表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/227

第二話

 「まいったな、これで三件目か」


 骸と化した男の顔を見下ろして、都筑は苦虫を噛み潰すように表情を歪める。

人通りの疎らだった夜の通りは一転、今は数多の人が押し寄せ、場を整理するのに躍起となる同心らと、あちらこちらで小競り合いが巻き起こっていた。


 筵が被せられた骸から少し離れた場所に所在なげに立ち尽くす朱王と海華は、空腹と疲労にウンザリとした面持ちで騒ぎ立てる野次馬へ視線を投げ、時折深い溜め息を吐きつつ夜空を見上げている。


 「お前達、また厄介事に巻き込まれたようだな?」


 突如聞こえた聞き覚えのある声色に地面に向けていた顔を跳ね上げた二人、目の前に立っていたのは海華の主である桐野 数馬だった。


 「旦那様ぁ……」


 今にも泣き出しそうな弱々しい声を出し、眉を寄せる海華を脇に朱王は彼へ深く一礼する。


 「思った通り朱王も一緒にだったか、なんだか儂が余計な事を言ってしまったようだな」


 「そんな、とんでもない。私もこんな事に巻き込まれようとは思っていませんでしたので……。もって生まれた運の悪さ、なのでしょう」


 自嘲気味に笑う朱王の肩を軽く叩き、彼は海華の側に寄ってその耳許へ顔を近付けた。


 「高橋を屋敷へやった。もうすぐ志狼が来るだろう」


 「志狼さんが? 本当ですか?」


 『志狼』の名前を聞いた途端、海華の顔に安堵の色が浮かぶ。

そんな二人の会話を待っていたかのように、群がる野次馬の向こうから、『そこをどけ!』と 甲高い男の叫びが一つ響いた。


 「どけ! えぇい! どけと言っているのがわからぬのかっ!」


 「どいてくれ! 旦那様……海華!」


 ざわめく人垣の向こうから転がるように飛び出してきた二つの人影。

そこにいる者全ての視線を受けて闇から駆けてきた影は、海華と朱王、そして桐野の姿を見た瞬間ピタリとその足を止めた。


 「志狼さん!」


 「海華っ! 朱王さんも……大丈夫だったか!?」


 首元から汗を滴らせ、必死の形相で駆け付けた志狼は、着流しに襷掛け姿のままだ。

彼は地面に転がる筵がけの骸をチラリと一瞥したが、不安げにこちらを見る海華へと駆け寄り、すぐその後を提灯を手にした高橋が追い掛けていく。


 「随分帰りが遅せぇと思ったら……。高橋様から聞いて、もうびっくりしたのなんの……怪我はねぇか?」


 「あたしは大丈夫。兄様も……死骸を見付けただけだから。でも驚いたわ、いきなりなんだもの」


 海華の無事を確認し、やっと安心したのだろう志狼を横目に、朱王はやおら桐野や都筑、そして高橋へと順に目配せをし、志狼と海華からわずかに離れた位置に移動する。

その合図を受けた三人は、無言のまま彼の後に従った。


 「どうした朱王」


 「はい桐野様、実は……。私がこの場に駆け付けた時、あの男には微かですがまだ息がありました」


 頬に感じる涼しげな夜風、それに靡く髪を押さえて朱王が声を潜める。

彼の言葉を聞いた都筑、そして高橋は互いの顔がぶつからんばかりに朱王へと身を乗り出した。


 「なに、まだ息があった!? もしかして、お前に何か言い置いたのか?」


 「はい。ですが都筑様、生きていたとはいえ 既に虫の息。はっきりした事を聞くことができませんでした。ただ最期に『涙ぼくろ』とだけ 」


 「なに、涙ぼくろぉ?」


 すっとんきょうな、どこか間の抜けたようにも聞こえる高橋の一言。

凄惨な殺しの現場に似合わぬ言葉に、さすがの桐野も拍子抜けした様子で朱王を見ている。


 「涙ぼくろ、か。それ以外に何か聞いてはおらぬのか?」


 「申し訳ありません。私が聞いたのはそれだけなのです。本当に……申し訳ありません、何もお役に立てず、余計な事をばかり申しました」


 どうやら自分は場違いな事を言ってしまったらしい。 ひどく恐縮して何度も三人に頭を下げる朱王。

しかし桐野は穏やかな面持ちで一度、首を横へと振った。


 「なに、余計な事などではない。手懸かりはどんなものでも多い方が良いのだ。長々と足止めしてすまなかったな。もう屋敷へ戻ってもよい、遅くなってしまったが、志狼に飯の支度をしてもらえ。 あのようなものを見てしまった後だが、空きっ腹では身体に毒だ」


 そう一言言い残し、桐野は都筑と高橋を従えその場を後にする。

深く頭を下げて彼らを見送る朱王。

ゆっくりと体勢を戻した刹那、いつまで待たせるのだ、と言いたげに腹の虫がグゥと低く、抗議の声を上げた。







 表玄関から、誰かが自分の名前を呼んでいる。

聞き覚えのあるその声色に、井戸端で水を汲んでいた志狼は腰に下げていた手拭いで濡れた手を拭きつつ急いで玄関へと走った。


 「いらっしゃい。やっぱり朱王さんだったか」


 小走りで玄関先に出てみれば、来客は思った通り海華の兄であり昨夜夕飯を共にした朱王だった。


 「いきなり来てすまないな。海華は?」


 「用事を足しに街へ行ってる。どうぞ、上がってくれ」


 そう声を掛け、いつものように客間へと案内する志狼は、振り返った瞬間口許に軽く手を当てる。


 「なんだ、寝不足か?」


 「ん? あぁ……昨夜旦那様をお待ちしててさ、なかなかお戻りにならなくて、結局朝になっちまったんだ」


 桐野はいつも、遅くなる際には『先に休め』 と言ってくれるのだが、使用人としてそんな事は許されない。

海華と交互に起きて待っていたのだが、桐野が帰宅したのは東の空が白み始めた頃だった。

こう立て続けに事件が起きるのだから致し方ない。

そう思いながらも桐野の体調を案じつつ客間へ通された朱王は、昨日の礼として持参した酒を志狼へ手渡した。


 「気を使わせてすまねぇな、旦那様も喜ぶよ。……って言っても、ゆっくり飲めるのがいつになるのか……」


 「その事なんだが、昨日殺された男は、どこの誰だかわかったのか?」


 茶をいれようと腰を浮かす志狼を呼び止めそう尋ねると、彼は畳へ胡座をかき土産の酒を傍らへ置いた。


 「身元だけはわかったと旦那様が仰っていた。すぐ近くにある魚屋の旦那で、昨夜用事があると出掛けたっきり戻らなかったみたいだ」


 年老いた両親、そして女房子供と共に店を切り盛りしていた働き者の主だったようだ。

老舗ではない、そして大店でもないが、そこそこ繁盛していた店だった。


 「昨夜、湯屋から帰ってすぐに出掛けたと女房が言っていたようだ。旦那を見たのはそれっきり、まさか商売道工の包丁で背中一突きされて殺されるだなんて、夢にも思っていなかっただろうよ。骸にすがり付いて泣き喚いたと聞いたよ」


 「殺された方も気の毒だが、残された家族はもっと気の毒だな。背中に刺さっていたアレは、やっぱり包丁だったか?」


真っ直ぐな純白の線となって部屋に飛び込む日の光と志狼の顔を交互に見遣りつつ、朱王がボソリとこぼす。

その台詞に同意を示すよう、頷く志狼は薄めの唇を舌で湿らせる。


 「柄の根本までグッサリだ、心の臓を貫いていたらしい。あんな夜道で簡単に背中を見せるなんて、余程気の知れた相手なんだろうよ」


 「気の知れた相手、か。ところで、下手人を見た奴は誰もいなかったのか?」


 人気の疎らな寂しい場所だが、人家がない訳ではない。

しかし、志狼は首を横に振ったのだ。


 「誰もいねぇんだ。逃げたモンどころか、悲鳴一つ聞いた奴がいねぇ。だが、財布の中身がそっくりなくなっているようだから、物盗りじゃねぇかと旦那様は仰っているんだ。だから朱王さん、手懸かりと言えば、朱王さんの聞いた『涙ぼくろ』ってのだけよ」


 「そうか……。単純に考えれば、涙ぼくろのある奴に刺された、だろうな。だが、どうしてそんな分かりにくいモンを言い残したのか、さっぱりわからん」


 『どうせなら下手人の名前を言えばよかったんだ』


 そう眉を潜めて一人ごつ朱王に、志狼は思わず苦笑い。

確かに、名前を言い残してくれたなら、あっという間に下手人はお縄、今頃桐野は無事屋敷に戻れていただろう。


 「戯れ本にありそうな展開だけどなぁ。残念ながら……」


 「これは現実だからな。そう上手くはいかないか」


 「そういうこった。あ、茶も出さねぇで悪かった」


 今気がつきました、というように慌てて立ち上がり、その場を後にする志狼。

彼を止める暇もなく、朱王は一人客間に残される。

妙な事件に巻き込まれてしまったが、後は奉行所の面々に任せておくに限るだろう。

この時はそう思っていた朱王、しかしその日の夜、彼と共に事件に巻き込まれた一人、海華が気になる話を手土産に長屋を訪れる事となるのだ。









 橙色の夕日が飯の匂いが漂う中西長屋を照らし出す。

夕餉の支度にと忙しそうに動き回る女達、湯屋に向かうであろう男達、一日の中で一二を争うほど賑やかとなる長屋、朱王が住まう一室からも、味噌汁の匂いが仄かに漂っていた。


 「さっきはごめんね、せっかく来てくれたのに」


 夕日と同じ橙色の着物に赤い襷を掛けた海華が、白い湯気が立つ鍋をお玉で緩くかき混ぜる。

彼女が持ってきた重箱、その中身を肴に早めの 晩酌を楽しんでいた朱王は、『いや』と小さく 答えて湯飲みの酒を飲み干した。


 「そっちも色々忙しいだろう、俺の事なら後回しでも……」


 「いいのよそんな、気にしないで。こっちは志狼さんと二人でなんとかやってるから。旦那様もね、今夜はお帰りになるみたいよ」


 かまどの火加減を見つつ、土間から室内へ上がる。


 「そういえばね兄様、あたし街で見ちゃったのよね」

 

「見ちゃったって、何をだ?」


 ぐっと身を乗り出して襷を外す海華を小首を傾げて見る朱王。

彼女の手から放られた襷が、畳に歪な曲線を描いた。


 「巴さんよ、巴さん」


 無意識にだろう声を潜めて話す海華の顔半分を、薄暗い影が覆う。


 「ちょうど錦屋さんの裏手を通ったらね、裏口から出てくる巴さんを見たのよ。母屋の裏口から出てくるのを見たの。破落戸ごろつき みたいな連中が迎えに来ててさ、巴さんもびっくりするくらい派手なナリなの。あれじゃヤクザ者の情婦いろよ」


 「情婦か。随分な言い様だな。そんな輩と遊び歩かれちゃ旦那も気が気じゃあるまいよ。妙な噂が立ちでもしたら、店もすぐに傾くぞ」


 呆れたような眼差しを目の前の海華に向ける朱王は、傍らに置いていた酒瓶を取ろうと手を伸ばす。

しかしそれは一足先に伸びた海華の手に取り去られてしまった。


  「なによ水臭いわね。お酌ぐらいあたしがするわよ」


  『はい、どうぞ』と酒瓶を差し出す彼女へ、朱王はどこかバツ悪そうに空の湯飲みを差し出した。


  「まぁ、確かにね。でも、あそこの旦那はお優しいもんよ。あんな娘にもお小遣いはたっぷりあげてるらしいから」


 並々と酒を注ぎ終え、軽く足を崩して畳へ座る海華の言葉に、朱王は怪訝な顔で小首を傾げる。


 「小遣いって、そんなことどこで聞いたんだ?」


 「巴さん家の隣に住んでる人からよ。巴さんとは昔からそれなりに仲がいいんだって。なんでもね、『お金なんて、好きなときに好きなだけ手に入るんだ』って、巴さんが話してたんだってさ」


 仲の悪い継母が小遣いなどくれる筈はない。

しかし、そこそこ裕福な商家の娘である巴が、自ら働いて働いて金を稼ぐなど、まず考えられない。

楽をして金を得られる方法など限られてくるだろう。


 「あんなドラ娘でも父親にしたら可愛いのかしらね。あぁ、楽してお金が貰えるなんて羨ましいわぁ」


 「何を馬鹿な事を言っているんだ。ひょっとしたら、貢いでくれるいい男がいるんじゃないのか?」


 「そりゃないわよ。兄様も見たでしょ? あの性格だもの。男に媚びなんか売れる訳ないわ。―― 追い剥ぎくらいはやれそうだけどね」


 くすくす笑いながら酒瓶を置き、再び土間へ戻る彼女の後ろ姿を眺めながら、朱王は湯飲みに満たされた酒をじっと見詰める。

迫り来る夕闇が、室内を更に暗く陰鬱に変えていった。


 「兄様暗いわ。そろそろ灯りを付けたら…… 兄様?」


 急に黙りこくってしまった朱王を不審に思ったのだろう、お玉を手にした海華が顔だけを彼の方へ向ける。

しかし、彼女の問い掛けに答えることなく朱王は壁に背中を預け、薄い闇へ埋もれていた。


 「ちょっと兄様! ねぇってば! 一体どうしたのよ?」


 全く反応を示さない彼に痺れを切らしたのか、海華は味噌汁の鍋にお玉を突っ込み室内へと飛び上がる。

どん!と足の裏が畳を打つ響きに、やっと意識が思案の世界から現へ戻ったのだろう、朱王の顔が正面、海華へと向けられた。


 「あ……すまん。―― なぁ海華、ちょっと聞きたいんだが、巴さんの目元に…すまん。右でも左でもいいんだ、涙ぼくろがあるかどうかは、わからないか?」


 一瞬何を言われているのかわからず、真ん丸に見開いた目を瞬かせる海華に、朱王は再度 『涙ぼくろはないのか』と尋ねる。


 「涙ぼくろって、そんなことわからないわ。 じろじろ顔見た訳じゃないんだから。―― もしかして、巴さんがこないだの下手人だって思ってるの?」


 「そうじゃない、ただ……気になっただけだ」


 自分でも、どうしてこんな質問をしたのかわからない。

いつになくしどろもどろの兄を不思議そうに見る海華だったが、やがて、ふぅと小さな溜め息をつきつつ彼の正面へ腰を下ろした。


 「気になるなら、明日一緒に確かめに行ってみましょうよ。あたしもね、早く下手人が捕まればいいと思ってるの。旦那様のためにも、ね。怪しいと思うなら、徹底的に調べましょうよ」


 『作戦は明日考えなきゃね』そう言ってニヤリと白い歯を覗かせる海華を前に、朱王は無言のままに深く頷いた。






 ドンヨリと分厚い鼠色の雲が頭上を覆う。

雨の匂いの漂う空気、ちらちら天に目をやり足早に道を行く人々、心なしか重たげにたなびく店先の暖簾、錦屋の板塀にひっそり佇む朱王の視線が、斜向かいにある井筒屋へ視線を向ける朱王の背後で、頭一つ分低い影が音もなく揺らめいた。


 「おい、どうだ? 中にいそうか?」


 「ここからじゃわからん。―― それよりも、どうしてお前がここにいるんだ?」


 怪訝な、そしてどこか不満そうにも見える面持ちで後ろを振り返った朱王。

そんな彼を見上げる男、志狼は奥二重の目をパチパチ瞬かせてじっと朱王を見上げる。


 「どうしてって、海華だけいかせる訳にゃいかねぇだろ? 」


 「海華一人で店に行かせる訳じゃない。大体、屋敷を長々留守にしていいのか?」


 「留守にすると隣近所にゃちゃあんと伝えてある。元々客が多い家でもねぇし、あの屋敷に忍び込むほど度胸のある泥棒もいねぇさ。それよりなにか? 俺が一緒じゃ不満なのかよ?」


 じろ、とひどく不服そうな眼差しで自分を睨む志狼から無意識に顔を背け、朱王は瞬間口ごもる。

刹那に訪れた不穏な時を消し去ったのは、志狼の隣で板塀に凭れていた一人の女だった。


 「ちょっといい加減にしてよ、こんな所でくだんない事で言い合いしててどうするの! さっさと二人の顔見に行きましょうってば!」


 眉間に深い皺を刻み、深く腕組みして兄と夫を睨み据える海華の一言に、さすがの二人も言葉を詰まらせバツが悪そうに俯いてしまう。

その様子を前に、海華は軽い溜め息を吐き出して兄へ視線を向けた。


 「ほら兄様、頼まれた物はちゃんと持ってき たわよ。でも、こんなのどうする使うつもりなの?」


 そう尋ねつつ海華が懐から取り出したのは、あちこち歯が抜けた半月形の櫛だ。

幼い頃から愛用してきたそれは煮詰めた飴のような色みと艶を放つ、けして綺麗とは言えない代物、しかし海華にとって思い出深い一品である。


 一体何に使おうというのか、そんな彼女の疑問に答えることなく櫛を受け取った朱王は、それを軽く着流しの袖口で拭き、懐へとしまい込む。


 「もう、なに考えてるのかさっぱりわからないわ。…… それ、ちゃんと返してくれるんでしょうね?」


 「返すさ。それより、お前もこれから一緒に来てもらうぞ。俺が女二人を呼び出すから、お前は二人の顔をよく見ておけ、いいな?」


 「いいわよ。志狼さんは? 」

 

 「店の前にいてくれ。一騒ぎになりそうだったら、来てくれればいい」


 そう一言いったと同時、朱王はさっさと井筒屋へ向かい歩みを進めていく。

『なんだかオマケみてぇだな』そう一人ごち苦笑いを見せる志狼と顔を見合わせ口許を綻ばせた後、足早に朱王を追い掛ける海華。

井筒屋と白く染め抜きされた暖簾の前で一度立ち止まった朱王は、ふぅ、と小さく息を吐いてから、暖簾を潜り抜け店内へと足を踏み入れた。


 『いらっしゃいませ』そんな愛想をたっぷり含ませた番頭の声色と笑顔で出迎えられ、朱王は視線だけを動かして素早く店内を見渡す。

自分と海華を入れて、客は二、三人といったところだろう。


 「いらっしゃいませ、何かお探しでございますか?」


 にこにこ顔の番頭が腰を低くし二人のもとへとやってくる。

緊張のためか表情を強張らせる海華をよそに、朱王は懐から例の櫛を取り出し番頭を見下ろした。


 「ここ店の方だと思うんだが、綺麗なお嬢さんがこれを道に落とされたようで、お届けにきたのですが……」


 「うちにいる綺麗なお嬢さん……あぁ、多分うちのお嬢様でございましょう」


 真ん丸い顔に満面の笑みを浮かべた番頭は、店の奥へちらちらと視線をやりながら穏やかな声色で答える。

その瞬間、朱王の目が、ほんのわずか細められた。


 「やはりそうでしたか、いや、良かった。年代物のようでしたので、無くされて困っているのではないかと思いまして。それで……一つ困った事があるのですが、一緒に歩いていたお方とお顔があまりにもそっくりでして、どちら が落とされたのだかさっぱりわからないのです。なぁ、お前?」


 不意に話しを振られ、海華はグッと息を飲む。

一瞬の静寂、ひどく引き攣った微笑みを浮かべて、彼女は自分を見下ろしてくる番頭へ向かいコクコク首を縦に振った。


 「これを拾ったのは妹でしてね、どうしても直接ご本人にお返ししたいと聞かないもので、こうして連れて参りました。お手数をお掛けしますが、お嬢様をここへ呼んで頂けないでしょうか?」


 朱王の人が放つ人畜無害の笑みが番頭を包み込む。

一瞬頬を赤らめて、番頭は『お待ちくださいませ』と一言残し、いそいそと店の奥へ引っ込んでしまう。 彼の姿が完全に見えなくなるのを見計らい、海華は微かに頬を膨らませて、隣に立つ朱王の足首にゴンと小さく重い蹴りを食らわせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ