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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第九話 川向こうの疑惑
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第一話

 澄み切った大川の川面に深紅の紅葉が筏の如く流れ行く。

秋の気配が強くなり、満ちる空気も冷たさを増した。

限りなく透明な羽を震わせて秋晴れの空を行く赤蜻蛉を供として、八丁堀を目指し歩を進める朱王の姿があった。


 道に溢れる人々の間を縫うように進む彼の手には、黒に近い紫、宝石にも似た艶を放つ茄子の入った竹籠がぶら下げられている。

大家からお裾分けとして貰った秋茄子、しかし朱王にはこれを料理する事など出来はしない。

そのまま放っておき傷ませてしまうのは勿体無い、それならば志狼と海華に譲ってしまおう、そう思い立ち、彼らの元へと向かっているのだ。


 ひと月前に比べめっきり冷たくなった風に頬を、そして絹の黒髪を撫でられながら辿り着いた八丁堀、その一番奥手にある桐野邸では、中庭に植えられた紅葉の木々が赤、黄、橙と鮮やかに色を変え、息を飲むばかりに美しい錦絵を描き出している。


 風雨に曝され一部朽ちかけた木塀の間から、秋真っ盛りの光景を目の保養とばかりに眺めている朱王の肩が、突如背後からポン、と軽く叩かれた。


 「お前、朱王ではないか。 どうしたのだ、こんな所で」


 「これは。桐野様……!」


 驚いて後ろを振り向けば、背丈は自分と同じくらい、浅黒い肌をした細身の侍が、こちらも驚いた様子でこちらを見詰めている。

黒羽織を乾いた風に揺らすこの侍こそ、この邸宅の主である与力組頭 桐野 数馬だ。


 「ご無沙汰しておりました、実は……これを届けにまいりまして」


 どこか恥ずかしそうに表情を崩し、朱王は持参した竹籠を桐野へ見せる。

籠に詰まった艶やかなそれを目にしたと同時、 桐野の顔にも柔らかな笑みが生まれた。


 「秋茄子か、これは美味そうだ」


 「桐野様もご存じの通り、私は料理がからっきしですので。志狼さんや海華に料理してもらったほうが、茄子も喜ぶでしょう」


 自虐的な意味も込めての台詞に思わず桐野も吹き出してしまう。

とにかく、こんな所で突っ立ていないで中へ入れ、と彼に促されて、朱王は桐野邸の玄関へと向かった。

秋の草花が可憐な花弁を揺らす庭を抜け、塵一つなく掃き清められた玄関へ足を踏み入れる。

いつもならここで志狼か海華、どちらかが出迎えてくれるはずなのだが、どうしてだろう、中はシンと静まり返り人がいる気配は感じられない。


 「―― 二人とも、留守なのでしょうか?」


 「うむ、きっと買い物にでも出掛けたのであろう。 なに、儂は部屋に忘れた物を取に来ただけだからな、もし二人がいたとしても呼び出すまでもないが……一応、離れに声を掛けてみるか?」


 三和土たたきで下駄を脱いだ二人、朱王は茄子の入った籠を持ったまま桐野の後について志狼達の自室、離れへと向かう。

キシキシと微かな音を立て軋む廊下は顔が映るかと思うほどに磨き上げられ、眩しいばかりに白い障子には穴一つ、修繕痕一つ見当たらない。

どうやら、海華は使用人としての務めをしっかり果たせているようだ。

そう思い、心の中で安堵の溜息をつく朱王、と、渡り廊下を歩いていた桐野の足がなぜか途中でピタリと止まる。

もうすぐ、あと数歩で離れの襖に手が届く、そんな位置だった。


 「桐野様? 何か……」


 「シッ! 静かに」

 

 声を潜めてそう小さく言い置いた桐野、言われた通りに口を閉じ、身を強張らせる朱王の耳が、襖の奥から微かに漏れる楽しげな女の笑い声を拾い上げた。


 「ちょっと志狼さん動いちゃダメよ、耳に傷が付くわ」


 「仕方ねぇだろ、くすぐってぇんだからさ。 俺はもういいから、耳掻き貸せ。ほら、今度はお前が横ンなれよ」


 「え? あたし? あたしはいいわよ…… キャ、やぁだってばぁ~!」


 「ヤダ、じゃねぇよ。心配すんな、思いっきり優しくしてやらぁ」


 明るい笑いを混ぜた女……海華の悲鳴と共に、ドスン、バタンと数回の振動が廊下に立ち尽くす二人に伝わる。

襖一枚隔てた場所から聞こえる子供がじゃれつくに似た笑い声、向こう側の世界で何が起こっているかを想像した朱王の顔が、髪の生え際まで真っ赤に紅潮していく。

それと同時に思考が一瞬で真っ白に変わった。


 籠を握り締めたまま身を戦慄かせ、鬼の如き形相で襖を睨む朱王の袖口を無言のまま引っ張った桐野は、そのまま彼を引き摺るように、そして泥棒のように足音を忍ばせて今来た廊下を玄関まで逆戻りしていく。


 「―― ッッ! 真昼間っから何をやっているんだあいつらはッ! 桐野様、申し訳ございません……」


 桐野に玄関まで連れてこられた朱王は鬼の形相から一転、ひどく申し訳なさそうなオロオロ声と共に、桐野に向かい腰をほぼ直角まで折り曲げて深く深く頭を下げる。

実に妹が主の帰宅に気付かず、あまつさえ亭主と昼間からいちゃついているなんて、穴があったら入りたい気分だ。


 「朱王、お前が謝る事はないだろう。儂は何も気にしてはおらん」


 困ったような苦笑いを見せながら、朱王の手から茄子の入った籠を取った桐野は、チラと離れの方角に視線を向ける。


 「しかし桐野様、あれでは示しが……」


 「示しも何も、家の事をしっかりやっているなら、儂はそれ以上文句は言わん。 夫婦仲が良いのは結構な事であろう? 帰って早々、夫婦喧嘩の罵詈雑言を聞かせられるより何倍もマシだ」


 決して嫌味で言っているのではない、それは朱王にも十分伝わってきた。


 「先ほどの事は儂とお前の秘密だぞ、いいな、後で海華を咎めるようなことはするな」


 『わかったな』そう念を押されては朱王も黙って頷くしかない。

玄関を出るまで桐野に何度も何度も頭を下げ、逃げるようにその場を後にした朱王が、海華、そして志狼と対面したのは、三日後のことだった。






 「兄様こんにちは! この間はどうもありがとう!」


 ガタガタ軋む戸口を勢いを付けて跳ね開け、秋の匂いの空気と共に室内へ駈け込んできた海華。

いつもと同じ、太陽のような笑顔を向ける彼女の顔に一度目をやって、朱王はすぐ作業机に顔を戻してしまう。


 「あら、兄様どうかしたの? 具合でも悪い?」


 「いや……なんでもない。あの茄子、どうだった? 美味かったか?」


 どうしても先日の事が頭を過ってしまい、何を話していいのか戸惑ってしまう。

取り開けず当たり障りの無いことを、と思い尋ねたのだが、海華は少しばかり困ったような面持ちで小首を傾げたのだ。


 「う~ん、あたしは食べてないからわからないけど……浅漬けにしたのは、旦那様も志狼さんも美味しいって喜んでたわよ?」


 持参した前掛けをキリリと締めてまな板の前に立つ彼女の台詞に、朱王は怪訝そうな顔付きで作業机に片肘をつく。


 「食べてないって、どうしてだ? 足りなかったのか?」


「違うわ、志狼さんが食べちゃダメだって。 ほら、『秋茄子は嫁に食わすな』って言うでしょ?」


 少しも気にしていない様子で話す海華だが、朱王はそう言っていられない。


 「なんだそれは、姑の嫁いびりじゃあるまいし、そんな諺持ち出すなんて馬鹿馬鹿しい」


 「あら、そうでもないのよ、伽南先生が仰ってたんだけどね、茄子は身体を冷やす野菜なんだって。身体冷やすと……ね、赤ちゃんができにくくなるじゃない? 志狼さん、あたしの事を心配してくれてるのよ、優しいでしょ?」


 頬をほんのり染め上げ、目尻を下げる海華。

ケッ! と思いきり鼻で笑いながら、朱王はその背を壁へ預けた。


 「それはそれは仲の良い事で。で? そのお優しい亭主は今どうしてる? しばらくここに来ていないぞ?」


 斜めに凭れた状態で足を組み直し、朱王が問う。

着物の袖を手早く襷でまとめた海華が、笑顔のままで小首を傾げた。


 「うん、なんでも昔の知り合いが身体壊して寝付いてるんだって。で、昼間は身の回りの世話に行ってるの。もう十日くらい前からね」


 あんな人付き合いの悪い奴にも、面倒を見るほど親しい知り合いがいたのか、そう心中で呟く朱王。 『今日のお夕飯は何が食べたい?』そう土間から届いた海華の声にも生返事をして、朱王は楽しげに鼻唄を歌い鍋に水を張る海華の後ろ姿を眺めていた。



 海華が上機嫌で朱王の世話を焼きに長屋へ向かった次の日は、前日の晴天とは打って変わり、どんよりと灰色の雲が天空を覆う陰気な、そして微かに肌寒い一日となった。

正午を過ぎても太陽は顔を出すことなく、そればかりか、いつ大粒の雨が降り出してもおかしくない空模様、そんな中でも天下の江戸は人々の活気であふれ、老若男女数多の人々が大通りを行き交っている。

西へ東へ北へ南へ、それぞれの目的地に向けて歩みを進める人々の中に、昼飯を終えたばかりの二人の侍の姿があった。


 漆黒の黒羽織をはためかせるスラリと細身、 好青年を絵に描いたような容姿の侍の横には、口に楊枝を加えた熊と見間違うばかりに大きな身体つきの侍が歩く。

この一件凸凹な二人連れは北町奉行所街廻り同心、高橋と都築である。

勤め先は同じ、年も同じ、そして何より気の置けない仲の二人は、職務中以外でも行動を共にすることが多い自他ともに認める盟友、親友同士なのだ。


 あそこの蕎麦は美味かっただの、次はどこそこで鰻を肴に一杯やりたいだのと、他愛もない会話を交わして奉行所への岐路に付く二人。

と、口にくわえた楊枝で歯を突いていた都築が、ある場所でピタリと足を止めた。


 「ん? どうした都築」


 突然道の真ん中で立ち止まり、明後日の方向を向いたままの彼へ高橋が不思議そうな声色で呼び掛ける。


 「どうした、知り合いでもいるのか?」


 「おぉ……。なぁ、あそこにいるのは、志狼ではないか?」


 口から楊枝をポロリと落とし、都築が指差した方向を首を伸ばすように見遣る高橋。

次々と行き交うたくさんの人の頭、その向こうに確かに彼の見知った顔がいた。

癖の付いた髪を後ろで無造作に結わえ、浅黒く日焼けした若い男は、焦げ茶色の着物を纏い、その左腕は真っ白な三角巾により胸の辺りで吊られている。


 そして彼の右腕には流水に紅葉柄の、些か派手な着物を纏った年の頃十七、八かと思われる女が、ベッタリと絡み付くように取り縋り、輝くような笑顔を男に向けていた。


 「確かに、あれは志狼だ。 何をしているのだろうな?」


 「わからん……それより、あの女は誰だ? どう見ても海華ではないぞ」


 自分達の遠くを行く二人連れに二人の視線は釘付けとなる。

道の真ん中に立つ彼らに、『邪魔だ』と言わんばかりの視線が注がれている事も気付いていないようだ。

そんな二人の視線に気が付くことなく、男と女の二人連れは仲睦まじく大川の支流に掛かる橋を渡り、とある古びた建物の中へと消えて行く。

二人は顔を見合わせほぼ同時に頷くと、二人が姿を消した建物を目指して大地を蹴る。


 ガタガタと下駄を鳴らして橋を渡り、そこから少し離れた場所にある建物の前に立った二人。

玄関先に揺れる茜色の暖簾、そこに白抜きされた店の名前と、ここ場所がどういった場所であるかを確認した二人は、再び顔を見合わせて生唾を飲み下した。







 「……おい、高橋」


 書庫へと続く長い廊下、そう人目に付かない廊下の脇で、眉間に皺を寄せた都築が友を呼ぶ。

『なんだ』そう抑揚のない声で返事をした高橋の顔は、病み上がりのように青白かった。


 「さっきの事、桐野様にお伝えするか? このまま黙っておくか、どちらがいいと思う?」


 「どちらがいいかと俺に聞かれてもな……。 きっと桐野様はご存じなかろう。 もし話せば修羅場は確実だぞ」

 

 胸の前で深く腕を組み、肺の底から大きな溜息を吐き出した高橋が、傍らの壁に凭れ掛かる。

志狼の姿をあの場所で見付けてからと言うもの、奉行所に帰ってきてからも、天を覆う暗い雲のように二人の顔色は冴えなかった。


 「だがお前、このまま黙っているなど出来るか? 大体、海華が不憫ではないか」


 「それはそうだが、知らぬが仏と言うだろう? ……確かに、海華殿には気の毒だがな」


 声の調子を僅かに落とし、高橋は己の爪先へ視線を落とす。

この時、二人は全く気付いていなかった。

二人が立つ廊下、都築のすぐ背後にある廊下の曲がり角に、奉行所の主とも言える男が立っている事を。


 「―― 海華の、何が気の毒なのだ?」


 ふと響いた野太い声。

高橋は、それを都築の声だと思い込む。


 「何が気の毒かって? 結婚して日も浅いというのに、亭主が朝っぱらから女郎屋に入り浸っているのだぞ? 気の毒以外になんと……」


 そこまで口にして、高橋は己に覆い被さる黒い影に気付き弾かれるように顔を跳ね上げる。

大柄な続きの背後から音もなく、ヌッと姿を現したより大きな人影。

それが誰だかわかった途端、高橋は声にならない悲鳴を上げて、その場にドン!と尻餅をついた……。






 『今すぐ屋敷にお越しください』


 そんな台詞と共に突然現れた上条家の遣いに、朱王が長屋から引き摺り出されるように連れ出されたのは、周囲に闇の帳が降りた頃だった。

北町奉行を勤め、朱王の異母兄弟でもある上条 修一郎は、時おり朱王を屋敷に呼び出し酒を酌み交わすのを楽しみとしている。

おそらく、今日もそうなのだろうと特に疑問に思うでもなく朱王は遣いと共に屋敷へと向かう。


 屋敷に到着し、修一郎の自室まで案内されるまではいつもと同じ、廊下と部屋を隔てる障子戸の前に正座すると同時、遣いが室内へ向かい朱王が到着したと声を掛ける。

いつもなら、酒精に酔った陽気な返事が返ってくるのだが、今宵は違った。

『入れッ!』と、怒りを十二分に含ませた返事が障子の向こうから勢いよく飛び、朱王は思わずその場に固まる。


 「何をしておる! 早く入れッ!」


 「は、い。失礼致します……」


 何が修一郎をここまで怒らせているのだろう? そんな疑問に包まれ、障子に手をかけつつチラと遣いの者の顔を伺えば、彼はひどく困ったように顔を伏せてしまう。

恐る恐る障子を開けたと同時、朱王の目に飛び込んできたのは、茹で蛸よろしく顔を紅潮させた修一郎と、蛇に睨まれた蛙の如く身を縮こませて正座する都筑と高橋の姿だった。


 「―― 遅く、なりました……。あの修一郎様……?」


 「話がある。早く中へ入れ」


 太い眉を限界まで逆立てる彼にジロリと睨み付けられ、無意識に息が止まる。


 「朱王、最近海華は志狼の事を何か言っておったか?」


 唐突な質問に一瞬言葉を失う朱王。

苛立たしげに、そして答えを急かすように修一郎の胡座をかいた足が小刻みに揺れる。


 「どうなのだ! 聞いていたのか、いないのか!?」


 「いえ……! 特には……。―― あぁ、そう言えば昔の知り合いが身体を壊して、志狼が毎日身の回りの世話に行っているとか……」


 先日、海華から聞いた事を思い出して、朱王が途切れ途切れ口にする。

その途端、修一郎の顔が更に紅く変わり、両の目が血走り出した。


 「何が昔の知り合いだっ! あやつめ、どこまで海華を騙せば気が済むのだッッ!!」


 痛いくらいに鼓膜を揺さぶる修一郎の怒号。

何が何やらわからぬ朱王は、助けを求めるような面持ちで隣に座する高橋へ視線を投げる。

しかし彼は青い顔でうつ向いたまま、唇を閉ざしたままだった。


 「お待ちください修一郎様! 志狼さんが海華を騙すとは……一体どういう事なのですか?」


 このままでは埒があかない、思い切って口を開いた朱王の前で、怒り心頭の修一郎が畳を思いきり殴り付けた。


 「あやつが真っ昼間っから女郎屋に出入りしているのを、この二人が見たと申しているのだっ! 」

 

 「―― は?」


 「『は?』ではないっ! 高橋! 都筑っ!先ほどの話を朱王に聞かせてやれっ!」


 頭から湯気を上げんばかりに怒鳴る修一郎と、戸惑いを隠せないままに高橋と都筑へ顔を向ける朱王。 叱られた子供のような面持ちの高橋は、モゴモゴと歯切れ悪く昼間自分達が見た光景を話し出す。


 「最初は、まさかあの志狼が、とは思った。 だが、女郎屋の小間使いを呼び出して問いただしたら……なぁ、都筑?」


 「ここの所、昼間は毎日来ていると。『トキ』という女を指名しているようだ」


 額からダラダラ流れる冷や汗をしきりに手拭いで拭き取り、うつ向いたまま、視線をさ迷わせる都筑。 朱王は思いもよらない彼らの話しに呆然としていた、まさかあの志狼がそんな真似をするなんて……。

一瞬で思考が停止した頭、しかし次の瞬間、彼を襲ったのは真っ赤に煮える溶岩の如き激しい怒りだった……。

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