第一話
萎れた花弁を気だるげに揺らし、百日紅が陽炎に佇む。
晩夏を迎えた江戸の街、湿り気を帯びた熱風が吹き抜ける道を行き交う人々は滴る汗を鬱陶しげに拭いつつ先を急ぐ。
ウンザリゲンナリとした面持ちの人々の中に、朱王と海華の姿もあった。
「こんな日に引っ張り出すなんて、最低」
「仕方が無いだろう、納期が迫ってるんだ。 着物の柄を選ぶだけなんだから、文句言わずについてこい」
不機嫌そのものに顔をしかめる海華を横目に朱王が呟く。
そう、二人はこの暑さの中、人形に使う反物を選びに錦屋へと向かう途中なのだ。
「いつまで兄様に引っ張り出されなきゃならないのよ? 着物くらい自分で決めたらどうなの?」
「だから文句ばかり言うな、流行り物はお前に聞くのが一番早いんだ」
「もう、いつもそうなんだから! いい加減お嫁さん貰いなさいよ」
赤く染まる頬を膨らませながら言う海華を横に、朱王は盛大な溜め息をつく。
隣を歩き去る男と肩がぶつかりそうになり、二、三歩よろめく彼の手を彼女が然り気無く引っ張った。
「お前までお石さんと同じ事言うなよ。なにもタダでこき使おうって訳じゃない。―― くずきりと水饅頭、どっちがいい?」
どこかなだめるような響きを含んだ声色に、海華の眉毛がピクリと跳ねる。
「な、によ、子供じゃあるまいし、お菓子でつられる訳……」
「あぁ、わかったわかった。で? どっちがいいんだ?」
「―― 水、饅頭……。志狼さんと、旦那様と三人分ね」
恥ずかしげに項垂れ、消え入りそうな声で答える海華の背中をポンと叩き、朱王は『了解』と短く告げる。
着物の一つもねだればよかった、そう心の中で思いながら、海華は兄の後を追って錦屋の暖簾を潜り抜けようとした、その時だった。
「自分の親になんて口の聞き方してんだいッッ! 出てお行きっ!」
「なにが親さ! 元は妾の分際で大口叩くんじゃないよっ! 出てけだって? 上等じゃぁないか出てってやるよッ!」
雷鳴の如きけたたましい女の怒鳴り声が周囲に響き渡る。
驚いて足を止めた二人、そしてどよめく人々の眼前にある一件の商家から、赤と黄色の派手派手しい着物が飛び出してくる。
眉間に深いシワ、そしてこめかみに青筋を浮かべたその若い娘は、忌々しげな眼差しを青紫色の暖簾の向こうへ投げ付け、ひらひら揺れるそれに向かってペッ、と唾を吐き捨てた。
「いつまでもいい気になってんじゃないよ、この泥棒猫っ! いつか……いつかここから叩き出してやるっ!」
そう喚き散らしたかと思うと、娘は人混みを掻き分けて脱兎の如くその場から駆け去って行く。
ほんの一瞬の出来事にその場はシンと静まり返り、朱王と海華も呆気に取られた様子で顔を見合わせ瞬きを繰り返していた。
「さっきの、驚きましたでしょう?」
紺鼠色の反物を広げていた女将の一言に、海華の手が止まる。
「驚いたもなにも、いきなり大声出して飛び出してくるんですもの。あの家ってどんな家なんですか?」
反物の山を押しやり女将へ近寄った彼女の手から反物が滑り落ちる。
番頭が次々と勧めてくる品……涼しげな水色に金魚が遊ぶ柄物の生地を品定めしていた朱王は、そんな彼女を横目で見つつ自分の元へと転がったそれを手早く巻き直した。
錦屋を訪れ、女将と共に品物選びに夢中となっていた朱王と海華だったが、女将の一言で彼女の興味は色鮮やかな反物から先ほどの騒ぎへと移ったようだ。
「井筒屋さんって、言う小間物問屋さんなんですよ。この辺りで古くから商いをされているの。一昨年女将さんが病で急逝なされて……もう、本当に突然で私達もびっくりですよ」
声を潜めながら海華へ顔を寄せる女将。
反物そっちのけでひそひそ話しに興じ始めた海華の袖を軽く引いてみるが、もうそれすら彼女は気付いてはいない。
「それならあたしも聞いた事があるわ。確か、朝早く厠に立った所で倒れたんでしたよね? なら、今いる女将さんは……」
「―― おい海華、この柄どうだ? 色もちょうどいいと思うんだが……」
「え? あぁ、いいんじゃない? それで女将さん、今いる井筒屋さんの女将さんって、もしかして……」
ニヤッ、と海華の唇がつり上がる。
互いの顔をくっつけんばかりに近付けて、女将は首を縦に振った。
「そうよ、旦那のお妾さん。女将さんが亡く なって半月もしないうちに連れ子と一緒にお店へ入ったの。さっき飛び出して行ったのが、先妻さんの娘で巴さん、他に連れ子のヨシさんって娘がいるの。後妻さんと巴さんは見ての通り、犬猿の仲、今日みたいな事はしょっちゅうなのよ」
「なぁ海華、これもどうだ? 涼しげで使いやすい……」
「いいと思うわよ~。で? それからそれから?」
いい、そう言ってはいるが反物など全く見ていない海華、『いい加減にしろ』そう怒鳴りたくなるのをグッと堪えて反物を畳へ置いた朱王の前に、この店の丁稚が茶を差し出してくる。
「いや、申し訳ありませんなぁ。うちのが余計な話を持ち出したばかりに」
ひどく恐縮した声色に顔を上げれば、錦屋の主が肩を竦めてこちらへ頭を下げるのが見える。
「まったく、商売そっちのけで噂話だ。女のお喋りには敵いませんよ」
「それも仕事の一つなのでしょう。それより、お向かいがああでは錦屋さんも大変ですね」
苦笑いを見せる朱王の隣に腰を下ろした主は、はい、と言いたげに小さく頷き咳払いを一つ。
「はい、まぁ……今に始まった事ではございませんのでね、慣れたと言えば慣れたのでしょうが……。井筒屋さんとは先々代からのお付き合いがございますもので、娘さん達の事は私も案じているのです。母親は違えど血を分けた姉妹ですから。これからどうなるのやら、と…… 」
あの様子ではとても商いどころの騒ぎではないだろう。
だが、継母と実子のいがみ合いなどよく聞く話である。
「その娘さん達も、仲がよろしくない、と?」
「仲がいい、悪いの前に、お互い関わろうとしないのですよ。顔を合わせても話もしない。 巴さん、昔は可愛らしいお嬢様だったのですけれども……今ではどこぞの破落戸と賭場に出入りしているとか、酒場で大暴れしたとか、よい噂は聞かなくなりました」
はぁ、と大きな溜め息を吐き出した主は、気を取り直すかのように朱王へ新たな反物を勧めてくる。 自分のすぐ隣から聞こえる姦しい女のお喋りを聞きながら、朱王は反物選びに意識を集中させていった。
『井筒屋の娘なら俺も知ってるぜ』
切り分けた水羊羹を一つ口に放り込み志狼が言った。
錦屋の女将と井筒屋について嫌になるほど喋り合った後、本来の目的である反物選びをきっちりこなした海華は、戦利品とも言えるだろう水羊羹を手に昼過ぎには帰宅する。
ちょうど夕飯の買い出しに出掛けていた志狼も戻った頃合い、息抜きに茶をいれ羊羮を出したのだが彼女の手はなかなかそれに伸びない。
錦屋で聞いた話しを志狼へ聞かせるのに夢中なのだ。
「前の奥方はおっとりした可愛らしい人だったがよ、今の奥方は鉄火肌だ。どうしてあぁ正反対の女を気に入るのかさっぱりわからねぇ」
「そうねぇ、でも、そのおっとりから生まれた娘がじゃじゃ馬ってのもおかしな話よ。連れ子の方はどうなのかしらね?」
腰を下ろしていた縁側、磨き上げられた床を指でなぞりながら海華が小首を傾げる。
「連れ子か? あれも母親とは正反対だ。おとなしくて……悪く言えば、いるのかいねぇのかわからねぇ女だぜ。唯一似てるところといやぁ……顔だけだな」
目の前に広がる庭一面に咲き乱れる花々を眺める志狼は、手にしていた湯飲みを盆の上に置くなり、やおらゴロリと横になり当たり前のように海華の太股へ頭を乗せた。
「顔だけって……親子なんだから当たり前じゃない」
「違う、先妻の娘と後妻の娘の顔が似てるんだ。父親の血が濃かったんだろうなぁ、まるで双子みてぇにそっくりなんだよ」
仰向けに寝転び、射し込む陽光に目を細める彼の髪を一房指先で玩び、海華は意外そうな面持ちで彼を見下ろした。
「半分しか血の繋がりがないのにねぇ。――もしも、あたしと志狼さんの赤ちゃんが産まれたら……もしかしたら、うちの兄様とそっくりな顔になるかもね」
ニコニコ顔でそう口にした海華とは正反対に、志狼の眉間には深い皺が寄っていく。
「どうして朱王さん似なんだよ? 俺の親父かお袋似かも知れねぇじゃねぇか。……あ、そうだ思い出した」
一瞬間を置いて、志狼は己を見下ろす海華へ視線を向ける。
二つの視線がかち合い、熱を含んだ風が二人の前を駆け抜けた。
「兄様が、どうかした?」
「うん、旦那様な、今日もお帰りが遅いらしい。狸橋で殺しがあったろ、あれがまだ片付かないらしいんだ」
狸橋、どこか可愛らしい名前の小さな橋の下で中年男の骸が見付かったのは、今から十日ばかり前の事。
それからというもの、桐野は連日帰宅が遅くなっているのだ。
「確か、背中を一突きされて死んでた、ってヤツよね? そう、旦那様お忙しいのね……」
「あぁ、だから夕飯は先に済ませておけと。せっかくだから朱王さんも呼んだらどうだ、と仰ってた」
横たえていた身をムクリと起こして志狼が言った台詞に、海華は小さく考え込むように首を傾げる。
「なんだ、嫌か?」
「うぅん、嫌じゃないんだけど……いいのかしら? 」
「旦那様がいいと仰ってるんだ」
軽く笑って頭を掻く志狼。
しかし海華は踏ん切りがつかない様子で庭の向こうに視線を向ける。
「うん……志狼さんは? いいの?」
朱王は大事な兄だが、今、自分は志狼の妻だ。
彼の許可なく兄を夕食の席には呼べない。
そんな彼女の気持ちを見抜いたかのように、志狼は白い歯を覗かせ笑う。
「いいに決まってるじゃねぇか。二人で食うのも悪かないがな、朱王さんだって、たまには賑やかに食いたいだろうぜ」
『支度は頼んだぞ』そう言い残し、志狼は湯飲みが乗った盆を手に台所へ向かう。
そんな彼の背中を見詰めながら、海華は嬉しそうに、そしてどこか安心したようにホッと小さく息を吐いた。
真っ赤に燃え盛る夕日が西の空へと沈み、静かな闇が世界を埋め尽くす。
漆黒の夜空に散らばる金砂の如き星々、灰色の薄雲が細くたなびく星空の下、提灯を一つ手に歩く朱王と海華の姿があった。
『夕飯を一緒に』そう言って彼女が長屋を訪れたのは、空が茜から紫に移り変わる頃、その申し出をありがたく受けた朱王だが、仕事を途中で放り出しては行けず、結局こんな時間になってしまったのだ。
「遅くなったな。志狼さん、きっと気を揉んでるぞ」
「兄様がいつまでも色合わせに悩んでるからよ。あたしがいた時と変わらないわね、仕事となれば食べるのも寝るのも全部後回しなんだもの」
困ったように笑う海華の隣を歩く朱王はバツが悪そうに頬を掻き手にした提灯をフラリと揺らす。
「仕方ないだろう。あそこで妥協すれば、みんな台無しになるんだ。大体な…… 」
「はいはい、わかりました。言い訳の中身も昔と変わらないわね?」
クスクス小さな笑い声を上げる海華の肩を肘で小突いて、朱王は夜空を見上げて何やら考える素振りを見せる。
「お前、所帯持ってからどのくらいたった?」
「なによいきなり。まだ一年も経ってないわ」
「そうか……。志狼とはうまくやってるか?」
「当たり前よ。変な兄様、なんの心配してるのやら」
ほんの少しの呆れを混ぜた微笑みを見せながら歩みを進める海華の髪を、涼しく変わった夜風が揺らしていく。
まだ一年も経っていない、彼女がいない時間を自分はひどく長く感じていたようだ。
急に黙り込んでしまった朱王を横目で見遣る海華、そんな彼女の足が、ある小路の前でピタリと止まった。
「おい? どうした?」
闇が満ちる小路の奥をじっと見詰める海華を怪訝そうな面持ちを向ける朱王は、彼女のと同じ方向へ視線を投げる。
「今、そこの奥で何か動いたように見えたの」
小路を除き込み、キョロキョロと奥を見渡す海華だが、そこにあるのは音もない黒の世界だ。
「どうせ猫かなんかだろう。行くぞ」
「ちょっと待ってよ……あ、やっぱり動いた! ―― 猫なんかじゃないわ、兄様! 人よ!」
闇を見詰める海華から悲鳴じみた叫びが迸る。
『人が倒れてる!』 尋常ではない彼女の叫びを耳にした朱王は、慌ててその身体を押し退けて小路の奥を提灯で照らした。
細い小路の奥、よくよく目を凝らすと、道を塞ぐように倒れる人影が提灯の薄灯りに一つの影となって浮かび上がる。
「もし! どうしました!? 大丈夫ですかっ!?」
小路の向こうへ身を乗り出して叫ぶ朱王、それに呼応するかのように男の身体が、そして地面を掻きむしる指先に力が籠る。
闇を渡る風に乗り、生臭い臭いが二人の鼻を掠めた。
「兄様……どうしよう……!」
「お前はここで待ってろ、いいか、動くなよっ!」
そうきつく言い置いた朱王の身体が細い小路に躍り出る。
激しく揺れる提灯、それに照らされる黒髪と倒れ込む男の身体。
顔を強張らせ駆け寄った朱王の目に飛び込んで来たものは、背中の真ん中に深々と突き刺さった包丁と、乾いた地面を濡らす深紅の血潮だった。
荒く掠れた男の吐息が途切れ途切れに闇を揺らす。
目の前に広がる光景に言葉を失いながらも、その側に屈み込み男の身体を抱き上げた朱王の胸元を、土にまみれた男の手が千切れんばかりに握り締めた。
「どうしてこんな……しっかりして下さい、すぐ医者に……」
深く刺さった包丁を抜き去る事もできず、血走り濁った目を覗き込み必死に声を掛ける朱王を穴が開くほど凝視して、男は乾いた唇を戦慄かせる。
咄嗟にその唇へ耳を近づけたと同時、固く握り締められていた男の血にまみれた手が、パタリと地面に落ちた。
「兄様! ねぇ兄様っ! 大丈夫!? ねぇ、大丈夫なのっ!?」
力が抜けていく男を呆然と見下ろす朱王の背中から切羽詰まった声が響く。
腕のなかで重く変わる身体を地面に横たえ、朱王は静かに腰を上げると震える手で提灯を持ち直し、海華の方へと踵を返した。




