第三話
あっという間に小さくなっていく朱王と海華の後ろ姿を呆然と眺めていた三人の侍。
額に玉の汗をにじませていた桐野は、一度ぐっと唇を噛み締め女郎屋の暖簾に手を掛ける。
「おい、行くのか?」
「当たり前だ、儂には、あいつを連れて帰る責任がある。連れて帰って……海華に謝らせる!」
思い詰めた様子でそう一言呻き、日焼けした暖簾を手で弾き飛ばすように潜り抜けた桐野。
昼間でも薄暗い室内に人は見当たらない。
桐野が微かに震える声で人を呼べば、『はぁい』と気だるげな返事と共に奥からくたびれた中年女がノソリと姿を現した。
「いらっしゃいまし。三人様で……」
「悪いが客ではない。たった今、若い男と女の二人連れが入った筈だ。二人に会わせてもらいたい」
今にも店内に押し入らんばかりに息の荒い桐野を軽く脇にやり、修一郎が女を一瞥する。
根が愚鈍なのかわざとなのか、女は腫れぼったい瞼をヒクヒクさせ、小首を傾げて修一郎を見上げた。
「若い男と女……あぁ、おマキが連れてきた客ですね? あいすみませんが、今は取り込み中でして……」
『取り込み中』それが何を指すのかわからないほど修一郎も馬鹿ではない。
苛立たしい気持ちを必死で抑えて、彼はグッと唾を飲み込んだ。
「そうか、それならばここに『トキ』という女がいるだろう、その者を呼べ」
「申し訳ございませんねぇ、おトキは今お客がついておりまして」
いかにも面倒だ、といった様子でほつれた髪を撫で付ける女。
遂に桐野の、そして修一郎の溜めに溜め込んだ怒りが爆発した。
「貴様ッ! いつまでものらりくらりと、馬鹿にしておるのかッ! 」
「お主では話にならぬっ! さっさとそこを どけぇッ! 」
修一郎が、そして桐野の咆哮が店中に響き渡る。
石仏よろしく固まる女、店の奥からは怒号を聞き付けた男衆が顔色を変えて駆けつけてくる。
しかし、そんな者らに怖じ気づく二人ではなかった。
「上がらせてもらうぞ! どけ……どけと言うておるのがわからんのかッ! 邪魔立てすると容赦はせんぞっ!」
い並ぶ大男らを突き飛ばし撥ね飛ばして、二人は足音も荒く店内へと上がり込む。
その後ろを背中を丸めて追い掛ける高橋、夜に備えて休憩に入っているのだろう女郎達は、突然現れた厳つい侍らの姿に目を丸くし、あるものは怯えて奥へと駆け込んでいく。
桐野はそんな女郎の一人を捕まえ、『トキ』の所在を問い質すと、蚊の鳴くような声で『二階にいる』との答えが返ってきた。
女郎を突き飛ばすように離した桐野は、一目散に二階へ通じる階段を駆け上がっていく。
薄暗いうえにギシギシ軋む階段を大柄な侍二人。
磨き上げられ、黒光りする長い廊下の突き当たりに、流水模様の着物が仄かに浮かび上がった。
廊下の両側にズラリと部屋が並ぶ二階、階下の騒ぎに気付いたのだろう女は半分ほど開いた襖の間から上半身を覗かせている。
キョロキョロ辺りを見回す女と、修一郎の視線が暗い廊下の真ん中でかち合った途端、彼の口からアッ! と小さな叫びが漏れた。
「おい桐野……」
「間違いない、さっきの女だ」
興奮に赤らむ顔、荒い息を必死で整えながら、桐野がつかつかと女へ近寄る。
「お前が、おマキか?」
「そうですけど……あたしになにか?」
年は海華と同じくらい……いや、もっと若いだろうか、猫の目に似た瞳が生意気な光を宿して桐野を見る。
「お前がここに連れてきた男はどこにいる?」
「どこって、中ですよ。おトキねぇさんがお相手してます」
細く整えた眉を僅かに顰めるおマキを前にした桐野のこめかみに青筋が浮かぶ。
まさに一触即発、仁王立ちの彼と胸の前で深く腕を組んだおマキの間に激しい火花が散ったのが、修一郎の蔭に隠れて様子をうかがう高橋にはハッキリと見えた。
「―― 男に話がある。そこをどいてもらおう」
低く相手を威嚇する声色で桐野が呻く。
何も言わずにこちを睨み付けてくるおマキを片手で脇へ押しやり、半分開いた襖へ手を掛けた、その時だった。
「おい、随分と騒がしいが、何かあったのか?」
襖の奥、行燈が一つだけ灯る薄暗い室内から聞こえたのは、三人には聞き覚えのある声。
黒い空間の向こうから姿を現したのは、着流しをだらしなく着崩し、左腕を吊る白布もすっかり解いた志狼だった。
「志、狼ッッ……!」
「だ、んな様っ!? 修一郎様……! どうして!?」
まるで幽霊に遭遇したかのように青ざめ、顔一面に驚愕の表情を浮かばせる志狼。
左肩からズルリとずれ落ちる着流し、程よく筋肉の付いた身体がほとんど露わとなった刹那、感情を爆発させたのはやはり桐野だった。
「志狼ッッ! お前……お前は何をやっておるのだっ! どうしてこんな真似をした! なぜ海華を裏切るような真似をした ――ッッ!」
怒りに燃える叫びか、はたまた悲痛な絶叫か……。
どちらともつかぬ叫びを張り上げて、桐野は全身でぶつかるように志狼へ掴み掛かる。
今までこのように取り見出し感情を露わとする桐野を目の当たりにしたことがない修一郎は、志狼に対する怒りもどこかへ吹っ飛んだ様子で、慌てて桐野の身体を羽交い絞めにし、渾身の力を込めて引き剥がした。
「離せッ! 離してくれ! 後生だから離せっ!」
「止めぬか! 落ち着け桐野っ! いいから落ち着くのだっ!」
「旦那様! 違います、俺は……俺は海華を裏切ってなんかいないッ! 誤解です、違うんですっ!」
「ちょっとなんなのよ!? あんた達一体……止めてよ! 誰かっ! 誰……キャ ――!」
男の怒号と罵声、女の悲鳴が入り混じる廊下はまるで戦場のようだ。
悲鳴を聞き付けた男衆が駆け付け、更に現場は混乱の坩堝と化す。
床板が抜け落ちてしまうのではないか、男衆に揉まれ踏まれて散々な目に遭う高橋がそう思った時、野太い叫びが飛び交う空間に絹を裂くような女の声、志狼の名を呼ぶ声が響き渡り、その場にいる者らの動きを一瞬で止めた。
「海華……」
桐野に組み敷かれる格好で廊下に伏していた志狼の目が張り裂けんばかりに見開かれる。
乾いた唇を戦慄かせ、紡いだのは一番大切な者の名だった。
全員の視線が注がれる廊下の奥、階段の上がり口に立つのは、涙でグシャグシャになった顔を上気させた海華と、酷く苦しげに咳き込みながら会談の手すりに身を凭れ掛けさせる朱王だ。
「志狼さん……なんで……?」
身体全体を使って呼吸する海華が、感情を全く見せない声色で問う。
氷のように冷えた時間は凍り付き、侍三人の心臓が割れんばかりに早鐘を打ち鳴らす。
「志狼さんどうして……? どうしてこんな事したの? どうして嘘なんか……」
「違うんだ、海華違うんだ! 誤解だ、俺は……」
「なにが誤解よッッ!」
怒髪天を突く勢いで海華が怒鳴り立てる。
血走った目は射殺さんばかりに志狼を睨み、固く握った両の拳は筋が浮き、わなわな震えた。
「ここまで来て、まだ誤魔化すの!? なにが誤解よ……馬鹿にしないでッッ! あなた最低よ!もう勝手にすればいいわ! この嘘つき!人でなし――ッッ!」
湧き上がる怒りにまかせて投げ付けられる罵詈雑言。
鬼の形相で怒り狂う彼女に圧倒されたのか、志狼は勿論桐野や修一郎も顔を引き攣らせ言葉の一つも出せないでいる。
そんな男らにクルリと背中を向けた海華は、今駆け上がったばかりだろう階段を、足音も荒く駆け下りて行った。
「おい! ちょ……ちょっと待て海華っ!」
頬から汗を滴らせ、欄干に凭れていた朱王はよたつきながらも必死に彼女の後を追い掛ける。
階段を駆け下りるバタバタと忙しない足音、嵐が過ぎ去ったかと思われるほどに荒れ果てた廊下には静寂と埃臭い空気が充満するだけ。
桐野の羽織を力一杯握ったまま廊下に片膝をつく修一郎は、全身の力が抜けたかのように突然その場にしゃがみこみ、腹の底から深い深い溜息を吐き出した。
晴れ上がった空の下、賑やかな子供たちの歓声が響く中西長屋。
背中に赤子を背負い、子守唄を唄う少女の隣では野菜に青々とした葉野菜を持った女が井戸端へと急ぐ。 いつもとなんら変わらない時間が過ぎて行く長屋、その一室で、海華は一人膝を抱えて丸まっていた。
橋向こうの女郎屋から怒りにまかせて飛び出した海華がまっすぐ向かったのは、八丁堀の嫁ぎ先ではなく実家となるこの長屋、兄の部屋だった。
元より親類縁者などいないに等しい彼女、万が一の場合、帰る場所はここしかないのだ。
女郎屋で目の当たりにした志狼の姿が未だ脳裏をちらつく。
頭に血が昇ったまま桐野や修一郎の前でみっともない姿を見せてしまった事は後悔している、しかし志狼を許せない気持ちはあの時のままだ。
どうして自分に嘘をついたのか、どんな弁解をされてもただの言い訳にしか感じない。
今は彼から離れたところでゆっくり気持ちの整理を付けたかった。
だが、彼女の立場がそうさせてはくれないのだ。
「お勝手、そのままで来ちゃった……」
乾いてひび割れた唇から漏れる独り言。
泣き濡れた顔を緩慢な動作で上げ、彼女は小さく嘆息する。
いくら夫婦の間で揉め事があったとはいえ、自分は桐野家に仕える使用人だ。
主である桐野に不自由をさせる訳にはいかない。
志狼がいるから、そう思ってみるが片腕の利かない彼ではこなすのが難しい仕事もたくさんある。
無責任に屋敷を飛び出してしまってよいのか、このまま帰ろうか……。
苦しい胸の内で考えを巡らせる海華。
そんな彼女の目の前で、ギシギシ鈍い音を立てながら色あせた戸口がゆっくり開き、白い光の線が彼女に向かい、畳へ直線模様を描き出した。
「今帰った……」
ひどく疲れ切った声が固まっていた空気を動かす。
半分ほど開いた戸口の間から姿を現したのは、この部屋の主であり海華の実兄である朱王だった。
女郎屋から飛び出した彼女の後を必死で追い掛けた朱王は、一目散にこの長屋へ、そしてこの部屋へと向かった海華を何も言わずに部屋に上げ、自分はすぐどこかへ出掛けてしまっていた。
どこへ行くのか、など尋ねる暇はない。
狂ったように泣きじゃくっていた海華が我に返ったその時には、もう部屋に朱王の姿はなかったのだ。
「お帰り、なさい……」
埃の付いた袖口で軽く顔を拭い、海華が気まずげに返事を返す。
乱れに乱れた黒髪を手櫛で整えて、やおら水瓶の蓋を開けた朱王は海華の方に顔を向けぬまま、柄杓を手に取る。
「お前、今夜はここに泊まれ」
澄んだ水を柄杓で掬う朱王が発した台詞に、海華は泣きすぎて腫れた瞼をヒクリと動かす。
「兄様、どう……」
「今、修一郎様や桐野様とお話ししてきた。 お前はしばらくここにいろ、と桐野様が……」
「それって、もう帰ってくるなって事? もう、あたしはいらないの?」
自分の発した言葉が刃となって心を切り裂く。
『しばらく』が、どのくらいの間を指すのかわからない。
もしや、このまま返されてしまうのか、もう二度とあの二人に会う事は出来ないのか……? 様々な思いが混ざり合い、目尻から涙となって頬をつたう。
小さくすすり泣く海華へ『違う!』 と一言叫んだ朱王は、柄杓の水を一息に飲み欲し、放り投げるようにそれを水瓶の傍らへ置く。
室内へ上がる彼の足は、土埃ですっかりくすんでいた。
枕屏風の前で身体を丸めるように啜り泣く海華、その前に座した朱王は、幼い子供に語りかけるようにゆっくりと、や足様で感じられる声で語りかける。
「帰ってくるななんて、桐野様は一言も仰らなかったぞ。 それどころか、海華に申し訳ないと頭を下げられた。 今すぐお前を迎えに行きたいが、それではお前が辛かろうと……。だから、しばらく俺に預けると仰ったんだ」
目の前で聞こえる兄の声に、そろそろ顔を上げた海華は『本当か?』とでも言いたげな表情を見せる。
「旦那様が、そんな……あの、志狼さんは……」
「あいつとはまだ会っていない。 今会えば……殴り飛ばしちまいそうだからな。なぁ海華、今すぐ屋敷に帰って奴と顔を合わせるなんて出来るか? 桐野様の前でも、何もなかったように振る舞えるか?」
改めてそう問われてみると、海華にはその自信がない。
きっと志狼に会えば、さっきのように罵詈雑言で責め倒してしまうだろう。
「今は、できない……。 だって、無理よ、そんなの……」
「だろう? だから今はここにいろ、少し頭を冷やすんだ。 桐野様が、しっかり志狼と話をして下さる。時期がきたら、お前の気持ちの整理が付いたら、また志狼と会えばいい」
そう言いながら軽く肩を叩いてくる朱王へ、海華は微かに唇を笑みの形に歪めて見せた。




