第二話
胸中で荒れ狂う怒りのままに、朱王は柳眉を逆立てやおらその場から立ち上がる。
クルリと踵を返した彼の手が障子に掛かろうとしたその刹那、高橋が小さな悲鳴を上げて薄墨色の着流しの裾を掴み取った。
「待て! 待て朱王! どこに行くつもりだ!?」
「志狼の所です! あの野郎、海華に隠れてふざけ真似を……ッッ! 一緒になる時は調子のいい事を言っておきながら、絶対許さんッ! 」
一発二発殴り飛ばしてやらねば気が済まない。
そう一言叫んで高橋の手を振り払う朱王、そんな彼の背中に向かい、鋼のような修一郎の一喝が飛んだ。
「止めぬか朱王ッ! 座れ……いいから早くそこへ座れッ! 」
「なぜです! まさかこのまま黙って見過ごせとおっしやるのですかっ!? 」
普段は滅多に口答えなどしない朱王だが、この時ばかりは大人しく引き下がりはしない。
互いに鬼の表情のまま睨み合う二人を前にして、侍二人は生唾を飲み下す。
「誰も見過ごせなどと言ってはおらぬっ! よいか、今お前が志狼の所へ乗り込んだとて、証拠がないのだ! 知らぬ存ぜぬで交わされたらどうする!?」
修一郎の言葉に、朱王はグッと押し黙る。
志狼がそこまで卑劣な人間だとは思いたくない、しかし修一郎の言葉も一理あるのだ。
表情を苦しげに歪めて唇を噛み締めたまま、朱王はドカリとその場に座り込む。
「証拠、と言われましても……。 不貞の現場の現場を直接押さえるしかないのでは?」
「そうだ、まずは俺とお前……それから桐野もだ、俺たちの目でしっかり確かめねばなるまい。それに、万が一二人の見間違い、という事もあるからな」
騒ぎに騒いで『間違いました』では済まされない。
桐野は志狼はもとより、海華が一番に怒り狂うだろう。
念には念を、事は慎重に運ばねばならない。
この日の夜、修一郎の自室には遅くまで灯りが燈ったまま、朱王が長屋へと戻ったのは真夜中も近くなってからだった。
翌日、都築と高橋が志狼を目撃した場所…… 大川の支流に架かる橋の近くに、修一郎、朱王、そして桐野の姿がある。
川の両側でしなやかに葉を揺らす柳の大木、数多の人が行き交う通り、橋を渡れば、そこはす ぐ色街だ。
高橋達にこの場所へ案内された三人、ここは修一郎と朱王にはよく見覚えのある場所だった。
そう、ここは結婚前、海華が夜な夜な御神籤を売りに訪れていた場所なのだ。
「おい修一郎、それに朱王よ。お主ら本当に志狼が不貞をはたらいていると思っているのか?」
昨夜の修一郎と同じ、ひどく不機嫌な面持ちで橋を睨む桐野、自身の使用人が女郎にうつつを抜かしていると聞かされて、良い気持ちのする者はいない。
「高橋と都築の見間違いに決まっておろうが」
「見間違いかどうか、お主の目でしっかり確かめればよい。 今日はそのために呼んだのだ」
吐き捨てるように言った桐野の傍に立つ修一郎は、手に汗握り橋向こうの女郎屋を凝視する。
「よいか、志狼はできた男だ。 よりによって海華を裏切る真似など出来る訳なかろう。 朱王、お前も志狼を疑っているのか?」
ジロ、と横目で桐野に睨み付けられ、朱王は思わず唇を噛み締める。
肯定も否定もしない彼に苛立ちを隠し切れないのか、桐野はもうそれ以上口を開くことはなかった。
しかし、『志狼を信じたい』そんな彼の気持ちは次の瞬間粉々に打ち砕かれる事となる。
白地に朱色の格子模様、目が痛くなるほど派手な着物を纏う若い女と腕を組み、橋を渡って行こうとする志狼の姿によって……。
「志、狼……!? 」
仲睦まじく腕を組み、橋を渡っていく男女の二人連れ。
左腕を吊った男は横顔だけしか見えないが、志狼に間違いなかった。
不機嫌だった桐野の顔が驚愕の表情に変わり、そしてみるみるうちに血の気が引いていくのが隣に立つ朱王にもはっきりわかる。
例の女郎屋へ向かう二人を追い掛けるようにその場から走り出そうとする桐野の肩を修一郎が力一杯掴み上げ、その場に引き留めた。
「離せ……! 何をしている早く離せ!」
「止めろ落ち着かぬか! お主何をしようと……」
「何をだと!? あ奴を止めるに決まっておるではないかっ!」
「ここで騒ぎを起こしてどうする! ここは耐えろ! それより、あの男は志狼で間違いないな?」
三人の目で確かめているため間違う筈はないのだが、念には念をと修一郎が尋ね、桐野のは橋の方角を凝視したまま無言で頷く。
「まさかあいつがこんな事……なぜだ!?」
悲痛をたっぷり含ませた呻きを漏らし、桐野の傍らに立つ柳の大木に力無く凭れかかる。
信じていた者の裏切りを目の前で見せ付けられたのだ、その衝撃と落胆は並大抵のものではないだろう。
今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな彼を前に、もはや修一郎の口からも、勿論朱王の口からも恨み言は出てこない。
頭を抱えて微動だにしない彼を支えるようにその場に立たせ、修一郎は苦虫を噛み潰した面持ちで軽い溜め息をついた。
「とにかく……あれが志狼だとわかった以上、なにか手をうたねばならぬ。―― よいか、絶対に海華だけには感付かれるな」
声を潜ませた修一郎の台詞に、朱王と桐野がほぼ同時に頷く。
そう、問題は彼女だ。
志狼が不貞をはたらいているなど知れたら、きっと彼女は取り乱すに違いない。
嘆き悲しむか、烈火の如くに怒り出すか……。
どちらにしても深く傷付ける事に変わりないのだ。
『早急に手をうたねばならない、しかし海華には絶対知らせるな』
暗黙の約束を交わした三人、失意のままにその場を後にした。
鉛を飲み込んだように重たい心を引き摺り、桐野が帰宅したその夜、家事一切を片付け離れに下がった海華は、昼間取り込んだ洗濯物を畳みつつ、湯屋へ行った志狼の帰りを待っていた。
最近、病に伏せる知人の世話焼きに朝から出掛けてしまう志狼、昼過ぎには帰宅するが、掃除洗濯料理等々の家事をこなすのは海華が主となっている。
端から見れば大変そうなのだが、もとより家事を一人でこなすのが当たり前の生活だった海華である、今の状況に不満があるわけではなかった。
最後の肌着を畳み終えた、それを待っていたかのようにスルスルと渡り廊下と部屋を仕切る襖が開き、洗い髪を軽く結わえた志狼が姿を現す。
「お帰りなさい。今日はゆっくりだったわね?」
「ただいま。やたらと人が多くてよ、洗い場も芋洗いだったぜ」
湯道具を包んだ風呂敷を部屋の片隅に放り出し、海華が出した座布団に胡座をかいたかと思うと、そのままゴロリと横になり右手で頭を支える。
そんな彼を見て、海華は側に寄り当たり前のようにその膝を貸した。
「お疲れ様でした。 お知り合いの調子はどうなの?」
「うん……あと四、五日はかかると思う。家の事、みんな押し付けちまってすまねぇ」
「いいのよそんなの、気にしないで。――それよりもね、あたしちょっと気になる事があるの。旦那様の事なんだけど……」
太股の上に乗せられた頭を手拭いで拭きながら、ポツリと海華がこぼす。
やわやわと髪を拭かれる心地好さに目を細めていた志狼の肩が、ピクリと蠢いた。
「お前も気付いてたか。旦那様、いつもと様子が違うよな? 今朝まではなんともなかったのに……」
「そうなの、なんだか元気がないのよ。お夕飯の時だって、まるでお通夜みたいなお顔だったわ。召し上がる量も少なかったし……。何かあったのかしら?」
どこか身体の具合でも悪いのだろうか? 奉行所で何かあったのだろうか? 浮かない表情をみせて桐野を案じる二人の横で、行灯の灯りか小さく瞬く。
桐野の異変、その原因が何なのかを海華が知ったのは、それから三日後の事であった。
翌日、桐野を見送った志狼は自らも『昔の知人』のもとへ向かうべく支度を始める。
台所では、襷掛け姿の海華がせっせと食器洗いに精を出していた。
「海華! 俺、そろそろ行ってくる。悪いがあとの事は頼んだぞ」
「わかったわ、気を付けて行ってきてね」
濡れた手を前掛けで拭いつつ、台所へ顔を出した志狼の後ろをついて勝手口まで来た海華は表まで出て、満面の笑みで彼を送り出す。
彼の姿が小さくなり、さて、自分も仕事に戻ろうと踵を返しかけた、その時だった。
視界の中に突如現れた黒い羽織、風にはためくそれに気付いて足を止めた海華、よく見慣れたそれを纏うのは、少し前に家を出た主であろうか?
塀の影に隠れるように立つ人影は、志狼が道の角を曲がったと同時に道へ姿を現す。
よくよく目を凝らした海華、主より若干背が低く感じるその人物は……
「高橋様……? あんなところでなにやってるのかしら?」
辺りを気にするようにキョロキョロと落ち着かない人影は、間違いなく高橋だ。
なぜか見付かっては不味いと感じ、慌てて垣根の側に身を屈める海華の前で、彼は志狼の後を追い掛けるよう小走りに見たの向こうへ消えていく。
海華の目には、高橋が志狼を尾行ているように見えた。
「どうして? なんで高橋様が志狼さんを……」
無意識にこぼれる独り言。
言い知れぬ不安が育ちゆく胸中。
妙な息苦しさを感じ、海華は急いで前掛けを外して高橋の後を追う。
洗いかけの茶碗や家の戸締まりの事など、もはや彼女頭の中からは綺麗さっぱり消え失せていた。
大川の支流に掛かる小さな橋、その対岸は昼間でも淫靡な雰囲気に満ち満ちた色街だ。
橋を渡って一番近くに店を構える小さな女郎屋、色褪せた暖簾が気だるげに揺れるその店はまだ昼間という事もありひっそりと静まり返っている。
店をグルリと取り囲むように作られた板塀の影に、修一郎と朱王が、そして彼らと反対側の板塀の影には桐野が身を隠し息を潜めて志狼が来るのを待っている。
『どうか志狼が来ないように』
三人とも心に思う気持ちは同じ。
高鳴る胸に滴る汗、しかし三人の思いは志狼の登場により呆気なく裏切られる。
橋の向こうから女と腕を組み歩いてくる志狼の姿が目に入った刹那、桐野はその場から飛び出したいのを必死で堪えるようにきつく拳を握り締めた。
志狼の後をつけるよう命じていた高橋は今、桐野の背後で辺りに気付かれぬよう必死で息を整えている。
「今日、昼間はお客さんだけよ。だからいつもよりゆっくりしてってね」
「そうか、そりゃいいな。でも、ゆっくりったって昼までだぜ」
「そっか、奥さんいるんだものねぇ。あぁ残念!」
子供がはしゃぐように屈託のない笑顔を向ける女との会話を耳にして朱王の頭に煮えたぎった血が昇る。
飛び出して殴り飛ばしたいのを必死で耐える朱王にも気付かずに、志狼と女は女郎屋の暖簾をくぐっていった。
二人の姿が完全に見えなくなったのを確かめて、四人は塀の影から道へと出る。
薄暗い世界から煌めく陽光が満ちる世界に足を踏み出したその時だった。
眩しそうに目を細める朱王の視界、その片隅に浅葱色の着物を着た小柄な人影が映り込む。
「―― !! お前……どうして!? 」
驚愕の表情を見せて、志狼が今来た方角へ顔を跳ね向ける朱王。
その叫びにつられるように、三人が同時に朱王の視線の先を見る。
そこには、今この場に一番いて欲しくない者の姿があった……。
まるで幽霊でも見たような面持ちでその場に立ち尽くす海華、彼女はきっと見てしまっただろう、志狼が見知らぬ女と腕を組み、この建物に入っていくところを。
凍り付く時の中、みるみるうちに海華の顔から血の気が引いていく。
片手に握り締められた前掛けが音もなく地面に落ちる、その瞬間、彼女は弾かれたように後ろを振り返り、脱兎の如くその場から走り出す。
「海華ッッ! 海華待て……!」
「海華……朱王追え! 早く追い掛けろ!」
切羽詰まった修一郎の叫びが終わらないうちに、朱王の足は土煙を上げて大地を蹴る。
並みの男に負けぬほどの俊足を誇る彼女だが、たった今見た光景があまりに衝撃的だったからであろう、橋を目指してか蹴る足はもつれ、今にも転んでしまいそうだ。
黒髪をたなびかせ海華の後を追う朱王、彼の手が浅葱色をした着物の袖を思い切り掴み取った。
「海華っ! 待て、話を……」
「嫌よ! 嫌っ!話なんてない……そんなの聞きたくないッ! 何なのよ……さっきの何なのよッッ! 」
力一杯朱王の手を振り払い、気が触れたような金切り声を張り上げる海華。
橋向の道を行く人々の視線が二人へ突き刺さる。
自分へ向けられる狂気の光を帯びた瞳、殺気立つ彼女の手をもう一度鷲掴み建物の陰へと引き摺って、朱王は何も言わず海華の身体を骨が折れんばかりの力で抱き締めた。
ぐぅ、と小さく喉を鳴らす海華の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
唇を噛み締め必死に声を殺そうとするが、漏れる嗚咽が止まらない。
止めどなく流れる涙は朱王の着流しに吸い込まれ、黒いシミを作り上げた。
「どうして、ここがわかったんだ?」
苦しげな、低い低い声色で問う朱王。
彼の胸に顔を埋めたまま、海華がきつく目を瞑る。
「高橋、様が……高橋様が、志狼さんをつけていくのが見えて……おかしいと、思って、ッ! 追い掛けたの……追い掛けて……そしたら、ッッ!」
全身を震わせて涙にむせぶ海華を、ただ抱き締める事しかできない朱王は、彼女を抱く腕に力を込める。
ゆっくりと、本当にゆっくりと上げられた顔は真っ赤に上気し、哀しみの雫でぐしゃぐしゃに汚れた顔、充血した目が朱王を捉えた。
「どうして? ねぇ、兄様どうして? あの女の人は誰なの? どうして志狼さんが……教えてよ……どうしてなのよぉぉ!」
堪えに堪えていた感情を爆発させるように、ワァァッ! と腹の底から泣き声を張り上げて、海華はその場に泣き崩れる。
地面に伏し、身体全体を震わせる海華を呆然と見詰めて、朱王力なくその場にしゃがみこむ。
海華を抱き起こす朱王の黒髪が浅葱の肩にかかり、どこまでも黒く深い影を作り出していた。




