに早く見付けられて良かった」
「そうですねぇ、この寒さのですから、朝まで放っておかれりゃ凍え死んでましたぜ、このお侍」
顔に浮かぶ汗を拭き拭き言った留吉の言葉に、誰しもが首を縦に振る。
とんでもない目に遇ったのは確かだが、あの人気のない通りで朱王に発見された事自体、この侍は運が良いのかもしれない。
清蘭が馴れた手付きで侍の手当てを進め、身体のあちこちが白い包帯で包まれていく。
やがてこめかみの上辺りについた打撲の痕に清蘭の指先が触れた瞬間だった。
色を失っていた侍の唇が微かに戦慄き、『うぅっ……』と小さな呻きが漏れる。
全員の目が布団に横たわる侍に注がれたと同時、固く閉じられていた両の瞼がうっすらと開き、充血した目が自身を覗き込む朱王らへと向けられた。
どんより淀んだ目が自身を覗き込む者らを順に見渡していく。
『良かった、気が付かれましたか?』そう安堵の息と共に発した清蘭にもう一度目を向けた侍は、乾いてひび割れた唇を舌先で軽く湿らせた。
「こ、こ……は……」
「柳町の番屋でございます。倒れていた所を助けられてここへ」
清蘭の言葉を耳にした侍は、痛みを耐えるようにアザが浮かんだ顔をしかめる。
そして、何枚も被せられた布団や半纏の下で手足をゴソゴソ動かし、その場から起き上がろうともがきだした。
「おっとお武家様! まだ動かねぇ方がようございますぜ、傷が開いたらてぇへんだ」
半身を起こそうとする侍を慌ててその場に留める忠五郎だが、彼は表情を硬くしたまま再び敷布に肘を着く。
が、未だ体温は上がらぬままであり、全身の傷も痛むのだろう、その身体は小刻みに震え今にも倒れてしまいそうだ。
「お武家様、どうぞお気を確かに。ここは安全な場所でございます。何も心配なさらずに、どうぞこのまま……」
見るに見兼ねて助け船を出した朱王、二人に押し留められ、やっと侍は布団にその身を横たえる。
その顔は不安一色に染まり、視線は忙しなく宙をさ迷っていた。
突然襲撃され、気が付けば怪我を負って見知らぬ者らに囲まれているのだから、不安になるのは当然だろう。
「朱王さん……いえ、この方が、倒れていたお武家様をここまで運ばれたのです。外は雪、見付かるのが遅ければ、命が危なかったかもしれません」
慈愛の笑みを浮かべて、朱王に視線を向けてそう言った清蘭。
侍は小さく頷いた後、顔を右へ向けて朱王を見詰めた。
「それは……かたじけない。そなた、名 は?」
「朱王と、申します」
「朱王、か……。そなたには礼を申さねば……」
「とんでもない、当たり前の事をしたまでです。―― それよりお武家様、一つ窺いたいことがございます。お武家様の、お名前は……」
長々と話をさせるなど、今は体力を消耗させるだけ。
肝心な部分だけを早く聞き出したい。
それは朱王だけでなく、その場にいた誰もが思っているだろう。
朱王の質問に、侍は一度目を閉じ気持ちを落ち着かせるように大きく息をつく。
「名前か……そうだな、名前……私の、名前は……」
名前、と何度も呪文の如く呟く侍だが、その名前がなかなか出てこない。
キョトンとした面持ちの留吉は、苦虫を噛み潰す表情の忠五郎と顔を見合わせ、朱王と清蘭はじっと侍の口許を眺めていた。
「―― わからぬ……」
ポツリとこぼれた台詞。
その場にいた全員の動きが、そして部屋の空気が一瞬で固まった。
「名前が、わからぬ……。どこから来たのかも……なにがあったのかも、全くわからぬ……」
『私は、一体誰なのだ……?』
ひどく弱々しい、そして心が痛くなるほど沈痛な響きを含んだ声が侍からこぼれた。
『自分が何者かわからない』
そう口にした侍に、朱王らは唖然呆然、最早言葉も出てこない。
頭を打ったため、最初は記憶が混乱しているのだと思っていた朱王だが、よくよく話を聞いてみるとどうやらそうではないらしい。
自分の名前はおろか、年齢や住まい、家族の名前など全くわからないのだ。
ましてや誰に襲われ、あの場所に倒れていたのかなどわかる筈はない。
所謂『記憶喪失』の状態。
さぁ、清蘭や忠五郎が悩み出したのはここからだ。
どこぞの誰かもわからぬこの侍をどうするか、勿論、このまま番屋に置いておく訳にはいかないし、怪我人だから、と小石川に引き取っても、このまま記憶が戻らぬ場合もある。
傷が癒えたからと放り出す事も出来ないのだ。
奉行所へ連れて行きやしょう、と、留吉の提 案もあったが、それはそれで修一郎らが困るのは目に見えている。
只でさえ不安だろう侍に気を使い、表へ出て今後の相談をしていた清蘭達だが、一向にいい案は出てこない。
ただ、男が四人、面突き合わせてウンウン唸っているだけだ。
紫がかっていた空は漆黒の夜空に変わり、糸のように細い月が四人を見下ろしている。
チラチラと舞い散る雪を黒髪に受ける朱王の唇から、フゥ、と小さな吐息が白く変わり、天へと消えていった。
「さぁてと……今日のお夕飯は何にしようかなぁ」
葉野菜の入った籠を下げ、蒲鉾や干し魚を包んだ風呂敷を着物の合わせを掻き合わせた海華が、曇り空を見上げて呟く。
まだ夕方までには時間がある、しかし冬の日の入りは早く、うかうかしていては、辺りは真っ暗になってしまうのだ。
暗くなっての一人歩きは危ないから、と、この時期に志狼はいつもより早く、海華を朱王の元へ送り出してくれるのだ。
頭上を吹き抜ける悲鳴にも似た風の音に首を竦め長屋へと急ぐ海華。
兄のところには一昨日持ってきた蕪があったはず、出汁で柔らかく炊き上げよう。
ここにある葉物をお浸しに、干物を焼いて味噌汁とご飯を付ければ完璧だ。
頭の中で献立を決めて、寒風に巻かれて足元をくるくる回る木の葉を飛び退けて、海華は長屋へ向かい走り出す。
赤く染まる頬に当たる風の感触。
通り過ぎる人をヒラリヒラリとかわして走る彼女の目に映ったのは、傾きかけた長屋門だ。
「お君さん、こんにちは!」
「あら海華ちゃん、今日は冷えるねぇ」
洗いたての米を入れた笊を抱えたお君が、海華に向かい白い歯を見せる。
にっこりと朗らかな笑みでそれに答えた海華は、兄が住まう部屋の戸口を勢いよく開け放った。
「兄様こんにちは! ちょっと早く来ちゃった……」
息を切らせて一気に喋り切った海華の顔が、笑顔のまま固まる。
彼女の目の前にあるのは、誰よりもよく知る兄の部屋。
しかし、そこにいるのは兄ではなく、紺色の着流しを身に纏った一人の侍だった。
「あ、ら……っ? お客、様?」
籠と笊を持ったまま、パチパチ両目を瞬かせる海華。
そんな彼女を不思議そうな眼差しで見詰める侍。
二人の間に無言の時間が流れる。
「…… そなたは、誰だ?」
最初に口を開いたのは侍の方だった。
微かに訛りのある、しかし柔らかな声色が海華の鼓膜を揺らす。
「あた……いえ、私は、えっと……」
「なんだお前、もう来たのか?」
どう答えてよいやら迷う海華の背後で突如聞こえた兄の声。
飛び上がらんばかりに驚き後ろを振り返った彼女の目の前には、片手に小桶を下げ、怪訝そうな眼差しを送る朱王の姿があった。
「兄、様……」
「どうした? ―― ああ、そうか。お前にはなにも言っていなかったな。お武家様、これは私の妹で、海華と言います。怪しい者ではございませんので、どうぞご心配なく」
中にいる侍へ当たり前のように声をかけ、朱王は室内へと入っていく。
「妹……。そうか、先刻申していた妹とは、この者か」
妙に納得したように頷き、こちらを見る侍へ愛想笑いを投げ掛け、海華は桶を土間に置いて戻ってきた朱王の袖を強く引き、彼を外へ引っ張り出した。
「ちょっとちょっと兄様! あの人誰なの? どうして兄様の着物着てるのよ?」
二人の様子からして、どうやらただの客人ではないようだ。
あの侍は一体何者なのか、そう問いただす海華に、朱王は事のあらましを話して聞かせる。
最初は驚きに目を瞬かせ兄の話に聞き入っていた海華だが、やがて呆れ果てた面持ちに変わり、大きなため息を一度吐き出した。
「それで、記憶が戻るまでうちに置く事にしたのね? 兄様、いつからそんなにお人好しになったの?」
「仕方ないだろう。怪我人とはいえ元気なんだ、いつまでも療養所に置いておけないし、そのまま叩き出す訳にもいかないだろう?」
「そりゃそうだけど、いつまでここにいさせるつもり? 二、三日で記憶が戻るとは限らないのよ? このまま名前すら思い出せなかったらどうするの?」
胸の前で腕を組み、上目使いで見上げてくる海華の言うことは最も。
それに対して朱王はなにも反論できはしない。
「いつまでも男一人を養っていけるほど稼ぎがあるならいいわよ。まぁ、兄様ならそれくらい稼ぐのは簡単でしょうね。だけど、変な情けをかけて赤の他人を延々食べさせてくなんて、そんなのおかしいわよ」
朱王がなにも言わないのをいいことに、畳み掛けるよう言い放つ海華。
困り果てたように眉を寄せ、こめかみを指先で掻きながら、朱王は妹から視線を逸らせた。
「お前の言っている事はよくわかる。わかるんだが……。なぁ、海華」
「なによ?」
「お前、俺が一度記憶をなくした時の事を覚えているか? ほら、石段から転げ落ちて……」
朱王の言葉に、海華は間髪入れず首を縦に振る。
忘れはしない、雪の降る日の夜、暴漢に襲われて寺の石段から転げ落ちた朱王は、その瞬間の記憶を綺麗サッパリ失っていたのだ。
あの時は、そう時間も掛からず記憶が戻り、無事に下手人をお縄にできた。
「覚えてるわよ。忘れるわけないじゃない。本当に……兄様が死んじゃったらどうしようか、って思ったもの」
頭を打ち、血まみれになった兄と対面したとき受けたあの衝撃。
ゾワリと背筋に冷たいものが流れるのを感じて、海華は小さく身震いする。
「―― あの時、ほんの少し記憶を失っただけで、酷く不安になった。自分が自分でないような……怖いと言った方がいいかもしれない。 俺は、自分の名前やお前の事は覚えていられた。だが、あの方はそれすらも忘れてしまったんだ」
きっと、自分の何倍、いや何百倍もの不安を感じているのだろう。
今まで生きてきた人生の全てを失ってしまったようなもの、生まれたての赤子と同じ状態の人間を、生き馬の目を抜く江戸の街中へ放り出すなど朱王にはどうしてもできなかったのだ。
「これからずっと居候させる気はない。ひと月を目安に、と考えているんだ。だからお前、その間……」
「あのお侍の面倒見てくれ、でしょ?」
朱王の言葉を遮るように海華が口を挟む。
そうだ、と言いたげに頷いた朱王、そんな彼を前に、海華の唇が三日月の形に変わっていった。




