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第四話

 シンと静まり返った桐野邸。

玄関に近い一室にぽつねんと座る朱王は、長屋から持参した人形……海華が嫁ぐ前に使用していた姫人形を抱え、白く滑らかな頬についていた埃を入念に拭き取っている最中だった。

ここで留守番している間は特にやる事がなく、手持無沙汰で暇を持て余しているよりは、と、海華が自分の人形の手直しをしてくれるよう頼んだのだ。


 髪の手入れや着物の直し程度ならば時間も掛からず、部屋も汚さないで済む。

あと少しで全ての手直しが終わろうとした時、裏口の方向から廊下が軋む微かな音が聞こえた。

ギシ、ギシと乾いたほんの小さな音、しかし朱王の耳がそれを聞き逃すはずがない。


 素早く人形を部屋の片隅に置き、部屋から出ると音の方向へ歩を進める。

足裏に染みる冷気、勝手口に通じる廊下を行く朱王の前に、華奢で小柄な影が暗闇の向こうから現れた。


 「誰だ?」


 「兄様、あたしよ」


 闇から現れた海華からふんわりと漂う汗の匂い。

井筒屋から走ってきたのだろうが、息一つ切らせてはおらず、いつもと変わらぬ足取りで朱王の傍へと来る海華は、一度唇を噛み締め真剣な眼差しで朱王を見上げた。


 「志狼さんからよ。巴さん達、これから出掛ける話しをしてたって。あたしと一緒に来て」


 「わかった。桐野様方は?」


 「もうしらせてあるわ。高橋様達が、お店の周りで見張ってる。兄様もそこへ」


 そう言い終えて、海華はクルリと踵を返す。

裏口に置いていた下駄を突っ掛け彼女の後を追い掛ける朱王は、目の前を行く小さな背中をジッと見詰めた。


 「今まで長かったな、疲れただろう?」


 「仕方ないわよ。思った通りに動いてくれるわけじゃないんだから。それに、あたしより志狼さんの方が疲れてるわ。兄様も、黙って留守番は疲れたんじゃない?」


 朱王の台詞に軽く後ろを振り返り答える海華。

『そこまでやわじゃない』そう反論してはみたものの、緊張の連続はさすがに堪えている。

この一件が片付いたら、志狼とゆっくり酒でも酌み交わしたいものだ。

いや、この際海華も一緒にどこかへ食事に行くのもいいかもしれない。


 朱王にしては呑気な事を考えつつ、夜の闇を切り裂き走る二人は、そう時間も掛からぬうちに志狼の待つ井筒屋へと到着する。

辺りを包む漆黒の闇、どこかから聞こえる寂しげな犬の遠吠え、暖簾をしまいぴったりと戸を閉めた井筒屋には、勿論人の気配はない。

海華は井筒屋の正面を走り抜け、店と隣家を隔てる板塀の蔭へ朱王を案内した。


 「旦那様! ただ今戻りました!」


 「海華か、ご苦労であった。朱王、やっとお主の出番だぞ」


 夜の闇に塗り込められた板塀の蔭から響く聞きなれた声は、志狼の、そして海華の主人でもある北町奉行所与力組頭 桐野 数馬その人のものに間違いない。

姿こそ見えぬ相手に軽く会釈し、朱王は黒の世界へ一歩足を踏み入れた。


 「遅くなりまして申し訳ありません。 桐野様、あの姉妹は……」


 「まだ出てきてはおらぬ。朱王、志狼は店の裏手より出入りしているようだ、お前はそこで志狼が出てくるのを待っていてくれ。海華、お前はもう一っ走りだ。都築と高橋に、すぐ動けるように、と伝えてくれ。 儂の感では、そろそろ動き出すだろう」


 「承知致しました」


 「わかりました。旦那様、早速行ってまいります」


 ほぼ二人同時に返事をし、二人は足音を忍ばせてそれぞれの場所へと向かう。

火消桶が積まれた裏木戸の蔭に身を隠し、チラチラと星が瞬く夜空の下に立つ朱王の肌を、冷えた夜風が撫でるように撫でて行く。

墨色をした着流しの奥で粟立つ肌、無意識のうちに肩を竦めて裏木戸に何度も目をやる彼の目の前で、風にゆっくり吹かれたように音もなく木戸が開いていく。


 「志狼さんか?」


 低く低く抑えた声で思わず彼の名前を呼び駆ければ、人一人やっと通れる幅まで開いた戸口の間から、ひょい、と志狼が顔を覗かせた。


 「朱王さん来てくれたのか、あの姉妹、今、出掛ける支度をし始めた。 表へ通じる場所はここしかねぇ、だから早くどこかへ隠れてくれ。 俺は……これから中へ戻る。見付からねぇように気を付けてくれ」


 「わかった。あんたも気を付けてな」


 ひどく早口な会話が冷たい空気に溶けていく。

小動物の素早さで再び戸口の向こうへ姿を消した志狼と、高く積まれた火消桶の後ろに身を屈ませる朱王。

再び訪れた夜の静寂、志狼が消えて幾ばくもしないうちに、再び静かに裏木戸が開かれる。

そこから現れる小さな二つの人影、うっすらと射し込む月明かりに照らし出される影の顔を確かめたと同時、朱王は自らの息を殺すように、きつく唇を噛み締めた。


 軋むでもなく開かれる裏木戸。

そこから現れたのは全く同じ紺色と菊華の模様が入った着物を纏う二人の若い女だった。

同じなのは着物だけではない。

髪の結い方も、身に着けている帯紐も銀細工のかんざしも、果ては草履の鼻緒の色まで、上から下まで全て同じ物を身に着けた女が二人、火消桶の蔭に隠れた朱王の前を足早に通り過ぎて行く。


 勿論、朱王の存在は全く気付いていないだろう。

月明かりの下で確かめた顔は、全く同じと言っても過言ではない。

判を押したように同じ顔の二人は、言わずもがな巴とヨシの姉妹だ。

本当に腹違いなのかと疑いたくなるほど似ている姉妹が同じ身なりに同じ化粧を施し並んで歩く、昼間見ても驚くだろうが、闇夜の中では驚きを通り越し不気味にすら感じられた。


 双子、いや一人の女が二つに分かれたような姉妹は、時折顔を寄せ合いひそひそと何か話しながら慣れた足取りで夜道を行く。

足音を立てず息も顰めて彼女らの後を尾行つける朱王へと注がれるいくつもの視線、道沿いに建つ黒ずんだ板塀、裏路地へと続く曲がり角、商家の門柱の後ろ、どこにでもあるような物陰から注がれる視線、それは桐野の命を受け身を潜ませる同心達の物である。


 元は韋駄天の異名を持つ海華がそれぞれ待機する侍らのもとを駆け巡り、事が動き出したのを伝えたのはつい先刻の出来事だ。

その海華は、たった今、姉妹が通り過ぎたばかりの小路の暗がりに都築と共に身を隠し、じっと彼女らの後ろ姿を眺めている。


 「……今の所、おかしな事はないですね」


 都築の隣で板塀から半分顔を覗かせる海華が聞き取れるか取れないかの小声を出す。

海華の背丈まで身を屈めた都築は、その太く逞しい眉を思い切り寄せた。


 「こんな時間に小娘が二人で夜歩きする時点で充分におかしいだろう。 海華、お前にとっちゃあ、これくらいからが稼ぎ時だったか?」


 ニヤ、と口角を片方だけ上げる都築の台詞に、海華は何処か恥ずかしそうに笑いつつ、彼女はひょいと肩を竦めて見せた。


 「いやだわ都築様ったら。 もう昔の事じゃありませんか」


 「そうでもないだろう? どうだ、もう夜に辻に立ちたいとは思わないのか?」


 突然の問い掛けに意外そうな面持ちで目を瞬かせ、海華は都築の方へ顔を上げる。

が、すぐにニコリと微笑み首を横へと振った。


 「今は……全然思いません」


 「そうか。ならば……幸せなのだな。うむ、 何よりだ」


 強面を笑みの形に歪めて都築が数度頷く。

『はい』と短く答えた海華、と、彼女の目が十字路の手前、ちょうど細い裏路地へと曲がりかける姉妹の姿を移し出す。

自分の記憶が正しければ、あの道は猫の道と呼ばれるほどに細く人が一人通るのがやっとのはずだ。


 「あんなところへ入って……。 兄様、ちゃんと見ていたかしら?」


 なかなか姿を見せない兄を案じる海華の口から小さな独り言がこぼれる。

すると、その言葉を待っていたかのように乾いた道へ一本の長い影が伸びた。


 「心配するな、しっかり見ていた」


 「うぉ! お、おぉ朱王、ご苦労だな」


 急に姿を現した朱王に驚き、ビクリと肩を跳ね上がらせた都築。

まるで幽霊でも見たかのような彼の反応に苦笑いしつつ、朱王は軽く会釈する。


 「お疲れ様です都築様。 海華、あの道はどこに通じているかわかるか?」


 「ええ、確か……。ここから二、三軒離れた通りに通じているはずよ。 ほら、麹屋さんの角辺りよ」


 木塀の裏辺りを指差す海華、その指先をジッと見詰めて朱王が頷く。


 「麹屋の角だな、わかった。 お前は桐野様と志狼さんに、その角で待っているように伝えろ。 都築様、私と一緒にきて頂けますか?」


 「わかった。ならば、あ奴等を見失わないうちに行くとするか」


 そんな返事と共に大きな体躯が板塀の蔭からノソリと現れる。

海華は今しがた朱王が来た方向へと走り、朱王、そして都築は姉妹の後を追って彼女らが消えた小路へと向かった。

大通りから一本道を外れただけで、目の前に広がる世界はガラリと変わる。


 辻行燈の灯りも届かない細い道、朱王は何とか通り抜ける事が出来るが、大柄な都築は一苦労。

張り出した肩や大刀を下げた腰が両側の塀に何度もぶつかり擦れ合い、黒い羽織は瞬く間に埃で白く汚れていく。

天空から降り注ぐ月光が唯一の光源となる縦長の世界。

舞い上がる土埃に咽込みそうになりながら、朱王は通期の後ろから時おり顔を覗かせて、遥か前を行く姉妹の後ろ姿を追った。


 「このような場所に何の用があるのだ?」


 羽織の袖口で口と鼻を覆い、顔を顰めて朱王の前を行く都築のくぐもった声が耳に届く。


 「誰かと落ち合うつもりなのか……。 それとも、ここを抜け道に使っているかのどちらかでしょう」


 「うむ……。しかし、この狭さでは何かあっても太刀は振るえんな。 ―― お、あ奴等止まったぞ。朱王そこだ、その陰に入れ」


 姉妹らの足が止まったと同時、都築は反射的に朱王を塀の蔭、ちょうど朽ちかけた板が斜めに倒れかけている場所に押しやり、自らも身を縮めるように暗がりに身を顰める。

姉妹たちが歩みを止めた場所は、人家の裏手、小さめの広場のようになっており、桶やら荷車が無造作に置かれている謂わば物置のような場所だった。


 「 ―― やはり、ここで人待ちか」


 小声でそう言った都築。

彼らが見ている前で姉妹は忙しなく周囲を見渡し、やがて互いに顔を見合わせ一度頷く。

そして何を思ったのか、姉妹のうちの一人は自分達の傍らに転がっていた、大きな樽……ちょうど海華が頭からすっぽり隠れてしまうほどの大きさがあるだろう樽の蔭に身を隠してしまったのだ。


 墨を流した闇夜を包む柔らかな月光。

煌めく星空の下に一人佇む女が巴なのかヨシなのか、離れ眺めている朱王達には見分けがつかない。

そわそわとどこか落ち着きなく簪を直したり着物の合わせ目を直したりする女。

そんな彼女を監視する都築と朱王、そんな二人の背後から、ヒタヒタと静かな足音が聞こえた。


 「兄様……、都築様」


 「海華か?」


 蚊の鳴くような声で名前を呼ばれて、朱王が背後を振り返る。

微かに動いた闇の中から、月光に照らされた青白い海華の顔が浮かんだ。


 「旦那様からの言伝よ。 麹屋さんの角から男が一人、この小路に入って行ったわ。その人は高橋様と志狼さんが尾行つけてる。 多分、ここに来るわ」


 「そうか、あいつらの待ち人はその男だな。 都築様、もしかすると……」


 「うむ、そいつの命が危ういかもしれぬ」


 顎の下を擦りつつ微かに呻く都築。

その時、海華の口から『あ』と息が漏れるに似た声がこぼれる。


 「都築様、来ましたよ」


 彼女の声につられて顔を上げた都築と朱王、そこには先ほどと同じく一人立ち尽くす女の姿と、通りから通じる道から小走りに駆けてくる男の姿が見えた。

男の姿を見た瞬間、女は踊るような足取りで駆け寄りその胸に飛び込む。

夜空の下での熱い抱擁。

二人が何を話しているのかはよく聞き取れないが、その姿はどう見ても想い人同士だ。


 なぜか後ろめたい気持ちに襲われつつも、その抱擁を逐一見続ける三人、やがて女は男の抱擁を静かに解き、彼の身体を木塀へと押しやる。

そう、もう一人の女が隠れている樽へと男に背中を向けさせたのだ。

白い月の光に照らされる紅を塗った赤い唇。

三日月形に歪むそれは、黒と白の世界でやけに妖艶に、毒々しいまでに赤く三人の網膜に焼付く。

華奢な男に凭れ掛かるように再び抱き付くしなやかな柳の如き身体、女の耳元で何事かを熱心に囁いている男は気付いていない。

己の後ろでゆっくりと立ちあがる人影、腕に抱いている女と生き写しのもう一人は、その手に鈍色に光る出刃包丁を携えている事を。


 目の前の女から剥がれた影、生霊の如く揺らめく『もう一人』が、自分に向けられる男の背中に向かい包丁の切先を向ける。

男の腕の中で、紅の唇が斜めにつり上がったその瞬間だった。


 「そこまでだっっ!」


 天に轟く雷鳴の如き怒鳴り声と共に、都築が暗がりから身を躍らせる。

刹那の出来事にその場にくぎ付けとなり、弾かれるように顔を上げる男と二人の女。

樽の蔭に呆然と立ち尽くす女は手にした出刃を今にも男の心臓へ突き刺さんとする格好のまま、男に抱かれたもう一人は ポカンと口を半開きにし、都築と朱王、そして海華を凝視していた。


 そして都築の叫びを合図とするように、先ほど男が現れた道の方向からも、手に手に提灯を携えた侍らが雪崩れ込んでくる。

その中には、桐野と志狼の姿もあった。


 「北町奉行所の者だ。女、その物騒な物をさっさと捨てろ」


 凛と響く桐野の声。

提灯の灯りに照らされ先ほどとは比べものにならないくらい明るさの増した現場では、阿呆のように口をパク付かせその場に尻餅をつく男の表情も、全身の血が抜けしまったかと思われるほどに顔面蒼白の女二人の表情も手に取るようにわかる。

数多の侍に三人の男女、ともすれば大騒ぎとなるだろうこの状況だが、不思議と場は静まり返ったまま、まるで時が止まっているようだ。


 「そなたら……井筒屋の巴とヨシだな? 」


 足を一歩前に踏み出し、桐野が問う。

ぎくしゃくした動きで首を縦に振ったのは、男の腕に抱かれていた女だった。

提灯の灯りを頼りによくよく二人の顔を見比べる朱王と海華、しかし二人には未だどちらが巴なのか、ヨシなのか区別がついていない。

同じ装いに同じ化粧、そして、女たちの左目尻には大きさも場所もほぼ同じ位置に涙黒子があったのだ。


 これでは見分けがつかないのも致し方ない。

しばし二人の顔を見比べていた桐野だが、彼にも見分けはつかないようだ。

 

 「話しはこれからゆっくり聞かせてもらおう。この者どもを引っ立てぃ」


 高橋ともう一人の侍に短くそう命じて、桐野は踵を返す。

その途端、男の傍にいた女が、気が触れたような金切声を張り上げて包丁を手に立つ女を力一杯指差した。


 「お待ちくださいお侍様ッ! あの人が……姉さんがやろうって言ったんです! 私は、嫌だったのに無理矢理こんな所へ……! 全部姉さんが! この人がっ!」


 「 ヨシ! あんた何を言ってるんだっ! 金さえとれば、後は邪魔になるから殺そうって言い出したのはお前じゃないかっ! お侍様、今回も、前だって! ヨシの奴が……」


 「もうよい黙れッッ! 見苦しい!」


 女同士の言い争いに終止符を打ったのは、こめかみに筋を浮かばせた桐野の一喝だ。

普段は温和な彼も、この時ばかりは鬼に変わり、射殺すように鋭い眼差しを凍り付く姉妹らへ向ける。

もう言い逃れは出来ない、そう悟ったのであろう巴の手から、鈍色に煌めく凶器が力なく滑り落ちた。

厳つい同心達に手荒らく引き立てられていく姉妹、すんでの所で命を繋いだ男は、未だ自らの身に起きたことが理解できないようだ。

そんな彼に近付き、一言二言声を掛けた都築は、へたり込む彼を腕一本で引き立たせ姉妹らの後を追うようにその男と歩を進める。


 侍たちが去った後、現場に残されたのは桐野と、各役割を無事果たし終えた朱王、志狼、そして海華の四人だけだった……。







 連日の尾行が終わり、三人にいつもの平凡な毎日が返ってきた。


 あの夜お縄となった井筒屋の姉妹、巴とヨシは奉行所での厳しい調べの結果、あの場所で男を殺めるつもりだった事、また先に起こった三件の殺しも自分たちがやったと洗いざらい白状したという。

ヨシが男の気を惹き、巴が背後から刺し殺す。

姉妹が悪い意味で協力し合って引き起こした事件、事の真相は瞬く間に白日の下に曝され、井筒屋はあっという間にその看板を下ろした。

主人と女将は夜逃げ同然に姿を消し、その行方は杳として知れない。


 二人が『鬼女姉妹』として瓦版上で書き立てられているちょうどその頃、中西長屋から少し離れた場所にある蕎麦屋、「ふくや」の店内で美味そうに熱燗を啜る朱王と志狼、そして熱々の鴨南蛮に舌鼓を打つ海華の姿があった。


 ここは朱王の行きつけの店であり、海華にとっても独身時代の思い出が詰まった懐かしい場所だ。

三人の他に客は三、四人ほどしかおらず、店の中は割合静かだった。


 「こうしてゆっくり吞むのも久し振りだな。 五臓六腑に染み渡るたぁこの事だぜ」


 朱王から酌を受け、猪口に並々注がれた酒を一息に飲み干した志狼が上機嫌の呻きを漏らす。

なんだか年寄臭いその台詞に、湯気の立つ揚げ出し豆腐に箸を入れていた朱王どころか、蕎麦を頬張る海華までもが小さく噴き出した。


 「なんでぇ、なんかおかしいか?」


 「いや、おかしかないさ。それよりも、お前達二人で出てきて平気なのか? 桐野様は……」


 「一人でも大丈夫だから一緒に行けって、旦那様が仰ってくれたのよ。だから心配しないで」


 ニコニコしながら瓜の漬物を口に放り込んだ海華は、飯台に置かれた徳利を朱王へ向かい差し出す。

こうして彼女の酌を受けるのも、朱王にとっては久し振りだった。


 「今回も朱王に世話になった、よろしく伝えてくれと旦那様がな。あの女共も、こないだまではお互いに罪の擦り付け合いしていたが、最近じゃ大人しいもんだとよ」


 「俺たちに全部見られていたんだ、もう言い訳のしようがないだろうよ。 だが、殺された男が『涙黒子』って言い残さなけりゃ、今頃あいつらは殺しを続けていられただろうな」


 猪口に注がれた酒をちびちび舐めつつ朱王がこぼす。

その台詞に怪訝そうな面持ちで首を傾げたのは、朱王の正面に座る海華だった。


 「でも、なんで涙黒子だったのかしら? あんな目立たない物じゃなくて、もっと他に特徴があったはずなのに」


 「いや、あの涙黒子が一番目につく物だったんだ。 少なくとも、あの時はな」


 空になった猪口を飯台に置いて、志狼は一度咳払いをする。

なにやら意味深な彼の台詞に、隣にいた海華の箸がピタリと止まった。


 「涙黒子と言い残した男を刺したのは、巴じゃなくてヨシだった。いつもはヨシが男の気を惹く役だったが、あの時は巴が……あの時みたいに男に抱き付くなりしたんだろう。 そこで男は気が付いたんだな、いつも会っていた 『巴』には黒子があったのに、今目の前にいる巴には涙黒子がねぇ、これはおかしいって感づいたんだろう」


 「あ、それじゃぁ、黒子があった、じゃなくて無かったって意味だったのね」


 やっとわかった、そう言いたげにポン、と手を打つ海華。

なるほどな、そう一人頷いた朱王は飯台に片肘をつく。

いくら外見は生き写しだとて、黒子の位置や数まで同じにすることは出来なかったようだ。


 「しかもよ、役を交換したいと言ったのはヨシらしい。 一度でいいから人を殺してみたかったんだと。可愛い顔して中身は鬼か畜生並みだぜ」


 忌々しそうに吐き捨てながら豆腐をつつく志狼、常軌を逸したその動機に、朱王も海華も最早返す言葉が出てこない。


 「もういいじゃない、そんな話し。せっかくの料理が不味くなるわ。もう止めましょうよ」


 「ああ、そうだな。いくら可愛いからって、いつまでも覚えておきたい面でもあるまい。 とことん吞んでさっさと忘れるが吉だ」


 わずかに眉を顰め、再び猪口を手にする朱王が漏らした言葉に、志狼も海華も素直に頷く。

大切な家族と共に美味い料理と酒を楽しむ、これが嫌な事を忘れる特効薬、それを二人もわかっているのだろう。

店の外にぶら下げられた「ふくや」の提灯に、橙色の灯りが灯る。

三人が店を後にし、それぞれの家に戻るのは、まだまだ先の事。

短い夜が明けた後、また平凡で穏やかな「普通の生活」が、その幕を開けるのだ。







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