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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第九話 川向こうの疑惑
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第五話

 『その手、しばらく鍼を打てばもっとよくなりますよ』


 そう一言言い置いて、トキはマキに手を引かれ帰っていった。

まるで、嵐が去っていったかのような静けさが包み込む室内、 張り詰めていた緊張の糸が切れたようにその場に座り込んだ修一郎は、眉をしかめたままボリボリと後頭部を掻きつつ、横目で志狼と海華を睨みつける。


 「―― 海華、お前これからどうするつもりだ?」


 むったりした表情、押し殺した低い声で尋ねられ、海華の顔が軽く引き攣る。

固く噛み締めていた唇をゆっくりと開いた彼女の手は、未だ志狼の左手を強く握ったままだった。


 「どうする、って……」


 「このまま朱王の元に残るか、それともここに戻ってくるか、どちらにするかと聞いておるのだ」


 『今すぐ決めろ』そう言い捨てて、不機嫌そのものの修一郎はフィとそっぽを向いてしまう。

どうせ返ってくる答えなどわかりきっているのに、あえて聞くのが彼らしかった。


 「私……私、ここに戻ります! 旦那様や志狼さんが、許してくだされば……」


 「許すもなにも! 頼むから戻って来てくれ!」


 志狼より先に桐野が歓喜の叫びを張り上げる。

当の志狼はと言えば、もはや言葉も出ない様子で顔を耳まで紅潮させ、自由になる右腕で強く彼女の身体を抱き寄せた。

声を詰まらせ固く抱き合う二人から一瞬目を逸らせた都筑と朱王。

小言の一つもぶつけてやろうと口を開きかけた朱王を押し留めたのは、修一郎の野太い一声だった。


 「おい朱王っ! お前はどうだ、賛成なのか!?」


 「み……海華がいいと言うのなら仕方がありません。ただし志狼、今度こんな騒ぎがあったらもう許さん! 今度こそ海華は返してもらう。よく覚えておけっ!」


 安堵と苛立ちがない交ぜとなった奇妙な気持ちを抱えつつ、朱王はそう叫んで乱れた黒髪を乱暴に掻き上げる。

その台詞に、海華を抱く手を緩めない志狼は激しく首を縦に振り、 弾かれるように顔を上げた。


 「もう、絶対にこんな事はしない。海華を泣かせるなんて、もう絶対に……修一郎様、朱王さん、ありがとうございます……ッッ!」


 「……っ! 礼ならば、桐野と海華に言うがよいっ! ―― 朱王! 朱王何をしておる! 帰るぞっ!」


 ドン! と、勢いをつけて畳から立ち上がった修一郎は足音も荒く、太い眉をつり上げたまま部屋から飛び出して行く。

そんな彼の後を慌てて追い掛ける桐野と都筑、そして踵を返しかけた朱王。

その背中に、『待って!』と彼を呼び止める掠れた海華の声が飛んだ。


 「なんだ、まだ何か……」


 照れ隠しだろう、わざと不機嫌そうな面持ちで彼女の方を向く朱王に、海華は涙に濡れた顔を笑みの形にくしゃりと歪ませる。


 「兄様……ありがと」


 「もう、痴話喧嘩に巻き込まれるなんざ、ごめんだからな。後はお前達で上手くやれ」


 ひどく意地悪な捨て台詞を残し、朱王は開けっぱなしの障子の向こうへ姿を消してしまう。

遠くから聞こえるのは、廊下を踏みしめる荒々しい足音と、桐野に文句の一つも吐き捨てているのだろう修一郎の叫び声だ。

次第に小さくなっていく叫びを耳にしながら、海華は志狼の肩口へ甘えるように頬を寄せそっと瞼を閉じていた。


 修一郎や都筑達をも巻き込んだ大騒動の幕は、その日の夜に下ろされた。

朱王の元に帰っていた海華は荷物を纏めてすぐに桐野邸へと帰り、朱王は再び気ままだがいささか寂しい独り暮らしへ逆戻り、心の底から安堵したのは間違いないが、 やはり今後の事が気になってしまうのだ。

毎日食事の支度や洗濯に来てくれる海華の様子は騒動以前と変わらず、それとなく志狼との仲を聞いても『大丈夫』としか答えない。


 その柔らかな表情からして本心から出た台詞なのだろう。

元の穏やかな生活に戻ったのだと己を納得させていた朱王、しかし海華の身を案じるものは彼一人だけでは無いのである。


 「だから、あの二人は前と変わらず仲良くやっていると何度も言っているだろう」


 呆れ果てた様子で桐野がボソリと呟く。

清々しいまでに晴れ上がった青空の下、八丁堀へと向かう修一郎と桐野、そして朱王の三人組の頭上を賑やかに囀りを交わしながら二羽の雀が飛び去っていった。


 「お主はそう思うだろうが、俺達としては心配で堪らぬのだ、なぁ朱王」


 「は、い。まぁ……。ですが、決して桐野様を疑っているのでは……」


 修一郎に合わせるようにしどろもどろで答えてみたはいいものの、桐野の気分を損ねてしまっては大変だ、と慌ててそう言い添えた朱王に、桐野のは苦笑いで答えて見せる。


 「そんな事はわかっておる。百聞は一見にしかず、とも言うからな。多分、今の時間ならば志狼も屋敷に戻っているだろう」


 足元に転がる石を避けつつそうこぼした桐野。

『志狼はまだ女郎屋へ通っているのか』そう問うた修一郎に、桐野は軽く頷いた。


 「あぁ、まだ治療は続いているようだ。腕が治るまでしっかり通え、その間の家事は任せろと海華がな。―― 志狼は本当にいい嫁を貰ったものだ」


 感慨深く言いながら屋敷のある方角を見つめる桐野の横で、修一郎は無言で頷きニヤリと白い歯を覗かせ、朱王はと言えば少しばかり照れ臭そうに微笑みながら指先で頬を掻く。

そんなこんなの会話を交わして到着した桐野邸はシンとした静けさが満ち、中庭に咲いた秋の小花が穏やかな風にその花弁を揺らせていた。


 「なんだ随分静かだな? 海華も志狼もおらぬのか?」


 玄関に入ってはみたものの、出迎えの一人も無いことに修一郎は小首を傾げて桐野を見る。

いつぞやと同じ状況に、朱王の背中を冷たいものが流れた。


 「ここで突っ立っていても仕方あるまい、桐野、上がらせて貰うぞ」


 「い、やっ! お待ちください修一郎様! もしかしたら、裏で何か……そうだ、洗濯物でも干しているのかもしれません。桐野様、裏手を見てもよろしいでしょうか?」


 「うむ……わかった。そう……急がんでもよいぞ」


 桐野も同じ考えだったのだろう、唇の端をわずかに引き攣らせて朱王を玄関の外へと送り出す。

彼が修一郎を適当な口実で引き留めている間に朱王は屋敷の裏手、つまり志狼と海華が寝起きしている離れの方へと走った。

玄関から小走りで向かった裏手、中庭の奥にある離れの障子は全てピタリと閉じたまま。

庭に置かれた飛び石の上をまるで泥棒のように足音を忍ばせ気配を消して歩く朱王の視界に離れの奥で風にはためく洗濯物と、縁側の片隅に無造作に立て掛けられた庭箒が映り込む。


 取り敢えず家事は片付けてあるようだ、変な安堵感に胸を撫で下ろす朱王。

抜き足差し足縁側まで辿り着いた彼が室内を覗き込むが如く障子の向こうへ顔を向けたその時、白い世界にボンヤリとした人影が現れる。

思わず息を詰めた彼の耳に飛び込んできたのは、よくどこか気怠げな男と女の声だった。


 「―― ほら、そんな固まってちゃ気持ち良くならねぇぜ? 力抜いて……あ、こら! 逃げるな」


 「だっ、てぇ……や、アンッ! くすぐったいんだもの……アッ! そこはダメ……強くしないで、痛いから……」


 「わかった、優しくしてやるから楽にしてろ。―― 奥の方もだいぶほぐれてきたな」


 「う、んっ……ア、いい……そこ、凄く気持ちいい……ッ!」


 障子の向こうから断続的に聞こえる畳や床板が軋む鈍い音と、女の甘ったるく蕩けた声色が朱王の理性を跡形もなく吹き飛ばす。

電光石火の勢いで縁側へ飛び上がった彼の顔は、髪の生え際まで真っ赤に染まっていた。


 「昼間っから何を考えているんだお前達は ――ッッ!」


 穏やかに流れる時を切り裂く怒号と叩き壊れんばかりに撥ね飛ばされる障子戸、柳眉を逆立てる朱王の目の前に広がっていたのは、敷き布団の上にうつ伏せで横たわる海華と、彼女の腰の上へ跨がる志狼の姿だった。


 「すお、さんッッ!?」


 「やだ、兄様なんで!?」


 「志狼……貴様っ! 海華が痛がっているだろうがッッ! さっさと降りろ、この馬鹿野郎!」


 突然の乱入者に顔をはね上げ驚きに目を見開く志狼と海華。

彼らにドカドカと足音も荒く近付いた朱王は、怒りに任せて志狼の襟首を思いきり鷲掴み海華の上から引き摺り下ろす。


 「うぉっ!? ちょ、ちょっと待て朱王さ……」


 「なにやってんのよ兄様! 止めて! キャー!」


 「どうした!? 何事……! や! 朱 王っ!?」


 さぁ、現場は上へ下への大騒ぎ、朱王の罵声を聞き付けた修一郎と桐野も血相を変えて駆け付けた事により、騒ぎに更に拍車が掛かる。

八丁堀の突き当たりとなる桐野家、そこから聞こえる男と女のけたたましい叫びが止んだのは、それからしばらく後の事だった。


 「いきなり怒鳴り込んできて! 勘違いするにも程があるわよ、この馬鹿っ!」


 「実の兄貴に馬鹿とはなんだっ!」


 桐野邸の客間に兄妹の怒鳴り声が響く。

どうにかこうにか騒ぎも落ち着き、とにかく落ち着いて話をしようと桐野に促され客間に来たはいいが、二人の間には険悪な雰囲気が満ちたままだ。


 「そう怒るなよ海華、修一郎様や朱王さんも、お前の事を心配して……」


 「だからって! いきなり押し込んで来ることないじゃない!」


 「出迎えにも来ないお前が悪いんだ! 客が来た事にくらい気付け!」


 「もうよい! 止めんか二人共っ!」


 今にも飛び掛からんばかりの剣幕で睨み合う二人を見兼ねたのだろう修一郎の一喝に、さすがの朱王も気まずげに唇を噛み締め黙り込む。

パンパンに頬を膨らませそっぽを向いてしまう海華を横目に、志狼と桐野は視線だけを交わらせ、小さく溜め息をついた。


 「それで? お前達はいったい何をしていたのだ?」


 眉間に皺を寄せて志狼と海華を見遣る修一郎。

その途端、朱王は忙しなく視線を中にさ迷わせる。


 「何って、按摩です。私、お洗濯したら凄く腰が怠くなってしまって……」


 「おトキさんの真似事で揉んでいたのです。 海華には何から何までやってもらっているから……これくらいしなくちゃばちが当たりますから」


 どこか照れ臭そうに言いながら俯いてしまう志狼とは正反対に、朱王は目を見開いて、口もポカンと半開き。

そんな彼の異変に海華が気が付かない訳がなかった。


 「―― ちょっと兄様、兄様一体何考えてたのよ? あたし達が何してたと思ってるの?」


 「な、にって……そりゃお前、アレを見たら、その……アレ、の最中だ、と……」


 彼には珍しく盛大に口ごもり、耳までを真っ赤に染め上げる朱王を目の前にして、海華のまなじりがギリギリつり上がっていく。


 「何がアレよッ! 真っ昼間っから訳分かんない事言わないで! 馬鹿じゃないの、いやらしいッ! 」


 「まぁまぁ海華落ち着け、そう怒るな。朱王も修一郎も、お前を案じてここまで来たのだ。 どうだ二人共、志狼と海華が仲良くやっているのが、これでわかっただろう?」


 怒りの眼差しで朱王を睨み付ける海華の肩を軽く叩き、桐野が苦笑混じりに言う。

どこか複雑な面持ちで軽く頷いた修一郎と、未だまともに顔を上げられない朱王。

と、修一郎は志狼に向かいやおら己の左腕を指差して見せる。


 「ところで志狼よ、腕の調子はどうだ? あれから少しは良くなったのか?」


 「はい、お陰さまで。肩も痛みなく動くようになりました」


 静かに微笑み、自分に一礼する志狼に、修一郎も同じ表情で『そうか』と返す。

彼は彼なりに志狼の身体を案じていたのだろう。


 「それならば良いのだ。いずれは元に戻ればよいが、まぁ、そう焦らぬ事だな。さて朱王、俺達はそろそろ帰るとしよう」


 『邪魔したな』そう一言言って修一郎がその場から腰を浮かす。


 「いや、しかし修一郎様……」


 「なんだ、お前もうよいのか?」


 来る時とは正反対、ひどくあっさりとした彼の様子に朱王はもとより桐野も驚きを隠せない。

既に部屋の入り口まで歩みを進めていた修一郎は、そんな二人を見下ろしわずかに眉を寄せた。


 「なんだ二人揃ってその顔は? 俺は海華の様子を見に来ただけだ、大丈夫だとわかったならそれでよい。さ、行くぞ行くぞ」


 顔を見合わせる二人を急き立てるよう玄関へと向かう修一郎、表門で志狼と海華の見送りを受け屋敷を後にする三人。

さっき来た道を街まで逆戻りし、志狼らの姿が見えなくなったのを後ろを振り返り確認した修一郎は、ふぅ、と軽く溜め息をついた。


 「どうやら桐野、お主の言う通りであったな。安心した。なぁ朱王?」


 「はい、一時はどうなる事かと思いましたが……。桐野様にはご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございませんでした」


 志狼と海華の痴話喧嘩に巻き込んでしまった、その申し訳なさから自然と朱王の頭が下がっていく。

そんな彼を前に、桐野はニコリと白い歯を覗かせた。


 「何が迷惑なものか、頭を上げろ朱王。儂は迷惑なぞしておらぬ。ただ……海華がおらぬのがどれほど寂しいか、儂も志狼も痛い程にわかったぞ」


 苦笑いしながらそう口にした桐野を、そろそろと頭を上げた朱王は不思議そうな眼差しで見る。

桐野の代弁をするかのように、道の脇に生えていた大木に背中を預けていた修一郎が、小さく口角を上げた。


 「海華がお前のところに戻っている間、志狼は沈みに沈みっぱなしだったそうだ。飯の時など二人揃って通夜か葬式のようだったと、こいつが嘆いていたわ」


 「うむ、海華がおらぬと屋敷が死んだように静かなのだ。それに、飯を食いながらボロボロ泣く志狼を初めて見たぞ」


 「ほぉ、あの志狼が泣いたのか。海華が嫁にいって、俺と朱王がどれほど寂しかったか、よーくわかっただろう」


 そう言っていたずらっぽく笑う修一郎が、大木から離れ再び歩みを再開させる。

小さく微笑み自分に向かって会釈する朱王の肩を、同じ笑みを湛えた桐野が軽く叩く。


 全ては収まるところへ収まった。


 もはや自分達が口を出すことは何もないだろう。

久し振りに感じる穏やかな気持ちは、きっと修 一郎も桐野も同じ、そう思いながら修一郎の背中を、そしてその先に広がる真っ青な空を見詰める朱王。

彼の黒髪を揺らし通り過ぎていく柔らかな風は、青空に枝を伸ばす大木の葉を微かに揺すり空へと消えていった。





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