第四話
嫌な事があった日は早く寝るに限る、これが朱王の持論である。
久し振り、本当に久し振りに二組の布団が敷かれた部屋はいつもよりも狭く、そしてどこか懐かしくも感じられた。
今はもう涙も止まった海華は、寝巻き姿のまま土間に下り火が消えているかを確認した後、朱王の隣の延べられた薄っぺらい布団へとその身を横たえる。
この布団も身に纏う寝巻きも、嫁ぐ際にここへ置いてあった物、万が一の時にと用意はしてあったが、こうも早く役に立つなど海華も、そして朱王も思ってもみなかっただろう。
「なんだか……今日は疲れたわ」
行燈の灯りも消えた暗い室内に、掠れた海華の声が聞こえる。
「そりゃ疲れただろうさ。こっちだって心臓が縮む思いをしたぞ?」
すぐ間近で聞こえた言葉に小さく苦笑いして朱王が言った。
「あたしは寿命が三年縮んだわ。……兄様、迷惑かけてごめんなさい」
一抹の寂しさを含ませた声色。
目の前に迫る漆黒の闇に海華がどんな表情をしているのかはわからない。
しかし今、一番辛い思いをしているのは他でもない彼女だという事を、朱王はわかっているのだ。
「気にするな。お前が悪い訳じゃない。 ――いいか、もし、これから志狼が一人でうちに来たら、お前一人で会うんじゃない。 いいな、絶対だ」
「どうして? あ、もしかしてあたし一人じゃ泣き落としで丸め込まれるとか思って……」
「違う、そんな事じゃない。 あいつ一人でノコノコやってきて、すいませんと謝り倒されても胸糞悪いだけだ。きちんと桐野様を通せと言っておいたし、桐野様もそうすると仰って下さった。 いくら夫婦だからって、そのあたりはキッチリけじめをつけてもらう」
今更、志狼に対して怒り狂うつもりはないが、無意識だろう声色に棘が出てしまう。
以前ならば、あれやこれやと反論していた海華だが、今は素直に『わかった』と答えるだけだった。
「そうね、兄様の言う事も一理あるわね。でも、これだけは忘れないで欲しいの。あたし……できるなら、志狼さんともう一度……」
「やり直したいって言うのか。 あいつは、お前を裏切ったかもしれないんだぞ? それでもいいのか」
志狼が不貞をはたらいた、彼自身が認めない以上推測の域を出ないが、女郎屋であんな現場を目撃した朱王としては『やり直したい』と言われて心中穏やかではいられない。
しかし、妹の考えを尊重してやりたいというのもまた、『兄心』だ。
「どうして志狼さんがあんなところに行ったのか、あたしには全然わからない。もしかしたら、あたしに悪いところがあったのかもしれないわ、だから、志狼さんの口から理由をちゃんと聞きたいの。もし……志狼さんがあたしを嫌いになったって言うなら、仕方がないけど……」
淡々と響く声、いつもより早口に感じる台詞を聞く朱王の眉間には深々とした皺が刻まれる。
もしも自分の前で、志狼の口から海華を嫌う趣旨の言葉が出てきたならば、もう容赦しない。
桐野には申し訳ないが、半殺しにするだろう。
「お前がやり直したいというなら……だが、あいつの言い方によるぞ。俺とお前が納得する理由が言えなけりゃ、やり直しなんて許さない。いいな?」
「うん。わかった。その時は、兄様の言う事聞くわ」
「そうか、とにかく、向こうがきちんと謝りに来てからの話だからな。 ――今日はもう寝て、明日に備えろ」
『おやすみ』それが今日最後に発した朱王の言葉となった。
無理矢理に目を閉じた彼の耳に届いた海華の『おやすみなさい』は、静かに闇へ溶ける。
すぐ隣でゴロリと寝返りをうつ気配を感じながら、朱王は掛布を鼻の辺りまで引き上げていた。
海華が中西長屋に出戻り……いや、泊まるようになってから三日が過ぎた。
なぜ自分がここにいるのか、色々と詮索されたらどうしようと、表へ出るたびドキドキしていた海華だが朱王が大家にでも訳を話していたのだろうか、井戸端で会う女達もその亭主らも特に面白おかしく噂も立てられること無く、以前と同じように接してくれている。
構えていた海華にしてみれば、有り難くもあり同時に幾ばくか居心地の悪さも感じていた。
『志狼とは二人だけで会うな』初日の夜にそう朱王にきつく言われていたが、この間、志狼が一度たりとも海華の前に姿を現す事はなく、彼らしき人物が長屋の周囲にいたという話しも全く聞かない。
きっと、桐野に行くなときつく止められているのだろう。
そうわかっていても、やはりすぐ会いに来てくれないのは、何日も顔を見られないのは寂しかった。
昨夜夜半から降り続いていた雨が早朝ようやく上がったこの日、朱王は『桐野様のところに行ってくる』と早々に長屋を出発し、海華は一人残される。
カラリと晴れ上がってはいるが空気はたっぷりと湿気を含んだまま、これでは洗濯物も乾かない。
朱王を見送り、千切れ雲が浮かぶ空を見上げた海華は、小さな溜め息を一つつき、さっさと室内に戻ってしまう。
どうやら部屋の掃除に専念するようだ。
この日、長屋裏にあるゴミ捨て場と部屋を何度も行き来する海華の姿が長屋の住人らに目撃された……。
「明日の夜、桐野様の屋敷に行くぞ」
夕餉の席で朱王が発した台詞に、海華のご飯をよそう手がピタリと止まった。
「明日? わかりました。あたし達がお屋敷に行くのね?」
『向こうから謝りにこい』そう息巻いていた朱王だが、やはり立場上はこちらから出向かねばならないようだ。
「ここは壁が薄いから、周りに話が全て筒抜けだ。万が一騒ぎになったら……気まずい思いをするのは海華だから、と桐野様が仰ってな」
海華の心中を悟ったのか、味噌汁椀を持った朱王が静かに口を開く。
そんな気遣いをしてくれたのか、と感激し、また自分の考えの浅はかさを嘆いて、茶碗を持ったまま海華は無言のままうつ向いてしまう。
「修一郎様も来て下さるそうだ。まさかとは思うが……ひと暴れされてみろ、ここの戸なんかあっという間にぶち破られるぞ」
ボソリと呟きながら湯気の立つ味噌汁を啜る朱王を前に小さく笑い、海華はおひつの蓋を閉めた。
「勢い余って志狼を半殺しにでもされちゃ困るだろう?」
「そうね……。でも、兄様はその方がよかったんじゃないの?」
冗談半分に出た台詞だが、朱王は難しい顔をして黙りこくってってしまう。
会話の途絶えた室内、箸と茶碗が小さくぶつかる音だけが満ちていった。
翌日、日が落ちたのを待っていたかのように朱王と海華は八丁堀、桐野邸へと向かう。
たった三日離れていただけなのに、八丁堀の景色が、そして屋敷の客間がひどく懐かしく感じてしまう自分に海華は心の中で小さく自嘲する。
玄関先に二人を迎えに出てきたのは桐野本人、志狼の姿はどこにも見えない。
屋敷に先に訪れていた修一郎は、固い面持ちで客間に現れた二人に引き攣るような笑みを向けるだけ、後は始終無言のままだ。
重苦しいときが満ちる客間、そわそわと落ち着かぬ修一郎へじっと目を遣る朱王の横では、じっと己の膝先に視線を落とす海華が小さく鼻を啜る。
「遅くなってすまぬ」
障子の向こうから響いた桐野の声、朱王がそちらへ目を遣ると、白い障子紙に二つの人影が映り込む。 軋む音一つ立てず、滑るように開く障子戸。
その陰から現れたのは、濃紺の着物を纏い真っ白な布で左手を吊った志狼と、いささか緊張気味に顔を強張らせる桐野の姿が現れる。
障子戸を開き切った志狼は、客間にいる三人に向かって冷たい廊下に額を擦り付けるよう、深々と頭を下げた。
「呼び立ててすまぬ。今日は志狼と……それに儂からも話したい事があるのだ」
「うむ……志狼、面を上げろ。早く中に入れ」
座布団の上にドカリと胡坐をかいた修一郎が眉間に皺を寄せて言った。
彼の言葉に従うように、志狼の顔がゆっくりゆっくり上がって行く。
最期に彼の顔を見たのはいつ頃だろうか、その顔を直視できず、視線だけを動かす海華。
半分ほど影がかかり黒く映る志狼の顔には普段の精悍さも、瞳の鋭さも何もかも消えてしまっていた。
青白い顔はまるで病人、いや、その雰囲気は幽霊と言った方がいいだろう。
たった数日で、人はここまで変わり果ててしまうのか、海華は勿論、朱王や修一郎さえも驚変わりようである。
桐野はそのまま真っ直ぐに歩みを進めて修一郎の右隣に座り、志狼は足をふらつかせながら立ち上がり、海華の斜め後ろ、つまり一番の下座へ腰を下ろした。
海華の隣を通るその一瞬、志狼の視線と海華の視線が空中で混じり合う。
何かを言い掛けて咄嗟に口を閉じた志狼、縋り付くような眼差しときつく噛み締められた唇、その手を掴みその場に引き留めたいのを必死で堪えて、海華は腿の上に置いた手をきつく握り締める。
目に見えぬ感情の攻防戦、それを敏感に感じ取ったのだろう桐野は、小さく咳払いを一つして修一郎へと向いた。
「まず、今回の件は全て志狼に非がある。海華には……辛い思いをさせた。何度謝っても済まされる問題ではない、それは志狼も十分に承知している」
桐野にしては珍しい早口に、修一郎の眉間に寄せ垂られた皺がますます深くなっていく。
いつ感情を爆発させるかわからない彼の様子に、朱王は無意識に生唾を飲み下し桐野と修一郎を視線だけで交互に見遣った。
「あんな現場を見られたのだ、今更言い訳したところで見苦しいだけ」
「当たり前だ! これ以上戯言を抜かしてみろ、俺がただではおかぬわ」
苛立たしさに膝を揺すり、低く殺気立った声色で呻く修一郎。
もはや朱王が口を挟める雰囲気ではないし、ましてや海華が何か言える訳はない。
『話したい事はそれだけか!』と、怒りを含ませた叫びが修一郎の口から飛び出したのと、桐野が口を開いたのはほぼ同時だった。
「まだだ! まだ一番大切な事を言ってはおらぬ、さっきも申したように言い訳はせん、だが、なぜあんな事をしたのか『理由』を志狼に話させてやって欲しい」
「なに、理由!? 一緒になって間もない女房を放り出して、朝っぱらから女郎屋にしけ込む男が偉そうに理由を言わせろというのか!?」
勢い余って腰を浮かせた修一郎のこめかみに青い筋が浮かび上がる。
なにが理由だ、ふざけるな、その気持ちは朱王とて同じ、平身低頭謝り倒されるならまだしも、志狼は海華の後ろで無言を貫いたままなのだ。
「桐野、お主はこ奴に甘すぎる!俺は戯言を申すなと申したはずだッ! 志狼は……確かにお前にとっては大切な使用人……いや、家族なのだろう。だがな、俺にとっては海華が同じだ、この世でたった一人の大切な大切な妹だ! 涙々で嫁にやった、それなのに! 一年の経たずにこれだ! 不貞の理由など聞きたくもな い! こんな話しを続けるならもうよい、離縁だ! 離縁! こんな男にこれ以上海華を……」
勢いに任せ怒鳴り散らす修一郎は、耳たぶまで真っ赤に、今にも桐野へ飛び掛からんばかりの勢いで離縁の言葉を繰り返す。
やはりもう駄目か、そう心の中で呟いた海華の目元から透明な雫が一粒転がり落ちた。
その刹那、彼女の隣から転がるように飛び出してきた志狼が声にならない悲鳴を上げ、今にも畳を蹴り上げその場から立ち上がろうとした修一郎の膝に縋り付いたのだ。
「お待ちくださいっ! お願いです、私の話しを聞いてくださいッ! お願いです……修一郎様お願いですッッ! 」
鬼気迫るとはまさにこの事だろう、必死の形相で修一郎の袴にしがみつく志狼。
突然の彼の行動に仰天したのは朱王だけではない、桐野は志狼へ飛び掛かり、海華は目を見開いたままその場に凍り付いてしまう。
「志狼何をしている! 止めろっ!」
「嫌だ……離縁なんて嫌だっ! 修一郎様! お奉行様っ! 聞いてください、俺は腕を、ただ腕を……」
「なにが腕だッ! 海華を貴様の腕の代わりにやった覚えは無いわっ! 離せ! 離さぬかこの無礼者――ッ! 」
燃える怒りに声を震わせた修一郎の怒鳴り声が、その場にいた者の鼓膜を盛大に震わせる。
白い足袋を履いた彼の足が、破れんばかりの力で袴を握り締める志狼の右肩辺りを強かに蹴り飛ばした刹那、志狼の身体はまるで鞠のように撥ね飛ばされ、受け身をとる暇もなく部屋の隅へ叩き付けられた。
「志狼ッ!」
「修一郎様! お止め下さいっ!」
弾き飛んだ志狼へ更に殴り掛かろうとする修一郎を二人掛かりで押し留める桐野と朱王の傍らでは、暖かな光を放つ行灯がグラグラ揺れて今にもひっくり返りそうだ。
目の前に舞い飛ぶ埃、そして荒れ狂う修一郎と彼を必死で宥め押し留める桐野と朱王、その場に腰を抜かしてしまった海華の後ろでは、壁に頭をぶつけたのだろう志狼が、小さく呻きながら身を起こしている。
『腐った性根を叩き直してやる!』そう叫んだ修一郎の腕が志狼へ伸びた瞬間、海華の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
「止めて……! もう止めてくださいっ! 」
腹の底から飛び出した金切り声と共に、志狼へ覆い被さった海華は、彼の身体を力一杯抱き締める。
「もういいです! もう……もう止めてくださいっ! 志狼さんに酷い事しないでッ!」
涙で声を震わせ、振り向き様に思いきり修一郎を睨み付ける海華。
伸ばされた太い腕がピタリと止まり、みるみるうちに鬼の形相が驚きのそれに変化していく。
髪を振り乱す朱王、そして額に脂汗を浮かばせる桐野も同じ表情で彼女を凝視した。
「もういいんです! 浮気でも不貞でもいい んです! だから……もう志狼さんに酷い事し ないでくださいっ!」
喉を破らんばかりの絶叫、息も詰まらんばか りに抱き締められていた志狼が、震える手で そっと腕を緩める。
「海華……すまん、俺……」
「いいの、もう……あの時の事は忘れるか ら。あたしもここに帰ってくるから……あたし も悪かったんだわ、だから志狼さんあんな所 へ……」
「違うんだ! 海華信じてくれ、俺は腕を治 しに……腕を治しに行っていたんだっ!」
そう一声叫んだかと思うと、志狼は左腕を 吊っていた布をかなぐり捨てる。 目に一杯涙を溜めた海華の目の前で、力なく垂 れていた手首がゆっくりゆっくり内側へと曲が り、次に五指が戦慄きながら曲がっていく。 海華の、いやその場にいた者全員の目が驚きに 見開かれた。
軋むような動きを見せながら握り締められて いく左手、今まで温度は勿論指先一つ動かす事 が出来なかった左手が、全員の目の前で動き出 したのだ。
痛むのだろうか、志狼は歯を食い縛り眉間に 深い皺を刻みながら己の左手凝視する。 ガクガク震える左手が完全に握り締められたそ の時、海華は歓喜と驚きの入り交じった悲鳴を 迸らせた。
「動くの!? 志狼さん……志狼さん手、動 くのね!?」
「あぁ、まだ握るしか出来ねぇけど……何と かな。修一郎様、朱王さん、今まで黙っていて 本当に申し訳ありません。俺は……あの店で鍼 (はり)を打っていました。旦那様や海華の前 で嘘偽りは申しません、俺は決して海華を裏切る真似はしておりません」
筋が浮かぶほどに握り締められた左手に右手を添え、修一郎と朱王へ掲げて見せた志狼は、彼らを真っ直ぐに見詰めてそう言い切る。
信じられないものを見る眼差しを志狼へ向けていた朱王、そして修一郎は気付いていなかった。
彼らが背にする障子戸、そこに映る三つの影の存在に。
「桐野様!? 桐野様、どうかなさいましたか!?」
障子の向こうがやおら騒がしくなり、白い世界にニュウと大きな影が映り込む。
戸惑いを含ませたその太い声の主、そして大柄な影の持ち主は間違いなく都筑だった。
「いや……大丈夫だ、なんでもない。それより都筑、例の二人は?」
動揺を押さえるように大きく深呼吸した桐野が障子に映る影に向かい声を掛ける。
『はい』と短い返事が返った後、影が一段と濃く、大きく変化した。
「連れて参りました。さ、入れ」
彼にしては珍しく緊張した声、それと共に開いた障子の向こうから目が痛いけらいに派手派手しい着物が現れる。
「アッ! お前はあの店にいた……!おい桐野っ! 一体何のつもりだ! なぜこんな女を呼んだのだ!?」
火に油をぶちまけひっ掻き回すような状況に修一郎の怒りは頂点に達し、朱王と海華は声もなくその場で青ざめる。
そう、都筑に呼ばれ姿を現したのは先日志狼と腕を組み女郎屋へと入って行った女だった。
太い眉毛をギリギリつり上げる修一郎を前に、派手な着物の若い女は生意気そのものの眼差しでキッと彼を睨み返した。
「こんな女って、あんまりな言い方じゃございません? あたしはこちらのお侍様に来いと言われたから……」
「こら! 口が過ぎるぞ無礼者が! それより早くあの婆ぁ……いや、おトキを連れて参れ!」
切れ長の目をつり上げる女を慌てて叱りつけた都筑、そんな彼へ思いきり頬を膨らませて見せた女は、顔に張り付くほつれ毛を乱暴に払いながら、再び廊下へと消えていく。
目尻から流れる涙を指先で拭う海華とその手を握る志狼、そして彼らの側に立つ朱王の目の前に、女に手を引かれた一人の老婆が覚束無い足取りで障子の向こうから現れる。
「桐野様、おぶ……いえ上条様、おトキを連れて参りました」
老婆と女を一先ず座らせ、修一郎と桐野に深く頭を下げる都筑。
彼の発した言葉の意味がわからず、修一郎はポカンと口を半開きにして都筑と老婆を交互に見た。
「お主が、おトキか?」
「へえ、あっしがトキでございます」
軽く訛りを含む嗄れた声で老婆が答える。
極限まで曲がった背中を更に曲げて畳へ額をつけるトキは、朱王が片手で軽々と抱き上げられそうなほどに小柄で華奢な体躯だ。
簡素に結い上げられた黄ばむ事もない真っ白な髪が、修一郎の目にはやけに眩しく感じた。
「あっしは目が見えねぇんでございます、耳 もバカになりかけてまして、ねぇおマキ」
梅干しのように皺の寄った顔をゆっくり上げ、くしゃりと笑ったおトキは、小首を傾げるように隣に座る女、おマキに声を掛ける。
「はい、お侍様。おトキさんは生まれつき盲目なんです。その代わり鍼の腕は天下一品なんですよ? あたしもおトキさんの鍼で腰の痛みも綺麗さっぱり……」
「わかったわかった、お前の腰はどうでもよいのだ。それよりなぜ鍼師が女郎屋なぞにいる?」
「あのお店は、あっしの遠縁が営んでおりまして、へぇ、あっしにゃ親も子もおりませんので、あそこに部屋を一つ借りて住まわせてもらっております。このおマキも店の子も、そりゃぁ良くしてくれましてねぇ、お客を探して 来てもくれるので、何とか生きておられます」
日焼けをしない白い顔いっぱいに笑みを浮かべて、おトキは継ぎ接ぎだらけの着物の袖を指先でまさぐる。 垂れた瞼の合間から時おり覗く眼球は、甘酒のように白く濁っていた。
「じゃあ、志狼さんはやっぱり……」
おトキを見下ろしていた朱王の口から空気が漏れるように独り言がこぼれる。
それに首を縦に振ったのは、皺だらけの手をしっかり握っていたおマキだった。
「そうですよ、毎日おトキさんの鍼を受けにお店に来ていたんです。志狼さんが街の鍼灸院の前をウロウロしてたから、思い切って声を掛けたんですよ。腕のいい人を知ってるから、っ て」
「最初は半信半疑だったんだ、でも二回、三回受けていくうちに、だんだん手の感覚が戻ってきて……。場所が場所だから、旦那様やお前には言い出しにくかった。だから、知り合いの世話なんて嘘を……」
『申し訳ない』そう言いたげに桐野や海華に深く頭を下げる志狼を見て、おマキはひどく残 念そうに眉尻を下げる。
「志狼さん、お侍様方が思ってるような事は なぁんにもしちゃいませんよ。まぁ……あたし も小遣い稼ぎになればいいと思って何度か誘っ たけど、『女房がいるから』って袖にされ ちゃった」
『いい男なのに残念だわ』そう一言こぼす彼 女は、悪戯っ子のようにペロリと舌先を覗かせ る。 その言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、 おトキは乾いた唇を三日月の形に歪ませて深く 息を吸い込んだ。
「おマキの言う通りですよぅ。この人はね、 鍼を打ったらさっさと帰っちまう。多少は痛みもあるんですがねぇ、無理をしてでも帰るんですよ。女郎屋に来て女抱かないで帰るなんて人、なかなかいませんやねぇ。早く可愛い女房に会いたくてたまらないんでしょうねぇ」
軽く首を左右に揺らして言ったおトキ、その 言葉に志狼と海華の顔がみる間に赤く染まっていく。
『残念だわぁ』と、おマキのつまらなそうな呟きが仄かな蝋燭の灯りに混ざり消えていった。




